2003年 9月

――敬称略・逆日付順――



9月28日  21日  19日  10日〜7日  6日〜2日

9月28日
2003年09月28日(日)  14:12

波自加彌神社、お参りしてきました。

発信:前田cさん

由緒というのか、歴史の重みを感じてきました。
かなり階段を上って神社があって、後ろのうっそうとした森にも厳かさを感じました。
父母(母は病院から一時外出をして)と一緒に行きました。(ちゃんと車でも神社まで登れるようになってます)
香辛料・医薬・産業の神様ということで、兄が薬剤師(今は病院ではなく厚生??省にいるのですが)なのと、リウマチは投薬治療しかないことで、近くにいてもこれまで全く知らなかったのだから、両親ともに、これもなにかの御縁だと、大変喜んでいました。
場所がわからなかったので、従兄弟が神社近くに住まいの知人に場所を聞いてくれ、そこを訪ねたところが一軒家。どうやら田近宮司さんのお住まいとのことで、慌てて通りがかった方に聞きなおして神社へ行きました。
さすがに直接宮司さんを訪ねることはできませんでした。という、ちょっと楽しい寄り道もしてきました。

石段下の一の鳥居

拝殿


管理者:西尾からのレス

文庫巻7[兇賊]の芋酒屋の亭主・九平が加賀の田近谷の出身ということで、金沢の波自加彌(はじかみ)神社の田近宮司さんから、08月22日付でメッセージをいただいていました。
羽咋ご出身のcさんが、帰省ついでに参拝なさるということだったので、写真をお願いしておきました。
波自加弥神社は香辛料だけでなく医薬にも関係があるとのこと、ご入院中のご母堂とお父上ともども参拝されたそうで、よかったですね。

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9月21日
2003年09月21日(日)  09:35

薬店が線香を……

発信:森下文化センター〔鬼平〕クラス
   渡辺晶子さん

〔鬼平〕クラスで、文庫巻1[浅草・御厩河岸]をテキストにしたときのこと。
父親の卯三郎が、豆岩こと岩五郎少年を京橋・西紺屋町の線香問屋〔醒井屋〕甚助へ丁稚方向に出した(p131 新装p139 )とあるところで、
「線香問屋というのはきわめて珍しい存在だ。ふつうは薬種問屋が、絵の具や丸藤などともに扱っている。もっとも池波さんは、業種別に編集されている『江戸買物独案内』の線香問屋の項をみて〔醒井屋〕をピックアップしたのだろうが、『買物独案内』のそれぞれの広告を町ごとに編成しなおすと、線香問屋は薬種問屋の1扱い商品であることがわかる」
と教えられました。
それでそれとなく注意していたら、〔三越・日本橋本店〕でこんな表示板を目にしまして、思わずニンマリ。


地下鉄(半蔵門線)口近く。


管理者:西尾からのレス

珍しい標識板を見つけましたね。
薬種問屋に、池波さんは(やくしゅ)とルビをふることが多いが、『江戸買物独案内』では「く」の項へ掲出されているから、(くすりだね)でしょう。
(「やくしゅ」例:文庫巻7[隠居金七百両]p55 新装p58)
が、『江戸名所図会』は、日本橋本町(ほんちょう)の薬種問屋に(やくしゅ)とふっており、池波さんはこっちを採用したとみます。

『江戸買物独案内』(1824 文政 7年刊) 本町あたりの薬種問屋の扱い品目。



9月19日
2003年09月19日  22:14

[彩色『江戸名所図会』の世田谷区]展ギャラリー拝見

発信:学習院大学・生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   田中国弘さん

学習院〔鬼平〕クラスの黒崎朔子さんからご案内いただいて、都営三田線の地下通路ギャラリーに行ってきました。世田谷区の名所図会を数多く彩色展示され、江戸時代の世田谷の状況がよみがえるように想像され、たのしく観賞させていただきました。
色使いも統一され全体の一体感がでてとてもよかったと思います。
09月29日まで展示とのことでした。


