ときめいて子育てを

2007年版
 

 
                                   
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 3月20日(木)
 ずうっとお天気が続いていたのに、今日に限って雨とは!
 42回の卒園のお祝いで雨が降ったことがあっただろうか。雪の日はあったが、雨の記憶はない。
 しかし、ホールは満席だった。立ちっぱなし、お疲れ様でした。例年にもまして感動的なお祝いだった。4クラス120人の定員通りの卒園児が、誰一人欠けることなく出席できたのが最高だ。
 職員は全員がまえもって今日の準備に一丸となってとりくんできたし、理事たちも前もって休日の時間を割いて観覧席の設営に汗を流してくれていた。当日も写真班がこれらの生き生きとした撮影をしてくれた。なによりも卒園する子どもたちが、先生や友だちと作り上げてきた生活を、「卒園のお祝い」という名のドラマに歌いあげてくれたことだ。最後に「金色のつばさ」で、大空を羽ばたいて飛ぶ喜びを歌ったとき、わが子とその友だちの成長に涙する人が多かったようだ。

 この子たちはどんな未来を生きていくのだろう。平和の礎、憲法9条が危うい。年金も見えない…といった社会をこの子たちに譲ってはならないという思いを新たにした一日でもあった。


 3月15日(土)晴れ
 雨があがって、さわやかな小春日和。子どものそのBabyの第5回卒園のお祝いだった。
 早いもので開園からもう5年たったわけだ。0歳から1歳児、2歳児と3年間在園した子が7人、1歳児からが4人、2歳児の1年間が1人。小さな園だけに、どの子にも忘れ得ない思い出がある。産休明けで入園して、まだ寝返りすることもできなかった赤ちゃんが、走りまわって遊べるようになった。ケンカをし、そのたびに仲直りして、互いに影響し合いながら育ってきた。この子たちの長い人生にとって、Babyは最初の友だちに出会った場所だった。

 みんなしっかり保育証書を受け取ることができた。お母さんたちも初めての子、働きながら育てる大変さに、夢中で、必死に、ともに生きて、ともに育ってきたのだろう。振りかえれば、すべては涙でしか表せないようだった。祝辞の最後を、ボクは「ありがとうね」と結んだ。ちょっとこれは説明不足だったかもしれない。離乳食を口に入れてあげたり、いっしょに散歩に行ったり、気ままな断片的な交わりではあったが、この子たちを見てきた3年間は、「しあわせ」の一語に尽きる。ありがとうしかない。


 3月12日(水)晴れ
 「佐渡が大好き」というテレビ番組の録画を見せてもらった。
 埼玉出身の22歳の青年が佐渡に渡り、漁師見習いで頑張っている姿を紹介していた。
 田村優太くんは、実にさわやかな感じのいい若者に成長していた。地域の大人たちに暖かく仕事を教えられているらしいが、教えてやろうと周りが思える素直な魅力が感じられた。
 それにしても、ボクは彼の年長組のときの印象が忘れられない。
 …優太くんは遊びに熱中していたのだ

と思う。もう我慢できなくなって、保育室に駆け込んだ。まだ新園舎を建てる前で、くま組(だったと思うが)は、今のひよこ組の部屋だった。駆け込んだとたんに、ウンチが飛び出した。我慢していただけ大量だったのに、自分で何とかしようとしたらしく、ウンチはパンツやズボンから床にまではみ出して、もはや手のつけようがないほどになった。周りの子は、鼻をつまんで、「くせえ、くせえ」と笑っている。
 優太くんは、前かがみの姿勢で、片手でズボンを抑えたまま、「おい、だれか、かみ、かみ!」と叫んでいる。友だちがトイレからロールペーパーを外して持ってきた。それを片手でどうにかしようとしながら、優太くんは、悠然と、「人が困っているとき、笑ったりしないんだぞ」と友だちをたしなめた。
 …ほんの一瞬、その状況を見て、手を貸そうとしたとき、担任が戻ってきた。担任が誰だったか、もう思い出せない。しかし、「こいつは大物だ!」と感嘆したのは昨日のことのように鮮明なのだ。

 卒園して何年か経ち、夏まつりか、運動会で彼にあったことがある。「学校、面白いか?」と訊くボクに、優太くんは顔をしかめて、「おもしろくねえ!」と吐き捨てるように言った。そうだろうな。型にはめられちゃ、かわいそうな子だよ、とそのとき思った。それからまた10余年。

 録画の中で、優太くんはアナウンサーのインタビューに答えて、中学のとき漁師になりたかった、でも両親と話し合って高校だけは行くことにした、高校を終えて漁師になりたかったが、また両親と話し合ってダイビングの専門学校へ行く。そこの実習で友だちは沖縄へ行ったが、彼は佐渡へ行く。漁師と知り合い、卒業してはれて漁師の見習いとなった。それから2年余。
 幼いときの面影が残っている童顔だが、受け答えは落ち着いていて、しっかりしている。人生に迷いがない感じだ。「やっぱり大物!」と、ボクは幸せな気持ちで、録画を2度見た。ご両親は今もふじみ野市に在住のようだ。いい子に育って、おめでとうと言いたい。


