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老成都
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[其三十五]
日語角
旅行中成都を訪れた際、錦江賓館の手前で毎夜催されていた字画市場を覗いていた時、偶然日本語を勉強している中国の人に話しかけられました。何でも直ぐ近くの浜江公園で日本語の勉強会が野外で開かれているので、臨時講師として来てもらえないかとの事でした。一人旅で特段予定の無かった私は、その勉強会なるものに参加する事にしました。1987年の春の事です。
1987年3月 錦江賓館よりの人民南路で開かれる字画市場
薄暗い街灯が指す夜の公園内には、かなりの人数が犇めいていました。話しによると週2回、この公園内で語学の勉強会をしているそうで、ほとんどの人は英語の学習者との事で、日本語を勉強している人は小さいテーブルに集まった7〜8人の人達でした。
兎に角何でも良いから日本語を話してくれとの事で、旅行中の出来事等を適当に話してみましたが、「あなたの話しているのは、日本語ですか?」とか、「文法が滅茶苦茶で何が何だかわかりません」、そして挙句の果てに「あなたの言葉は方言が酷くて、聞き取れません」と言われてしまったのには唖然としてしまいました。確かに東京近郊の下町言葉も、立派な方言ですけど。
中に四川大学の日本語科の学生が混じっていて、何でも最近外国人留学生の受け入れが始まったそうですが、「日本人の留学生は生意気です」とも言っていました。その時は「はぁ」と言う感慨しかありませんでしたが、まさか翌年からその大学に留学しようとは考えてもみませんでした。
1987年3月 防空壕改造の白芙蓉飯店(黒珈琲)
私が中国に留学した頃は、日本でバブル経済が当に始まろうと言う時代でした。戦後稀に見る人材不足とかで、卒業を控えた大学生もその後の得られた内定の数を競っている様な時代です。人材獲得に窮した企業は新入社員に新車をブレゼントしたり、豪華海外研修を行ったり、そして給与の面でも証券会社の新入社員の初任ボーナスが100万円もらえたり等、今考え起しても全くの狂乱時代でした。
そんな中、一旦は離職して中国留学に向う訳ですから、多くの知人には批判をされました。その多くは、中国で勉強する物なぞあるのか、或いは何をしに行くのかと言うものです。まあJapan
as No.1の時代ですから、こう言う発想になるのも当然なのでしょう。私も個人的に深慮が有った訳では無く、仕事に忙殺される毎日の中で、好きだった中国との取っ掛かりを何かしら作りたいと言う気軽な気持ちでした。当時は、仕事は幾らでもあったのです。
1991年11月 新南門から見た濱江公園
私が中国に留学した当時、逆に中国の人の海外への渡航願望は相当なものでした。改革開放で一気に海外から大量の物や人、そして情報が流れ込んできた訳ですから当たり前なのかも知れません。留学中、同学も含め日本への保証人になって欲しいと言う話しは数多く有りました。自分自身の生活さえ不安定な状況下だったので、大した力にはなれませんでしたが、友人には出来るだけの手助けをしたつもりです。しかし、ある人の結果が駄目だった時、人前で涙を流すその姿を見て、気軽に留学に来てしまった私には、かけてあげられる言葉さえ見つかりませんでした。留学そのものに人生をかけていた彼にとって、この不成功はとても辛い事態だったのだと思います。(因みに今の彼は、一角の経営者として、順調にやっているみたいです。)
1999年7月 背後に高層ビルが立並ぶ近年の濱江公園
この時受けた衝撃は、私にとってもショックな出来事で、心の中で重く受け止めました。しかし、留学を真剣に取組む切っ掛けになると同時に、後々の留学生活を価値あるもの変えてくれたものと感謝しています。今の様な辛い時代でも、どうにかやっていける下地をこの留学中に作れたからです。
当時の日本の経済学者や経営者を始め、誰一人として今日の事態を予想だにしていませんでした。今思い起しても、現在の中国と日本の違いは、これら当時一人一人の思いの差だと改めて考えさせられます。
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