梅松論44

− 楠木正成のこと −


 湊川の合戦で敵を破り、御下向の際にも陣を取った兵庫の奥の御堂を御陣とした。

楠木正成首塚 正成は高尾張守の手の者が討ち取ったので、首を持参させた。実検したところ、間違いなく正成であった。(「高尾張守」は流布本の誤りで、古態本では「高越後守」となっている(綾茂直人さんからの御教示による)。高越後守は、師直の弟の師泰。)

 写真は,観心寺(河内長野市)境内の楠木正成首塚.湊川の合戦ののち、正成の首級は観心寺に送り届けられ、ここに首塚として祀られた。観心寺は楠木家の菩提寺で、金堂や建掛塔(たてかけのとう)など、楠木正成が建立した建造物がある。

 哀れなことである。去年の春、将軍(尊氏)と下御所(直義)の御両所が兵庫から九州へ御下向された際、それが京都に伝わって叡慮も快いものだったので、諸卿は一同に、「これでもう何事も起こるまい」と、喜び申し上げた。

 その時、正成は次のように奏聞した。

「義貞を誅伐され、尊氏卿を召し帰されて、君臣和睦してください。御使いとしては、正成が行きましょう。」

 人々はこれを聞いて、「不思議なことを申すものよ」と、さまざまに嘲弄した。すると正成は、涙を流しながら再び申し上げた。

「君が先代を滅ぼされたのは尊氏卿の忠功です。義貞が関東を落としたのは間違いのないことですが、天下の諸侍はことごとく尊氏卿につきました。その証拠に、武家は敗軍に及んだのに在京していた者まで連れて遠行し、勝ちいくさの君を捨て奉りました。これによって、徳の無いことをおわかりください。つらつら事情を案ずるに、両将(尊氏と直義)は西国をうち靡かして、ひと月もたたないうちに攻め上られるでしょう。その時は、どう考えても防ぎ戦う術(すべ)がありません。上に千慮あるとも、武略の道については正成の申し上げるとおりにしてください。すぐに御決意ください。」

 まことに遠き思慮を持った勇士と思われた。

 このように申し上げたものの、討手として尼崎に下向し、逗留の間に京都に申し上げた。

「このたびは、君の戦(いくさ)は必ず敗れるでしょう。人の心から推測するに、去る元弘の初め、ひそかに勅命を受けて急に金剛山の城に籠もった時、自身一個の計らいのようにしながら国中を頼んで功をなすことができました。その際、皆が志を君に通じ奉っていたためであると知りました。ところがこのたびは、正成が和泉・河内両国の守護として勅命をこうむり軍勢を催したのに、親類一族ですら難渋している様子です。このようなありさまですから、国人土民がどう思っているかもわかるというものです。天下が君に背いていることは明かです。これでは正成が生き存えても無益です。まっさきに命を落とすことにいたしましょう。」

 最後の振舞いがこの言葉に符合していたので、「どんな賢才武略の勇士であっても、このようなことを申す者はめったにいないだろう」と、敵も味方も正成のことを惜しまない者はいなかった。



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