− 金ヶ崎落城 −
君(後醍醐院)は准后(准后三位局藤原廉子)と女房、両三人だけで花山院殿におわしたが、その四面を武家の指図で警固させた。「去る元弘元年の秋、笠置から六波羅へお入りになったのでさえ思いの外のことだったのに、御一代のうちにまたこのようなことになるとは、何ということか」と、万人は嘆き悲しんだ。そのありさまは、日月を失ったかのようであった。
「今度はどこの国に御幸されることになるのだろうか」などと取り沙汰していたところ、ひそかに花山院殿を出られたので、洛中はたいへんな騒動となった。
「こうなったからには、京の内からも御敵が現れよう」と、急いで東寺へ警固の兵を遣わし、人々は兜の緒を締めて将軍の御所へ馳せ参じた。
すると、少しも驚かれる様子はなく、宗徒の人々に御対面になって仰せになった。
「このたびは、君が花山院におわすばかりに、いつまでも警固申し上げなければならなくなって、武家にとってはもってのほかの煩いであった。先代(北条高時)の時のように遠国に遷し奉れば恐れあるところで迷惑していたところ、今、退出されたのは大儀の中の吉事である。きっとひそかに畿内のうちに御座されているのであろう。御進退を叡慮に任せ、自然に落居すれば都合のよいことである。運は天道の定めるところである。浅知恵の強弱でどうこうなるものではない。」
これを聞いた人々は、
「まことに天下の将軍、武家の棟梁にておわす御果報を今さら言うのも愚かではあるが、大敵の君を逃したてまつりながら、少しも驚かれない。不思議なことだ。」と、言い合った。
やがて、君は大和国穴生(あなふ。賀名生)という山中に御座されていると伝わって来たので、「地名と実際が合わない」と、人々は口々に言った。
そうしたところ、金ヶ崎は翌年建武四年(1337)三月六日に没落した。
義貞はそれに先立って囲みを出て、子息越後守(新田義顕)は自害し、一宮(尊良親王)も御自害された。春宮(恒良親王)は武士が迎えたてまつり、洛中へ送った。それを見た上下の者は、「昔も今も、このような事は無かった」と、涙を流さない者はいなかった。
この城では兵糧が尽きた後は馬を殺して食べ、二十日あまり堪え忍んだとうけたまわっている。生きながら鬼類の身となり、その後生が推し量られて哀れである。
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| 金ヶ崎城・二の木戸跡/太平記には、落城前に兵糧が尽き、城兵がここで死者の肉を口にして戦う凄惨な描写がある。 | 尊良親王陵墓見込地/金ヶ崎城内にあり尊良親王の自刃の地に比定されているが、京都市内に既に陵墓が造られていたため、ここは墓所見込地となっている。 | 絹掛の崎/気比大宮司が、ここから小舟で恒良親王を脱出させたと伝えられている。親王は落城後に捕らえられて京都に送られ、のちに殺害された。 |
こうして、東西南北の御敵は将軍の御旗の向かうところに誅罰踵(くびす)をめぐらさず、日を経るにしたがって静謐となった。