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落合博満
最終更新 2009/10/7
人物事典(スポーツ)
今日の更新
中日ドラゴンズ
監督
東芝−ロッテ−中日−
巨人
−日本ハム−野球評論家−中日(監督)
現役時代〜生涯打率.311、本塁打510、打点1,546。
1953年
12月9日、
秋田県
生まれ
1978年
11月、ドラフト3位でロッテ入団。
巨人
は
江川卓
に次いで、2位で指名する予定だったが、その「江川問題」でドラフト会議を欠席したため指名できなかった。
1980年
前半は怪我。後半57試合で.283、15本、32打点。土肥健二のフォームを取り入れた効果が出た。
参考文献
「週刊ベースボール」ベースボール・マガジン社 1999年2月22日号
1981年
プロ入り3年めのシーズンで首位打者獲得。守備位置セカンド。
1982年
初
の三冠王、28歳での獲得は史上最年少。
1983年
ファーストにコンバート、首位打者。
1984年
山本功児
の移籍入団でサードに回る。この年ブーマー(阪急)が三冠王獲得。
1985年
三冠王 52本塁打(初の40本以上) MVP
1986年
4月、初の著書「なんと言われようとオレ流さ」講談社〜発表。
2年連続三度めの三冠王
オフ 巨人移籍希望を セリーグ希望と表現していた落合を、ロッテ(有藤監督)は1−4トレードで中日に放出。有藤監督は「希望通りセリーグだから文句ないだろう」とコメントしていた。球界初の1億円プレーヤーとなる。
1989年
スポーツ紙が発言を曲げて伝えたためキャンプ中は報道陣と筆談。
1991年
本塁打王〜これが最後の打撃タイトルとなった。
1993年
オフ、
FA
で
巨人
移籍。
1994年
移籍1年目でリーグ優勝に貢献。
10.8
の守備で負傷し日本シリーズはフル出場できず。
ボウリングはプロを目指していたほどの腕前。
名古屋
では家族でボウリング場のCMに出演していた。落合が自宅に電話して「ふっくん今から出ておいで」と長男を呼び出し、家族でボウリングを楽しむという設定だった。
1996年
オフ、清原が西武からFAで移籍してくるのと入れ替わりに巨人を退団。日本ハムと契約。
1998年
オフ現役引退
2001年
4月、著書「
コーチング―言葉と信念の魔術
」ダイヤモンド社 発表。
2003年
10月、中日監督就任。テレビ解説で日本シリーズは「すべてホームチームが勝ち4−3でダイエー」と予想を的中させる。
2004年
6月、ナゴヤドームの巨人、ヤクルト、横浜戦の使用球をミズノ製からサンアップ製に替える。シーズン後
堀内監督
は「せこい」とコメントした。
10月1日、巨人がマジック対象の
ヤクルト
を破りリーグ優勝が決まる。コーチ経験のない監督の就任1年目優勝は史上初。(
長嶋監督
の初優勝は2年目)同年のパリーグ優勝西武の伊藤監督がこれにつづき2人め。
日本シリーズ敗退。第2戦勝利監督インタビューでの「(所沢で)3連勝するので、名古屋には戻ってこない」が今年唯一外れた予言となった。
2005年
9月には逆転すると予言。福留は「監督にはそういうところがある」と
暗示
にかかっていたが、予言は外れた。
2006年
リーグ優勝 日本シリーズで日本ハムに1勝4敗で敗退。
オフシーズンに中日と新たな2年契約を結ぶ。
2007年
リーグ優勝を最後まで巨人と争い2位。残り7試合でマジック7が点灯「だいじょうぶ全部勝つから」と公言したが、勝たなかった。
2008年
巨人のリーグ2連覇が決まった日、メディアに対して巨人への賛辞はなく「敗者復活戦でがんばる」と述べた。
2009年
WBC
招集を
中日
の全選手が拒否。
オールスターゲーム
では
原監督
の岩瀬・和田の招集を拒否。ゴンザレスとの最多勝争いでは吉見を勝ち試合の5回から登板させて勝ち星を稼ぐ。すっかりせこい監督が板についた。
参考文献
「コーチング」落合博満 ダイヤモンド社 2001年刊
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