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老成都
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[其三十六]
李劼人故居
成都の文学者と言えば、巴金を思い浮かべるのが一般的だと思います。でも私個人としては、李劼人が最初に念頭に浮かびます。中国語の学習の中で、巴金の作品には必ずと言って良い程、教科書の中でお目にかかると思います。それだけ彼の作品は有名なものが多く、四川の文学者の中では、郭沫若と共に著名さは双璧です。下世話な言い方をすれば、李劼人はその一クラス下と言った所でしょうか。
しかし実の所、彼らの作品をまともに最後まで読み切った事が無く、また文学とは縁の無い私が勝手な事を言っているのは、両者の住居跡の印象の違いによるものです。
1991年11月 李劼人故居の大門
李劼人の住居跡は、四川師範大学の近くにあります。私も当初彼の旧宅を目当で赴いた訳では無く、獅子山に行った際偶然見つけ、それから何度か訪れました。その旧宅は記念館になっており、庭園は茶館として開放されていました。旧宅の一部に陳列館があり、彼の遺品や関連物が展示されており、普段誰も訪れる人がいないのか、守衛さんに鍵を開けてもらい見学しました。兎に角、庭園と住宅の小洒落た雰囲気が好きでした。一方の巴金の生家はと言うと、左程変哲の無い一般的な住居です。
1989年11月 付近の街道の様子
李劼人は1981年6月20日生まれ、家が貧しく、幼少時を親戚の家で過ごし、父親の赴任する江西に一時機移り住んだ後、十四歳で四川に帰省しました。1908年には、親戚の援助で四川高等学堂中学の分校で学び、同窓には郭沫若もいました。辛亥革命の最中、文学的な素養をこの時代に養ったとされています。その後「四川群報」等の編集を経て小説を発表する様になりました。
1919年には勤労学生としてフランスに渡り、当時の社会情勢を目の当りにすると共に、フランス文学と接する機会が生まれ多くの影響を受けたそうです。1924年に帰国し、四川軍閥楊森の圧政下、学生運動で揺れる教職の傍ら、数々の小説や翻訳本を発表しました。李劼人を評して、「中国のサラ」、「写実的大衆文学者」と言われていました。
日中戦争中、重慶爆撃で死亡した製紙工場の工場長として赴任した際も、筆を置かず創作活動を続けていました。しかし蒋介石を一部批判した作品が問題となり、監視を受ける立場になったそうです。解放に継ぐ、建国により政府の中枢に入りましたが、彼の評価は革命に青春時代を過ごし、幾多の社会活動への参加の際にも、文学の創作活動を続けていた事にある様です。
1962年12月24日折中。1982年の全国文学代表会議上、彼の「死水微瀾」が五四運動の新文化活動以来の優秀作品とされています。
1991年11月 園内にある二階建ての邸宅
話しは全く変わりますが、私の郷里に所縁ある文学者として、永井荷風がいます。でも実情は所縁と言う程のロマンチックなものでは無く、彼の終焉の地が京成八幡駅の近くにあるのです。その場所は小学校の裏手、袋小路の奥にその住居跡があります。つい最近会社の帰り道、遠回りして覗いた事がありますが、こんな所にも荷風らしい世界がある気がしました。
誰にも見取られずひっそり病死した後、散らかり放題の六畳間で発見されるその姿は余りに侘しいものでした。自由人として生き、そして死んだ訳ですが、その活き方に憧憬を抱く一方で、その死に様に恐怖も感じます。私には、とことん自由人でいるのは適わず、平凡な活き方しか出来そうにありません。
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