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老成都
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[其十三]
六四当中
6月4日の朝は騒然とした雰囲気で明けました。市の中心部からは時折爆発音が聞こえてきます。デモ隊が占拠していた毛沢東像の回りでは、武装警察と過激な市民が一進一退の攻防を繰り広げていました。私が駆け付けた時お互い投石の真っ最中で、武警側からはたまに催涙弾が飛んできます。今までニュースでしか見た事の無かった事態が目の前で展開されていました。そこに何故か、野次馬を当てこんでアイスキャンデー屋が何人も来ていました。気候も暑かったし、人々も熱くなっていたので、アイスキャンデーは飛ぶように売れていました。でも武警側の前進で群集が押し寄せた為、一人のおじさんの自転車は押し倒され、哀れアイスキャンデーを箱ごと地面にぶちまけていました。
1989年6月4日 衝突の様子を伺う野次馬
1989年6月4日 一進一退の攻防を繰り返す武装警察と民衆
この日武警側は毛沢東像の奪還が主な目的だった様です。しかし、日が落ち夜になると一部の民衆が暴徒化し、政府系の各種機関が相次いで襲われました。投石は勿論の事、国営の人民映画館や人民商場等が焼き討ちに会い、駆け付けた消防車も暴徒に襲われ、付近一帯も延焼し焼け落ちました。事ここに至ればもう滅茶苦茶です。この日から成都でも夜間外出禁止令が出され、テレビではアナウンサーが四六時中政府発表を繰り返し、事故に遭っても当局は事態の保証をしないと言っていました。
この日から約三日間、成都は無政府状態になったのです。
1989年6月6日 5日の夜暴徒に襲われ封鎖された錦江賓館
次の日は人民南路に面した高級ホテルの錦江賓館と眠山飯店が襲われました。暴徒化した一部の民衆は欲望の赴くまま、または不満の捌け口を求めて迷走しだしたのです。
街では全ての交通機関が麻痺し、警官も姿を消しました。変わって武装警察(地方軍)が治安維持に当たり、街の通りからは人通りが消えました。市民の方は至って冷静で、食料の買い溜めはそれ程見られませんでした。友人曰く、成都の場合街の回りが全て耕作地だから、何があろうと食に不自由しないとの事。言われてみれば確かにその通りです。会社も全て休業状態だったので、皆朝から酒を飲みながら今後の動静に想いを巡らしていました。私も短波ラジオを持っていたので、友人宅に呼ばれ、酒を酌み交わしながらBBC放送やアメリカの声と言った海外の中国語放送に聞き入りました。隣の家でも朝から宴卓を囲んでおり、聞くところによると職業は警官との事でした。彼らの同僚も襲われる事を恐れ、私服に着替え自宅に引きこもっているそうです。
商店も酒が飛ぶ様に売れ、こんな事態は四人組逮捕以来との事です。幕末に見られた「ええじゃないか」の雰囲気とは、こう言うものだったのかも知れないとふと思いました。
1989年6月6日 眠山飯店のロビー前で暴徒に倒されたタクシー
留学生の間でも事態が慌しくなって来ました。欧米系の学生は特に敏感で、皆荷物をまとめて帰国準備を始めました。空港が間もなく閉鎖されるとか、四川大学の回りが軍により包囲されているとか、真しやかな情報が海外のメディアで放送され、各国の大使館から帰国命令が相次いで来ていた様です。そんなんで結局残ったのはお金の無いアフリカの留学生、地方に行っていた研究生と私を含めた一部の日本人留学生だけでした。アメリカの留学生から日本人は事態が分かっていないと言われたので、「サムライは逃げない」と冗談で返したら大笑いしていました。私としては、成都の友人の話で、もう事態が終局に向っているとの巷の情報を信じる事にしたからです。それと今後の行く末を見届けたかった気持ちも有りました。
つづく...
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