改革終わり日が暮れて

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改革はいつの世も
庶民置きざり
 

    頭狗肉の小泉改革
「羊頭を掲げて狗肉を売る」〜羊の頭を見せて、犬の肉を売ること。
つまり「言ってることと、やってることが違う」という意味。

 「改革なくして成長なし!」「官から民へ!中央から地方へ!!」。
小泉純一郎総理大臣の華々しい打ち上げ花火に日本国民の大部分が拍手喝采、麻酔をかけられたように「90%に達する支持率」を与えてから5年以上経過したが「改革の成果」はどうだったのか。

「道路公団の民営化」に象徴されるように、政府と与党の大激論の末に落ちたところは、大山鳴動ねずみ一匹、「独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構」という特殊会社が一社増えただけで「一件落着!?」。

「採算性の悪い道路は国が造る」ということで、結局は「予定された9千キロメートルを超える高速道路」は全部つくることになり、膨大な借金の返済は50年、60年の先送り。これは改革ではなく「焼け太り」である。

●さらに驚くサプライズは「郵政三事業の民営化」だ。
「民で出来ることは民へ」がねらいとか。その趣旨は理解できるが思いつきともいえる粗雑な提案だとしか言いようがない。

「郵便事業」「郵便貯金」「簡易保険」という、事業分野の異なるものを十把一からげにし、さらに「日本郵政株式会社」いう曖昧な企業体を新設して、「一つの持株会社」の支配下で管理しようというのだから、まったく乱暴な話しである。

しかもその株式は、発足当時は100%、10年経過した後も「郵貯銀行」「簡易保険会社」の株式は30%以上を国が保有して国の支配下に置こうとしており、とても「民間企業」とは言い難い内容である。

具体的には、2007年10月1日に郵便局会社、郵便事業会社、郵便貯金銀行、簡易保険会社の4社を持つ「持株会社」に移行することになっている。

さらなる悲(喜?)劇は政府と与党の華々しい「内輪の大喧嘩」だ。
「議員内閣制」という議会政治の大原則を無視して国民の耳目を集めようという手法は、国政に混乱と不信の増大をもたらすだけであり、百害あって一利なし。まさに「サプライズ総理」である。

その議論の内容も「改革」とはおよそかけ離れたところで「丁丁発止」と渡り合っているのだから,国民は白けるばかりだった。

このように政府の提案自体が「改革」とは名ばかりで、企業としての継続性や採算性の検証もおざなりの「やっつけ仕事」であるから、とても支持できるような代物ではない上に,与党が目論んでいる「改革案」なるものも既得権益を温存し、さらにそれを強固な仕組みに変えようというものだから、多くの国民が望んでいる「真の改革」とは程遠いものである。

それでも「郵政改革」に燃える男・小泉総理は断固正面突破で衆議院を通過させたが、参議院では否決されるという大失態に終わった。
そこで小泉は「衆議院解散」という「禁じ手」ともいうべき大技で巻き返しをはかり、総選挙では「刺客」を送り込んで「反対派の議員」を追い落とすなど、圧倒的な大勝利を収めた。

そして目論見どおりの「郵政3事業改革法案」は可決された。
この改革が国民生活に与える影響はどうなるのか、結果が出るのは10年後になるのだろうが、早くも「民業圧迫」の声が随所で上がり始めている。
政府・与党は頭を冷やして出直してもらいたい。

●効果的な「分社化案」を提示しておきたい。
1.全国一率のユニバーサルサービスを求められる「郵便事業」は、宅配事業などをシステム的に行っている民間 の「物流業者」や「コンビニ業者」などを糾合して 「郵便物配送センター(仮称)」を第3セクターとして設立し、全国ネットの「集配業務」を行う。

2.「郵貯」「簡保」などの金融、保険業務は、それぞれを「地域分割」 し、業容を圧縮したうえで地域に密着した事業展開をはかれば、「民業圧迫 」というそしりは免れるだろう。

現在、民間の金融機関(全国銀行協会加盟)約130社の融資運用資金総額は約650兆円。その市場に「郵貯・簡保」が保有している約300兆円
という巨額の資金が投入されれば、金融市場がパニック状態になることは火を見るよりも明らかである。

      

そもそも「小泉改革」の始まりは、地方行政改革大綱及び平成13年6月に成立した特殊法人改革基本法に基き、同年12月に閣議決定した「特殊法人等整理合理化計画」を実行することであった。
ところが、この計画は官僚の抵抗を排除できずに成果を上げることが出来なかった。

上記の計画で「廃止」が決まった「簡易保険福祉事業団」など7法人は名称を変えて「独立行政法人」として全部生き残っているのである。
同様に「廃止・統合」が決定されていた「政府系金融機関」の改革も手がつけられず、今日を迎えている。

小泉総理は平成18年の年頭に「小泉改革の総仕上げ」と称して「政府系金融機関の改革」をブチ上げたが、今もってまとめきれず、結局はポスト小泉内閣に先送りとなってしまった。

小泉総理が在任中に行った「改革の光と影」については後で詳述するが、国民生活の上に「格差問題」が負の部分として、大きくのしかかってきていることは紛れもない事実である。

◆小泉「偽装改革」の証言
「改革なくして成長なし!!」「官から民へ、中央から地方へ!!」「自民党をぶっ壊す!!」と叫んで、圧倒的多数の支持を得た「小泉改革の欺瞞性」がぼつぼつ指摘されるようになった。検証しておこう。

 道路公団の巻(ボタンを押す)




   ◆ 改革のはじまり〜飛鳥時代

わが国では飛鳥時代(604年4月)に聖徳太子によって制定された「憲法17条」が法治国家(律令制)としての礎となり、それ以来多くの改革が行われてきたが、その結果が国民の生活にどのような影響を与えたのか?についての検証はほとんどなされていないようである。

「改革の目的」は政治や行政の枠組みを効率化し、税金のムダ使いを排して国民の福祉を向上させることにあり、政治家の利権や官僚の既得権を肥大化させるものであってはならない。

