藤岡の城主佐渡守殿と榎本の城主大隅守殿は、宗綱公と同じく水戸の城主佐竹義宣公の御旗本であったが、心変わりして両人とも小田原の北条氏直公の旗本となった。
宗綱公はこれに御立腹されて、両城主を攻めようと御内談された。
譜代の侍の赤見太郎と富士源太に仰せ付けられ、夜討ちの相談をされていたところ、山上藤七郎を大将とする血気の若侍三十六人が抜け駆けして、夜、榎本城の大手口に押し寄せて鬨の声を上げた。
城中は突然のことだったので慌てふためき、そこに討って入ったので城は既にあやうく見えたが、やがて夜明け方になり、佐野からの寄せ手が小勢なのに気付いて、城中は気を取り直して戦ったため、藤七郎たちは残り七人になるまで戦ったものの、そこであきらめて戻って来た。
それをお聞きになって宗綱公は、「法度の抜け駆けをしたうえ、勝利もできず、侍どもを大勢討たれてしまった。けしからん」と言って、御立腹された。
藤七郎は面目を失って、犬伏大庵寺で切腹しようとしたが、家老たちが不憫に思い、宗綱公に取り成したためお許しになった。しかし、その間に藤七郎は切腹してしまっていた。
藤岡へは津布久弾正と竹沢山城守を大将として、これも夜討ちすることになり、松本丹波に、「貴殿は古河藤岡の物見なので、藤岡の城の風上に回って在家に火を付けよ。その光を合図に押し寄せることにする」と、仰せ付けた。
その夜、松本丹波がしのんで行ったが、藤岡でも佐野からの夜討ちがあるのではないかと警戒していたため、丹波は火を付けるところを発見されてしまった。
大勢に取り囲まれて難儀に及んだが、丹波はその日もいつものように下人に弓を持たせていた。丹波は、ふだん宗綱公の御前で弓を射ると常に的の真ん中に当てるほどの弓の上手で、二十間先に下げた糸を射切るほどの腕前であった。佐野の御家中は言うに及ばず、近国一の弓の名人であった。
その弓を取って射たので、矢一筋に二人を射殺し、近付いて来た敵は切り払って引き返して来た。
夜明けに近かったので藤岡勢も城から討って出て、佐野からも押し寄せ、只木新居の原で両方入り乱れての合戦になった。三時ほど合戦し、藤岡勢は多数討ち死にしたため、残る手勢はさんざんに負けて退いたという。
その後も藤岡と榎本の城主とはたびたび合戦に及んだが、佐野方は一度もおくれを取らなかった。
竹沢と津布久は比類の無い功名を上げて、両人とも宗綱公から感状をいただいたという。
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