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老成都
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[其三]
八陣図
この街は三国時代の蜀漢の首都でした。その名残が千七百年以上過ぎた今日でも、街の到る所に残っています。劉備や諸葛亮を奉った武侯祠は余りにも有名ですが、他にも三国志に登場してくる人物や逸話の多くが地名としてその名を留めています。
1991年11月 諸葛村、諸葛廟小学校の門
街の北側、成都北駅の西側には、九里提という地名があります。ここは、諸葛亮自らが灌漑用水路を作ったとされる場所です。そこには諸葛村と言う地名が今でも有ります。四川の多くの人は三国志の登場人物中で、やはり諸葛亮が皆好きです。劉備はそれ程人気が有りません。理由はいくつか有ると思いますが、私個人の意見として、彼が四川に居た時間が少なかったからだと思います。蜀漢建国後余り時を経ずして、悲痛の内に病没してしまった訳ですから。
1991年10月 弥牟鎮、八陣図と書かれた古びた標識
四川は周りを険しい山脈に囲まれた盆地です。当時は、陸路で蜀(四川)に入る場合は、ニ通りのコースしかありませんでした。一つは三峡から長江を遡る道、もう一つは蜀道、天険である剣閣を通る道です。そこで諸葛亮はこのニつの通り道に、八陣図と言う陣地を築きました。実際の姿は今でも好く解明されていないとの話を聞きましたが、三峡の方の八陣図は、水流の複雑な場所にあり、今でも船がよく座礁事故を起こすそうです。もう一つの八陣図は、成都の郊外北部にある弥牟鎮にありました。ここは、地理的には平坦な場所なので、何の障害も有りませんが成都の喉元です。ここを失えば成都への出入りは自由になります。
1991年10月 八陣図付近の様子
私がここを訪れたのは、もう9年も前の事です。当時近くの住民の話によると、やはり本来は八つの塚らしき物が有ったそうですが、住宅の建設等で四つしか残っていないとの事でした。その一つでも見せてもらおうと思いましたが、たまたまその家の主が不在で果たせませんでした。
1991年11月 黄忠村の水道廠の看板
蜀漢の将軍の墓が地名として、残っている場所もいくつか有ります。
五虎将軍の一人、黄忠は街の西側にその地名が残っています。10年前はほとんど畑だらけの場所でしたが、今は新興住宅街です。
街の中心部南側には、衣冠廟と言う地名が有ります。これは、関羽の死後その衣服と冠だけを奉った場所がそのまま地名になった所です。でも現在はその確かな所在地は不明です。
1991年10月 向陽鎮にあった二つに折れた馬岱の墓石
一度古い地図を頼りに、馬岱の墓を捜した事が有ります。馬岱は馬超の従兄弟で、蜀漢の将軍でした。地図によると、彼の墓は北部の新都県に記されていました。この地図を懐に自転車で村の人達に聞いて回りましたが、誰も知りせん。そこで、情報は茶館で聞くのが一番だと思い、茶館に居たお年寄りに聞いて回りました。その中の一人が「村の文化庁に言ってみれば分かるかも知れない」と言うので早速尋ねてみました。そこで分かった話は、墓はとうの昔に取り壊されたそうですが、向陽鎮の管理事務所に、墓石だけが残っているそうなので、見せてもらう事にしました。発見される迄は、近くの農民が家畜小屋の敷石にしていたそうで、真中からニつに折れていました。でも管理事務所ではこれを修復して、小さな記念碑を作ると言っていました.。
1991年10月 管理事務所に掛けられていた馬岱に関する詩
現在、その記念碑が出来ているのでしょうか。その後は確認していません。これら多くの遺跡は文化大革命中に破壊されたり、再開発の際取り壊されました。でも最近は中国国内でも三国志ブームが巻起こり、遺跡が修復されたり、復興されたりしています。でも場所に因ってはやり過ぎて、観光色剥き出しの所も有ります。昔の様に人知れずさりげなく残されている様な所が、個人的には趣が有って好きです。
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