− 畠山の事・その4 −
やがて、御台(日野富子)が訴え申されたため、「義就のことは赦免する」との仰せがあった。入道はこのうえなく面目をほどこし、すぐに熊野に伝えた。義就の長年の鬱憤は一時に晴れて、十一月二十五日に上洛した。道中の行粧は列を引き、馬前は一騎当千の士卒五千余騎が守って、千本の地蔵院に着陣した。
間もなく出仕を遂げられ、ただちに山名入道の元に行って、「このたびそれがしが出仕できたのは、御芳志のおかげです」と、喜びながら頭を下げた。山名も、「佐殿の御上洛のことは、我が身にとっても大慶」と祝い、夜通しの酒宴を催された。
その朝、義就の宿所であった地蔵院の門の扉に、落書があった。
右衛門佐 いただく物が二つある 山名が足と御所の盃
こうしてこの年も暮れて新玉の年立ち帰り、文正の年号をやめて応仁に改められた。
内裏では元日の政と朝拝の節会を行い、公方の元にも三管領(斯波・細川・畠山の三家)四職(山名・一色・京極・赤松の四家)を初めとする近習外様の人々が、色とりどりの装いで集まった。
恒例だったので、椀飯(おうばん。将軍家に大名が祝膳を奉る儀式)は今の管領の政長がおごそかに勤めた。
翌日二日の朝から管領の御成始めだったので準備をしていたところ、山名の讒言があったためか、「思し召されている子細があるので、明日の御成りは行わない。しばらく出仕しないように」と、仰せ下された。
その時、政長は述懐して言った。
「それがしは、この四五年、八度の晴儀を第一と勤め、奉公に励んできた。御感に預かることはあっても、どうして勘当されなければならないのか。まったく心得難い。」