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11月4日(日)晴れ
今朝、陽だまりの訪問者が149,770人に達した。すぐに15万人だ。思えば2001年春にスタートして6年半、こんなに大勢の方に見ていただいてひたすら感謝である。スタートしたころは1日に数名ということが多かったが、いつからか、30人台になり、40人台になり、最近は6〜80人台、時おり100人を超える。15万人目を引き当てた人には何かを贈るようかなあ? まあ名乗り出た人があったら、その時考えよう。
今日はBaby職員の高橋和子さんがかかわる劇団の公演があって、中板橋のスタジオで観劇をしてきた。けいこ場のように小さな劇場なので、役者は目の前にいる。下手なシバイだったら、観客もやりきれないだろうが、一応演技力もあり、脚本もテンポよく進んで、飽きさせなかった。殺人事件という題材がよかったかどうか。新劇というのはいつも挑戦だ。歌舞伎や文楽のように長い歳月に磨き上げられたものではないので、新しいものに挑戦しつづけるというのは大変なことだろう。
中板橋から中根橋を渡ってしばらく行くと、今は本町と呼んでいるらしいが昔は板橋10丁目と言った一角がある。1949年から50年にかけて、ボクはそこに住んでいた。懐かしくて、観劇の後、少し歩いてみた。中学を卒業して上京し、兄嫁がやっていた下駄屋の一室に下宿していたのだ。駅からずいぶん歩いて、その辺まで行ったが、きれいな商店街になっていて、下駄屋がどのあたりだったか、もう分らなかった。
さらに足を伸ばして、国道17号の10丁目の交差点を横切って旧道へでた。そのあたり一帯は「岩の坂」といって、都内有数の貧民くつだったが、高層マンションに姿を変えていた。坂の中腹にあった岩の坂交番でデモ隊に警官が発砲して若い労働者が死ぬという事件があり、そのデモ隊に若い日のボクもいたが、その交番は坂の下に移動して名前も「本町交番」に変わっていた。その交番脇の路地を入ったところに敬隣保育園が、今もあった。
この保育園の谷田部園長はかっぷくのいい老人だったが、こまめに園舎を直したりしていた。美人の三人姉妹があって、ボクは中のお嬢さんが目当てで、用もないのによく通った。しまいには園庭がよく見えるアパートの一室を借りて住んだ。広さは2畳、トイレも水場も共有の粗末な部屋だったが、すべては保育園のそばであることで許された。今は、そのアパートは立派なマンションに姿を変えていた。そして、敬隣保育園も鉄筋コンクリート造2階建の立派な園舎に改築されていた。
20歳前後のころ、ボクは「板橋新聞」というミニコミ紙を発行していた。そんな関係で板橋区の保育園長とは親しくしてもらっていた。和敬保育園の近藤先生には「その」を開くとき相談に乗ってもらった。敬隣保育園の谷田部先生、陽光保育園の平沢先生にも親しくしてもらった。
「その」と「そのBaby」でリズム運動研究会の講師に呼んだ陽光保育園の男性保育士は、かつて平沢先生と一緒に働いたことがあるということで、先生の立派な一生に話題が盛り上がった。
思えば、人の出会いは深い意味を持つ。その20歳前後にボクは保育の仕事に就くとは想像もしていなかった。けれども、園長の懇親会などに呼ばれて、戦後の問題意識旺盛な園長たちの話をきいたことは、今にして思えばボクの青春を豊かに彩り、何らかの形でそれは今も生きているに違いない。
保育園の岐路、幼少のころ守山さんが暮らしたという中根橋そばの”貧しい家”があったあたりを歩いたが、どの家もきれいになっていて、かつての面影はないようだった。
板橋十丁目は一度行ってみたいと思っていた。これで気が済んだ。
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