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老成都
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[其十ニ]
六四之前
嵐の前の静けさと言う言葉が相応しいのか分かりませんが、それはうららかな春の日差しが心地よい1989年の4月も終わろうとしたある日の事でした。大学での授業が終わり校舎を出る際、ふと見上げると玄関の上には紅い幕がかけられており、そこには中国の元国歌主席であった胡耀邦の死を悼む弔辞が書かれていました。
1989年4月22日 胡耀邦の死去を悼む垂れ幕
この真赤な垂れ幕がこれから起こる激動の開幕を象徴していようとは、まだこの時点では誰しも想像していなかったでしょう。胡耀邦はかつて教育工作にも従事していた事から、学生や文化人には定評のある人物だった様です。また、この何年か前に起きた学生運動の対応に消極的だったとの理由で降格され、同情されていた面もあるみたいです。少なくともこの時点での示威行動は、ただ単に彼の死を悼むだけのものだったと思います。
1989年4月22日 この日最初の学生によるデモ行進
しかしその直ぐ後、彼の名誉を回復する声に学生や市民の鬱積していた感情も入り混じり、街頭デモ活動へと、ますますエスカレートして行きました。当時市中で良く耳にしていた言葉が「官倒」と言われる、所謂官僚の不正行為や国営企業の独占行為です。二つとも新たに市場経済を導入して出てきた、過渡期の混乱現象です。まさに正直者が馬鹿を見ると言う言葉が当てはまる様な状況になっていました。何かのきっかけで学生や市民の不満が噴出するのは時間の問題だったのかも知れません。
1989年5月22日 5月に入り最大級のデモ
混乱の影響は学校では直ぐに出てきました。教師や学生のデモへの参加は勿論の事、授業のボイコットが日常化し、学内はどこも開店休業状態になりました。最も留学生の授業は通常通り行われていたので、校舎で授業を受けるのは我々数人だけと言った奇妙な現象も起きていました。
1989年5月22日 毛沢東像に奉げられた献花
市内での混乱も日々深まっていた様です。見た目で一番影響を受けたのが交通機関です。特に多くのデモ隊が練り歩く際、バスはほとんど止まってしまいました。成都市内の足はバスが主になる為、先生が学校に来られず休講にる事も増えて来ました。ただ職場や工場でストライキまでの事態には至っておらず、デモ隊も学生が統制を取っていたので、騒乱状況にはなっていませんでした。政府の方もまだこの時点では、放任状態でした。
事態の収拾が見出せないまま、噂話ばかりが先行し、混沌とした雰囲気で生活していた感じです。そして事態は急転直下を向えます。
1989年5月22日 学生の貼り出した壁新聞を見入る市民
北京の天安門広場で軍による鎮圧が始まった事を、日本の短波放送のニュースで聞きました。次々と入る深刻な情報に、やはり驚きと同時に不安を感じたのが率直な気持ちです。成都はどうなるのか。私達留学生仲間で深夜まで、短波ラジオに耳を傾けましたが、流石に地方都市の情報は一切ありませんでした。しかし、その答えは翌早朝直ぐに出ました。
1989年6月4日 北京に続きこの日最初に起きた衝突
つづく...
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