− 享徳の乱・その11(東常縁と斎藤妙椿) −
東下野守常縁は千葉退治のために下総国に下向して、康正元年(1455)から東の庄に住み、あちこちの合戦に勝利をおさめて京都の御感に預かった。ところが、京都で大乱が起こり、常縁の美濃国郡上の城に山名方が攻め寄せて、応仁二年(1468)九月六日に攻め落とされ、同国の住人の斎藤持是院法印妙椿という人がことごとく押領してしまった。
常縁は、関東でこれを聞いた。その場所は常縁の先祖の中務入道素還が承久二年(1220)に初めて拝領した旧地で、代々十世にわたって他人が知行することはなかったのに、常縁の代に至って東国に下向することになり、その間にこのようなことになってしまって、無念至極に思った。
ちょうどその頃、亡父の式部入道景明のために追善の法事を営んだ時に、代々和歌をたしなむ家だったので和歌に託して思いをつづった。
あるがうちにかかる世をしも見たりけん 人のむかしの猶も恋しき
浜式部少輔春利がこれを聞いて哀れと思い、京都に手紙を送った時に、兄の浜豊後守康慶の元にこの歌を書いて送った。康慶はこの歌に感じ、歌を好む人々に見せては噂したので、斎藤妙椿にもこの歌のことが伝わった。
妙椿は、「常縁は、以前から和歌の友である。関東に居住している間に本領がこのようなことになってしまって、さぞ無念に思っていることだろう。自分もかねてから歌の道の数奇ゆえ、情け無いふるまいはできない。常縁が歌を詠んで送ってくれれば、所領は元どおり返却しよう」と、康慶に言った。康慶は舎弟の春利に手紙を送り、この旨を知らせた。
春利はおおいに喜んで東野州(東下野守常縁)のもとへ行き、舎兄の豊後守の手紙を取り出して、「御覧ください。このような乱世の末代でも、都には優しい人がいるものです。目に見えぬ鬼神をも和らげるのが和歌の道とうけたまわっております。お詠みになった歌を、一首送ってごらんになってください」と言った。
常縁はもともと歌がうまかったので、十首の歌を詠んで春利に渡した。春利は、それを取り次いで美濃国へ送った。
ほり川や清き流れをへたてきて 住みがたき世を嘆くばかりぞ
いかばかり嘆とかしる心かな ふみまよふ道の末のやどりを
かたばかり残さむ事もいさかかる憂き身は何と敷島の道
おもひやる心のかよふ道ならで たよりも知らぬふる里の空
たよりなき身を秋風の音ながら きくも恋しき故郷の春
更にまたたのむに知りぬ憂かりしは 行末とをき契りなりけり
木の葉散る秋の思ひよあら玉の春にわするる色をみせなん
君をしもしるべと頼む道なくば 猶ふるさとやへだてはてまし
みよし野になく雁金といざさらば ひたふるに今君によりこん
わか世経むしるべと今も頼む哉 みののお山の松のちとせを
返し 持是院妙椿言の葉に君が心はみづぐきの行く末とをらば跡はたがはし
同じ時、康慶の元につかわした歌 常縁和歌の浦や汀のもくづもくづにも 猶数ならぬ程をみえぬる
霧こめし秋の月こそよそならめ かざしににほへふる里の花
返し 康慶わかの浦や渚のもくづもくづにも みえずよみかくたまの光に
かへりこん君が為とやふるさとの花も八重たつ錦なるらん
この年の二月二日からこのようなやり取りをしていることが上聞に達したのでお許しがあり、下総国には子息の縁数をとどめて、四月二十一日、東野州(東下野守常縁)は上洛した。五月十二日に持是院妙椿に対面して本領を受け取り、所領に入ったので、妙椿のもとから、世の中をとおくはかれば東路に いま住ながらいにしへの人
使いを立てながら返し 常縁よの中を遠くはからばけふ迄の君が言葉の花にをくれじ
また領地より妙椿へ送る 常縁故郷の荒るをみてもまづぞ思ふ しるべあらずばいかがわけこむ
返し 妙椿此ころのしるべなくとも故郷に 道ある人ぞやすく帰らん