2003年 8月

――敬称略・逆日付順――



8月30日〜25日  23日〜17日  16日〜11日  9日〜4日

8月30日〜25日
2003年08月30日(土) 23:05

江戸時代の名主

発信:長屋の隠居さん

(徳川時代の)旗本は殿様の呼称で天領(将軍の直轄地)にある知行地を支配していたが、生活の地盤を江戸の中に置いているので農業についての知識は乏しく、年貢の取り立てはもっぱら地頭(旗本の代理人)に任せられた。
旗本は原則として知行地を直接見ることはしないで地元に任せきりにし、土地の名主は身分は百姓ではあるが(隠し姓を持ち)、とても教養があって地元農民を代表して年貢の額を出来るだけ押さえ、地頭の言いなりにはならないようにしていました。
平蔵の実母も実際は房総の出らしいのですが、おそらく地元では相当に名のある家の娘で行儀見習いで江戸に奉公したのでしょう。


管理者:西尾からのレス

平蔵宣以(のぶため)の実母については憶測がいろいろあり、知行地の千葉県成東町寺崎の庄屋の一軒だった戸村家の娘説もそのひとつです。
当HP〔井戸掘人のリポート〕コーナーに、宮田一郎さんの「成東町下見報告」がありますから、まず、それをお読みになることをおすすめします。
当HPは、まあ、100メガものコンテンツなので、チェックも容易ではないとおもいますが、鬼平研究には有用な情報がちりばめられているはず。
長谷川家は、宣以の父・宣雄の前後に知行地の寺崎で新田を開拓し、その一部を村へ寄贈しています。知行地での新田開拓というような事業も地頭まかせなのでしょうか? ま、一般論は歴史本にまかせておき、個別の史実に基づいた話をお聞かせいただけるとうれしいですね。
庄屋の娘説を確かめたいというぼくの提案を受けいれる形で、寺崎全域を調査をしてくださったのは、成東町の当時の文化財委員長の長谷川常夫さんでした(同姓でも平蔵の長谷川家とは無関係の方)。そのときの経緯も、いずれ、報告させていただくつもりです。

 わいわい談議 長谷川平蔵←こちらをクリック



2003年08月30日(土) 08:22

鬼平の教訓:家庭の不運

発信:管理者・西尾からの1日1話

 長谷川平蔵の前任の火盗改メは堀帯刀秀隆( 1,500石)だった。この仁を『鬼平犯科帳』の後半は、

 なにしろ、堀帯刀は、盗賊改方の特別手当として幕府が支給する役料までも、「あわよくば……」おのれのふところへ仕まいこもうという人物であったから…
文庫巻10[消えた男]

 と悪者扱い。
 帯刀が経済的に困窮していたのは事実だが、それも妾までかこって私腹ごやしに精をだした用人のせい。
 老中首座・松平定信派の隠密の報告書。
「堀帯刀は先手の組頭たちの中でも一体に正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役をつづけていられるのはありがたいことと思わねば、との評判が立っているよし」「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいいよし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」
 同情したくなるほど邪気のない仁(じん)みたいだが、用人がわいろを取りこんでいるのが世間で評判になっているのに気がまわらないのだから管理職としては落第。
 火盗改メから持筒頭に昇進してからもこんなことを書かれている。
「堀帯刀は、組下が差しだした願い書なども上へ取りつがない。とにかく世話をやくのが嫌いらしい。与力たちが頭へ願いを差しだしても上へ進達しないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀をうらんでいる」
 ただ、家庭事情には同情すべきところがないでもない。徳川の一門……宮石松平の一族・若狭守正淳(まさあつ。 2,500石)の次女だった最初の夫人は、1女1男を産んで逝った。
 後室には、やはり徳川一門の形原松平の権之助氏盛(うじもり。 2,000石)の次女で出戻りを娶ったが間もなく死去。
 三番目の夫人もはやばやと死別。
 四人目は、離別。持筒頭に栄達した帯刀が組下の者の願い書をにぎりつぶすようになったのは、夫人運に恵まれなくて人生に絶望していたからとも思える。
 五人目は、武田系の室賀下総守正普(まさひろ。 5,500石)の四女。初婚。菩提寺の喜運寺(文京区白山2―10 曹洞宗)の、「秀隆院殿前武衛校尉雄高賢英大居士」と麗々しく刻まれた帯刀の墓石に並んで、「円智院殿慧海秀和大姉」とあるのがこの女性。
 夫は寛政5年(1793)に57歳で逝ったが、この人は60歳代まで生きて文化8年(1811)に没した。貧窮していた堀家へ嫁いだときには30歳半ばになっていたが、それにはなんらかの事情があったようだ。
 先達の家庭の不運に同情した平蔵はせめてもと、帯刀の長女を妻女の久栄の縁者・万年家( 800石)の嫁に世話した。よかれとやった処置が裏目に出た。舅(しゅうと)の市左衛門頼意(よりもと)が60歳代後半になって、あろうことか妾に狂い、息子夫婦の頭痛の種となったのだ。

