しらべる
>
デコ
欧州サッカー
>
デコファンサイトマップ
>
中田英寿
最終更新 2008/1/31
今日の更新
【 なかた ひでとし 】 元プロサッカー選手 MF 右利き
韮崎高−ベルマーレ平塚−ペルージャ−ASローマ−パルマ−ボローニャ−フィオレンティーナ−
ボルトン
【 略歴 】
1977年(
デコ
と同じ年)
1月22日、
山梨県
甲府市生まれ 9歳から
フットボール
を始める。
1995年
11球団が競合「もっとも上下のしがらみがなくプレーできる環境」という理由でベルマーレ平塚入団 契約金1,000万円。
1996年
アトランタ五輪
出場。
1997年
20歳で
日本代表
入り。
W杯
予選で
カズ
に替わって日本のエースとして認知される。
1998年
1月4日「書かないで」と前置きして語った「君が代」の感想を、朝日新聞が紙面に掲載。大問題になる。これを機会に中田のマスコミ不信が始まった。
6月、フランスW杯出場
7月、
イタリア
セリエA
のペルージャに移籍。移籍金5.2億円
ユニフォームナンバー
7
1998-99
セリエA ペルージャ1年めシーズン
1999-00
古巣湘南ベルマーレ(J2)を個人スポンサード。
1月13日、冬の移籍シーズン セリエAのASローマに移籍。移籍金18億円
ユニフォームナンバー
7
3月25日「nakata.net98-99」新潮社 出版〜自らのホームページ nakata.net でのファンへのメッセージを掲載した本。
2000-01
9月、
シドニー五輪サッカー
準々決勝
米国
戦で
PK
を外す。
10月、五輪前から軸足を痛めていると言われシーズン開幕から
カップ戦
要員に回る。この時期2002年の日本W杯までヴェルディへレンタル移籍と報知新聞が伝えた。
1月、2年連続で湘南ベルマーレをスポンサード。
5月3日、
イタリア
サッカー協会特別裁定委員会がEU域外出場枠(ベンチ入り3人)を撤廃、だがその後も常時出場とはいかず。
6月4日、
コンフェデ杯
準決勝、雨中FKを決める。試合前 nakata.net で書いていた通り決勝日はスクデットのかかるローマに戻ったが、出番はなくチームも優勝を決められなかった。
2001-02
7月5日、セリエAのパルマに移籍。移籍金33億円
ユニフォームナンバー
10
1月、湘南ベルマーレをスポンサードの撤退を発表。
6月、
W杯
出場1得点。一次リーグチュニジア戦で初得点。
2003-04
7月、
東ハト
の
CBO
に就任。
12月、ボローニャへレンタル移籍。
2月18日、
W杯予選
オマーン戦出場。
3月31日、W杯予選シンガポール戦出場。
5月〜両足付け根の故障でセリエA、日本代表戦をすべて欠場。
2004-05
7月、パルマ事実上の破産により、フィオレンティナへ移籍。移籍金2億円。
9月、セリエA開幕第2戦から復帰。
11月、
国際エイズデーチャリティマッチ
に世界選抜の一員として先発出場。1得点を挙げる。
2月、
FIFAオールスタースマトラ沖地震チャリティマッチ
に世界選抜MF右サイド(左は
デコ
)で先発出場。一流プレーヤーと組めば創造的なサッカーができることをアピールした。
3月〜6月、
2006年W杯
予選出場、練習からプレスの効いたチーム作りに貢献し本戦出場権を得た。
2005-06
8月、
プレミアリーグ
ボルトン
へ1年のレンタル移籍。
ユニフォームナンバー
16
12月、引退を決意
6月、
W杯
3度めの出場。
ブラジル
戦終了後ピッチに横たわって涙した。
このシーズンで現役引退。
2007年
12月、
CWC2007
で、FIFAの広報活動を行った。
Jリーグ
在籍時は中田がサッカーを勉強していないレベルの低い記者とは話をしなかったため「性格が悪い」「生意気」という印象がメディアにより作られていた。
ペルージャで
イタリア
人に高い評価を得た途端、手のひらを返したようにメディアは好意的になり、以後引退するまでずっとその姿勢が続いた。
デコ
ファンサイト
しらべる内の検索
カスタム検索
しらべる
を見ていただき
ありがとう
ございます。
今日の更新
Copyright silabel All Rights Reserved.