惠 一期一会

本編はノンフィクションです
(惠さんには役柄として演じていただいてます。)



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(第一話から
五話)
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第一話


私は25才でタクシードライバーを始めて、そうですね、もうかれこれ20年になるでしょうか。
長い間この仕事をしていると、それはそれは色々なことに出くわすものですよ。
身が縮むくらい恐い目にもあった。人の情に涙したこともあった。口惜しくて眠れない夜もあった。孤独感に苛まれた日もあった・・・。
色っぽい話ですか?そりゃあ、多少はありましたよ。
私にとって、今までの人生の中で最高の出来事と言えるほどのこともありましたよ。
え?聞きたいですか?自慢話に聞こえるかも知れませんけど、いいですか?
では、じっくりとお話するとしましょうか。
もちろん作り話なんかではないですよ。
全部本当にあった話なんです。

それは私が35の時で、出来事は10年前に遡ります。
桜がまだ蕾の少し肌寒い日のことでした。
いやぁ、思い出すだけでもぞくぞくしてきますよ。
私にとってはそれほど鮮烈に記憶に残る出来事でした。
当時私は大阪のあるタクシー会社に勤めていました。
京都までお客さんを送ったあと、大阪に帰ろうとしていました。
クルマは四条河原町から四条烏丸へと向かっていました。
とても賑やかな通りで当然のごとく道路は混んでいました。
信号が黄色から赤に変わったので、私はクルマを停止しました。
先頭車だったと思います。
その時、歩道でこちらを向いて手を上げている若い和服姿の女性がふと目に入りました。

(ん?困ったなあ・・・京都は営業区域外なので、お客さんは乗せられないんだようなあ・・・)

申し訳なく思いながら、私は手を横に振りました。
『NO』の合図です。
しかし、その女性は諦めるどころか、ずっとこっちを向いて手を振っています。

(よほど急いでいるんだなあ・・・)

私は困惑しながらも、乗車拒否をするわけには行かないので、とりあえず後部座席のドアを開きました。
私は事情を説明して丁重に断ろうと思っていました。
女性はドアを開けると、いきなり乗ってきました。

「お客さん、せっかく乗っていただいたんだけど、このタクシーは大阪なんですよ。京都でお客さんを乗せると叱られるんですよ。悪いけど、地元のクルマに乗ってくれませんかねえ。」

丁寧に断ったし諦めてくれると思ったのですが、女性は一向に降りる気配はありません。

「え・・・?あかんのどすかぁ・・・?そんなこと言わんと乗せてくださいなぁ、頼みますよってに・・・」

艶やかな女性の京言葉で囁かれて、私はずきりと胸が疼くような感覚に襲われました。
間近で囁かれる京言葉がこれほど色っぽいとは・・・。
振り返ってみると女性は色白のすごい美人で、見るからに高級そうな和服を身に着け髪はアップにしていました。
歳の頃は24、25だったでしょうか。

「お客さん、本当に困るんですよ・・・」

私はもう一度断りました。
しかし・・・

「お願いどすぅ・・・」

和服姿の女性は梃子でもクルマから降りようとしません。

すごい美人に粘っこく哀願された私は、ついに根負けをしてしまいました。
いくら規則があるとは言っても、私も男ですからきれいな女性から頼まれて、それ以上断れる道理がありませんでした。

「仕方ないですねぇ。」
「えっ、行ってくれはるん?まぁ、うち、嬉しおすわぁ。」
「で、どこまで行かれるんですか?」
「どこでもええから、走ってください・・・」

行先を尋ねて返って来た応えに私は度肝を抜かれてしまいました。

「ええっ?どこでもってそんなぁ・・・。行先を言ってもらわないと、困るんですけどねえ。」
「ほんとにどこでもええんどす・・・」



第二話


「困ったなあ・・・」

行先を聞くまでは、むやみに交差点を曲がる訳にも行かなかったので、四条烏丸の交差点は取り合えず直進し、四条堀川へと向かいました。
道路は相変らずの混雑で依然のろのろ運転は変わりませんでした。