 わいわい談議 堀帯刀秀隆←こちらをクリック



2003年08月25日(月) 04:55

鬼平盗賊相関図、完成しました!

発信:前田 Cさん

私時間と愛情をこめてつくりました。ぜひ、見てやってください。

http://www1.linkclub.or.jp/~c-chan/ikenami.html#

西尾先生の鬼平じゃない著作についてのページつくりました。まだ始めたばかりで、どういうふうに進めていこうかを考えています。こちらもぜひ見てご感想をください。

http://www1.linkclub.or.jp/~c-chan/nishiospirit.html


管理者:西尾からのレス

cさんの「鬼平盗賊相関図」はじつにすばらしいグラフィクスです。この人って、もしかして美術大学のデザイン科の優等出身者かな、とおもうほど。
とにかく、頭蓋骨をあけてのぞいてみたくなるくらい、この人の頭脳は緻密な構造であることが「鬼平盗賊相関図」を拝見するとわかります。
ひきかえ、とりあげてくださったぼくの旧作『ミステリー 気になる女たち』は、カバーに使わせてただいて鶴田一郎さんのイラストレーションがすてきなだけ。ノエビア化粧品のポスターなんかで目にされているとおもいますが、じつは鶴田さん、多摩美大での教え子ということで、申しわけないほどの画料ですませていただきました。教師の唯一の役ドクです。

  
鶴田一郎さんのイラストレーションによる『ミステリー 気になる女たち』
 (1994.08.01 東京書籍)
『ミステリーがちょっぴり好きな友へ』(1993.08.22 東京書籍)

 わいわい談議 西尾の著作 ←こちらをクリック



8月23日〜17日
2003年08月23日(土) 14:13

田近郷について

発信:前田 Cさん

私は羽咋出身で、現在東京で暮しております。
波自加彌(はじかみ)神社の宮司さまより、田近郷についての直接のご説明を、08月22日付の本欄で目にすることができて、とても感激しました。
自分にゆかりのある地名について調べたいとは思っても、何をどう調べてよいかもわからない位でした。次回の帰省時には、金沢市の観光協会のようなところへ立ち寄ってみるつもりです。
近くで育っていながら、波自加彌神社さんへもお参りに行ったことがなく、本当に失礼してきました。次回の帰省時になすべきことがさらにも一つ増えたと思っています。
最近、歴史や歴史小説に興味を覚えるようになり、今さらながら、なぜ子供時代や高校生の頃にもっと地元のことを調べたく思わなかったのかと思っております。どの地方にも独特のおもしろい(表現がまずいでしょうか?)歴史が沢山あるのですよねぇ。この掲示板を見てより感じております。


管理者:西尾からのレス

帰省時に、時間の余裕があったら波自加彌神社の写真を撮ってきて、参拝記とともにここへ掲載を。なにしろ、少年時代の〔鷺原〕の九平も詣でたはずの、鬼平ファンには深いゆかりのある神社ですから。



2003年08月23日(土) 08:32

鬼平の教訓:長谷川組の手ぬかり

発信:管理者・西尾からの1日1話

 とてつもない史料を目にした。丸山雍成博士『近世宿駅の基礎的研究』がそれ。

丸山雍成博士『近世宿駅の基礎的研究 巻1』(1975 吉川弘文館)