「憲法17条」はそのことについて具体的に明文化されているのでご紹介しておこう。
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  ★ 憲法十七条(簡約)
 1 和を大切にし,人と争わないように心がけなさい。
 2 あつく三宝(さんぽう)を敬え。
  三宝とは,仏・法・僧であり,仏教を信仰しなさい。 
 3 天皇の命令には必ず従いなさい。
 4 すべての役人は礼を守りなさい。礼は民を治め官人の序列をも
 維持するもの。
 5 私利私欲を捨てて,民の訴えを公正に裁きなさい。
 6 善と悪をよくみきわめて対応しなさい。
 7 自分の任務をきちんと行い,他の職務に干渉してはいけない。
 8 役人は朝早く出勤し,夜遅くまで働きなさい。
 9 善悪は義の根本である信(誠実さ)のあるなしに関係している。
心がなければ何事も成功しない。
10 人それぞれに意見が違うのはあたりまえなので,違うからといってむやみに怒ってはいけない。
11 部下の仕事のできをきちんと見極めて賞罰の判断をしなさい。
12 地方の役人は民から税をとってはいけない。
13 役人は同僚や上司の仕事の内容も知っていなさい。
14 役人は他人をうらんだりねたんだりしてはいけない。
15 役人は私情を捨てて,正しく職務を遂行しなさい。
16 民を労役に使うときは,時節をよく考えなさい。農業の忙しい時期に招集してはならない。
17 大事なことは一人で決めず,多くの人々とよく議論してから決めなさい。
  *****************************
この時代は蘇我氏をはじめとする、力を蓄えた豪族間の権力闘争が絶え間なく行われ、それが天皇家との権力争いにまで発展して政治が混乱していた。

このような背景の中で、聖徳太子は「天皇中心」の政治体制を構築するために上記憲法を制定し、天皇を敬い、国家の役人としての心構えを豪族たちに示した。

ただし、実質的に「律令制国家」の形が定着したのは、大宝律令が完成した701年頃からであると言われている。

このように、「憲法」は「役人の行動規範」を決めたものであり、国が国民を制約しようとするものではない。
現在起こっている「改憲論」は、「国民の思想や行動」に縛りをかけようとしているようであり心配である。

 ★天皇中心の政治への転換点〜大化の改新
大化の改新は飛鳥時代に発布された「改新の詔(みことのり)」に基く政治改革であり、天皇の宮を飛鳥から難波長柄豊崎宮(現在の大阪)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から、天皇中心の政治への転換点となった。

改新の背景として次のような説が有力であると言われている。
中臣鎌子(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による政治専横に憤り、天皇家へ権力を取り戻すために、まず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触した後、中大兄皇子(後の天智天皇)らと謀議を重ね、クーデターの計画を練った。

そして、皇極天皇の645年6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌子らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺し、併せて蘇我蝦夷も自殺に追い込み、蘇我体制を打倒した。

この蘇我氏本宗家滅亡事件を、この年の干支にちなんで乙巳の変(いっしのへん)という。
この直後、皇極天皇は退位し、軽皇子が天皇位についた(孝徳天皇)。

 改新の詔の主な内容は以下の4条からなっている。
第1条・公地公民制
   皇族・豪族が持っていた土地・人民をすべて国のものとする。
   豪族に 食封をを支給する。
第2条・国郡里制
   京師、畿内、国・郡・里という地方をおさめる組織をつくり、
   中央集権的国家を目指した。
   朝廷から国司の派遣、地方の豪族を郡司に、村の有力者は
   里長とした。
第3条・班田収授法
   戸籍・計帳を作って民に田を与えた。
   (6歳になると口分田として土地が与えられ、死ねば国に返す。
   口分田には課税された)
第4条・租(米)・庸(労働の代わりに布)・調(特産物を納める)など、      公民に税や労役を負担させる税制度を制定。

この詔は「土地と人をすべて国のもの」と規定し、国・地方を治める国づくりの組織を明確にした。

また、庶民に対しては戸籍や計帳を作って「田」を与え、それに見合う「租税や労役」を課したが、庶民にとっては「自立の機会」が保障されたために、豪族に隷従する生活から解放された。

また、詔の4カ条には無いが、その他の制度に対しても大きな改革が行われている。

1. 薄葬令
 今まで自由に作れた陵墓を、身分に合わせて作ることが出来るよ
 うに規定を修正した。
 この薄葬令によって古墳時代は事実上終わりを告げることになっ
 た。
2. 伴造(とものみやつこ)、品部(しなべ)の廃止
 従来、世襲制の役職であった「伴造・*1」、「品部*2」を廃止し、
 特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止した。
 併せて「八省百官」の制定により官僚制への移行が行われた。
 (官僚制 の源流となる)

  [*・1] 伴造
 伴(とも)およびその支配下の農民集団の統率・管理者。
 軍事に携わる大伴・物部(もののべ)、祭祀(さいし)に携わる
 中臣(なかと み)・忌部(いんべ)、食膳の事に携わる膳(かしわで)
 など。

 部民制創設により、本来伴である渡来技術者集団の統率者が、伴造と して部(べ)を率いて上番する体制が作られ、旧来の伴がその支配下の 農民集団とともに部に組織されるようになると、伴造は実質的には部の管理者とされるようになる。

  [*・2] 品部
(1) 大化の改新以前、大和朝廷に直属した技術者集団。
   朝廷に勤めて労役に従事する者と、特定の産物を貢納する者
   とがあった。
(2) 律令制下、諸官司に属した技術者集団。
   大化の改新以後、(1)は廃止されたが一部分は残され、官司に
   属された。
   図書寮の紙戸、雅楽寮の楽戸など。(三省堂:国語辞典より)
    
3.大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の廃止
 大臣、大連は廃止になり、代って「太政官」が置かれ、
 左大臣・右大臣に置き換えられた。
 これによって、官職に就くための「姓の制約」が無くなった。
4. その他
 「官位制度の改定」、「礼法の策定」、「習俗の改革」など、
 諸制度の改革が行われたといわれている。 

なお、上記については疑問点や史実との矛盾点も指摘されているようであるが、ここではその議論は省略する。

いずれにしても「大化の改新」によってとりあえず権力闘争も下火になり、「天皇中心の統治機構」が明確にされて、「民生の安定」に寄与したことは評価すべきであろう。



   ◆私有地を認めた奈良時代の改革

「奈良時代」は710年に元明天皇が平城京に都を移してから、794年に桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの約80年間であるが、飛鳥時代末期に施行された「飛鳥浄御原令」「大宝律令」が、日本国内の実情に合うように多方面から検討し変更されながら、律令国家・天皇中心の中央集権国家を目指した時代であった。
また、天平文化が開花した時代でもあった。

しかし、律令制下の天皇は、政治のすべてにわたって権力を掌握していたために、大化の改新以後も天皇家一族内の皇位争いが続き、それと相俟って豪族や貴族の権力争いも絶えない時代であった。