「お客さん、どこに行くのか言ってくれないと困るんですけどねえ。」

なかなか行先を告げてくれないお客さんに困り果てた私は、少々つっけんどんな言葉遣いになってしまいました。

「そやねぇ・・・あぁ、そや、どっか景色のええとこ走ってくれはりますぅ?」
「景色のいいところと言ってもいっぱいあるからねえ・・・具体的にどこか場所を行ってくれませんかねえ。」
「うち、あんまりよう知らへんから、運転手はんにお任せしますわぁ。」
「う〜ん、それじゃ、嵐山はどうですか?」
「せやなぁ・・・ほな嵐山へ行っておくれやす。」

私は思いつくがままに、よく知っている京都の景勝地の名前を出すと、女性は案外簡単に了解をしてくれました。
やっと目的地が決まったクルマは西へと向かいました。

(それにしてもこの和服の女性、いったいどうしたと言うのだろうか?何か訳ありのようだが・・・。)

タクシーに乗車する客はふつう目的地が決まっているものです。
それなのに「どこでも良いから走ってくれ」と言うのは、きっと深い訳があるに違いないと私は考えました。

嵐山に向かう途中、和服の女性はずっと黙ったままでした。
いつもならお客さんとの雰囲気を和らげるために、こちらから世間話をすることも多いのですが、この時はとてもしゃべりにくい感じがしたので私自身も沈黙していました。

嵐山に近づいた頃、和服の女性はぽつりと話しかけてきました。

「運転手はんはなんちゅうお名前どすか?」
「え?私の名前ですか?辻峰 裕太です。」
「そうどすか。うちは中小路 惠(なかのこうじ めぐみ)と申しますぅ。」

お客さんとお互いに名前を教え合ったのは初めてのことでした。
ふつうは聞かれもしないし、教えてもらえることなんてないですよね。
名前を尋ねられ、相手も自発的に教えてくれたことで、少し親近感が湧いた私は語りかけてみたくなりました。

「お客さんのお住いは京都ですか?」
「そうどすぇ。タクシーに乗ったあの近所どす。」
「へえ〜、四条河原町にお家があるとはすごいなあ。便利なところにお住いなんですね。」
「そうどすなぁ、確かに便利なことは便利どすなぁ。」
「あの辺でご商売でも?」
「親が和菓子屋をやってるんどすぅ。」
「ほう〜、あの辺で和菓子屋と言うことはかなりの老舗では?」
「そんなことあらしまへんけど。」

京都四条河原町で老舗の和菓子屋の娘・・・
しかも高価な和服を身にした麗人・・・
私とは掛け離れた世界に住む美女に、ふつふつと興味が湧き始めていたことは隠しようもない事実でした。

「ところで、こんなこと聞いていいのかどうか分からないですが。」
「どないなことどすかぁ?」
「何か悩んでおられるんじゃないですか・・・?」

私が何気に尋ねてみると、和服の女性の表情が急に曇り始めました。 いけないことを尋ねてしまったと後悔して丁重に詫びることにしました。

「かまへん。そんな謝らんでも。せやけど、やっぱり顔に出るもんなんやなぁ・・・」
「・・・・・・」
「実は・・・」



第三話


今日初めて会ったばかりのお客さんから、突然『実は』と切り出された時、驚いてブレーキを踏みそうになりました。
そして、思わずバックミラーに写った女性の顔を覗き込んでしまったのです。
女性もこちらを見ていたので偶然目が合ってしまい、きまりが悪くなった私はこちらから先に目を逸らしてしまいました。
目を逸らしはしましたが、はっとするようなその優美な顔立ちが脳裏から離れませんでした。
透き通るように色が白く目鼻立ちがよく整っていて、まるで名画から抜け出したような美女と言っても過言ではなかったと思います。

「うち・・・困ってますねん・・・」
「え?どのようなことで?」

本来なら触れてはならないお客さんの私的なことに、つい首を突っ込みたくなりました。

「せやけどぉ・・・こないなこと、見ず知らずのお人に話してもええもんやろかぁ・・・」

おっとりとした京都特有の口調は、関東出身の私には少々焦れったくもありましたが、それよりも色っぽい言葉遣いの京女と会話が出来ることを愉しんでいたように思います。

「無理に話さなくてもいいですよ。誰でもそっとしておいて欲しいことってありますからね。」
「う〜ん、そうやねぇ・・・運転手はんにもしゃべりたないことあるんどすやろなぁ・・・」
「ははははは、そりゃあ少しはねえ。はははははは〜。」
「そうなんどすか?あははははは。」

