John von Neuman


用語:John von Neuman
和訳:ジョン・フォン・ノイマン

【概略】
別名:コンピュータの父、超天才児
出身:ハンガリー ブタペスト
家柄:ユダヤ系 裕福な銀行家 貴族階級
生没:1903〜1957

【経歴】
1926年 23歳でベルリン大学教授。
1933年 米国のプリンストン高等研究所教授として招かれる。
1943年 マンハッタン計画に参加。
1952年 ノイマン型コンピュータを製造。
1955年 米国政府原子力委員就任。
1957年 癌のため死亡 53歳

【説明】
今日、我々が使用しているパソコンはノイマン型コンピュータと呼ばれている。ノイマンは1952年にノイマン型コンピュータを完成させたが特許を取ろうとはしなかった。彼はそれどころかそのコンピュータの仕様を次々と論文で発表した。彼はコンピュータを独占するつもりが無く誰にでも作れるように特許を取らなかったのである。
その結果、1950年代以降、世界中でノイマン型コンピュータが製造された。

世界初のコンピュータは「ABC」という名称で真空管300本を使用したものであった。だが、演算能力は人間以下であった。まともなコンピュータの世界初は「エニアック」であるが、これは真空管を18000本使用した大型のものではあったしプログラムは半固定式で新規の計算を行う場合は新たに配線を組み直さなければならなかった。そのためたった数分の計算作業のために2〜3日の配線変更が必要であった。結局、実用機としてはかなりお粗末なものと言える。

現在では実用コンピュータの世界初はノイマン型コンピュータであるというのが通例である。
ノイマン型の特徴は
1.プログラムの内蔵
2.2進法の採用
3.逐次処理
4.プロセッサとメモリの分離
などである。すなわち現在のコンピュータの基本である。

ノイマンは1903年、ハンガリーのブタペストで生まれた。父は裕福な銀行家で経済貢献で貴族に叙されていた。幼少の頃から天童の名を欲しいままにし、6歳頃には父親と古典ギリシャ語で冗談を言えるほどであった。
特に数学の分野では天才的な才能を見せ、大学進学前にはすでに2つの論文を発表していた。そのため、23歳の頃にはすでに学生ではなくベルリン大学で教える側となっていた。だが、彼はユダヤ系であっためナチスが闊歩し始めた1933年にドイツから離れることとなり、そのまま設立されたばかりの米国プリンストン高等研究所に招かれた。設立当時は教授はたった4名で、その中の一人はアインシュタインであった。

WW2時にはマンハッタン計画に参加し、主に核物質の圧縮装置の設計を手がけた。このとき使用していたのが当時では一般的な電気機械式計算機で信号の"1"、"0"を電流に置き換え、電磁継電器の作動によって計算していたために計算機本体の物質的な重さと処理の重さに泣かされていた。
そこで生まれたのが真空管を使用した無接点式計算機である。これは陸軍が弾道計算に使用するためペンシルバニア大学に発注したものでこれが有名な「エニアック」である。

1944年の夏にエニアック計画の責任者ハーマン・ゴールドスタイン博士と偶然出会い、コンピュータの話を聞くこととなった。その瞬間、ノイマンはコンピュータの可能性を理解したのであった。
WW2後、二人はプリンストン高等研究所でコンピュータの開発に取り組むこととなった。ちなみにゴールドマン博士らによるとノイマンは並みの天才ではなかったという。あのアインシュタインでさえ彼には及ばないという。また、ゴールドマン博士はノイマンの記憶力を試そうと「2都物語」の書き出しを聞いたところすかさず暗唱し始めたという。結局、10数分聞いたところで博士はノイマンを止めた。

プリンストン高等研究所での研究開発は悲惨だったという。なにしろ旧態前とした環境で紙と鉛筆が最も尊ばれていたところであっためにコンピュータ開発などという二人には予算が与えられず、軍にコネがある両名であったために辛うじて軍からオシロスコープなどを借用し細細と研究開発に取り組むのがやっとであった。結局、開発は予想より遅れ1952年に完成した。

ノイマンはその後水爆の開発に加わることになり米国の軍事政策に深く関わることになった。というのも彼はユダヤ系のため故郷を追われた暗い過去があり、また強烈な軍国主義で反共産主義でタカ派であった。そのため、WW2時にも積極的に原爆製作に加わり、冷戦時代にも積極的に水爆製作に加わったのである。

彼についての面白い逸話がある。冷戦時代のライフ誌に彼の言葉が載っっているのだが・・・
「もしあなたが私に"なぜ明日にでもソ連に原爆を投下しないのか?"と問い掛けたとしたら、私はあなたに"今日じゃまずいのか?"と聞くだろう」
強烈である。今日の日本で北朝鮮や中国に対して同様の発言をしたら間違いなく首であろう。
ちなみに実際に彼は、当時、ソ連への先制核攻撃を考えていたという。

その後、1953年、米国空軍にフォン・ノイマン委員会を設立し、1954年には核弾頭弾道弾の開発を進言した。もし、ソ連の核開発が遅れ、ソ連が核を保有する前に米国がICBMが完成していたら間違いなく彼はソ連に対して先制核攻撃をしていただろう。

彼の言葉に「兵器に強力すぎるということはない」というものがある。

1957年、彼はガンで病床に伏せていた。彼の死に際は9人の軍人に見取られてのものだった。無論、彼がうわ言で軍の重要な機密を漏らすことを警戒してのものだった。

参考文献 朝日新聞「100人の20世紀」