 蕨(わらび)宿(埼玉県蕨市)の子細の研究書だが、中に長谷川平蔵に触れた部分があるのだ。
 寛政 4年(1792) 4月上旬、長谷川組に捕らえられた盗賊の自白により、蕨宿の若者 4人が土地の岡っ引きの案内で縛られ、江戸の平蔵の屋敷への引きたてられた。幸七というのがとりわけきびしく責められて、二度三度と気絶するのを見た、と同道した五人組の者が帰村して報告したのだ。
 幸七はのちに遠島となっているから、共犯者に間ちがいなかったのだろう。が、平蔵自身は平生、「おれは拷問はしない」と広言している。まあ、平蔵はやらなくても吟味方与力や同心が拷問することはあったかも。
 が、推理していくと、報告に誇張があったフシがある。というのは、報告者は、幸七が気絶するところを腰掛(こしかけ。待合所)で見ていたといっている。白洲での尋問なら腰掛からうかがえるかもしれないが、拷問部屋までは見えまい。見てきたようななんとか……の例ではなかろうか。
 ついでに記すと、幸七とともに引きたてられた甘酒屋のせがれ・熊五郎は打ち首になっているから、彼らが盗みに荷担したか、首謀したことははっきりしているのだ。
 ところが、幸七らが処刑されたことを逆うらみした村人が、2年後の寛政 6年に事件をおこした。酒に酔った湯上がりの男が、茶屋で休んでいた代官・野田文蔵の小者2人にからんだために、「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」といってなぐりかかったというのだ。
 通りがかりの住職が詫びているすきにからんだ男は逃げた。脇差を抜いて追いかけようとする小者を、若者たちが梯子(はしご)で抜身をたたきおとして縛り、宿役人へ引きわたした。結果は村方が2人へ薬代の名目で3両渡してケリ。
 丸山博士は「長谷川平蔵などの名が、若者たちを刺激した面も無視できない」と付記する。
 出所は地元有力者の日記とのこと。「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」の文意を、「無礼者め。おれたちは長谷川平蔵どの、野田文蔵どのの手の者ぞ」といったのだと受けとっておきたい。江戸の平蔵の名は、中山道の二つ目の宿場・蕨あたりへまでひびいていた証拠だ。
 が、平蔵が罪人たちへそそいでいた慈悲深さまでは、日記記録者へ伝わっておらず、引きたて方の問答無用ぶりだけを記憶にのこしていたらしい。
 寛政 4年の件は、手先をつとめた地元の岡っ引きの手荒さが長谷川組のものとして印象づけられたと推察。事件の少ない地方(じかた)では、一度きりの出来ごとをくり返し話題にするし、身びいきもひときわ強いから、言動にはよほど気をくばらないといけない。長谷川組の与力・同心はそこをぬかったようだ。

 わいわい談議 長谷川平蔵 ←こちらをクリック



2003年08月23日(土) 07:56

恐縮です

発信:読売新聞 福島支局 室さん

ホームページ拝見致しました。
拙い記事に、温かなコメントを添えて戴き、恐縮です。
それにしても肩書を間違えてしまい、済みません(汗)。掲示板を拝見するにつけ、ファンの方々の膨大な書き込みと、それらに対する西尾さんの細やかな回答に、ただただ驚くばかりです。
作品の奥の深さとともに、作品をあらゆる角度から掘り下げ、論じていく皆さまの見事さに感動しております!


管理者:西尾からのレス

身にあまるお言葉、ありがとうございます。
掲示板にはエチケットに反するような書き込みもあると聞いて、事前チェックの形式をとっていますが、お蔭さまでこれまでのところはごくごく真面目なコメントばかりで喜んでいます。
より多くの鬼平ファン、池波小説ファンの方にたのしんでいただける、知的な大人のHPになればと願っています。



2003年08月22日(金) 06:45

鬼平の教訓:池波式の調査

発信:管理者・西尾からの1日1話

 いまの、火付盗賊改方の御頭(長官)は弓組のうちの一人、堀帯刀(たてわき)という五百石取りの旗本で、この下へ与力衆がつき、さらにその下役として、小野十蔵のような同心がはたらく。
 いえば十蔵は、特別警察の外まわりの刑事か警官のようなものなのである。

『鬼平犯科帳』の第1話「唖の十蔵」についてこれまでだれも指摘しなかったことに言及したい。
 堀帯刀(史実は1,500石)が長谷川平蔵の前任者であったことを、池波さんはどこでどういうふうにして知ったか、がそれ。
 『犯科帳』が大ヒットし、多くの人びとが平蔵や火盗改メへ照明をあてている最近なら、歴代の火盗改メのだいたいの名簿もできあがっているから、前任・堀帯刀の名前をひろいだすのはたやすい。
 が、『犯科帳』の連載以前…1960年代には、池波さんは前任者を自分でさがしだすしかなかった。
 平蔵の年譜は『寛政重修諸家譜』でおおよそのところがわかる。とはいえその平蔵の項には、前任者の名は記載されていない。
 『寛政譜』は活字本でも本編だけで22冊、その厚さは1メートル近い。天明 5,6年(1785,6)に火盗改メに任じられていた幕臣をさぐりあてるのは、1俵の白米中から1粒の籾(もみ)をさがすよりも困難だ。
 幕府の役職者任免録『柳営補任(りゅうえいぶにん)』全 6冊の存在を池波さんが知っていれば巻 3「先手組頭」の項をあたり、20分で堀帯刀の名に達しえる。