 ★三世一身法(さんぜいっしんほう)の制定
大化の改新の詔で、律令体制の根幹として位置づけられた「公地公民制」も、人口増加による食料不足と、国防費による財政需要の増加に対応できず、722年に食糧増産を目的として、新たに百万町歩の農地を開墾するという壮大な計画が策定された。(当時農地は全体でも百万町歩はなかったという)

その計画を実現するために制定されたのが、私有地を認めた「三世一身法」である。

主な内容は「灌漑(かんがい)施設を新設して墾田(こんでん)を行った場合は、三世(本人・子・孫、または子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設を改修し使用可能にして墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す」というものであった。

この法律の施行により墾田の実施が増加したのは事実であったが、期限が到来すれば国に没収されてしまうので、農民は積極的な努力を怠るようになり、その効果は20年も続かなかったようである。

  ★墾田永年私財法の制定
上記の問題を解消するために策定された法律である。
743年に発布された勅(天皇による命令)であり、画期的な法令であると評価されている。
  (註:以下は法の現代語訳。誤訳を含む可能性もある:ウイキペディアより)

 天皇が命令する。
これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年)に基づき、期限が到来した後は国が没収していた。

しかし、そのために農民は新たな耕地の開墾を怠けることとなった。
今後は三世一身に関係なく、全ての場合において、永年にわたり私財としてよいこととする。
国司の在任中における申請手続きは、三世一身法に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。
その後に開拓を認める。また、百姓に妨げのある土地の場合は、占有の申請は認めない。
もし許可を受けて3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。
   天平15(743)年5月27日


この法制の効果は施行されて約20年後の765年には、「墾田が加熱しすぎたので、墾田を禁止する」という太政官の符が発布され、772年には、「やはり開墾を認める(ただし百姓が苦しまないように)という太政官の符が発布されている。

豪族や寺院などが私有耕地の拡大に奔走したために、庶民への影響を考慮したものと思われる。これも庶民にとっては善政であろう。



   ◆権力闘争に明け暮れた400年〜平安時代

 平安時代は794年に桓武天皇が平安京に都を移してから、1192年に源頼朝が征夷大将軍に就任するまでの約400年間を指す。

奈良時代に律令政治が花開き、この時代の初期には天皇の親政が行われるが、時代が進むにしたがって、貴族や寺社が勢力を増して専横政治を始めるようになると、中央・地方共に腐敗が横行した。

政変や動乱に明け暮れる権力の移り代わりにより、「律令」も時代の趨勢に合わなくなったために、「関白」などの「令外の官」を設けることで対処したが機能せず、858年に9歳で皇位についた清和天皇のもとで藤原良房が事実上の摂政となり摂関政治の幕開けとなった。

このように皇族出身の貴族たちを加えた上流貴族によって政治が行われるようになると、中央貴族や寺社の私領的性格が強い「荘園」が増え、地方政治を圧迫し、民衆はほとんど顧みられず、政治に不満を持つ下級貴族の反乱(平将門、藤原純友による承平・天慶の乱)などが起こり、盗賊が横行する時代になっていった。

それらを取り締まって政治勢力を増大したのが武士階級であったが、これを契機に権力闘争はますます熾烈になった。

1028年の「平忠常の乱」、1051年〜62年の「前9年の役」、1083年〜87年の「後3年の役」、1156年の「保元の乱」、1159年の「平治の乱」、などによって「院政」の時代に入った。

その権力闘争の中心となった「源・平の確執」がますます高まり、「源平合戦」といわれた「治承・寿永の乱」によって、貴族に代って武士が政治の実権を掌握する時代となり、次の時代に移っていくのであるが、ただ一つの救いは貴族文化が栄え、「かな文字」も発明されて紫式部や清少納言など、後世に名を残した多くの文化人が輩出したことであろう。

平安時代の末期において、貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱などの軍事衝突によって解決されるようになり、これらの内乱で抜群の功績を挙げた平清盛は、武士の身分でありながら異例の栄達を果たし、1167年には太政大臣となった。

これに伴って平清盛の平家一門は主要官位をほぼ独占し事実上、平家の政権が成立した。
「平氏に非(あら)ずんば人に非ず」といわれた一時代であった。

しかし、平家の隆盛は、旧勢力である他の貴族の権益を圧迫し、本来、武士身分である平家への嫌悪感なども手伝って、貴族層を中心に平清盛政権への反感や抵抗感が醸成され始めた。

その抵抗感は1178年、清盛の孫である安徳天皇が即位し、1179年に清盛によるクーデターで後白川上皇が幽閉されるという暴挙によって頂点に達した。

1180年、皇位継承がほぼ絶望的になった後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に、各地で平清盛を中心とする六波羅政権に対する反乱が起こった。
以後1185年にかけて6年間にわたった大規模な内乱、「治承・寿永の乱」である。

この間、反乱勢力同士の対立など、さまざまな紆余曲折を繰り返しながらも、平清盛一族の伊勢平氏政権の崩壊により、源頼朝を中心とした関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結末を迎えて、平安時代の幕が降りるのである。
まさに「奢る平家は久しからず」であった。

このように「権力闘争」に明け暮れた400年間が平安時代と呼ばれたが、およそ「改革なき政権抗争」の一時代であったといっても過言ではないだろう。



   ◆公武並立で始まる鎌倉時代

鎌倉時代は、武士階級が天皇・貴族階級と分離し、新たな支配体制を求めて鎌倉幕府を開き、封建政治を始めた時代であり、日本史上では幕府が鎌倉に置かれていた時代(1185年〜1333年)ということになっているが、成立時期は源頼朝が征夷大将軍(将軍)に任じられて鎌倉幕府を開いた1192年とするのが一般的だとされている。

しかし、朝廷や公家、寺社の勢力も強力であり、初期には支配者としての共通面、相互補完的な側面や対立する面があったようであるが、後鳥羽上皇が「倒幕」を仕掛けて敗退した「承久の乱」によって、朝廷の権威は地に落ち、次第に幕府を中心とする武士に権力が移っていった時代とみることが適切であろうといわれている。

この事件の影響によって、幕府は西国で反幕府側の多くの武家の領地を没収し、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権・北条氏と御家人との信頼関係が強固になり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むことになり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになった。

   ★没落御家人救済のための「永仁の徳政令」
この徳政令は、1297(永仁5)年に9代執権・北条貞時が発令した日本で最初の徳政令である。
元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽脚地を無償で取り戻すことを目的に発令された。

