さて、この場にては初のお目もじをいたします。ごあいさつ等、たっての頼みとてお引き受けはしましたものの、しがない助平親爺の繰り言が関の山。お手をお止めになる暇がおありならば、暫しお付き合い願いまして、御挨拶にかえたいと存じます。

 皆様方、それはもう、お好きなこととは存じあげまするが、手前も色気付くのは早う御座いました。始めた頃なんてえのは、とにかく綺麗どころをこの腕に抱き寄せて睦み合えればそれでよし、この辺りは、まあ、皆似たり寄ったりで御座いましょうねえ。  ところが暫くするとこれで辛抱できなくなる。必死の思いで金を工面し、好いた娘御を廓の外へと連れ出して、思うが様にし始めます。今にして思えば、この時が肝腎要の時なんで御座いましょうねえ。ここで度を越すと、手前の様に、廓で「旦那」と呼ばれる様なシロモノに成り果てるってえ具合で御座います。
 ですが、こうした話は手前も含めまして「旦那」衆の勝手な都合の話。金で身請けをされ、連れて帰られる娘御達の都合は、これっぽっちも入っちゃあおりません。ひとたび旦那の腕に抱かれたからは、如何様な仕打ちにも「忍」の一文字。いくら親御や廓の主人から仕込まれているとは申せ、することには限度ということが御座いましょう。それの判らぬ野暮天が無理無体の限りを尽くしたあげくにゴミ同然に放り出す。そんな有様をこの方何度となく目にして参りました。
 そりゃあ、床あしらいの上手い下手は御座います。とは申せ、ただ上手下手をあげつらうだけで何になりましょう。娘御達の身体のことは、娘御がそうしてくれと申して出来上がったモノじゃあ御座いません。良い親元に生を受けた娘はよう御座いますが、そうとばかりは限りません。テメエの見栄やら金欲しさやらばかりが先に立ち、ロクな仕込みもせぬままに廓へ売り飛ばし、顔見せに並べられ、客を取らされる可哀想な娘、むしろそんな娘の方が多う御座いますか、手練手管を出来る限り仕込んでくれる廓も御座いますが、何と申しましても、己が身体に生まれつきのモノ、どうにもならぬ部分が必ず出て参ります。手前共の様な手合いが廓で毎度の如く出くわすことで御座いますが、これの判らぬお人が多過ぎる様に思えますのは、手前一人で御座いましょうか。目の前に紛れもないこととして居座っていながら、どうしてああも簡単に顔を背けられるものか。あげくが己の思い通りにならぬと言って、打つは邪険に扱うは、口汚く罵声を浴びせるは、当人が必死で尽くそうとしていることを、時に己の身体を痛めることさえ厭わず辛抱しているというのに酷い話じゃあ御座いませんか。その辺りを察してやる、見極めが付いてこその旦那稼業じゃあ御座いませんか。見る度に腹を立てていちゃあ身体がいくらあっても身が持ちませんが、それでもやっぱり腹が立ちます。
 そもそもが、こちらから言い寄って、金を積むんで御座います、娘御達に頭を下げて、「どうか来ておくれ」というくらいの心積もりが、まずは何より肝腎かと存じます。その娘の良いも悪いも残らず承知の上で、己の腕に招き入れ、精一杯に尽くしてくれるのを受け入れてやりたいものじゃあ御座いませんか。ありのままの相手をまずは受け入れなけりゃあ、長く居着いちゃあくれません。自慢話を申し上げることになりますのは御寛恕を願いとう御座いますが、手前が処の娘御達は皆、女だてらにも手前と同じく六尺の下帯を締めてくれております。廓で客の男の尻に締め込まれたを見るは慣れっこなれど、よもや己の玉の肌に纏うことになろうとは、夢思わじ。それでも一人として拒みません。「下帯の旦那さん」と、二つ名前で呼ばれる程に廓でも馴染まれております。要は、娘御達を立ててやるに尽きます。そうすりゃあ、ちゃんとこっちの思いも通じるんで御座いますよ。
 さて、下帯を何のために締めさせるのか。その辺りは日を改めまして、お話申し上げるといたしまして、この度はこれにて御免こうむらせていただきとう存じます。それでは失礼仕ります。

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