応仁の乱

 応仁の乱が起こる前は、足利義教が家臣の赤松満祐に殺害された嘉吉の乱によって将軍の権威が失墜しており、それに伴って守護家の相続争いも激化していた。

 三管領(斯波、畠山、細川)のうちでは、斯波・畠山両氏は内紛によってそれぞれ二派に分裂し、従来どおりの勢力を維持していたのは細川勝元のみであった。

 嘉吉の乱の戦功で強大化した山名持豊(宗全)と細川勝元とが幕府の覇権を争う情勢となり、各家の対立する勢力が両者の元に結集して二大勢力が形成された。そこに将軍足利義政(写真左)の後継をめぐる弟義視(よしみ)と実子義尚の相続問題が結び付き、両者は一触即発の状態となった。

足利義政の木像 御霊神社 応仁の乱勃発地

 文正二年(1467)正月十七日の夜、家督をめぐって畠山義就と対立していた畠山政長が自邸を焼き、兵約二千を従えて御霊神社(写真中央)の森に布陣した。畠山義就は、翌十八日早朝、兵三千余を率いて畠山政長に攻撃をしかけた。

 義就には朝倉孝景、次いで山名持豊が加勢したが、政長の頼みの細川勝元がこの時点では動かず、終日の合戦の末に政長が敗退した。これが応仁の乱の始まりであった。

 三月に年号は応仁と改まり、細川・山名両陣営とも戦備をととのえて、五月から上京を中心に全面的な戦闘に入った。

 東軍(細川方)は幕府を押さえていたが、西軍(山名方)も義視を擁して幕府に似た政治機構を備えて対抗、京都を戦場として、東西二つの幕府の抗争という様相を呈した。

 文明五年(1473)に持豊と勝元が病没すると覇権争いの色彩は薄れ、翌年四月に両軍は講和。文明九年(1477)、西軍の大内政弘が幕府に帰降して西軍は崩壊、京都の戦乱はひとまず終息した。

 乱ののち、幕府・守護体制と荘園制は崩壊に向かい、幕府は山城を中心とする政権に転落して、守護も多くは下剋上で没落、時代は戦国時代へと向かう。

参考文献:日本史広辞典(山川出版社)



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