正確な条文は不明であるが、現在では3か条が知られている。
 徳政令の概要
1. 越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止
2−1.御家人所領の売却及び質入の禁止
2−2.既に売却・質流れした所領は元の領主が所有すること。
   ただし、幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や、
   領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を
   続けること。
2−3.非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の
   買得地は年限に関係なく元の領主が領有すること。
3.債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。

と定めたが、1と2−1は翌年に廃止された。
結局これは完全に失敗に終わり、御家人の経済的窮乏が好転するどころか、かえって困窮を推し進めることとなって、武士の幕府への忠誠心を薄れさせる結果となった。

この徳政令は、非御家人の負担による御家人救済策であり、経済的・社会的混乱を及ぼしたとする「否定的評価が高い改革」とされ、歴史的評価は低いようである。

   ★鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代の後期には、元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動し、幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。

朝廷では大覚寺統と持明院統が皇位を交代する両統てい立が行われており、1318(文保2)年に大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の統治を理想とし、鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。

後醍醐天皇の倒幕計画は、1324(正中元)年の正中の変、1331(元弘元)年の元弘の変と二度までも発覚し失敗に終わった。

元弘の変で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。

しかし、後醍醐天皇の討伐運動に呼応した河内の楠木正成や後醍醐天皇の皇子である護良親王らが幕府軍に抵抗し、さらに幕府御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏らが幕府から寝返り、諸国の反幕府勢力を糾合して幕府と戦った。

1333(元弘3)年に後醍醐天皇は隠岐を脱出し倒幕の兵を挙げると、それに呼応して京都では足利尊氏の兵が六波羅探題を滅ぼし、新田義貞が鎌倉を攻めて北条高時ら北条一族を滅ぼして、約148年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。

やはり鎌倉時代も朝廷内の争い、朝廷と幕府の争いなど庶民の生活を無視した権力闘争に明け暮れる時代であった。



   ◆建武の新政で始まる室町時代

室町時代(1338年〜1573年)は、足利尊氏が1336(建武3)年に建武式目を制定し、1338年に正式に京都に幕府を開いてから、15代将軍足利義昭が1573年に織田信長によって追放されるまでの、足利将軍の存続期間を指すのが一般的であるとされている。

室町時代は足利義満全盛期の一時期を除いて、戦乱と無秩序の時代であったが、鎌倉時代以前には見られない、出自不明の農民・商人層が社会進出を果たし、日本史上はじめて人間の顔が見える人物を登場させた時代でもあった。

また、この時代は旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代、つまり「下克上」の時代として捉えることも出来るようである。

その初期は、古代的な天皇親政を理想とする後醍醐天皇と、現状重視の足利尊氏を中心とした勢力が対立した「南北朝時代」であり、その後、義光の時代に国内の安定が見られたものの、幕閣の守護大名が相い争った応仁の乱を経て全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、荘園制度が崩壊して新秩序が成立した235年間であった。

建武の新政は、久しぶりに復活した天皇主導の政権であったので、理想や意気込みは高かったが、時代に逆行することが多く、新たな施策を行うごとに混乱を増すばかりであった。

そんな状況を巧みに批判し、風刺して見せたのが「この頃都にはやる物…」で始まる、世に有名な「二条河原の落書」である。

この落書によると「殺人・夜討ち・放火・強盗」は勿論のこと、違法行為や不道徳行為など「何でもあり」の「無法時代」であったように伝えられている。これは現在の世相と相通じるものがあるようだ。

応仁の乱以降、将軍の権威が失墜すると細川氏などの「三管四職」も没落し、さらに室町時代中期に至って細川氏の勢力が衰退すると室町幕府の諸制度は形骸化していった。

その間、国人と呼ばれる在地支配層が台頭し、互いに整理統合されながら強力な戦国大名として成長、これらが群雄割拠して幕府支配に取って代った。

   ★成長する経済社会
1.生産力を向上させた農業
 二毛作の技術や牛馬耕作、水車などを利用した灌漑施設の整備
 や肥料の進歩などにより、生産力が飛躍的に向上した。
 さらに、農業技術の進歩で集約的・多角的な農業を行い、
 自立農民の成長を促して郷村制の成立をもたらした。

2.手工業の実現で労働者も解放
 農民の自立が進むと、それまで宮廷に属していた労働者も
 解放されて自立し、手工業が一般的に行われて市場が成立した。
 日用品や農具、織物や紙など、今でも各地方の「特産品」と呼ば
 れるものの多くは、この時代に開発されたものが多く、
 生糸を利用した高級織物といわれる京都の「西陣織もこの当時の
 産物である。

3.楽市楽座で商業も繁栄
 農業生産力の向上や手工業の独立は市場を発達させ、
 販売の独占権や免税などの特権を持つ「座」と呼ばれる閉鎖的
 な独占体制は、成長する戦国大名によって自主営業を許す「楽市
 楽座」 に取って代った。

 朝廷と幕府の権力闘争から下克上の世界に変わっていく戦乱の中でも 、強力な戦国大名によってさまざまな改革が行われ、経済の発展と生の向上を実現したことは大きく評価できよう。
その後、織田信長や豊臣秀吉などがそれぞれ天下を統一し、
安土・桃山時代といわれる一時期もあったが、僅か30年ばかりで
徳川家康が取って代わり、戦乱のない社会を作り上げていった。



   ◆太平の御世が続いた江戸時代

鎌倉時代の末期から続いた下克上による戦乱の世の中で、時代の流れは社会の上下にわたって「太平の世」を求める雰囲気が高まった。

そんな時代背景の中で徳川家康は、戦乱で穢れた国土を浄化し、永遠の平和を求めるという「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」を旗印として天下の平定に挑戦し、1603(慶長8)年2月に征夷大将軍となった。

この時から大政奉還する1867(慶応3)年までの約260年間「太平の世」が続くのである。

こうして「武家の棟梁」になった家康は欣求浄土を実現するために、直ちに「百姓を殺してはならない」「百姓の直訴を許す」など、百姓の生活を安定させるための「七か条の覚書」を布令(ふれ)ている。

さらに諸大名を統制するために、1615(元和1)年に2代将軍・秀忠の名で「元和の武家諸法度」を発布し、3代将軍・家光が「参勤交代」や「大建造船の禁止」などを加筆して、19か条からなる「寛永令」を制定した。

その後、代々の将軍が若干の微調整をしているが、上記の19条が武家諸法度の定型となったようである。
ただし、百姓への対応は「百姓は財の余らぬように、不足なきように治むること道なり」を基本とした。

