− 絶海中津と大内義弘・その2 −
絶海は、また言った。
「たびたびの忠節のことは、天下に隠れのないことです。それで、恩賞も世に勝れた厚いものでした。少弐退治のことは、上意に深く背いたために退治されたのですから、上がどうして彼を贔屓されることがありましょうか。一つの事に二つの御沙汰があるはずはありません。ただ仲間うちの謀(はかりごと)として、『京都から仰せ下さった旨がある』と言って九州の国人を誘った事を、どうして上が御存知ありましょうか。
また、両国を召し離されるというのは、そのようなことを仰せになったことはまったくありません。それを拝領すべき人もいません。それなのに、世の噂を信じて上を恨みたてまつるのは、あまりに軽はずみです。
また、予州(大内満弘)の討死の後、『上洛するように』とたびたび仰せ下されたのに参洛が延びのびになっているため、忠賞のことが延引しているのです。これは深く御恨みすべきことではありません。
京都で討たれようとしているなどということは、そのような沙汰はまったくありません。もしもそのような趣きがあれば、たとえ上意であろうと、僧の身でありながらどうしてこのような籌策を致しましょうか。いろいろお恨みになるのには理由があるようですが、その忠がかえって不忠となりましょう。
范蠡(はんれい)は越王勾践に仕えていましたが、呉王と戦って敗れ、越王は生け捕られて恥辱を受けました。范蠡は口惜しく思い、出入りに胆を嘗(な)め、寝るときは戈(ほこ)を枕にしました。その恨みを忘れず、呉王と戦ってついに会稽の恥をそそぎました。そこで越王はおおいに忠賞をおこなおうとしましたが、辞退してそれを受けませんでした。『功なり名を遂げて身を退く、天の道なり』と言って、越を去りました。これこそ賢臣と申すのです。禄を持ちながら上を軽んじたてまつるのは天命に背くことであって、神明仏陀の御加護もあるはずがありません。よくよく慎んでください。」
大内は、
「政道を諌めたてまつるために関東(関東公方足利満兼)も同心することになっています。今、仰せにしたがって上洛つかまつれば、関東との契諾を違えることになります。『来月二日に、関東と同時に上洛いたします』と、お伝えください。」
こう言うと、座敷を立った。
絶海は、「この上は是非も無し」と、同二十八日に上洛され、義弘の申す趣きをつぶさに言上した。