鎌倉大草紙3

− 小山若犬丸の乱 − 

 至徳二年乙丑(1385)三月、新田相州が上州、武州に陰謀の廻文を送って、兵を催された。

 梶原美作守が新田相州を代官二人に召し捕らせ、また、岩松治部少輔入道法松が新田の安養院の別当と寺僧一人をからめ捕った。

 至徳三年(1386)五月七日、小山若犬丸(隆政)が討って出て祇園の城に立て籠もり、近隣の郷を押領した。当国の守護、木戸修理亮がただちに押し寄せ、ふかえ山に陣を取った。若犬丸は逆に攻め寄せて合戦し、木戸はたちまち敗北に及んで足利に退いた。

祇園城(小山城)本丸跡。城の鎮守として祇園社(現・須賀神社)をまつったことから祇園城と呼ばれるようになった。

祇園城址に残る空堀

 そこで、七月二日、鎌倉殿(氏満)が御発向になり、古河城に御逗留された。

 同十二日(一書に十三日)、若犬丸は没落して行方をくらました。あちこち探索したが、国中が若犬丸に通じており、どこに逃げたのかわからなかった。

 十一月、鎌倉に御帰陣された。

 嘉慶元年丁卯(1387)五月十三日、古河の住人野田右馬助が囚人を一人召し捕って連れて来た。この男が、「小田讃岐入道父子が小山若犬丸に同心して若犬丸をかくまっている」と白状した。この小田入道恵尊(孝朝)は、先年小山を退治した際に先手となった忠功の人である。何の恨みがあって敵と同心したのかと疑いながら、六月十三日、小田の二人の子を召し預かられた。

 七月十九日、上杉禅助(朝宗)を大将として、常陸の小田城をお攻めになった。

 小田、ならびに、子息二人と家老の信太某は小田を落ちて男体山(常陸国宍戸)に立て籠もった。この城は高山で、力攻めはできそうになかった。

 十一月二十四日から合戦したが、勝負がつかなかった。

 鎌倉殿(氏満)から海老名備中守を使者として、「お許しになるから城を出るように」と仰せ遣わした。そうしたところ、翌康応元年五月二十二日、小田と子息孫四郎は城を出た。嫡子の太郎は、那須越後守に預けられることになった。

 同十七日の明け方、再び攻め寄せた。小田の家来百人余りは打ち負け、その後城中に火をかけ、焼き払って攻め落とした。


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