つまり、「生かさず、殺さず」ということだから、百姓の生活が向上することはなかった。

また対外的にはオランダ以外の諸外国とは通商を一切禁止して鎖国政策をとったために、外敵侵犯の脅威も少なく、太平をむさぼることが可能となった260年間であった。

そのために国内の経済成長は遅々として進まず、豪農・豪商による富の偏在が顕著になり、幕府や諸藩ともに財政が悪化したために、「財政改革」を中心とした諸政策の改革に取り組むことになる。

   ★江戸幕府の3大改革
1.享保の改革
1680(延宝8)年、5代将軍になった綱吉は幕閣を寵臣で固め、積極的な政治を行ったが、特に側近の柳沢吉保に対する信任が厚かった。

後世に悪政と誹謗された「生類憐れみの令」に関連して「犬小屋の普請」など、多くの施策についての出費を諸大名に命じたために「犬公方」と誹(そし)られた。

また、大奥の要望で多くの神社仏閣を建立したために、一時的な好況はもたらしたが公儀の財政は危機的状況に追い込まれていった。

そのために「貨幣の改鋳」を実施して一時凌ぎをはかったが、物価の高騰を招くことになり、引き続いて、富士山の噴火(1707年)や江戸・京都の大火、地震などに見舞われて人心を荒廃させた。

「元禄時代」に公民ともに奢侈(しゃし)に流れて疲弊した幕藩体制の安定と強化のため、8代将軍・吉宗がその在任期間(1716〜1745年)を通じて次のような改革を行っている。

(1) 年貢の強化
 農政の安定政策として年貢を「5公5民」に引き上げ、豊作・凶作
 に関わらず一定の額を徴収する「定免(じょうめん)法」を採用して
 財政の安定化をはかった。
(2) 目安箱の設置
 江戸城竜ノ口評定所門前に設置して、庶民の要求や不満の声を
 募った。
 また、投書により貧民救済を目的とした小石川養生所の設置や
 町火消し制度の整備なども行い、諸藩にも踏襲されたという。

その他、新田開発・米価の安定・通貨の統一などの諸改革を行い民
生の安定をはかったが、このことが民間の「お上依存」の体質を強め
無力で腐敗した政治を生むことになった。

このように、法と機構を整備し重視する官僚制的な統治が深耕すると、役人と商人の癒着や腐敗が発生することになる。

2・寛政の改革
 紀州藩士であった吉宗は、国許から連れてきた旧藩士を直参に登
 用し 、身近に使って改革遂行の権力を維持しようとはかった。

「南町奉行」で有名な大岡忠相は勿論であるが、特に信任が厚かった田沼意次は新参旗本の子であったにもかかわらず、9代将軍家重の「御用取次ぎ」を命じられ、10代将軍家治のもとで「側用人」に進み、遠州・相良2万石の城主になると同時に「側用人」を兼務したまま幕閣に入り老中に出世した。

田沼は賄賂・汚職を象徴する政治家としての印象を後世に残しているが、田沼全盛期には「音物(いんもつ:賄賂)」の額や量で、公儀の政治が左右されるほどになったと言われている。

人事の権限は一部の要人に握られ、民間の商業活動から運上金・冥加金を取って公儀の財政基盤にする政策を取ったから、役職を得ようとする武士や利便の供与を狙う商人からの賄賂を断つことはできなかった。

そのように度を越えた風潮の張本人として、武士社会も商人社会も「反田沼」の風潮を強めていった。

また、人事の恣意性は幕府の官僚制を強化し、利潤を求めて次々と紛争を生む民間社会に対応する役人や所管機構を増強したが、期待されるほどの効果は上がらなかった。

吉宗の改革はドラマや物の本での評価は高いようであるが、時間とともに効果が薄れ、持続することはなかったようである。

浅間山噴火に端を発した東北地方を中心とする天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、田沼意次は失脚する。

田沼政治に批判的であった老中・松平定信は、反田沼派大名の同士と改革を進めた。「寛政の改革」である。

定信は吉宗の孫にあたり白川藩主から11代将軍・家斉のもとで老中首座となり、積極的に改革に取り組んだ。

定信は白川藩主時代に飢饉対策に成功した経験もあり、吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。

主な改革は以下のようなものであった。
(1)囲米
 諸藩の大名に飢饉にそなえるために穀物の備蓄を命じた。
また、江戸 の町々にも「七分積金」とセットにして実施が命じられた。
 七分積金は、町々が積み立てた救荒基金で、地主が負担する町入用  の経費を節約した4万両の七割に、幕府からの一万両を加えて基金に した。
 
因みに、この制度はその後の幕府の財政難にもかかわらず厳格に運用されて、明治維新の際には総額で170万両の余剰があり、この資金は東京市に接収されて学校の建設や近代的な道路整備に当てられたという。

(2)棄捐令
 旗本・御家人などの救済のため、6年以上前の債務破棄、および
 借金の利子を引き下げた。
 また、棄捐令によって損害を受けた札差などを救済するために、
 資金の貸付を行ってその経営を救済し、今後も札差事業や旗本・
 御家人への貸付に支障がないように取り計らった。

(3)商人対策
 田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止し、
 特権商人を抑制した。

その他、農業の復興・人足寄場の設置・異学の禁止など多岐にわたって改革を進めたが、賄賂政治の横行は依然として無くならなかった。

その上、緊縮財政で武士・庶民ともに暮らし向きは楽にはならず、その成果は芳しくなかったので定信の「清廉政治」に反発し、「白川の清きに魚も住みかねて、もとの田沼の水ぞ恋しき」という戯れ歌も出る結末となった。

3.天保の改革
江戸後期の天保年間に行われた幕府・諸藩による改革であるが、狭義 には1841年から43年にかけて、老中・水野忠邦を中心に行われた江 戸幕府の政治改革をいう。

天保年間は初期よりコレラや天然痘・流行性感冒などの流行と、全国的な冷害による凶作が広がり、世情は騒然としていた。

1841(天保12)年、政権についた12代将軍・家慶は改革派の結集をはかり、5月12日「享保・寛政の御政冶向きに復する」という天保の改革の上意を出して、信頼する老中首座の水野忠邦に改革の実行を指示した。

質素・倹約の重農主義を基本とした享保・寛政時代への復古を目指したのである。

国内的には一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱といった不安を抱え、対外的にはアヘン戦争モリソン号事件などの不安が幕府を取り囲む中で、経済改革を中心に、綱紀粛正や軍制改革などが実施された。

