3月 WBCに出場。城島の控えだった。 6月8日 1000本安打達成。同じ試合で中井大介がプロ初安打を打った。 9月18日 200号本塁打 神宮球場ヤクルト戦 巨人捕手の200号は初めて。 ホームベースへの逆風で、センター方向の打球が押し戻されるなか、阿部の打球だけが一直線にバックスクリーン右へ飛び込んだ。
10月11日 優勝を決めた神宮球場でのヤクルト戦、2塁に帰塁した際、右肩を負傷。 そのままシーズンを終えることになり、日本シリーズは鶴岡が出場した。これが鶴岡に経験を積ませることになり、2009年の戦力に厚みを加えることになった。
シーズン開始 キャプテンに就任 6月5日 初めて指名打者で出場〜対ロッテ戦 前日死球を受けたため。 6月9日 初めて4番で出場。第1打席の初球を先制2ラン本塁打。2本塁打5打点。インタビューでは、4番を告げられて「正直なところ嬉しかった」と笑顔を見せた。
8月 タフィ・ローズ故障離脱のあと、5番に座る。 23日、右肩痛のため、初めて先発で一塁を守る。数試合一塁で先発出場、その間の捕手は村田善則。そのままシーズン終了まで捕手出場なし。 130試合出場(自己最多) 打率.300 86打点(自己最多) 26本塁打 【 入団からの5年間累計 】 586試合出場 打率.286 打点332 本塁打105 3月頃ミクシィで「阿部慎之助」というコミュニティができた。その後、ミクシィに「巨人軍 阿部慎之助」というコミュニティができて「阿部慎之助」は閑古鳥が鳴き閉鎖された。 ミクシィではコミュニティを立ち上げる前に、同じテーマのコミュニティの有無を確かめるルールがある。そのルールを守らない人が後を絶たない。
4月 オープン戦打率.341 8日、6試合連続本塁打。プロ野球記録は7試合(1972年王、1986年バース) 21日、10号セパ両リーグ1番乗り。 28日、自身初の1試合3本塁打。 29日、月間本塁打15本(球団タイ記録 王貞治に並ぶ)。月間本塁打16本(球団新、日本記録 門田・江藤に並ぶ) 5月 1日、延長11回サヨナラ本塁打(投手:広島永川) 2日、26試合で18号。プロ2年目シーズンの年間自己最多本塁打に並ぶ。 7日、今期初めて打順6番。 11日、月間MVP初受賞。 12日、33試合で20号。最短記録更新。過去の日本記録はカブレラ(西武)の38試合。MLBはマグワイア(カージナルス)の35試合。打率・打点・本塁打3冠トップに立つ。 26日、決勝タイムリー「最高です」封印宣言後初のお立ち台「おちゃらけてはいられない」とシリアスに決めた。ところが、報道陣がつぶやいた「なんだよ(今まで)おちゃらけてたのかよ」の声をマイクが拾い、いい場面が台無しになった。 6月 24日、左足故障で欠場。 25日、登録抹消 7月 2日、ローズが25号、これまで守ってきた本塁打1位を明け渡す。 108試合出場 打率.301(自己最高) 78打点 33本塁打(自己最多)
4月 開幕2戦から3試合連続本塁打。開幕時7番、4月15日から6番を打つ。 5月 阪神戦で死球を受け4試合欠場。 7月 15日、オールスター監督推薦で初出場。初安打。 8月 17日、右肩痛で登録抹消。 19日、全治6週間の診断。 94試合出場 打率.303(規定打席届かず) 51打点 15本塁打
6月24日 札幌ドームの対広島 8回の守備、内野ゴロで本塁突入した福地と接触。左足を負傷、救急車で病院に運ばれた。診断は左足外側広筋内血腫、安静3週間。プロ入り初の登録抹消。 7月16日 スタメン復帰。当初復帰は8月後半と言われていたが思いの外早い復帰となった。 8月4日 登録抹消された高橋由伸に替わりスタメン3番にはいる。初打席は内野安打。 8月11日 プロ初サヨナラ本塁打 8月16日 死球退場。 127試合出場 打率.298 打点73 18本塁打 最終戦でヒット一本足らず三割を逃す。サヨナラ打4本(球団タイ)で「サヨナラシンちゃん」と呼ばれ始める。ゴールデングラブ受賞(捕手史上最年少)。ベストナイン受賞。
→阿部慎之助2001年公式戦全成績 1月25日 新人ただ1人キャンプ1軍スタートが決まる。 2月19日 紅白戦で初アーチ。 2月25日 オープン戦初戦に初先発マスク、初出場、3−0。 3月3日 オープン戦3戦目で初安打(ダイエー斎藤)、初本塁打初打点(ダイエー斎藤)、初フル出場13失点。 3月24日 オープン戦2号本塁打。 3月30日 開幕戦スタメンマスク。 阿部慎之助の2001年 シーズン盗塁阻止率.353(68−24) 11月6日〜 IBAFワールドカップ出場 127試合出場 打率.225 打点44 本塁打13
2001年シーズンのセリーグ新人王は盗塁王となった阪神赤星。 選考は189名のスポーツ記者による投票で行われ、赤星が152票、阿部は34票。
安田学園高校−中央大学。 阿部の父親が、巨人 末次編成部長と親しく本人も巨人志望。3年春頃から巨人入団が確実と言われている。(2000/7/30記す) シドニー五輪代表。古田が出場した五輪予選ではレフトを守ったアマチュアの主砲。本戦では古田は不出場だが、中日が急遽 鈴木捕手を派遣したために、せっかくの国際舞台での捕手経験の機会を失い、DHや代打出場となった。シドニー五輪での背番号は21。 (2000/9/27記す)
9/17 米国 DHスタメン 4−0 9/18 オランダ ベンチ 9/19 オーストラリア 代打 1−0 9/20 イタリア 代打 1−0 9/22 南ア 捕手スタメン 5−2−1 9/23 大韓民国 代打1−0 9/24 キューバ 一塁スタメン 4−0−1 9/26 キューバ 代打1−0 9/27 大韓民国 代打1−0 最後の打者 (成績は、打数−安打−打点)
巨人は1999年シーズン途中に、柳沢、吉原と準レギュラー級捕手を相次いで放出。阿部入団への布石と報じられた。(1999/6/23 夕刊ゲンダイより) 2000年7月30日、長嶋監督はニッテレ系の番組で「捕手を3人で使い回すのは邪道。1人に固定すべ き。それも1〜2年以内に完成する」と発言。 シーズン終了後には光山捕手に戦力外通告。 杉山捕手のご乱行(自主的に退団)も阿部入団を控え面白くない気持ちがあったのだろう。
2000年11月6日、中央大学で会見。巨人逆指名を表明。 ■逆指名のことば 「私、中央大学硬式野球部、阿部慎之助は読売巨人軍を逆指名させて頂きます」 ■巨人に決めた理由 「毎試合あの大観衆の中でプレーができると言うことと、やはりスカウトの方の誠意がすごく自分には、すごく伝わりました」 ■どんな選手になりたい? 「球界を代表するキャッチャーに自分はなりたいと思ってますし、自分を試してみたいというのが強いです」 2000年11月17日、ドラフト巨人1位指名、背番号10
阿部逆指名の報を受け「何かエールを」と問われた松井秀喜は、 「大卒のことは大卒に聴けばいいんじゃないの?僕は高卒だから」 と反応した。悪意はないのだろうが、同期で仲良し、正捕手目前の村田善則のことを想うと「いらっしゃ〜い」と明るく答える気にはなれなかったのだろう。 それにしても、大人げない二流の対応だった。