女性は笑顔に変わりました。
ところが笑顔もつかの間、女性はすぐに真顔に戻りました。

「せやけど生きていくのんて、ほんまに難しいもんどすなぁ・・・」
「そうですねえ。なかなか思うようにはいかないものだし。」
「時々、死んでしまいとうなることあるんどす・・・」
「え・・・?」

思いがけない言葉に私は驚きを隠しきれず、しばらくの間沈黙してしまいました。

(これはきっと何か深い訳があるんだ・・・。)

「でも死んだらおしまいですよ。」
「そのとおりどすなぁ・・・」
「せっかくもらった命なんだから、粗末にしてはいけないと思いますよ。」
「うん、そやねぇ・・・」

その頃、クルマは嵐山に差し掛かっていました。
土日は人出の多いところですが、さすがに平日は空いていました。
観光客もまばらです。

「この辺りでどこか行きたいお寺などはありますか?」
「いいえ・・・特に・・・」
「そうですか。それじゃ、どうでしょうか?趣を変えて、保津峡へいってみましょうか?」
「保津峡どすかぁ・・・」
「はい、保津峡は駅が京都市内だと言うのに、周囲には民家が一軒もなくて、山に囲まれた秘境めいたところが素晴らしい。いかがですか?」
「京都市内どすか・・・。そやねぇ、なんとのぅ京都から離れとおすんや・・・」
「え・・・?京都から離れる?そうですか・・・」

景色の良い嵐山や保津峡に行っても女性の浮かない表情は変わらなくて、私ははたと困り果ててしまいました。

(それにしてもわがままな人だなあ。メーターもどんどんと上がっていくばかりだし・・・)

「でもお客さん、あちこち行ってたら料金がかなり嵩みますよ。いいのですか?」

メーターが跳ね上がっていく度にわずかですが不安を感じ、私はつい尋ねてしまいました。



第四話


「おほほ、料金どすか?そんなこと心配せんでもよろしおす・・・」

女性はそうつぶやくとハンドルを握る私の肩をトントンと叩きました。
運転中だったこともあって、ほんの一瞬振り返りましたが、女性は金を差し出している様子が伺えました。
私はさりげなく、

「料金は後払いで結構ですよ。」

と述べると、女性はもう一度私の肩を叩きました。

とりあえず私はクルマを道路わきに寄せて、ゆっくりと後部座席を振り返りました。
女性は1万円札を数枚差し出してきました。

「そないにゆわんと、とにかくこんだけ取っといて。足らんかったらあと払いますよってに。」

預かり金と言うことにして、私は一旦受取り札を数えてみました。
驚いたことに札は5枚もありました。
あまりの金額の多さに私は戸惑いを見せ、

「お客さん、5万円もあるじゃないですか。多すぎますよ。仮にこのタクシーを1日貸切ってもまだお釣りがきますよ。多過ぎるのでお返しします。」

私はそういって、1枚だけ預かることにして、残りの4枚を返そうとしました。
ところが、
「よろしおすがな。うち、さっきから、わがままばっかりゆうてるしぃ。それにまだあっちやこっち振り回すかも知れへんし。」

などといい、出した金を受け取ってくれませんでした。
私はやむを得ず5万円を預かることにして、降車時に清算し残りを返そうと思いました。

(それにしてもこれほど気っ風のよい女性も珍しい。よほどの大金持ちなのだろう。)

と思いました。
度肝は抜かれたものの、自身は、今日1日の水揚げの心配もなくなり、正直なところ、大変ありがたかったことを記憶しています。

それにしても、女性は一体どのような理由で、このタクシーに乗ってきたのでしょうか。
そしてどのような所へ行きたかったのでしょうか。
いや、真に目的地などはなく、とても辛いことがあって気を紛らわすために気晴らしをしたかっただけなのでしょうか。
不可解極まりない女性ではありましたが、その謎は次第に解けていきました。