根岸衛奮がまとめた幕府諸役人の任免記録『柳営補任』
(天保 8年〜安政 5年。東京大学出版会 1963.03.25刊 1997.09.25復刻)


 しかし池波さんがやったのは、正史『徳川実紀』を時系列的にさかのぼるな迂遠なやり方だったと推理。日記を遡行読みするようなこの方法がいちばん間ちがいが少なく、視線がきょろきょろしないのでじつは効率もよろしい。

『寛政譜』の平蔵についての記述

――(天明) 7年 9月19日から盗賊追捕(ついぶ)の役をつとめ、翌春 4月28日ゆるされ、10月 2日からまたこのことを役す――

で、『続実紀』の火盗改メへの発令日のページをひらく。

「先手筒頭(注・弓頭の誤記)長谷川平蔵宣以捕盗のこと命ぜらる」

 『続実紀』はこの日の直前直後に火盗改メを解任された者がいることを記していないから、平蔵の発令とともに帯刀は自動的に解任とおもいこんでも仕方がない。
 これが「唖の十蔵」で、小野十蔵が堀組から長谷川組へ移籍したという記述になった原因でもある。天明 7年秋に平蔵が就いたのは、火盗改メは火盗改メでも、本(定)役をしていた堀帯刀の助役(すけやく)だった。
 情報探しはインターネットの検索エンジンのお蔭でずいぶんらくになった。もっとも『寛政譜』や『柳営補任』や『徳川実紀』はまだデータベースの形で入力・登録されていないはずだから、ここはやはり池波式調査法でいくしかない。

 わいわい談議 長谷川平蔵 ←こちらをクリック



2003年08月22日(金) 10:58

田近谷について

発信:金沢市・波自加彌(はじかみ)神社
   宮司・田近章嗣さん

私は、〒920―0107 金沢市二日市町 131番地に住む延喜式内の古社……波自加彌神社(はじかみ神社)第20代宮司の田近章嗣(たぢかあきつぐ)といいます。
当神社は、生姜・山椒など香辛料の古称「薑=はじかみ」の神を祀る神で、毎年 6月15日に、SB食品や味の素等県内外の食品スパイス関係者、調理師、薬種関係者が多数参詣に訪れて「はじかみ大祭」、通称しょうが祭りが行われ賑わいます。昨秋、1300年の式年祭を執行しました。
田近とは、歯で噛んで辛いもの「はじかみ」が「田鹿」となり、さらに「田近」へと転語したものです。
田近郷は明治に田近村となり、明治40年の合併で花園村に、さらに戦後森本町になり、その後金沢市との合併で田近の大字名田近地区としてわずかに残っています。


管理者:西尾からのレス

あ、宮司さんじきじきのメッセージ、恐縮です。
6月16日付、文庫巻5[兇賊]の芋酒屋の亭主で、一人ばたらきの〔鷺原〕の九平の出身が加賀の田近谷でした。
宮司さんは「田近」さんとおっしゃるし、延喜式にも載っているほど由緒の深い神社なのだし、食通の池波さんのこと、波自加彌神社に参詣、もろもろのいわれを知ったうえで、〔鷺原〕の九平をご当地の出身としたのかも。

 わいわい談議〔鷺原〕の九平 ←こちらをクリック



2003年08月21日(木) 20:59

アクセス、 100,000件達成おめでとうございます

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

08月15日より九州へ帰郷していて、お祝いを申し上げるのが遅れ、失礼しました。帰京してから達成するのではと予想していましたが、はやばやと10万件を突破、本当におめでとうございました。
協力といっても大したことは出来ませんが、次のステージ20万件へのチャレンジに、微力ながら協力できればと思っています。よろしくご指導のほどお願いいたします。


管理者:西尾からのレス

お祝辞、ありがとうございました。大分のほうはお変わりなく?
こちらも先月末には、22日前後を予想していましたが、お影さまで 6日ほど早まりました。次のステージ、20万件は2年後を目標にしています。それにはさらに堀リサーチ機関の力をお借りしてコンテンツを多彩にしないと。こちらこそよろしくお願いします。