管理者:西尾からのレス

黒崎さんは、お齢にもかかわらず、かつて習い覚えた水彩画の技法を駆使、熱心に彩色されています。
今回の都営三田線の地下通路ギャラリーでの展示は、その成果です。すばらしい出来ばえとおもいます。
ぜひ、見てあげてください。
遠方の人は、まもなく、当HPの[テーマ画廊]にアップされますから、そちらでご観賞を。



2003年09月19日(金)  16:32

〔まちやうさぎ〕

発信:〔鬼平〕熱愛倶楽部 おまささん

今日、09月19日のこのコーナーに紹介された〔まちやうさぎ〕のパッケージ・デザインは、細矢さんの奥さまのものですよ。
パッケージの外粧の紙は裏返すと文庫カバーにも。
町屋店のギャラリーオープン時に晶子ちゃんと2人でおしかけました! 細矢さんと奥さまへご挨拶して和菓子と抹茶をいただきました。
喜田屋は足立区では有名な和菓子舗です。


管理者:西尾からのレス

朝日カルチャーセンター(新宿)の〔鬼平〕クラスの細矢さんの夫人がミニチュア人形づくりのベテランとは存じ上げていたけれどパッケージ・デザインまでなさるとは!
しかし、おまささん。そこまで関係していて、倶楽部で何度も呼びかけているのに、〔まちやうさぎ〕を報告しなかったのは、どういうわけ? 情報密偵でしょうが……。



2003年09月19日(金)  12:35

〔うさぎ饅頭〕の目は羊羹です

発信:岡山市高柳西町 9-20(有)宮雀
   従業員の坂本ひとみさん

先日は、当店の〔うさぎ饅頭〕をホームページに載せていただき、本当にありがとうございました。
私の愛するお饅頭を見た時には、とてもうれしくてお店のみんなで、楽しく拝見しました。
おかみさんも感謝していると伝えてくださいとのことです。(うさぎの目の素材のことですが、「お羊羹」です)。


管理者:西尾からのレス

こちらこそ、〔うさぎ饅頭〕コーナーをにぎわせていただき、ありがとうございました。
これまで世界の有名銘柄約 200社と英王室御用達約 250店を現地取材してマスメディアに紹介してきましたが、欧米の一流店といわれるところは、掲載誌を送るとすぐさま礼状を寄越しました。日本の老舗も 100店ばかりマスメディアに紹介しましたが、礼状がきたのはほんの 2,3店でした。
彼我のビジネスマンの心がけの違いを憂慮していましたが坂本さんのお便りにホッとしています。

    
『世界名店さんぽ』(誠文堂新光社 1982.01.07刊 絶版)
『パリ名店さんぽ』(誠文堂新光社 1983.04.20刊 絶版)
『世界の一流ブランド』(誠文堂新光社 1982.05.10刊 絶版)

  
『ヴィトン読本』(グラフ社 1982.12.10刊 絶版)
『磁都の旅 マイセンと景徳鎮』(鎌倉書房 1981.06.20刊 絶版)

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9月10日〜7日
2003年09月10日(水) 10:23

ケニヤのニジリ王の孫です

発信:ロンドン在住、ニジリさん

“Advertisements of VWBeatle”のHPに紹介されている、「妻を34人も持っている酋長にも、倹約は美徳です」という作品のニジリ王は、私の祖父です。できたら、この作品のコピーをお送りいただけませんか? 費用をお知らせください。
私はいま、ロンドンに遊学中なのです。


管理者:西尾からのレス

“Advertisements of VWBeatle”は、管理者がかつて現役コピーライターだったころに、米国VW社の広告を創っていたニューヨークの広告会社――Doyle Dane Bernback社――略称DDBを、毎年2回ずつ訪問、制作部門の人たちと仲よくなって集めた作品の一部を、世界のクリエイターの発想訓練用として紹介しているものです。

