長野原文化会

大正末期頃から始まったと言う
長野原の獅子舞の紹介です。


 一、長野原獅子舞

 獅子の由緒=和子頭のいわれは、遠く神代の昔天照大神の岩戸隠れのとき、
天照大神のおいかりを鏡めるため、
天岩戸の前で多勢の神々が歌舞音曲で大神の御心を慰め申し上げたところ、
岩戸の外のさわぎに大神は岩戸を少しひらかれたところ、
大力の大力男命が素早く手をかけ岩戸を開いたので、
賠黒の世の中が再び光がさし出して明るくなったと神話で伝承されている。
このとき猿田彦命は悪魔を退散させるためにらみつけた顔が、
獅子頭の顔として残ったものだという。
長野原獅子舞の由来=長野原獅子舞の始まりは、大正の末期頃からで、
吾妻町大字大柏木で行われていた大神楽の演技が伝えられたものだといわれている。
当時は獅子頭もなかったのでトタン板で獅子頭を作り
青年有志が毎戸を悪魔はらいに巡回したが、トタン板では重量
もあって操作も不自由だったため、
更に「ショウギ」を使って頭部を作り紙をはり、
麻をすいて髪にし、布をつけて和子頭を模造し、
毎年二月二十日の諏訪神社祭典には町内を廻って、
悪疫退散家内安全を祈険したといわれている。
昭和三年の頃町の有志宮崎斉太郎、宮崎亀三郎両氏は獅子舞に熱心
な青年有志の熱意に感動し、当時東京在住の浅沼昇太郎氏を介し、
浅草俵町で獅子頭一個を購入して持ち帰った。
当時の金で八円位だったという。
この頃の町内獅子舞一座は三十数名の青年有志で編成されていた。

昭和十二年支那事変の勃発により世は戦時色が濃厚になったため、
同十四年の頃から獅子舞は一応休止状態になった。

 戦後の獅子舞=一、

獅子舞の復活。戦後の昭和二十二年、戦時中諏
訪神社に奉蔵しておいた獅子頭を持出し獅子舞を復活することになっ
た。しかし戦時中休止の状態が続き更に演技を向上させるため、
一座の研修が必要になった。
 その頃嬬恋村大字三原の木原興行師の紹介により、
佐野の和子舞伝授を懇請に赴いたが断られ、帰途前橋市の小虎師匠の門をたたき、
幸いに快諾さわて同師匠を招致して演技出の伝授をうけることになり、
昭和二十二年十一月より安斉昇宅においていよいよ師匠の手はどきが始まった。
当時伝授を受けた有志は九名春の各位であった。
 小虎師匠の獅子舞伝授に先だって有志各位の困惑したのは、
伝授に要する経費の問題であったが、同志岩井茂氏の奔走で桜井酒造店
桜井かね夫人の篤志により、六千円の資金を無利子で借用しこれに充てたという。
なおその返済については、毎年正月に町内の悪魔払い行事を行い、
毎戸からの御祝儀により四年がかりで返済したという。
小虎師匠の伝授終了後昭和二十三年一月一日初めて長野原町内各戸の悪魔はらいの巡回が行われ、
同月七日には川原湯方面へも赴いている。
この行事は数年に亘り続けられたが、
昭和三十一年からは四月の諏訪神社の祭典日に施行されるようになり現在に至っている。
 


二、獅子の舞と囃子。

獅子舞の流れには、
伊勢班と土佐班とがあって長野原の和子舞は伊勢班に属している。
伊勢班のおこりは伊勢地方のお頭行事と呼ばれる悪魔払いの獅子舞が、
近世になって伊勢のお払いとして諸国を巡ったが、
地方でもこわを習い覚えて村の祭りたどに催すようになり、
獅子舞の外に曲芸や狂言なども演ずるようになった。
長野原の獅子舞は普通禄の舞と寿獅子とに区別している。
録の舞は幣束と鈴を両手に持って踊る舞で四方がためともいう。
また寿獅子は「獅子あやし」 にひょっとこが出たり、
御子が媒やまりにじゃれたりする狂言を面白く演じて観衆を喜ばせる。
獅子舞の演出には囃子道具として、
しめ太鼓、桶胴、笛、鐘、三味線が用いられ、道中ばやし、神うた、
にんば(ひょっとこ踊り)夜叉、線の舞などに打鳴らしてはやしたてる。
 

 (一) 道中ばやし

  
かけごえ「イヨオ」テン、テン、テン、テテツクツ、テケテン (太鼓)
 テン、テン、ツタ、テン、テン、ツク、ステケツテンテン、テン、テン、ツク、
テン、テン、ツク、ツテケツテンテン。
 テレンケテンテン、ツケテンテン。
 テレツク、テレツク、テレツク、テン、テン。
テックツ、テンテン、テン、テン、テン。
「イヨオ」テン、テン、テン、テテツクツ、テケテン。
「イヨオ」テレツクツ、テレツクツ、テレツク、テレツク。
「イヨウ」(太鼓・桶胴)テン、テン
「どおっことなあ」テレン、ヒヤイ、トーロ、ヒーヤイトロ、ヒヤラララ、
ヒーヤイトロ
(笛・太鼓)オシュウーヒヤイトロ、ヒヤイート、トロロロ (桶胴)
ヒーヤイトーロ、ヒーヤイトーロ、ヒーヤイトーロ、ヒーヤイトーロ、
オシュウー、ヒヤイ、ヒヤイトーロー、ヒヤイートロ 
(桶胴)
「イヨオ」テレツクツ、テレックツ、テレツク、テレツク
「イヨオ」(太鼓・桶胴)テン、テソ
「これはとな」テレン、神をいさめの、宮かぐ−、神ぐうらあ−
「イヨオ」テレツクツ、テレツクツ、テレツク、テレツク
「イヨオ」テン、テン