2003年08月19日(火) 07:24

鬼平の教訓:身内の立身

発信:管理者・西尾からの1日1話

 長谷川平蔵のうしろ楯だったと『鬼平犯科帳』に書かれている丹後峰山藩主・京極備前守高久( 1万1000余石)には、不明なところが多い。
 というのも、城下町の峰山町が1927年の丹後大震災による火災で全町が焦土と化したとき、集めていた郷土史編纂中の貴重な史料もろとも郷土史家が焼死したため、その後の郷土史編纂事業がきわめて困難な状態になったからだ。そんな状況のもとで編纂された『峰山郷土史』は、高久が天明 8年(1788) 6月に60歳で若年寄に召されて政務に参与することになったことを告げたあと、

寛政 2年(1790)11月22日になって、急に病気を口実に、若年寄の職を辞退してしまった。将軍家斎は、高久の実直を惜しんで侍医に命じて診断させたが、出仕にさしつかえる程ではなかったので、同職の堀田摂津守(近江堅田藩主。 1万石。33歳)をして内々様子をさぐらせたところ、いつかの登城の際、なにか重大な落度があって、幕府の重職にいては武士道が立たぬという事情がわかった(詳細は不明)

と書いている。
『峰山郷土史』が不明としている高久の辞職願いの真相を、彼を若年寄に抜擢した老中首座・定信の隠密の報告書『よしの冊子』が、同年 8月20日の大嵐の日に登城時、下乗のところで定信の駕籠がやってきたので、あわてて桐油合羽のまま駕籠を降りたが中に刀を忘れた。かつて三浦志摩侯(下野壬生藩主。 2万5000石。寛永期の若年寄)が自邸に刀を忘れて辞職した前例があり、ことが表立てば辞職しなければすまないと考えたとする説と、10月14日に定信が何ごとかを評議するために若年寄を召集したとき京極高久へは声がかけられなかったことを不服とした仮病説がある。 後者とすると、そのふてくされは筋ちがいといえそう。この日の議題は、書院番頭・石川大隅守(4000石。37歳)の与頭(くみがしら)欠員補充に鵜飼左京(不明)をあてるか瀬名孫助(廩米300俵。40歳)か、だった。孫助は高久の実弟だったので定信があえて高久に召集をかけなかったのだ。
 病気を表向きの理由にした高久の逼塞(ひっそく)のことを聞いた長谷川平蔵がかたわらの与力へもらした。「いったいに峰山侯(高久)は若年寄の地位をかさに、身内の立身におこだわりになりすぎる。大岡家(1000石)へ養子に入られたご次弟・次郎兵衛直往(なおみち)どのの息・直孝(34歳)どのを放鷹のお供へ推薦したり、ご舎弟で池田新兵衛(廩米 300俵)方へ養子にお入りになった富郷(とみさと。39歳)どのを大番へ押しこんだり……。まわりの目は予想以上にこのことにこだわるものだから、身内びいきはほどほどにしておかないと、な」
 小企業主で一族は雇わないと公約、従業員の信頼をえている友人もいる。彼らがやる気をなくするのは、同族がポストを独占しているときだ。

