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老成都
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[其四十]
九眼橋坊考
九眼橋が全く様変わりしてしまった話を耳にしますが、私が最後に訪れた2000年の時には、望江路は改修されていましたが、形は変われど培根路は以前として残っていました。そう言った意味では、幸いにもまだ死に目に会えたと言う事でしょうか。
1989年12月 望江路から太平南街に抜ける辺り
1989年10月 国慶節で賑わう九眼橋
今中国どの街に行っても、必ずと言っても良い位、その町のどこかの地区が取り壊されています。その部分やはり社会主義なだけに、話が決まると事は早いみたいです。日本では計画が決まっても、学識経験者等により構成される、第三社機関としての土地の収容委員会が召集され、形だけは民意が反映される様になっています。因みに私の住む千葉県では、各種公共事業の際に、収容委員会は召集されません。何故かと言うと、成田空港闘争の際に、各委員が過激派に個別に襲撃され、それ以降成り手がいなくなってしまったからです。その為、今では県内で立退きが必要な場合には、国土交通省の役人が各一軒々々個別に周り、立退き条件の交渉をしています。(話が大分逸れましたが。)
1989年10月 市の引けた午後の培根路
九眼橋に通じる通りの中で、望江公園に繋がる望江路と、四川大学裏門に繋がる培根路が最も馴染み深いものです。「成都城区街名通覧」と言う本を開いてみると、培根路には以下の説明が記載されています。
[清代高緒三十年(1904年)「四川勧業道周善培養」が通りの南側にマッチ工場を創立し、「会昌火柴廠」と命名。1924年「慈惠堂接弁」が、「培根火柴廠」と改名、路名の由来となる。建国後、培根火柴廠は更に成都火柴廠と改名、以降路名は存続。]
1991年10月 「望江」の碑
1995年8月 望江樓公園側から見た休日の望江路
一方望江路の方は1953年に望江樓公園が建設され、この際に望江路と命名されました。また四川大学は1905年に国の重点総合大学として、「四川通省師範学堂」が設立された事に始まります。また1939年から1943年までの期間は、日中戦争により峨眉山の報国寺に一時疎開していたそうです。と言う事は、望江路が建設される前の正門は、培根路に面していた筈です。そう言えば、留学中に朽ち果てた小ぶりの羅生門みたいな門戸を見かけていた記憶があります。
1991年12月 順江路から見た取壊し間近の九眼橋
望江路の建設が1953年ですから、あの並木道は樹齢50年を待たずして伐採されてしまった事になります。日本でも住民参画による街作りは、近年始まり出したばかりですから、中国ではまだ暫くこの様な破壊と建設が繰り返されるものと思います。そう言った意味では、かつての成都の街並も、もう既に思い出の中にしか存在しないのかも知れません。
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