文明五年(1473)三月十九日、山名入道宗全が七十歳で逝去した。一方の棟梁なので、西陣の嘆息は限りなかった。
写真は、真乗院(京都市左京区)。南禅寺の塔頭のひとつで、山名宗全の墓がここにある。
そうしたところ、同年五月十一日、また細川右京大夫勝元が四十四歳で頓卒した。
何年にもわたって両雄は争いを止めることなく続け、京中と寺社はことごとく灰燼となった。人民は飢寒に苦しみ、両者は力尽きて予想もしなかった和議が調い、山名方はことごとく諸国に下向したので、勝元の思うままになり、公方奉公衆、その他近国の侍はその門下に拝趨した。
山名は七十歳だったので精力も尽き、ついに空しく成りたまう。諡号は、遠碧院。
勝元は四十四歳で、いまだ強健な年齢なのにこのように逝去された。血気に誇って争いをなす者の、一方が果てれば他方も必ず死ぬことになるのは、例の無いことではない。
漢の武帝の時に竇嬰(とうえい。呉楚七国の乱の平定に功があった)という人がいた。景帝の時に大将軍として天下の兵権を執り、世にならぶ人無く振舞ったが、武帝の時に至って武安侯田
が丞相となった。ことに太后の弟であり、奢りをきわめ、威を振るって、世はその下風に立たないものは無かった。竇嬰は古株の将軍だったので、威はすたれたとはいえ彼の下風には立たなかった。
この時、灌夫という者がいた。勇力は人にすぐれ、武功が世にあらわれたので、自分の上におわす人を侵し侮っていた。この者が竇嬰と断金の約束をし、田
のところに行って、「竇嬰のところにおいでください」と、言った。灌夫は元来剛直な酔狂人だったので、彼の心を破るまいと思い、約束したのである。
すでにその日になったので、貴客を迎えようと竇嬰は自ら掃き清めて待っていた。しかし、田
は来なかった。灌夫はおおいに怒り、田
の邸宅へ入って恨み怒った。
田
は、「竇嬰のところへ行く気は無い。さっき『行く』と言ったのは戯れである」と言った。灌夫は酔いに乗じて田
をおおいに罵った。
田
はこれを捕らえ、「不敬の罪、軽からず。潁川で人を殺す過ち、弃市に当たる」と言った。竇嬰は訴状を提出して灌夫の無罪を論じ、また、田
に公私混同があることを訴えた。
天子は、両人を太后の朝庭に召して論じさせ、どちらに非があるかを朝臣に問うた。汲黯(きゅうあん)と鄭当時は、竇嬰を是(ぜ)とした。韓安国は、どちらも可であるとして、「両方とも赦すべきです。田
は今の丞相であり、竇嬰は先朝の功臣です」と、言った。
ところが太后が怒りたまい、「自分が存生の時さえ、我が弟をこのように辱めた。これでは、自分が死んだあとは一族は皆殺しにされよう」と、嘆かれた。そこで、武帝はやむをえず灌夫を族殺し、官吏に竇嬰の罪を考えさせ、十二月晦日、ついに殺された。
翌年の正月から田
は病に侵され、灌夫の怨霊が付きまとって、ついに薨逝した。
山名が死んで五十日もたたないうちに勝元が天寿をまっとうせずに逝去したのは、天の為すところである。
兵書に曰く、「兵は凶器なり。争いは逆徳なり。徳を修せずして威をもって人に勝たんとすれば、天またその魄を奪う」とは、真実のことであった。
これで『応仁記』は終わりです。
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