◇山田勇男監督情報◇

ISAO YAMADA

2003年7月12日より渋谷ユーロスペースにて
山田勇男監督作品蒸発旅日記公開

2003年7月13日ワイズ出版より星のフラグメント山田勇男のあしおと発売



懐かしさの記憶★セルロイドの感情
寺山修司に師事し、稲垣足穂と宮沢賢治をこよなく愛する銀河画報社と山田勇男の儚き映像世界の軌跡。


プロフィールはご本人の許可を得て山田勇男監督の本 「YAMADA ISAO 【夢のフィールド】」 よりの抜粋になります。

無断転載は厳禁です。

「銀河鉄道の夜」から「夢を冠に」まで、全作品を網羅―。
T銀河画報社映画倶楽部初期 U銀河画報社映画倶楽部集成期
V現象としての映画 W影ーもうひとりの私 X光りのありかへ Y夢の感覚
<執筆者>あがた森魚・大林信彦・かわなかのぶひろ・川本三郎・上林栄樹・木村威夫・坂本祟子
手塚真・友部正人・中島洋・西嶋憲生・花輪和一・林海象・原ますみ・正木基・松枝到
三浦雅士・宮迫千鶴・山崎幹夫


1952  6月9日、北海道夕張郡に生る。
1958  小学校入学。
1962  はじめて海をみる。途方もないという感覚が残った。
1963  はじめて眩暈を体験する。本当に地球は廻っている、と思った。
ソ連のガガ−リンの伝記を読む。何故か自分がここにいる、ということに不安を覚える。
1965  中学校入学。美術部入部。
はじめて本を買う。「罪と罰」で緑色の箱入り。
体育の授業中、左手骨折。ノートを書いてくれたU君の書体が好きで真似てみた。
1968  高等学校入学。美術クラブへ顔を出すが、女子だけなので辞める。
N君に誘われて柔道部へ入団。二年時、講道館柔道初段。
1970  N君の本棚から一冊の書物。「書を捨てよ町へ出よう」寺山修司著を借りて読む。
中原中也、ランボーを読む。
はじめて煙草を買う。
1971  北海道美術学校入学。
1972  はじめての恋愛S。宮沢賢治の世界を知らされる。
寺山修司監督「書を捨てよ町へ出よう」を観る。「コカコーラの瓶の中のトカゲ・・・」、「僕たちは僕たちの向かう方向の中でしか生きられない」、「もう映画は終わりだ、あとは俺の喋る番だ・・・」の台詞と人力飛行機のシーンは、今でも良く覚えている。
ヌーベルバーグ作品を観に行く。
教師を辞めて看板職人になったM君の兄に会う。部屋を訪ねた時、異端の世界がぎっしり詰まっていて、出会った、という感慨があった。ダブル8ミリカメラを借りて、空や森や廊下そしてSとの散歩を写したが、後日二度と見れることがないと思いそのフィルムを捨ててしまう。
唐十郎「二都物語」を北大構内で観る。
1973  四月、デザイン会社入社。
アンダーグラウンドファクトリーの上映を何度か見に行くが、馴染む作品が少なかった。シュールレアリスムなどの自主上映作品が好ましかった。
マヤ・デレン「午後の網目」、ヴニュエルとダリの「アンダルシアの犬」などに衝撃を覚えた。
湊谷夢吉と出会う。湊谷夢吉主宰漫画同人誌「銀河画報」の設立に参加。
1974  一月、寺山修司主宰「天井桟敷」入団試験のため千歳空港へ行くが、大雪のため運休、長距離電話をする。受話器を受け取った人が、後に出会う稲葉憲仁だった。
二月、ふたたび入団試験の報あり、上京。この夜、ほとんど2〜3日で仕上げた幻燈「ITOSHI NO TERAYAMA」(音楽には、シバのレコードを使い、「天井桟敷」入団のため云々というモノローグをいれた)の上映と湊谷夢吉等の歌が催された。
三月下旬、代沢にアパートを借りる。
六月はじめ寺山修司から挿絵を頼まれ壱万円頂き、記念に板垣足穂の「ヰタ・マキニカリス」買う。この頃、タルホ・ケンジを耽読する。
八月帰省。
九月映画「田園に死す」寺山修司監督の意匠工作のため上京。花輪和一に出会う。