(1) 綱紀粛正
倹約令を施行し、風俗取締りで芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。

(2) 軍政改革
清国(中国)がイギリスとのアヘン戦争に敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて、薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した。
一方で西洋流砲術を導入して近代軍備を整えた。

(3) 人返し令
幕府の収入の基本は農村からの年貢であったが、貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。
そのために、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、収入源の安定化をはかった。

(4) 金利政策
棄捐令・相対済令の公布とともに、一般貸借金利を年15%から12%に引き下げ、武士のみならず民衆の救済にも役立てた。

その他、物価を安定させるために、株仲間を解散させ、経済の自由化を促進しようとしたが、株仲間を中心とした流通システムが混乱し、景気の後退を余儀なくされた。

また、江戸や大阪周辺の大名・旗本の領地を幕府の直轄地として集中し、幕府の行政機構を強化するために目論んだ「上知(地)令(あげちれい・じょうちれい)」も大名や旗本の猛反対で頓挫したという。

この時代は幕府の権威が低下してきたために、財政のみならず行政面での問題点も多岐にわたり、結果的に改革が煩雑になったので、社会を混乱させたということで「失敗」と判断されている。

一方、同時期に全国の諸藩でも改革が行われているが、改革派と保守派の内部抗争で失敗したケースが多いようである。

成功例としてあげられる「薩摩藩」と「長州藩」は、それぞれ国情に応じた改革を実行し、その成果によって藩の財政は改善され、幕末には「西南の雄藩」と評価されるほどの力を蓄えることができた。



   ★薩摩藩の改革
薩摩藩の財政は、25代藩主・島津重豪のもとで著しく悪化した。重豪の生活ぶりは豪奢をきわめ、金銭を湯水のごとく浪費したという。

重豪が1800年に隠居して子の斎宣の代になると、樺山主税を中心に経費の節減、減税などの思い切った改革を行った。

しかし隠居の重豪は、自分の政策が全面的に否定されたことに激怒して、改革派の厳罰を命じた。
樺山ら13人の切腹、処罰を受けるもの115名という大粛清であったという。

1809年、斎宣は隠居させられて斎興が藩主の座を継いだが、依然として重豪の藩政後見は続いた。

しかし財政の悪化はますます拡大し、文政年間に入ると藩債が500万両という破局を迎えることになる。
これは利息が藩の年収を上回り救いようがないというほどの危機的状況であった。

さすがの重豪もついに兜を脱ぎ、斎興と相談して側用人・調所(ずしょ)広郷に財政改革を一任した。
ここから薩摩藩の天保改革が始まるのである。

調所は500万両の藩債を処理する方法として、「250年賦」という非常手段を編み出して、大阪の債権者たちに通告、目の前で証書を焼き捨てて、不服なら自分を「生かすなり殺すなり勝手にせよ」と居直った。

借金を整理する一方で、徹底的な専売政策を強行した。
奄美大島・徳之島・鬼界島、三島の砂糖の生産を藩が完全に統制し、甘藷を強制栽培させて、製品は藩の倉庫に直接納めさせた。

これは、大阪で砂糖相場が上がったこともあって、多大の効果を収めた。
他にも、菜種や櫨・蝋などの特産品も、藩の統制による品質改良と増産が行われ、利益は藩に吸収された。また、琉球を介しての中国との密貿易を意識的に活用した。

こうして薩摩の天保改革は、めざましい成果を収めたのである。
1840(天保11)年頃には、藩の金庫には50万両という予備金が蓄えられたという。

   ★長州藩の改革
長州藩では、1831(天保2)年に大一揆が起こった。
防府から始まって領内の瀬戸内側一帯を巻き込み、参加者は10万人を超えたという。

年貢の軽減、役人の不正摘発などを要求しているだけでなく、藩の産物方諸役所やそれと組んでいる豪農・豪商が襲われた。
藩営専売に対する流通自由化の要求も高まったのである。

天保9年、長州藩の天保改革が始まった。
家禄50石の郡代官の子であるが、人物の剛直さと行政手腕を買われて村田清風が抜擢され、改革という大任を一任された。

一揆が要求していた流通自由化については、販売仕入法の一部を廃止または緩和で解決し、藍や綿・木綿織の流通も自由化された。

また、積極策としては越荷方が下関に置かれ、下関を通過して入る米・綿・塩・干鰯などを担保にとって他地方の船を相手に高利貸を始めたのである。

清風は、改革の目標の一つを「8万貫目の大敵」と表現していた。というのは、天保初年で藩債が銀8万貫(約480万両)に達していたからだ。
この負債も、越荷方のような積極策が功を奏して、改革開始8年後の1846(弘化3)年にはほとんど整理されたという。

長州の天保改革は、下層藩士の貧乏と借金についても手を打っていた。
藩士の借金を藩が肩代わりし、返済については37ヵ年賦という過酷な条件を、債権者である豪農、豪商に押し付けたのである。

また、下層農民み対しては、年貢の減免や検見法を緩めるなどの措置が取られている。

この改革には改革派と保守派の激しい抗争もあったが、藩主・毛利敬親の強力な支援を受けて成功した一例であろう。

このような民政の安定が、長州藩を「明治維新」という大改革へ押し進め、維新回転の中心勢力になったのである。

他方、18世紀後半から、赤字の藩財政を立て直すための諸改革が全国的に盛んになり、名君賢宰が輩出したこともこの時代の特筆すべきことであろう。
中でも上杉鷹山(治憲)の「安政の改革」は象徴的な事例として後世に伝えられている。



    ◆安政の改革(上杉鷹山)

上杉家は18世紀半ばには借財が20万両に累積し、ほとんど破産状態であった。
石高が15万石でありながら、かつての会津120万石時代の家臣団6000人を整理できず召し抱えていたために、人口に占める家臣の割合が他藩に比べて抜きん出て高かった。

「名家の誇り」を重視し放漫財政を放置した前藩主・重貞は藩主返上のうえ、領民救済は公儀に委ねようと本気で考えていたという。

新藩主に就任した治憲(鷹山)は、先代が任命した家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民生事業を積極的に推進した。

時は「天明の大飢饉」の最中で、餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励などの対策に努めた。

また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館として再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。

これらの施策が功を奏して破綻寸前の藩財政が立ち直り、次々代の斉定時代に借財を完済したという。

隠居して「鷹山」と号した治憲が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3か条は、「伝国の辞」として明治の「版籍奉還」に至るまで上杉家代々に伝承された。