実話です。

 わいわい談議 京極備前守高久 ←こちらをクリック



2003年08月17日(日) 17:56

鬼平の教訓:養子先の思惑

発信:管理者・西尾からの1日1話

 長谷川平蔵の家禄は 400石だった。
 家康のころ、浜松郊外・三方原で数倍する武田勢と戦って戦死した先祖の次男がうけた禄高がそのままつづいた。 200年間、いってみれば昇給なし。
 長男がついだ本家は、 1,750石から、のちに断絶した分家へ 300石をわけた。本家の次男には別途に 500石が給された。
 特筆すべきは戦死した先祖の三男。つまり平蔵家の祖の弟。11歳で秀忠の小姓に召され、しばしば加増をうけてしめて 4,070石! と渋谷に 8万5000坪の別荘地をもらっている。異例だ。寵童だったとの推察もできなくはない。
 長谷川一門でもっとも富裕な家柄なので、つねに一門の養子先として狙われていた。
 平蔵の時代…寛政元年(1789)ごろ、ここの 9代目をつぐべき嫡子が夭折(ようせつ)した。
 残ったのは女子2人。上は病みがちでとても嫁げそうもない。下は7歳。当主の栄三郎正満(まさみつ)は平蔵よりも一歳年上の45歳だがいちども役職につけないほどの病身だった。名奉行・大岡越前守忠相( 1万石)直系の孫娘だった後妻は出産年齢をとう
にすぎていた。
 まわりを見わしたところ長谷川一門には、平蔵の次男で 9歳の銕(てつ)五郎のライヴァルはほとんどいなかったものの、係累の多い大岡家のほうには数人いた。
 平蔵はさっそくに根まわしをはじめた。一門の長老で火盗改メをつとめたときに若かった平蔵がその助手のようなことをした本家の当主・太郎兵衛正直(79歳)を説いた。「これまで、あの家へ一門以外から養子に入った者はありません」
 言外に、 4,070石をむざむざほかからの血にむしられることはないとにおわせた。
 このときの平蔵の論理はいささか滑稽でもある。 4,070石は家についているのであって、それが守られれば血は関係ないというのが当時の考え方だった。
 したたかな太郎兵衛は、曽孫2人の顔を思いうかべたがなにぶんにも幼なすぎた。しょうことなく銕五郎の養子入りに賛意をあらわした。
 徳川幕臣の次男、三男は養子にいけなければ一生を実家で厄介者として送るのがふつうだった。だから平蔵とすれば、次男・銕五郎の養子口が決まらないかぎり死んでも死にきれなかった。もっとも、そのころの平蔵はピンピンしていて火盗改メの仕事に腕をふるっていたが。
 平蔵が次男の養子先として 4,070石の裕福な一族へ白羽の矢を立てたのは、火盗改メの役目を長くつとめればつとめるほど、わが家の資産が激減していくことを予想していたためだ。いや、持ちだしになったもこの役目は立派につとめあげよう、つとめなければならない時代に生きている―との使命感に燃えていたともいえる。
 平蔵が 8年間も火盗改メをつとめたため、平蔵家の家計は逼迫の極におちた。

 わいわい談議 長谷川平蔵 ←こちらをクリック



2003年08月17日(日) 08:30

記事「福島県出身」

発信:読売新聞・福島支局 室さん

朝刊・福島版に載った私のコラム、お送りします。
載る前から、このHPでは話題になっていましたね。お仲間入りさせていただいた感じで、うれしくなりました。




管理者:西尾からのレス

ぼくの名前まで出していただき、恐縮かつ感謝。さすが、すてきな文章ですね。コラムに触発された県下の鬼平ファンの方々によるHPへの書き込みがふえるとうれしい。第1号は支局随一の鬼平熱烈ファンである女性の方かな。蛇足。ご紹介いただいた〔鬼平〕熱愛倶楽部はメンバーたちによる自主グループ(36名)でして、ぼくは代表じゃなく顧問にまつりあげられています。はっきり説明しておかなくてごめんなさい。

 わいわい談議〔牛尾〕の又平 ←こちらをクリック



2003年08月17日(日) 07:44

おめでとうございます

発信:朝日カルチャーセンター(新宿)〔鬼平〕クラス
   富川博見さん

「西尾鬼平」HPアクセス件数10万台突破、おめでとうございました。先生の執念ですね。私も平均すると、週に1〜2度アクセスしています。長文は目が疲れますので、コピーして読んだりしています。「よしの冊子」等はそうしました。
先達て、エッセイ『青春忘れもの』(中公文庫)を読みました。〔向島の蟇公〕こと井上留吉氏とは無二の親友だったんですね。戦争体験、幼少の頃の映画や芝居や歌舞伎鑑賞、株屋の経験、吉原通い等々のことどもが氏の小説に色濃く投影されているのですね。
いま、『新 私の歳月』(講談社文庫)を読んでいます。

鬼平の女房は、奥方になる前に一度犯されてるんですが、そんなことは、ぼくは全く平気だね。それはもう、せん子のおかげだと思いますけど。うちの家内だって、再婚だからね。だから、ぼくは処女ってどんなんだか知らないんだよな。ま、知ろうとも思わないけどね。過去に何があったかということじゃなく、その人の実際の心根が大事なんですよ。それでも、それが分かる女と分からない女といますね。お女郎の中でも。

……という文があります。鬼平は池波氏自身なんですね。ここのところ、寝しなに「鬼平犯科帳」を一小話ずつ、再読しています。昨夜は[7-50 泥鰌の和助始末]を読み終えました。中編の佳作だと思いました。

8月16日〜11日
2003年08月16日(土) 11:07

10万人目を逸す

発信:〔鬼平〕熱愛倶楽部 三楽亭靖酔

HPヒット、10万人目を逸しました。無念!

