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巴山蜀水
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[其十五]
二郎山(ErRangShan) - 〈貢嗄山への道〉
一つの旅を経てその後の人生や考え方が変わる事があるとすれば、貢嗄山への旅はそんな一つになっていた。
天安門事件の起こる前年、元々の登山好きが昂じて四川の最高峰・貢嗄山へのトレッキングを思いついた。最初に貢嗄山の名前を耳にしたのは、私が高校生の時だった。丁度、部活動で登山を齧り始めた頃で、テレビのニュースで市内の山岳会がこの山で遭難したと言うのを耳にした。その後、絶望視されていた内の一人が20日間もさ迷いながらも自力で下山し、奇跡の生還と報道されていた。この当時は、直にこの件は忘れてしまっていたが、旅行で成都に立ち寄った際、当時の通訳の方と偶然知合い、改めて身近な出来事と感じる様になった。そして縁とは不思議な物で、この当事者の方々とは後々、別の機会で知合う事になる。
峨眉山から見える貢嗄山の山並み
留学後学内でメンバーを募り、蜀山之王と言われる貢嗄山へのトレッキングを企画した。登山と言う程の物では無く、あくまで山歩きが主体だったが、四川登山協会を通じて食料、車やポーターの手配等、それ相応の準備をした。万全を期したつもりだが、悪く言えば少し凝り過ぎだった。行程は1989年の3月末から約一週間の日程を組んだ。協会側の説明で、天候の恵まれる季節としてこの日程を選択したが、残雪の影響だけが気がかりだった。最もこの後に起来た天安門事件の事を考えると、結果的にはこのタイミングが良かったのかも知れない。
四川盆地の西端の街・雅安
初日は成都から川蔵公路を走り、二郎山越えの後濾定迄。当時の舗装の行き届かない道路事情ではかなり、ハードな行程だった。山道の夜間走行を避ける為、成都は早朝に出発。装備は後続のトラックに積み、ミニバスの足を軽くした。初日は宿泊まりとなるので、装備が遅れて到着しても支障ないと考えたからである。
川蔵公路沿い漢族の住む最西端の街・天全
川蔵公路沿いで、天全の街が漢族の住む西端で、そこから先は少数民族の居住地となる。この辺りで、一番の難所が二郎山の峠である。当時は道幅の関係から偶数日、奇数日で一方通行に制限していると聞いた。とは言うものの、公用車と思しき深緑色の車はお構いなしに逆方向から擦違い、その度に断崖すれすれまで車を寄せたので、何度か冷や汗ものだった。この二郎山の道路工事には大勢の囚人が動員されたそうだが、荒野の切り立った岩山の中での作業は苛酷な難工事だったと思う。山越えの最中も、岩山を切り崩すダイナマイトの音が木霊していた。
標高3,000mを越える二郎山峠
この時の運転手は登山協会汽車隊の隊長さんで、お世辞にも安全運転と言えるものでは無かった。元々、解放軍の輸送隊の出身だったとかで、関係者に言わせると腕はピカ一らしいが、日本で言う観光バスの運転手とは全く感覚の違う人だった。(最近聞いた話では、この隊長さんは癌で亡くなられたそうである。)
日没前どうにか予定通り、濾定の街に到着した。
大渡河沿いにある濾定の街
つづく...
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