有名な歌「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」は「伝国の辞」と共に次代藩主に伝えられている。
 (伝国の記)
1.国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
1.人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
1.国家人民の為に立ちたる君にて君の為に立ちたる国家人民にはこれ無く候
右3条御遺念有るまじく候事




    ◆すべての改革は権力闘争の副産物

いずれの時代の改革も、すべてと言っていいくらい財政難を乗り切るために始まっているが、結局は為政者の利害関係が複雑に絡み合い、権力闘争へと発展するのである。

改革派、保守派が入り乱れての抗争が繰り返されるため、どちらに転んでも改革の果実はやせ細り、その配分が庶民にまで及ぶケースは稀であった。

前述の「小泉改革」も、「官から民へ」「中央から地方へ」「改革なくして成長なし」と威勢のよいワンフレーズだけが、次から次へと打ち上げられたが、5年間の任期が終わってみれば「何が残ったの?」という虚脱感だけである。

国民生活にダメージを与え、格差を大きく拡大した主なものを列記して見よう。
★「特別減税の廃止」という増税
特例法による所得税率をもとに戻すだけでなく、「課税最低限度額」の引き下げと「老年者控除」の廃止によって、所得税の課税対象者が増加し、そのはね返りで「住民税」「健康保険税」「介護保険税」などの福祉関連負担が大幅に増加したために、中堅サラリーマンと平均的年金生活者に大きな負担増を強制した。

★企業中心の規制緩和〜人材派遣法の改正
いわゆる「人材派遣法」の改正により、「派遣可能な職種」が大幅に増加し、企業は多数の正規社員を非正規社員に置き換えて「総人件費」を激減することに成功、収益性を大きく改善した。

★お年寄りに重い「医療費の窓口負担」ほか
06年10月1日から、またまた「現役並みに所得がある高齢者」に医療費の負担増である。
1.70歳以上の窓口負担が20%から30%に
2.高額療養費の自己負担限度額の引き上げ
 70歳以上の場合、42、000円が44.400円になる。
 (4(死?)という数字が並んでいるのが不気味だ)
3.療養病床入院の高齢者の食住費負担増
 食費の負担増、新たに居住費(光熱水費)も自己負担に
 その他の福祉に関する負担増が来年にかけて目白押しである。

「改革は痛みが伴う」というキャッチコピーだけが、なぜか庶民の実感として身にしみる。

そこには「勝ち組」と「負け組み」という「格差社会」が厳然として立ちはだかり、「痛み」はすべて負け組へ、改革・規制緩和の「果実」はすべて勝ち組へ配分される仕組みが出来上がったからである。

「巧言令色鮮(すく)なし仁(じん)」である。
言葉を飾り表情を取りつくろっているが、いつくしみの心やいたわりの心がないのだ(論語より)。

小泉改革の「光の部分」は何か?「不良債権を半減させて金融システムを守った」という声も多い。

確かに数十兆円という膨大な国費投入により「金融システム」は強化されて、不良債権は半減し、金融機関の業績は飛躍的に向上した。
だから「景気も良くなり株価も回復した」というのは「風が吹けば桶屋が儲かる」の類で、信憑性は薄い。

その陰で「融資の引き剥がし」や「貸し渋り」など、「悪質な金貸し」同様の手口で身の保全をはかった金融機関のあくどい商法で、倒産の憂き目をみた中小・零細企業は数知れない。

「ポスト小泉」は安倍普三氏に決まったが、生活苦による自殺者が累増し、低賃金を余儀なくされる派遣労働者が激増している社会、殺人や放火などの凶悪犯罪が日常茶飯事になっているような「殺伐とした社会」がどうして出来上がったのかについて、その原因を徹底的に解明するとともに、安倍氏が主張する「美しい国」とはどのような国なのかについても明確なビジョンと、それを実現するための具体的なプロセスを国民に示してもらいたい。

安倍総理は「小泉改革を継承する」と言っているが、改革の結果を検証することなく「再チャレンジできる社会」で格差が解消できると、本気で思っているのだろうか。
もし、そうであれば「総理大臣」の資格はない。

憲法を作り直しても、教育基本法を改正しても、理念だけで「美しい国」が実現するはずはない。
必要なことは、「国民の福祉の向上」を唯一の目的とし、それを実現するための「ノウハウ」を国民に丁寧に説明し、理解を求めて実現することである。

「美しい国づくり内閣」もよいが、その前に、乱暴な小泉改革により「犯罪列島」と化した「醜い国」を「普通の国」に戻すことが先決であろう。

   ◆改革終わり日が落ちて(平成版・二条河原の落書き)
 このごろヤマトにハヤルもの。 
放火、殺人、サギ、ひったくり、親の子殺し、子の親殺し。痴漢セクハラ日常茶飯事。
役所のウラ金、かくれ借金、政治家の収賄。
賄賂を取っても「知らぬ存ぜぬ」で無罪放免。金、金、金の拝金社会。
村上ファンドにホリエモン、法に触れても稼ぐが「勝ち組」。
耐震偽装に産地の偽装、企業は偽装雇用で補助金のサギ。
偽装の仕上げは「小泉改革」。格差社会で自殺者急増。低賃金に泣く派遣労働者。
わずかな年金にも所得税。お陰でハネ上がる県・市民税に健康保険税・介護保険税。
年金弱者のウラミ節 怨々。



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◆小泉「偽装改革」の証言:道路公団の巻
「改革なくして成長なし!!」「官から民へ、中央から地方へ!!」「自民党をぶっ壊す!!」と叫んで、圧倒的多数の支持を得た「小泉改革の欺瞞性」がぼつぼつ指摘されるようになった。

「霞ヶ関主導の経済運営」が行き詰まり、自民党政治の限界を感じていた国民にとって、「日本も変わるかも…・?」というかすかな希望が見えてきたのも事実だった。信平もその中の一人であり、小泉改革に大きな期待を寄せたのも事実である。

しかし、「道路公団の民営化」や「政府系金融機関の改革」の実態を見せ付けられると、思わず「偽装改革だ!!」と叫んでいた。
新聞や雑誌に「羊頭狗肉の小泉改革」と題して投稿したが、いずれも「没」になり、メディアの無関心ぶりにも疑問を持った。

だが、「道路公団改革」の実態を見た時に「偽装改革」を確信した。
マスメディアは「黙して語らず」だったが、漸く朝日新聞が取り上げてくれたので記録しておきたい。

★「改革ではない 今より悪くなる!!」−道路公団民営化
 「証言でたどる同時代史」より要約(朝日新聞:5月10日)
●推進委が空中分解―03年12月
40兆円もの借金を抱えた道路4公団の民営化は、小泉改革の目玉の一つだった。青写真作りを担った推進委員会のメンバーは「7人の侍」と呼ばれ、「抵抗勢力」と戦う象徴となった。

