短編/チル 最後のキス



本作品はフィクションです。
全3話読切りです。







街角ではすでに春を先取りして、各店のウィンドウでは白っぽいものに変わり始めていた。
バレンタインから1ヵ月…まもなくホワイトデイだ。
今年のバレンタイン・デイ…チルは彼…俊介にネクタイと手作りのチョコレートをプレゼントした。
俊介がそれを大変喜んでくれたことに、チルはとても満足していた。

「ホワイトデイは何を買ってあげようかな〜?」

などと早速に聞く俊介に、チルは、

「そんなに気を遣わなくていいわ。これは私の気持ちなんだから。」

と答えた。
そうは言っても、ホワイトデイをふたりで過ごせること…チルは楽しみにしていた。

しかし、そんな幸せ絶頂のチルに、突然、悪夢のような出来事が襲いかかった。
俊介が倒れたのだ。
彼の肉体をいつのまにか蝕んでいた病魔…

そう、俊介は今、真っ白なシーツのベッドに横たわっている。
もうベッドから起き上がることも期待できないほどの病。
俊介の意識は次第に薄れ、鼓動もかなり弱まっている。

(どうして…どうしてなの…もう一度、もう一度、元気になって…)

生涯をともに過ごしたいと願っていた人なのに、残酷にも天命はふたりを引き離していく。
日々、チルの頬に涙が涸れることはなく、ときには神さえも憎みたいような気持ちになった。

先のことなど考えないようにしよう。
チルは俊介のことを考える時は、楽しかった時のことを考えるように努めた。

湘南の浜辺に1日中寝転がって、愛を語り合ったこと…
縁日の夜に金魚すくいをしたこと…
京都まで旅行し、寺院で見たあの真っ赤な紅葉…
だけど、一番忘れられないこと…それはふたりが初めて結ばれた夜…

それらの光景が、チルの脳裏を走馬灯のように駆け巡った。
ある些細なことが切っ掛けで、1週間口を利かなかったこともあったっけ。
今思えば、大事な時間を無駄にしたものだと悔やんでもみた。
人は生まれてから死ぬまで数々の人々と巡り会うが、生涯を通して苦楽をともにしたいと思う人などそんなに現れるものじゃない。
そんな人とやっと出会えたのに、もう別れが目の前に見え隠れしている。
それも永訣と言う名の別離…。

  チルは彼が好きだったカサブランカの花を持ち病室に入った。
彼は眠ったままだった。
誰が見舞いに来てもきっと気づかないのだろう。

(私が来たことも彼は解らないのかしら…)

チルは俊介の手を握ってみた。





「俊介…私よ、チルよ…、俊介…」

握った手を握り返してくれるのでないか…そんなほのかな期待を胸にチルはそっと差し伸べた。
だけど何の反応もなかった。

チルは込み上げてくる涙を押さえようともしないで、昏睡状態の俊介に語り掛けた。

「ねえ、俊介…もう一度…もう一度だけでいいから私にキスをして…あなたの熱いくちづけを私に…」

消え入りそうな声…いや、言葉にならないほど弱々しい声… 握った俊介の手の甲にポタリと一滴、チルのしずくが落ちた。

俊介は入院して間もない頃、チルに言った。

「もしも僕がとんでもない病気と判って、助からないのであれば、僕に必ず伝えてね…」と。

家族が医者に呼ばれ、俊介の寿命が幾ばくもないことを告げた。
家族は嘆き悲しんだが、翌日、俊介の母は婚約者であるチルにもそっと知らせたのだった。

その思い掛けない知らせに、チルは嘆き悲しみ、3日3晩泣き通した。
食事など喉を通るはずもなかった。

家族は俊介には告げなかった。
当然、チルもそのことには触れないようにした。
見舞いに行くのがとても辛かった。
俊介の顔を正視できなかった。
日増しに俊介の衰弱は酷くなるばかりだった。
もう目も開けられなかった。
やがて意識が薄れていった。

もうチルの声すら届かなくなっていた。
今日、一段と鼓動が弱くなった。
医者の表情が険しく変わり、看護婦に家族へ連絡をするよう指示をした。
点滴の容器が取り替えられた。
医者が脈拍を計る。
もうかなり弱っているようだ。

「俊介さん、しっかりして…お願い…もう一度、もう一度、目を開けて…もう一度私を見て…」

チルの目頭から大粒の涙が伝った。
涙は俊介の頬にポタリと落ちた。
その時俊介は僅かに反応を示した。
目は閉じたままだったが、頬がピクリと動いた。

「俊介さん…私って判るのね?チルだよ。ここにいるよ…俊介さん…」

俊介には最後の意識が僅かだが残っていた。
目は見えない、音も聞こえない。
だけどそこに人がいる。そこにいるのはチルか?
愛しい愛しいチルなのか?
微かな意識の中で、何かを言おうとした。
だけど言葉にならなかった。

医者と看護婦が手当てをする間、チルはずっと俊介を見つめていた。

(もう一度だけ目を開けて…、お願いだから…)

チルはそう願った。





思い余って、チルは医者達の見守る中、驚くべき行動を取った。
俊介の唇に自分の唇を重ねたのだ。

(これが…これが、あなたとの最後のキス…

あなたの唇の暖かさ…これが最後なのね…

私を、私を、忘れないで…

たとえ死んでも私を忘れないで…

雲の上から私を見つめる時、このキスの味、思い出して…)

それはとてもとても長いキスだった。
医者や看護婦達はふたりの様子をただ見守るだけであった。

その時だった。
意識が薄くなっているはずの俊介の眼孔が僅かだったが瞬(まばた)いた。
医者達は驚きのあまり、言葉を失ってしまった。

俊介のかすれたレンズの向こうにチルの顔が薄らと映った。
チルは驚きと嬉しさで、涙を流し始めた。

だが、その瞬間を境に、俊介の意識が薄れていった。
チルの悲しそうな顔…
それは俊介がこの世で最後に視野に入れたものだった。

チルの想いが通じ、彼の瞳を開けさせたのだろうか。
この世の名残に愛する人と最後のキスをしたい…という心情が奇跡を呼んだのだろうか。
最愛の人との邂逅(かいこう)…そして永訣…
窓の外では春が近いと言うのに、粉雪が舞い始め、ピューピューと悲歌(エレジー)を奏でていた。
まるで今生の別れを惜しむように。

俊介の意識が希薄になっていった。
そして、何も感じなくなってしまった。

ちょうどその頃、俊介の家族が駆けつけていた。

医者はモニターの中に続いていた鼓動を示す振幅が止まるのを何度も確認し静かに告げた。

「ご臨終です。」

その直後、病室の中は、慟哭に包まれた。

チルの心は、雪が舞う外よりも、もっともっと冷たく凍てついてしまった。






早春の 窓辺に咲きし 露の花


瞼閉じれば 今なお笑顔





01/02/24


(完)












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