 3月5日(水)晴れ
 きょうは人形劇サークルの卒園公演が行われた。
 楽しい人形たちのリズムに続いて「とんだあおむし」の人形劇。右の写真は年中組の子どもたちだが、とても集中して楽しんで見ることができた。
 でも、本番は2回目の年長組だ。わが子が卒園するお母さんが多いので、思いもひとしおだろう。熱が入って、声に力がこもる。
 卵のときから空を飛びたかったあおむし、ウサギやサルに教えてもらっても、どうしても飛べなくて悩んでいた。それがサナギカから羽化してちょうになり、ついに空を羽ばたく。
 「飛んだ。ぼく飛んでいる!」と、クライマックスのセリフは、感極まって涙にかすれた。卒園する子どもたちは、揺籃を出て、いま大空を羽ばたいて飛ぼうとしているのだ。
 そして劇が終わると、恒例の「さよならの代わりにありがとうでお別れ」を歌う。この歌は卒園公演の主題曲のようになっていたが、最近では卒園のお祝いでも歌うので、子どもたちも知っていて、きょうは一緒に歌った。
 それから子どもたちは何度も人形劇を見せてくれたサークルのおばさんたちと人形とにお別れを告げる。
 人形に握手を終えたのだろう、らいおん組のかずみちゃんが来て、「おじさん、わたし、感動して泣いちゃった」と言った。
 卒園公演は希望するお母さんたちの見学がある。子どもたちのさよならが終わると、お母さんたちがみんなでサークルのお母さんたちをねぎらう。
 よかったわ。泣いちゃった。ありがとうね。おつかれさま。
 素晴らしい文化に、身近なところで接することができて、子どもたちにとってほんとうによかった。とくに、今年はプークの人形劇が劇団と会場の日程が合わなくて出来なかったので、サークルの活動は大きな役割をになったと思う。一年間の精進に、改めてお疲れ様を言いたい。

 

 3月3日(月)晴れ
 晴れと言っても黄砂のせいか空はどんよりしていた。卒園間際の年長組は忙しい。
 2月26日には手の込んだお雛様を根気と集中力で作り上げたが、その翌日からは盛大にダンボール工作にとりくんでいた。 
 家庭の協力でずいぶんたくさんの大きいダンボールが集まった。それを保育室いっぱいに広げて、城、お店、迷路、お化け屋敷、恐竜など、力を合わせて人が遊べる大きさで作る。作るのも楽しいが、作るそばから遊ぶのも面白い。小さい組も招待して自慢する。
 給食はベランダで食べるしかない。
 もっとダンボール遊びを楽しみたかっただろうが、きょうは年長組合同の最後の親睦会で、お母さんたちと連れだって蓮光寺の土手へ出かけて行った。

 子どもたちがダンボール工作に熱中している好機に、ボクは「おじさんとの手紙ごっこ」の終了を伝える手紙を、印刷して全員に配った。
 全部で423通の手紙をもらった。一人ひとりに返事を書くのは大変だった。幾晩も夜半まで鉛筆を握り、腕が痛く肩が凝った。
 でも、子どもたちがだんだん字が上手になり、「そののことわすれないよ」と心のなかを書ける子も出てきて楽しかった。それを終わりの手紙に書いた。

 卒園生の菜々子さん(4年)のお母さんから「また絵本コンクールで入選しました」と雑誌が送られてきた。去年受賞した時には「その」のHPでお知らせしたが、今回は「もうHPはいいですから」と伝言があったので載せていない。それをここに掲載するのは悪いような気もするが、実は菜々子さんの相棒のはづきさんのことを書きたかった。

 しばらく前、友人から、知人の若いお母さんが「能登さんならよく知っている。子どもの時、北野家庭文庫で絵本を借りていた。その時の読書カードが6枚、アルバムに貼ってある。私は絵本大好きに育って、子どもが生まれてからはたくさん読み聞かせをしてきた」という話をされたそうだ。

 北野家庭文庫はその創立5周年記念に1969年に上野台団地・田村さん宅に開設した「だるま文庫」と霞ヶ丘団地・能登宅に開設した「糸杉文庫」の流れを汲んで、いまの上福岡一丁目に転居した後に、自宅に開設した地域文庫である。もうよくは覚えていないが、1971年ころから10年余りはやっていたと思う。毎週日曜日、午前10時にオープン、近所の小学生や幼稚園児が15人くらいから多い日は30人くらい来た。
 10年余りたって閉鎖する時、「読書記録だから大事にしてね」と貸出カードを一人ひとりに渡した。ボクは友人に「懐かしいなあ。その人の旧姓を聞いておいてよ」と頼んでいた。
 旧姓だけでなくその人のお嬢さんが菜々子ちゃんの大の仲良し、はづきさんだと分かった。菜々子さんは「その文庫」で絵本大好きに育ち、はづきさんは、北野家庭文庫で育ったお母さんから受け継いで絵本大好きに育って、しかも共同して創作活動を楽しむなんてすばらしい。こんなことが分かると、わが人生も少しは意味があったかなあ、と嬉しくなる。
 家庭文庫を手伝ってくれた妻に、その人の旧姓を言うと、「北野一丁目の線路端の家の子じゃなかったかなあ」という。それはボクは分からない。


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