− 明徳の乱 −
明徳二年(1391)の冬、山名陸奥守氏清が逆心を起こし、南帝の勅命と号して御旗をあげ、一門を催して京都に攻め上った。
京公方(義満)が十二月に御動座された由、飛脚が到来した。鎌倉殿も京都に助力するために、明徳三年二月四日、佐々木近江入道の宿所へ向かわれたところ、去年の十二月晦日に山名氏清は討ち取られ、天下太平となったとの飛脚が到来した。
四月二十二日、上杉房州道合(憲方)は重病のため管領を辞し、子息の憲定を名代に任じられた。
この年、京都から、「陸奥・出羽の両国を鎌倉の御分国とするように」と、仰せ下された。「これはただごとではない。八幡宮の御恵みであろう」と、長いこと宮寺の修理をしていなかったのを御再建することになった。
同十一月二十日、仮殿に御正体を御遷宮。
応永元年(1394)十月四日、道合(上杉憲方)死去。
この年の正月、京公方(義満)御拝賀。三月二十九日、御落髪され、義持公が御相続されて征夷将軍に成られたまう。