“Advertisements of VWBeatle”へは、当HPのリンク・コーナーからもお入りになれます。
ニジリ王のお孫さんへは、もちろん、ご指定の作品のカラーコピーをお送りします。


ケニヤのVWディーラーのPR誌に載った記事から発想された広告でしょうね。20世紀最高の広告キャンペーンと称されているこの作品群の発想の源泉は、工場見学のときのオリエンテーション、世界各地のVWディーラーのPR誌の記事、そしてクリエイター自身の人生体験です。
HP“Advertisements of VWBeatle”のもとになったのは、西尾忠久編・著『企画のお手本』(KKロングセラーズ 1986.05.10刊)です。


『企画のお手本』(KKロングセラーズ 1986.05.10刊)


ついでですから、作品の訳文を掲載します。

  妻を34人も持っている酋長にも、倹約は美徳です

 大きくて、速くて、高価な車は、常に王族の熱情の対象でした。しかし、ケニヤのニジリ王のような王族は、たぶん、余計な熱情など持ち合わせてはいないのでしょう。
 あるいは、余計なおカネの持ちあわせがないのでしをしょう(最近では王様商売もあまり儲からなくなったようです)。だからニジリ王のような王様には、フォルクスワーンがぴったりというわけです。
 新車で 1,639ドルという値段は、新妻の値段とそう変わりませんしね。それに、維持費を比べればVWのほうがずっと安くてすみますからね。
 ガソリン1゙で11.5kmは走ります。タイヤも64,00km0はもちます。
 フォルクスワーゲンの部品交換はとても簡単です(フェンダーの交換は20分、エンジンの取り出しも45分しかかかりません)。だから修理も簡単で格安です。
 かつ、分解しない場合のVWは、すばらしく長持ちしますよ。だから、中古のはすごく値が張り、程度もすごくいいですよ。
 年とった酋長が狩りに行く時だけに使っただけの中古車だったらとくに……ね。


これは、30年ほど前、1970年代の作品です。ロンドンで遊学中の孫のニジリさんが生まれる前のお爺ちゃん酋長のご尊影かも、ね。そして、VWはケニヤの草原をまだ元気に走っていたりして。

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2003年09月07日(日) 10:05

鬼坊主清吉についての記述

発信:西尾のリポート

07月13日の当掲示板での「文庫紹介」で、諸田玲子さんの『鬼あざみ』と池波さんの短編[鬼坊主のおんな]の関係について報じました。
そのとき、鬼坊主の辞世の歌――

 武蔵野に 名もはびこりし 鬼薊(あざみ)
          今日の暑さに 乃て萎(しお)るる


が、『大日本人名辞書』に載っていることを、井家上隆幸さんが解説に書いている、とも添えました。
月1の静岡県立図書館通いで、今朝、『大日本人名辞書』(講談社)が入口の「草柳大蔵寄贈文庫」の中にあるのを見つけ、開いてみました。奥付は、
明治19年(1886) 4月15日初版
昭和49年(1974) 8月28日改訂第 1刷
昭和52年(1977) 8月28日〃 第 3刷
草柳さんが蔵書したのも、けっこう遅かったのですね。
さて、本文――

オニバウズ セイキチ 鬼坊主清吉 兇賊、強盗追剥等を犯し天下に出没す。勢州にて縛に就き文化 2年 4月26日江戸に押送せられ 6月26日他賊 2人と引廻しの上千住に梟せらる辞世の狂歌「武蔵野に名もはびこりし鬼薊今日の暑さに乃て萎るる」浅草新鳥越町妙光山圓常寺に墓あり(街談文々集要)

「オニバウズ」との表記が、いかにも明治19年の記述って感じ、丸出しですね。
文化 2年(1805)に捕縛、というと……長谷川平蔵の歿年は寛政 7年だから10年後……平蔵の火盗改メの任期中にはまだ兇賊になっていなかったか?
墓が大正 2年(1913)に浅草・吉野町の圓常寺から雑司が谷霊園へ移ったことは、堀 眞治郎さんが 7月22日付の書き込みで報告されました。