十一月、帰省。複写機十部詩集「センチメンタル・ジャニ−」。
十二月「紅燈夜曲」漫画本ガロに投稿落選。藤木光次に出会う。
1975  四月、映画看板屋に勤める。
漫画「TRAVELING TO THE MOON IN 1902」詩集「山猫詩」銀河画報に「赤魚河岸」「夢ノ工作」を描く。
1976  三月、寺山修司より「母をたずねて三千里」双六、家族合わせを依頼され仕上げて上京。
映画看板屋退社。
六月、スキー工場のマークを印刷する仕事をする。
七月、実験映画展「寺山修司★ジャン・ジュネ」を湊谷夢吉と札幌、旭川で自主上映する。
十一月、寺山修司より「千一夜双六」を依頼され、仕上げる。
十二月、スキー工場退社。
1977  一月、上京して双六全版二枚描きあげる。
ただ絵を描いていられる話があり、上京の意志がついた時、結局中止になる。長いお詫びの手紙と、ひとつの挫折の思いが相まって泣けて仕方なかった。この時期、夜中「終電の審美」という言葉で目が覚めた。銭湯の喜びを知る。
四月、看板屋に勤める。
十月「ボクサー」寺山修司監督作品に、美術協力として一週間程度上京する。
帰ってきて六月より準備していた8ミリ映画処女作「スバルの夜」を、湊谷夢吉、稲葉憲仁、藤木光次、阿部崇文、田川真理子らと銀河画報社映画倶楽部として制作。
1978  二月三日、Mと結婚。
五月青森へ小旅行。「夜窓」(8ミリ)制作。
十一月、「草迷宮」寺山修司監督作品の美術を担当。
1979  五月、「春の憂鬱」(8ミリ)原案作り、湊谷夢吉に話するも結局中止。
十月、「オフシアターフィルムフェスティバル」に「スバルの夜」入選。
詩集「ヤマダ製夜巻煙草、一服」、版画集「山猫版画」をつくる。
1980  一月、湊谷夢吉に「海の床屋」(8ミリ)の話をする。三月ロケハン後十二月二十日完成。
十月、はじめて油絵を描いて当時公募していた、道展に出品するも落選。
1981  四月、N君の8ミリ緊縛映画「紅色夢幻」に美術・助監督として参加。
五月、「山田勇男作品集」をイメージフォーラムではじめて上映。
六月、「家路」(8ミリ)の話を進める。十月撮了。十二月二十日完成。
十一月、「さらば箱舟」寺山修司監督作品に衣裳デザインとして参加。
1982  一月、「銀河鉄道の夜」〈8ミリ)脚本進まず。
四月、吉田道雄と絵画展。ぴあフィルムフェスティバルに「家路」入選(寺山修司・選)
1990  七月二十一日、・・・と、三十歳の春に、自分のひとくぎりも含めて、無名の年譜を書いてみた。ただ印象に残っていることなど、好き勝手に書いてみて随分と恥ずかしい思いをした。それを今度、カタログ作成にあたり書いてみないかと促され写し書きしたものの、恥ずかしさに変わりない。これを人に読ませるのはどうかと思うが、人は他人(ひと)に興味がある。サーヴィスではないが仕方ない。
今年の六月で三十八歳になった(1990・7) あれやこれや思うが、どうも小学六年生あたりの思考回路に、改めて気付いてやはり「生れてすみません」とまではいかなくとも、とりあえずこんなことを書くことになったことを不思議に思ってしまう。たかが、と思いながらノスタルジーの煙に巻かれたみたいな気分になっている。
翌年の寺山修司の死、アメリカ横断独り旅、祖父母・友人、知人の相次ぐ死、離婚、湊谷夢吉の死。三十歳からの八年間を、書き写したようにいま改めて同じような書き方をする程の気持になれなくなった。どうでもいいのだ。すくなくとも、もうどうにもならないのだ。〜つづく〜


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検討中


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