しかし推進委は分裂し、委員長と委員長代理が辞任。改革は失速し、「むだな道路は造らない」という民営化の理念は「政と官」の岩盤にはね返される。

政府・与党が民営化の枠組みを決めた03年12月22日、民営化推進委員会の田中一昭委員長代理(拓殖台教授)は単身、首相官邸に乗り込み、「これは改革ではない。今の公団より悪くなる」と小泉首相に直言した。

目の前に憮然として座っていた小泉は「委員会の言うことは8割以上聞いたじゃないか。1から10まで聞いていたら政治はいらなくなる」と言い、
「小泉改革に反対するのか」と迫った。
しかし、田中は納得せず、辞表を秘書官に渡して首相執務室を後にした。

午前の政府・与党協議会で決まった民営化の枠組みは、道路の建設と管理を担う民営化会社(上)と、公団の道路資産や負債を引き継ぐ保有・債務返済機構(下)に「上下分離」することが柱だった。

新たな道路の建設は民営化会社が機構と協定を結び、資金調達して行うが、それには「政府保証」がつく。
高速道路の整備計画「9342キロ」をすべて作ることができる仕組みだった。

推進委が1年前の12月に出した意見書は根幹から異なっていた。
1. 約40兆円の4公団の債務の返済を最優先
2. 10年後をめどに上下一体化して道路資産を「民有化」
3. 民営化会社の株式を上場、と具体策が並んでいた。
「政と官」が握ってきた道路建設決定の権限を「民」に移し、むだな路線の建設をやめる、という理念の表れだった。

推進委員のうち、松田昌司・JR東日本会長、経営コンサルタント・川本裕子と田中委員長代理の3人は、委員会の事務局があるビルで午後3時から記者会見を開く。

「政府の決定は推進委の意見書とはまったく似て非なるもの。道路をどんどん造っていくということで歯止めがかからない」(松田)

「意見書と大きくかけ離れ、民営化とは言えない。政府保証による新たな借金で、最終的には国民負担が増える」(川本)

松田は会見中に辞意を表明し、「(政府・与党の決定は)到底受け入れられない」と語気を強めた田中は会見後、その場で「辞職願」をしたためた。

委員の一人・作家の猪瀬直樹氏は、3人が会見を始める1時間前の午後2時、東京・西麻布の自らの事務所で単独会見に臨んだ。

テレビカメラの放列の前で、政府・与党合意について、「委員会の意見がある程度反映された。優良可で言えば良か可だ」「国民にとって勝利だ」と評価した。

猪瀬はこの数日前から、独自に動いていた。猪瀬には「小泉内閣発足間もない01年8月、プランを作って首相に直接説明した」という自負があり、政府与党合意に「成果」を盛り込もうと必至だった。

猪瀬は小泉や国交省に、「自らの辞意」もほのめかしながら、9342キロの完成に必要な建設費を「5兆円、せめて3兆円の削減を」と求めていたが、回答は5千億円にとどまっていた。

自民党・額賀政調会長や国交省幹部との根回しに奔走した結果、道路建設費のうち民営化会社の負担分は、規格見直しなどで10兆円から7・5兆円に削減された。

小泉はこの案を了承。自民党道路族も「まったく問題ない」と評価し、22日の政府・与党協議会での合意へと続く。

分裂し、迷走した推進委。しかし03年12月の混乱は、その1年前にすでに必然となっていた。



● 名より実 国交省完勝
結局「7人の侍」の議論も迷走し、02年11月29日に推進委の内部対立は抜き差しならなくなっていた。

「民営化会社による高速道路建設を10兆円分程度確保しよう」と言う今井委員長(新日鉄会長)の意見に中村(武蔵工大教授)が同調。
評論家の大宅を含む残りの5人と今井・中村の対立は、今井の委員長辞任へと発展する。

残りの5人も一枚岩ではなかった。議論が迷走する中で、ようやくまとめられた推進委の「意見書」は、直後の閣議決定で「基本的に尊重」と後退し、さらに「与党とも協議」との一文まで盛られた。

結局、国交省は首相に民営化という「名」を取らせ、整備計画を完成させる「実」を取ったのである。
国交省の戦略が推進委の分裂につながり、その分裂が国交省の「完勝」をもたらした。

● 証言―1:田中一昭委員(拓殖大・名誉教授)
民営化の目的は、むだな道路を造らず、建設や運営管理を効率的にすること。
それには自主性と責任を持つ経営主体が必要だが、結果は「改革の原点」を見失ったものになった。
償還主義という、不採算路線建設の元凶が維持されてしまった。

猪瀬さんが(政府・与党を)行ったり来たりしたから混乱し、国交省の描いた絵のとおりになってしまった。
委員全員が辞任するか、少なくとも猪瀬さんは今井さんの方につくべきだった。

● 証言―2:猪瀬直樹委員(東京都副知事)
借金返済、分割、料金値下げ。この三つが民営化の要諦だ。
これらを勝ち取ったのは大きな成果で、70点は取れたと思う。

ずさんな交通需要推計を訂正させ、規格を見直して建設費を削減した。
談合も追及し、日本道路公団副総裁の逮捕につながった。
僕が一つひとつデータを示し、論理で迫った結果だ。

(民営化推進委員会を)辞任したり欠席したりした委員が何をやったと言うのか。何もやっていない人が「何もできなかった」と言うのは無責任な話だ。

●委員会の「解散」を止めた猪瀬・大宅の罪は重い!!(信平)
意見が迷走した結果、推進委は「あわや解散か?」と言われていたが、とにかく「委員の座」を降りたくなかった「猪瀬・大宅委員」の功績?で、「道路4公団」の民営化は終わった。結果は「ご覧のとおり」である。

猪瀬氏の証言は「民営化の目的」を矮小化していないか?
「条件闘争」の成果をあげつらって「70点は取れた…」という主張はいただけない。民営化の目的は「システムの改革」であるはずだ。

「多額の委員報酬」を手放したくなかったのだろう?」という「世論の批判」も見え隠れしたが、ご両人は「首を引っ込めた亀」のように黙して語らず、明確なコメントは聞かれなかった。不明朗な幕引きは今もって釈然としない出来事だった。やはり、ご両人は「オクタゴンのゾンビ族」だったのだ。

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