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9月6日〜2日
2003年09月06日(土) 12:36

「満開佐倉文庫」という本

発信:佐倉市在住の御台さん

佐倉市役所の学芸員の内田儀久さんが、中央公論から「満開佐倉文庫」という本をお出しになりました。
【3】佐倉本を集めるの項に、『鬼平犯科帳』からも何人か出てきます。以下引用。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公・長谷川平蔵は、若き日に道場で剣術の鍛錬をしますが、この道場主高杉銀平は佐倉の在の郷土という設定です。(「本所・桜屋敷」)平蔵は、めっぽう強いのですが、その腕前を佐倉の人が育てたんですね。そして、平蔵の剣術友達にも佐倉の在の郷土岸井左馬之助がいました。平蔵の脇役でもあります。(「兇剣」)
このように佐倉にゆかりのある架空人物が、『鬼平犯科帳』で重要な役目を果たしています。
それから、平蔵の下働きをする女密偵・おまさの叔母は佐倉の在に住んでいました。(「狐火」)
また左馬之助が幼いときに印旛沼で水遊びをしていて溺れかかったことがありましたが、その彼を助けた人物が臼井の鎌太郎で後に盗賊となります。(「駿州・宇津谷峠」)さらには、佐倉十一万石の堀田家の庇護を受け、月に何度かは、堀田家の江戸屋敷におもむき、儒学の講義をする吉田休甫という人物もいました。(「炎の色」)
『鬼平犯科帳』シリーズに登場する人物の出身地別登場回数を調べたわけではありませんが、意外と佐倉は上位に食い込むのではないかと思っています。そのようなわけで、『鬼平犯科帳』は佐倉本を語る上で書かせない一冊です。
著者の内田さんは、ご自身のHP[佐倉と印旛沼]もお持ちのようなので、DM書いてみます。そして、西尾先生のHPに投稿していただけるようにお願いしてみますね。
この方の本の中でも紹介されていますが、『鬼平犯科帳』に限らず、佐倉は文学・推理小説・時代小説の分野に驚くほど登場しています。
明治期の作家の周辺に、佐倉にゆかりのある人々がいました。
森鴎外に漢文を教えた依田学海、夏目漱石や正岡子規の友人であった浅井忠、また芥川龍之介の隣家に香取秀真の家がありました。鴎外『ヰタ・セクスアリス』には、旧佐倉藩士であった依田学海が文淵先生として描かれています。これは鴎外が、若き日に学海から漢文を習っていたときの話を描いた作品です。
佐倉には小説の舞台となる場所があるのですね。
池波先生との接点は……いったいどのあたりなのでしょうね。


管理者:西尾からのレス

佐倉出身は、文学にかぎらず、長嶋茂雄さんもでしたね。[炎の色]の、浮世小路に住んで佐倉藩の庇護を受けている書道指南の吉田休甫は、架空の人物です(p176 新装p171 )
高杉銀平も岸井左馬之助も物語上の人物であることは、もちろん、いうまでもありません。高杉師は「佐倉の在」、左馬之助は「臼井」の生れ。師の遺骨は左馬之助が「臼井」の寺へ葬ったのでしたね。
そういえば、おまさの父の〔鶴(たずがね)〕の忠助には言及されていないようですが、故郷が[血闘]に「下総のどこか」とあるきりだからでしょうか。
ついでなので。佐倉市が市制を敷くにあたり、どんなふうに広がっていったか……鬼平のころから90年ほどあとの明治20年(1887)に、参謀本部陸軍測量部が出した「佐倉」と題した20万分の1の地図に、「郵便番号簿」の地名をのせてみました。佐倉市が東西よりも南北へ拡張していったさまがよくわかります。

明治20年・陸軍測量部製[佐倉]の部分
地図内の
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