2003年08月16日(土) 08:15

鬼平ファンはフクロウ族が多い?

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   兎忠さん

おはようございま〜す!
やっぱり、ウサギは寝過ごして失敗することになっているようです。今朝、起き抜けの朝一番、07時40分頃HPを開けると、もうすでに、 100,018人目でした。ざんね〜ん!こうなったら、次のチャンス、 1,000,000人目を狙うっきゃない?

2003年08月16日(土) 03:39

残念でしたーっ!

発信:cさん

AM3:30に見たところ、100,007でした。7人遅かった〜!ずっとパソコン使っていただけに、あー、しまった! です。自分のことはともかく、10万アクセス達成、おめでとうございます。

2003年08月16日(土) 03:39

100,000ヒット達成おめでとうございます

発信:〔鬼平〕熱愛倶楽部 茶木登茂一さん

平成15年08月16日午前03時24分。鬼平HP 100,000ヒットを達成しました。おめでとうございます。
小生昨夜からフォローしておりまして、99,999ヒットを確認し、その後すぐ表示は100,001ヒットに変わりまして、残念ながらちょうど 100,000ヒット目は表示されませんでした。各表示はカメラで撮りましたので後刻お送りします。いずれにしても短期間での10万ヒット達成おめでとうございます。


管理者:西尾からのレス

みなさんのご協力とご支援で、10万アクセスの大台に3年4か月で到達させていただきました。
ありがとうございました。
こんなクソまじめなHPが、よくも……という感激でいっぱいです。
15日夜10時、99,971という数字を確認、 100,000は16日午前 8時前後かな……とおもいながら就寝しました。茶木さんとcさんのメッセージで、それが、16日午前03時25分ごろだったと承知いたしました。
この上は、ヒット20万件を2年以内に達成するよう、老骨に鞭うち、コンテンツの充実にはげみまかゆえ、さらなるご支援をお願いいたします!



2003年08月14日(木) 03:58

鬼平の背丈が伸びた?

発信:管理者の西尾の〔ほころび〕報告

文庫巻24[女密偵女賊]を読みかえしていて、

 五ッ半(午後九時)をすこしまわったころ、上野山内からの曲りくねった坂を下(お)りて来た人影が一つ。
 頭から顔へかけて灰色の布(ぬの)で頬(ほお)かぶりをし、着ながしに大小の刀、素足(すあし)に雪駄(せった)という浪人姿であった。背丈は高く、肩幅(かたはば)がひろい。心ある人がこの男の姿を見たなら、
(かなり、武芸の修業を積(つ)んだにちがいない)
 と、看(み)るであろう。
p43 新装p41

この浪人、自ら「盗賊改方、長谷川平蔵」と名乗ります。池波さんは鬼平を創造するとき、松本幸四郎丈を頭において、

 ときに長谷川平蔵は四十二歳。
 小肥(こぶと)りの、おだやかな顔貌(がんぼう)で、笑うと右の頬に、ふかい笑(え)くぼが生まれたという。
文庫巻1[唖の十蔵]p27 新装p29

ほかの箇所でも「中肉中背」とあったようにウロおぼえしていますが、[女密偵女賊]の「背丈は高く」だと、松本幸四郎丈ではなく中村吉右衛門さんの感じになってしまいます。

[唖の十蔵]……1968年新年号『オール讀物』
[女密偵女賊]…1987年12月号『オール讀物』

鬼平の背丈も19年間で10数センチ伸びたのでしょうか。

 わいわい談議 長谷川平蔵 ←こちらをクリック



2003年08月11日(月) 16:35

〔常州小川〕と〔駿州小川〕

発信:居眠り隠居さん

『ベルギー風 メグレ警視の料理』『雑学 世界の一流ブランド』を読みました。ハイカラなことは隠居にはよく分かりませんが、とにかくたいしたものだ、と西尾先生の古今東西におよぶ博学に、改めて感心いたしました。

長谷川家に係る二つの〔小川姓〕を、隠居の身で僭越ですが、私は混乱を防ぐため便宜上、〔常州小川〕と〔駿州小川〕に区別していました。
趣旨は、下河辺氏から小川氏に変った常州在住の〔小川〕と、大和・長谷に移住後の〔小川〕。
〔駿州小川〕については『今川氏家臣団の研究』(小和田哲男著)で明らかになりました。
〔常州小川〕の発祥については『茨城県千代田町史・志築城と益戸氏』の項に詳しいので、以下に紹介させていただきます。