「運転手はん・・・」
「はい?何か?」
「どこか、温泉あらへんやろか?」

ポロリと女性がつぶやいた言葉に私は唖然としてしまいました。

「えっ?温泉ですか・・・?」
「なんやら急に、温泉行きとうなんったんどすぅ・・・」
「京都で温泉ね・・・。え〜と、この辺りだったら、亀岡に湯の花温泉がありますけど。」
「いや、京都以外の方がええんどすぅ。遠てもかましまへん。どこぞええ温泉連れて行っておくれやすなぁ。」
「はい、分かりました・・・。」

しばらくは困惑した私でしたが、ふと兵庫県宝塚市にある宝塚温泉が浮かびました。
宝塚温泉は関西のお膝元にある温泉で、阪急宝塚駅の南、武庫川沿いに多くの宿が並んでいます。
開湯は奈良時代といわれていて、かなり歴史のある温泉です。
一度タクシー会社の慰安旅行で行ったことを、ふと思い出したのでした。

「宝塚どすか?」
「はい、そうです。」
「歌劇団で有名どすなぁ。温泉あるん知りまへんどしたぁ。」
「とても良い温泉があるんですよ。」
「こっから遠いんどすか?」
「少し時間がかかりますけど。」
「かかってもかましまへん。そこ行きとおす。」
「分かりました。じゃあ。」



第五話


タクシーは嵐山から保津峡方面へと進んでいましたが、ようやく行先が決まり宝塚温泉へと行くことになったため、進路を変えて、京都南インターを目指しました。名神高速で西宮インターへと向かい、さらに阪神高速池田線から中国自動車道へと進み、宝塚インターを降りて国道176号線で宝塚へと向かうコースを描いたのです。
いずれにしても、行先が決まったことで、私はホッと胸を撫で下ろした気持ちになりました。だって目的地も決まらずに走るのは、タクシードライバーにとってはかなり辛いものがありますからね。

いつもは混み合っている名神高速も、その日は不思議なことに空いていて珍しく快適に飛ばせました。
天王山トンネルを少し過ぎた辺りだったでしょうか。
女性は聞きもしていないことを、突然ポツリとつぶやきました。

「運転手はん、うち・・・実は結婚してますねん・・・」
「え・・・?あ、そうなんですか・・・。」

その一言を耳にした時、かすかな落胆があったことは嘘ではありません。
タクシーに乗車してきたお客が既婚者であろうが、未婚者であろうが、私には関係ないはずなのですが。

「そないに見えます?」
「いいえ、独身かと思ってましたよ。」
「やぁ、嬉しいこと言わはるわぁ。おおきにぃ。うち、結婚して3年目になるんどすえ。」
「そうなんですか。でもまだお若いんでしょう?」
「今、25どす。うち一人娘やったさかい、婿養子もろたんどす。親が家の商売、どないしても絶やしたらあかんからゆうて。」
「それはまた今時珍しいですね。」
「ほんで、すぐ縁談、持ち上がって。」
「で、好きでも無い人と結婚したと?」
「その頃、うち、好きやった人と別れた直後やったんどす・・・。かなり落ち込んどりましたなぁ。そんな時、親の勧めるままに、よう知らん人とお見合いして。優しそうな人に見えたし『まぁ、ええわ。誰と結婚してもおんなじや』と軽う考えて、なんぼも日が経たんうちに結婚したんどす。」
「失恋の反動もあったんでしょうねえ。」
「あとで考えてみたらそのとおりどしたなぁ。」
「優しい人ではなかったと?」
「いいえ、優しいことは優しいんどすけど・・・」
「どんな不満があるのですか。」

私は普段なら立場上お客に決して聞かないことを、その時はつい尋ねてしまったのです。
どうしても聞きたい、と言う衝動が私の中にあったことは事実です。

「浮気どす・・・。」
「え・・・?」
「あの人、この数ヵ月ずっと浮気したはるんどす・・・」
「・・・・・・」
「一晩帰ってきいひんこともしょっちゅうあるし・・・そやそや、この前、スーツのポケットにラブホテルのライター入ってたんどす」
「それはまた・・・」

私はどう返事をすれば良いものか、言葉に窮しました。
そこまで証拠を押さえていれば、慰めの言葉も通じないでしょうし。

「うち、情けのうて・・・・・・毎日が辛ろうて辛ろうて・・・・・・」

女性はシクシクと泣き出しました。



(つづく)

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