 (二) 獅子寝わざ
          
そもそもみ神ら初まりは、天皇七代後代二以のそなわん時。あまたの神が
み、伊勢の国へと集りて。八方よしゆうにしめをはり、しめの中ばに松を植
え。内にあらくをおかれたり、戸隠神社という神は。ごおりきむそうの荒神
にて、天野岩戸にもろ手をかけ。なんなくこの世をおし開く、その時残りし
神楽獅子。いかなる神もどうじゃして。大神ごきげんななめならず。
天たの禅のいさめの神楽しやないかいな。
 

 (三) 獅子の踊り

 獅子がまりや蝶にじゃれたりする、獅子はしばらく「かんたん夢のまくら」
(笛、子もり唄)ねんねんころりよおこおろり−よう、
ぽうやのおもりはどこいった−あの山越えて里いったー、
里のみやげになにもらた−獅子が眠る、
(ひょっとこおどり)デレ、デレ、デレ、デレひょっとこめんだ、
テックツ、テケテック、ツテック、テックツ…(獅子踊りの途中噛む)
デレ、テレ、デレー(太鼓)「いてててえ、なんといたいんだろうなあ」、
(ひょっとこ獅子の鼻に虜を入れる)ドロ、ドロ、ドロ、ドロー(太鼓)
「家内安全、御祝儀円満、ずいと飛び込め−」

 (四) 夜叉ばやし

  
テケ、テン、テン、テン、テン、テン、テン。テケ、テン、テン、テケ、
 テン、テン。
 
「イヨオ」テン、テン、テレツクツ、テンテレツクツ、テレツクツテック、
 ツテツク。テツクツテツク、テン、テケ、テン、テン、テン、テン、テン、
 テン。テケレンテン。テン、テン、ツクツ 
(繰返)(獅子ひよっとこの頭を噛む)
「目出度いなー」テレツクツ、テレツク、テレツクツ、「イヨオ」テン、
 テン

 

三、長野原文化会

 (一)文化会の誕生。

戦時中戦力増強のため疲弊しきった町民の気分を、
古い伝統をもつ和子舞を中心とした娯楽によって和らげ、
更に袖社の祭礼をにぎやかにして神徳を高揚させるため青年有志岩井茂、
安済昇両氏の発起により同志を誘って昭和二十三年協議の結果長野原文化会が誕生した。


 (二)文化会のあゆみ。

昭和二十三年長野原文化会が創立され、
有志を勧誘して会の組織が成立した。
昭和二十三年長野原自治体警察庁舎完成し、
その落成式に際し寿和子を奉納して四方固めを斎行する。
昭和二十四年二月三日雲林寺節分会に福引、
演芸会などが催され文化会も参加出場して万場立錐の余地もない程の盛況だった。
 昭和二十四年四月二十五日、
長野原諏訪神社春季大祭当日は
早朝より一座出動し、
町内全域に亘って悪魔払いの行事を終日がかりで執行する。
爾後この行事は毎年祭典の度毎に実施し町民に親しまれている。
昭和二十五年五月十三日町立長野原中学校(東中学校)、
同月十四日同中学杖応桑分校(西中学位)開校式に際し、
新築祝いに寿和子を奉納する。
昭和二十六年八月町民納涼盆踊り主催の中心となり、
脹かに開催された。
 このときを第一回として、この行事は今日まて続いている。
昭和四十年文化会の組織はいよいよ強化し、
初代会長として伊藤勝次が就任し今日に至っている。
現在獅子舞諸道具類、一座の法被も或程度整備して文化団体としての貫禄も整ってきた。
昭和四十九年十一月三・四日長野原町第七回文化祭に際し、演芸部として文化
会獅子を上演し満場の拍手を湧かせた。
昭和四十四年四日二十九日長野原獅子舞は、
長年神徳高揚に尽力した功績により群馬県神社庁吾妻支部より感謝状(代表伊藤勝次)をうけた。

 (三)長野原文化会獅子舞の紋章。

伊勢班の大神楽は、菊花の紋服を着
用していた。明治二十二年二月十一日審法発布の大典があり、従来着
用の菊花の紋服に恐懼して菊の紋章を御返上申し上げることになった。
その時明治天皇の御前において御子舞を天覧に供し奉り、天機ことの
ほか麗しく、菊の紋費に代って日本の日の字を紋華に賜わり、丸に一
と改めたという。長野原文化会の寿獅子は、小虎師匠の後を経ぎ、
という紋章をうけ継いでつけるようになった
                     

文化会伊藤丘篤資料提供)


文化会獅子舞は、毎年4月25日の長野原諏訪神社春祭りで奉納されています。


戻る