老成都

[其十四]


六四之后

 
もう騒乱が大分収まった頃、日本大使館から忘れられかけていた様に帰国勧告が郵送されて来ました。コピー用紙一枚に、勧告に従わない者の安全は外務省としても責任は負えない云々の文面が有り、何を今更と思ったのを覚えています。


    1989年6月6日 九眼橋の商店で小麦粉を買い溜めする住民


 街中は巨大な嵐が過ぎ去った後みたいに、虚脱感と混沌とした空気が漂っていました。今度は治安を取り戻した政府側の一斉摘発が始まり、騒乱に加わずともデモに参加しただけの人々でも、喧喧諤諤の心境でした。多くの場合逮捕の決め手となったのが、カメラの望遠レンズで騒乱の参加者を捕らえた映像で、これが動かぬ証拠になりました。一部では報道カメラの映像を解析して、人物を特定したとの噂も聞きました。当局は密告を奨励し、デモにも参加していないのに、たまたま出張で北京に行った時の話を会社でした人が、妄言を広めたとの理由で逮捕された実話も聞きました。こんな状況の中、誰もが口を閉ざす様になりました。


    1989年6月6日 放火されたバスの近くを行き交う人々


 街中で反革命分子(革命を遂行する政府に反逆した者)として捕らえられた人の、市中引き回しも実際この目で見ました。人民商場を焼き討ちした後、逮捕された人はほとんどが銃殺刑になったみたいです。裁判は一審だけで採決し、間もなく刑が執行されました。銃殺は市の郊外にある塔子山公園で行われたそうです。市民には知らされず報道関係者のみに公開されたとの事です。


    1990年9月 軍事教練を終えて四川大学に入学する新入生


 大学では九月に新入生が入学する予定でしたが、一ヶ月間の軍事教練が全ての新入生に義務付けられました。四川大学の様に地方の大学では一ヶ月でしたが、事件の発端となった北京大学では当面一年間の軍事教練が義務付けられ、拒んだ者の入学は取り消されました。
 経済活動にも深刻な影響が出始め、一番影響を受けたのが外国人相手の旅行社でした。日本も含め多くの西側諸国が渡航自粛の措置を採った為、どこの旅行社も開店休業状態になりました。成都は当時日本人居住者が少なく、旅行社の人とは親交が有り、暇そうにしていたので、毎日の様に会社に遊びに行っていました。


    2000年1月 毛沢東像の周囲には柵が張られ現在は立入禁止


 中国が現在の経済優先の社会になった転機を、多くの経済学者は ケ小平の南巡講和以降と位置付けています。でも大きく概念が変わり始めたのは、やはりこの6月4日からではないかと今でも実感しています。この時程、力が正義と言う概念を世の条理として痛感した事は無いと思います。そして、一般の人々にとって最も力を象徴出来る経済力を求める様になったのではないでしょうか。
 
この6月4日に起きた天安門事件に対する日本での評価は一様だと思います。私も当初感じた事は民主主義をいくら口で叫んでも、銃口の前では全て吹き飛んでしまうと言う事実だけでした。私の友人が中国の軍事力が巨大なのは、外敵から自国を防衛する為だけでは無く、銃口の半分が国内に向いているからだと自嘲気味に教えてくれたのが印象的でした。確かにあの時の恐慌は、絶対的な力でしか収拾出来なかったのが現実の姿だと思います。冗談ぽく銃が野放しになっている自由主義のアメリカで一年間に殺される人より、天安門事件で死亡した人は遥かに少ないと言う人もいます。アメリカ流の民主主義を歴史や文化、そして市民の経済状態が全く違う中国人に一元的に押し付ける事は陳腐な事だと私も思います。
 少なくとも言えるのは、その答えを今だに皆が探し続けていると言う事でしょうか...。



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