− 赤松家伝の事・その2 −
ところが、勝定院殿(足利義持)の時、貞範の一子越後守詮則(顕則)の七人目の末子、弥五郎持貞に三か国を仰せつけられた。今に始まったことではないのか、上意が良かったのに任せて不儀の子細がいろいろあった。そのため、赤松大膳大夫満祐が諸大名に声をかけて訴訟され、とうとう御下知があって持貞は腹を切ることになった。
このことを、普広院殿様(足利義教)は内々に、「兄の御所(足利義持)が赤松伊豆守家の嫡流に仰せ付けられず、七番目の末子に御目をかけられた御意は、いわれの無い子細であった」と仰せになり、御教書を伊豆守貞村に内々に下された。
これを大膳大夫満祐と子息彦次郎教祐(教康)が伝え聞いて、嘉吉元年辛酉(1441)六月二十四日、(義教が)御成りのところを討ちまいらせた。前代未聞の浅ましい次第である。
落書があった。
赤松は伊豆に播磨を取られしと御所の頚をば嘉吉元年
その後(赤松満祐は)播磨に下向し、城山(木山城)や白幡(白旗城)を準備して討手の下向を待ち受けた。
大手は、細川讃岐守成之、赤松伊豆守貞村、武田大膳大夫信繁である。須磨明石に陣を取った。讃岐守は赤松を内々に贔屓にしていたので、先陣となったのに国へは軍勢を一人も入れなかった。武田も伊豆も苛立ったが、どうしようもなかった。
搦手の大将は、山名右衛門佐持豊、同修理大夫教量、同相模守政豊である。
金吾(山名持豊)は、誰よりも大功を立てることを願う人であった。その志は驪竜頷下(りりゅうがんか)の珠(黒龍の顎の下にある宝玉)をも取ろうというほどの気概を持っていたので、少しもためらわずに大山口から国中に切って入り、川を隔てて城の向かいの西福寺の上に陣を取った。
修理大夫(山名教量)、相模守(山名政豊)と因幡伯耆の勢が搦手にまわったので、金吾(山名持豊)は川を渡って城山の麓に陣を取り、十重二十重に取り囲んだ。
九月十日、赤松大膳大夫性具(満祐)は自害された。討死する者や腹を切る者は数知れなかった。彦次郎教祐(教康)は落ちて行った(伊勢国司北畠教具を頼ったが、その後自害)。
頚の注進があり、大膳大夫満祐の頚は獄門に懸けられた。
義教公には左大臣の官職が贈られ、普広院殿と号す。山名には勲功の賞として播磨国と美作国を給い、修理大夫(山名教量)がこれを拝領した。備前国は相模守(山名政豊)に下された。
赤松伊豆守(貞村)は讃岐守(細川成之)に遮られて一度も合戦できず、本領だけであった。大名準拠の御判をたまわり、正月七日の椀飯を勤仕した。式粧の行粧などは面目のさまであったが、無力きわまりないことであった。
やがて義教公の御嫡子の義勝公慶雲院殿が将軍になられたが、御早世されたので、御舎弟の義成公(足利義政の初名)が征夷大将軍となられた。
山名家は三か国を拝領して喜悦の眉を開かれた。
赤松播磨入道(満政)の子の三郎(教政)は、内野合戦で討死した満則の孫である(内野合戦は、山名満幸らが幕府に対して起こした明徳の乱(明徳二年、1391)の際の合戦)。旧功を思し召されたのか赦免されたが、嘉吉三年(1443)に播磨の牢人どもが引き立てて国を討ち従えようとして、ついに叶わず、有馬郡で腹を切った。