巴山蜀水

[其ニ]


九寨溝 (JiuZhaiGou) − 〈神々が造った渓谷〉

 
九寨溝(九つの砦の渓谷)と言う名を初めて聞いたのは、もう何年も前に私が中国を旅している時だった。列車内で知合った初老の中国人のおじさんとの会話で、その地名を耳にしたのだ。座席で向かい合ったおじさんと「中国でどこが一番美しいか」という話題になったとき、おじさんはある地名を上げとくとくと説明してくれた。が、私にはどこのことかさっぱり見当がつかない。すると、おじさんはペンを持ち出し、ノートの端に「九寨溝」と書いてくれた。早速ガイドブックで調べたが、そんな地名はどこにも載っていない。ただ、おじさんの口ぶりや表情から察して、そこが兎に角素晴らしい所だという雰囲気は伝わって来た。そして、四川省の奥深く、少数民族の住む地方にあることが分かった。


    
成都北駅前で募集している九寨溝へのバスツアー


 中国の大学に留学して間もないある日、駅前を歩いていてふと目にしたのが、九寨溝〜黄龍のバスツアーの看板だった。大学の授業が始まるまで、まだ一週間位あったので、私は思わず切符を衝動買いしてしまった。以前のおじさんとの会話を思い出したからだ。三日後、私は九寨溝へ向うバスに乗り込んだ。
 バスが上下に揺れる。兎に角ひどいでこぼこ道だ。成都を発ちもうかれこれ8時間位になる。この辺りまで来ると、舗装した道路にはなかなかお目にかかれなくなってくる。この分だと、平武に着くのは今夜遅くになるだろう。今日もまた四川特有のぐずついた空模様だ。


    
平武に住む白馬族の親子連れ


 バスが停まった。どうやら給油らしい。バスを降りてぶらついていると、少数民族の親子連れに出合った。白馬族と言うらしい。後々知った事だが、彼らはチベットの辺境防備の為に移住して来た軍人の子孫というのが有力な説となっているが、最近では全く別の民族とも言われ始め、いまだに諸説紛々としているそうである。
 元々、この地方の住人の多くはチベット族であり、かつての吐蕃の安多(アムド)地方に属していた。アムドとは、現在の青海省と甘粛省甘南チベット族自治州、及び四川省の阿バチベット族自治州を包括する広大な範囲である。彼らの風俗も、チベットのラサ地方とは若干異なり、彼らの話すアムド方言もラサの標準語とは大きな違いがある。
 歴史的に見ると、九寨溝の辺りは古代羌族の支配する地であったが、吐蕃の拡張によって、中国の各王朝との間に争奪が繰り返された。因みに現在は、四川省阿バチベット族羌族自治州南坪県隆康郷に含まれている


    九寨溝への入り口がある白河の村


 平武から九寨溝のある南坪までは、峠越の連続になる。地図で見ると、3,000m以上の峠をいくつか越える事になる。おかげで、バスのスピードも平均時速20キロ程のノロノロ運転だ。最も、何十人もの人を乗せたオンボロバスが、標高3,000m以上もあるチベット高原を何日間も走り抜ける訳だから、エンジンが動いているだけでも、恐れ入る。日が沈みかけた頃、バスは白河という町に着いた。ここが九寨溝の入り口となる。
 
九寨溝は、四川省ではもちろん、中国全土でも有名な自然保護区(現在は世界遺産)になっている。総面積は620kuにも達し、その52%が原生林に覆われている。標高1,800m〜3,000mの間には、「日則」、「則査」、「樹正」という三つの渓谷が流れ、100以上の大小さまざまな滝や湖を造り、いくつもの特異な景観を生み出している。これら湖や滝、そして森林、雪山との美しいコントラストが九寨溝の特色となっている。
 九寨溝という地名は、九つのチベット族の村があった事に由来すると、「南坪県誌」に記されている。この九つの村寨は今でもあり、数もやはり九つある。
 翌日、白河から少し離れた溝口にある検門所で身分証明書の提示を求められ、入溝カードを記入した。森林警備の検門らしいが、緊張してしまう。
 バスはここから日則に向う。標高2,600mにある
熊猫海で全員が降ろされた。ここからバスで来た道を歩いて下りながら見学するらしい。先にもいくつか湖があるらしいが、運転手いわく、あまり見る所が無いらしい。


