− 所々合戦の事・その1 −
勝元は、「一色が退いたうえは、かねてから内談しておいたとおり、公方を警固いたそう」と言って、翌日出仕し、御旗・竿を申し下し、四足の御門に御旗を揚げて、用心厳しく人の出入りを禁止した。それから一門・他家の人々を召集して評定をおこない、軍勢の手分けをおこなわれた。
まず大手口の北は、薬師寺の与一兄弟(細川元興・賢氏か)に摂州衆を付け、大和衆を加勢として、太田垣の前に向かわれた。
大手の南の実相院は、香川・安富に讃岐衆を付け、長塩・奈良・秋庭の人々と武田勢も指し向けて、舟橋より上を攻めることになった。
舟橋より下へは、細川下野守、丹波守護内藤備前守、赤松伊豆守貞村を向けられた。
百々の通りは、三宅、吹田、茨木、芥川等の諸侍に仰せ付けて、能成寺を南に向かい、平賀のところを攻めさせることになった。
安居院大宮は安富民部(元綱)の手勢六千余騎。
世保五郎(政清)と京極六郎(持清)、武衛(斯波)義敏の衆は、十王堂を下って花開院塩屋の宿所に向けられた。
また、中筋花の坊の通りには、細川右馬入道(持賢)に土佐衆を付け、「寺内から典厩の笠懸の馬場を経て、相国寺の延寿堂を南へ討って出て、花の坊と集好院を焼き落とせ」と、命じられた。
あちこちにこのように押し寄せ、大手の薬師寺与一の攻め口で鬨の声があがったら、同時に攻め入ることを示し合わせた。
五月二十六日寅の刻(午前4時頃)、大手口から太鼓を鳴らし、どっと鬨の声をあげたのを合図に、諸方一斉に討ち入った。
山名方でも、垣屋越前守、嫡子二郎左衛門、同越中守、子息孫左衛門、二男平右衛門、同駿河守、同平三、田原持ノ瀬、山名一族では、摂津守、伊豆守、左馬允、金沢、大坂、宮田ら一万五千人が実相院正実坊へ馳せ向かい、香西、安富、武田と戦った。
その南の太鼓堂前は、一色方が押さえていた。舟橋口は、美作修理大夫(山名教清)、同因幡守護(山名勝豊)、ならびに佐々木高頼が押さえていた。
大手の太田垣の元へ、加勢としてその一族の同田公肥後入道宗理、同美作守、同能登守、三番衆等が向かって防ぎ戦ったが、去る正月に軍勢が皆国へ下って小勢だったため、結局破れて退いた。それを見て寄せ手が火矢を射て構えを焼き払ったので、どうにもできずに芝の薬師に退いた。そこで、備後の勢を加勢として向けられた。
花の坊は、義就の大和衆・熊野衆が固めていた。
大宮口は、山名入道(持豊)の嫡子伊予守教豊と土岐成頼、それから二番衆の佐々木一族がこれを固めていた。
二十六日の合戦は山名方がさんざんに負け、塩治の宿所も焼き払われ、南の水落の寺、花の坊、集好院、花開院もたちまち灰燼となってしまった。煙の中、炎の中もいとわず、敵味方が入り乱れて兵刃を交えて攻め戦った。
細川方は、御霊合戦の恥をそそごうと、歯を食いしばって攻め戦った。追い出せば攻め入り、攻め入れば追い出すことが続いた。