    
熊猫湖に水を落とす高瀑布


 運転手をはじめ、バスツアーの参加者達は、私の事を変な中国語を話す華僑かなんかと勘違いしているらしい。私にとってはどうでもいい事なので、まあそういう事にしておこう。
 熊猫海の掲示板には、付近でパンダを見かけることが出来ると書いているが、いっこうにその気配がない。水の落ちる音がする方へ足を向けると、熊猫海の水を一気に落としている滝が見えた。この滝、高瀑布(滝)は65mの高さにも達し、見下ろしているとひき込まれそうな錯覚に陥る。バスのクラクションが鳴り、ガヤガヤとバスに向う。もっと見ていたい気もするが、運転手に言わせると、ここもたいした事ないそうである。


    
迫力のある珍珠灘瀑布


 バスで少し下ってから降車すると、道路の端に長靴のレンタルがあった。どうやら渓流を歩く為のものみたいだが、私はかまわずに丸太で出来た掛け橋を渡っていった。山道を少し下ると、大きな珍珠灘瀑布(滝)が見えて来た。今度は滝を下から上へと見上げる形になった。近づいてみると、水が落ちる音で何も聞こえず、飛沫がもの凄い。これだけの滝は見た事が無い。恐ろしさのあまり、たまらず引き返す。


    日則溝と則査溝の分岐点にある諾日朗瀑布


 日則溝最後の見所が諾日朗
瀑布(滝)だ。この滝は日則溝と則査溝の二つの渓流が合流し、樹正溝へと水流を落としているものだ。いくつもの滝が帯状に連なり、カメラの広角レンズでも収まりきれない程の幅を持つ。兎に角広い。珍珠灘瀑布から諾日朗瀑布までは、それ程距離が無いので歩いて見て回れる。何人かは、実際にバスを降りて歩いていた。
 この日の宿は諾日朗瀑布にある招待所だ。諾日朗瀑布の直ぐそばにあり、滝の音が聞こえてくる。ここは日則溝と則査溝との分岐に当たるので、宿も多く、ほかと比べて交通も便利である。


    
寨溝で一番大きな湖である長海


 次の日も朝早くからバスに乗せられた。則査溝の上流に行くらしい。バス一台がやっと通れる山道を一時間半位走りつづけた。バスの止まったところで高度計を見ると、3,000mを少し超えた辺りを指している。ここに九寨溝でも最大の湖、長海がある。地図では標高3,100m、南北約7km、幅400mという湖だ。
 湖の前で多くの中国人が記念撮影をしていた。中国では、どこの観光地へ行っても、必ず出張のカメラマンが待機している。バスを降りると、片手にアルバムを持って写真を撮らないかと声をかけて来る。全く個人の自営業者は商売熱心だ。


    湖底に沈殿した炭酸カルシウムが神秘的色合いを放つ五彩池


 長海から少し下った所に五彩池がある。他の湖と比べるとこじんまりとした感じで、名前もここだけは池となっている。この池の特徴は、なんといってもコバルトブルーに染まった色にあり、おとぎ話しに出てきそうな泉を想起させる。その色は、地下水が多量の炭酸カルシウムを含んでいる事に起因している。これが湖底に沈殿し、透き通った雪解け水と合わせ、水晶の様な湖を形成しているのである。九寨溝の中でも、その色が美しく現れているのがこの五彩池だ。


    
九つの村の一つ樹にある水車群


 再びバスに乗って来た道を引き返し、チベット族の集落、樹正寨で降ろされる。樹正溝を眺めながら下って行く。渓谷の流れも、ここまで来ると比較的ゆったりとしている。
 
樹正寨では、この渓谷で暮らすチベット族の生活をかいま見る事が出来る。ここで渓谷の水流を利用したマニ車を見つけた。水車小屋にしては小さすぎるので中を覗いてみると、チベット語が書かれたマニ車が入っていた。マニ車を一回まわすとお経を一回唱えたのと同じ事になるわけだから、これでは半永久的にお経を唱える事が出来る。なんともうまく考えたものである。渓谷で暮らす彼らならではの生活の智恵と言った所だろうか。


    
水流を利用したマニ車は止まる事なく回リ続ける


 
樹正溝の終わるところで、バスが待っていた。寨溝の観光もこれで終わりになる。なんとなく名残惜しく、もうしばらく留まっていたい気分になる。
 麓で一泊した後、松潘へと向った。

 つづく...


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