「下河辺政義==中世にいたって志築の地を含む常陸南郡(志築、松延、土田、野寺、市川、玉里、高浜、小川、野田、上吉影等)の地頭となり、この地を治めたのは下河辺政義(益戸氏と称す)である。
政義は古河付近にいた下河辺の庄の庄司下河辺行平の弟で源頼朝が治承四年伊豆に兵を挙げるといち早く兄行平と共にその傘下に馳せて以来、頼朝近臣の一人となった。頼朝の信任最も厚く、また剛勇の士でもあった。鎌倉鶴ヶ丘八幡宮造営の時の巨岩運搬の記録によると「この日畠山重忠と下河辺政義と二人相加ははる。力百人力に向ふ」とあるから、強力無双と言われた畠山重忠とならび称されるほどの武将でもあった。
養和元年閏二月、浮島にいた頼朝の叔父信太三郎先生義広が頼朝に反旗を翻して浮島を立ち下野国に向かって兵を進めたとき、政義は兄下河辺行平と共に古河高野(現総和村高野)の船泊りをおさえ、これを討って大いに功があった。これにより政義は、まもなく茨城南郡の地頭職(隠居註総地頭職)に補せられたのである。
しかし、政義の妻は武州川越(埼玉県川越市)の地頭川越重頼の娘でその姉妹が義経の妻であったから、頼朝と義経が不仲になったとき義経の縁者なるの故をもって地頭職を免ぜられている。その後、政義の長子政平(隠居註・二男)は小川の地頭に、二子行幹(隠居註・長男)は志築・大枝の地頭に、三子時員は武州野本の地頭となっている。益戸行幹は志津久三郎兵衛とも称し、その子孫が代々志築城主となった」



管理者:西尾からのレス

回復中のご体調にもかわらず、拙著を2冊もお読みいただいたのですね、ありがとうございます。
うち、『ベルギー風 メグレ警視の料理』(東京書籍)は池波さんが『メグレ警視』ものがお好きとわかり、影響ぐあいを知るために、現地取材してまとめたものです。当時は腰が軽かった!


『ベルギー風 メグレ警視の料理』(1992.05.22 東京書籍。絶版)

池波正太郎自選随筆集3『私の風景』(朝日文芸文庫)の影山 勲さんの巻末エッセイが、池波さんとジョルジュ・シムノンについて、こんなエピソードをあかしています。池波さんがパリの旧中央市場「イノサン広場」にあった居酒屋〔B・0・F〕主人セトル・ジャンと意気投合したのは、シムノンも常連だったこの店へ案内した写真家・吉田大朋さんが、
「この人は、日本のシムノンのような人だ」
と紹介したことによったのだと。

〔常州小川〕と〔駿州小川〕……ご隠居らしい区分けですね。ところで焼津市に編入されている〔駿州小川〕の読み方は「こがわ」。〔常州小川〕の読みは「おがわ」ですよね。
『茨城県千代田町史』による下河辺政義の地頭領を、参謀本部陸軍部測量局の明治20年刊の地図で確認してみました。

明治20年(1887)の参謀本部測量局の地図「水戸」(部分)
画像内の赤枠内をクリックすると、拡大画面が表示されます。

それぞれは、茨城県下の霞ヶ浦東北端部に点在していました。
うち東茨城郡小川町に併合されたのは吉影と野田。同新治(にいはり)郡に玉里(たまり)町。同郡千代田町に入ったのは下志築、中志築、上志築、東野寺、西野寺と市川……あわせると、東西15km×南北 6kmにもおよぶ広範囲の地頭だったのですね。
こうして長谷川家の先祖のことが夜明けのように明らかになっていくのって、興味津々。

 わいわい談議 長谷川平蔵 ←こちらをクリック

 わいわい談議 西尾の著作 ←こちらをクリック



2003年08月11日(月) 12:39

執筆担当者はぼくにあらず

発信:『ダカーポ』編集長 永野啓吾さん

ご指摘の『鬼平犯科帳の世界』(文春文庫)p84、〔牛尾〕の又兵衛が入っている「鬼平犯科帳人名録」はぼくの担当ではなく、多分、オールの編集部のどなたかだとおもいます(ぼくの担当はp29〜p47です)。
それにしてもするどい指摘をされる方がいらっしゃるものですね。感心しました。

 わいわい談議〔牛尾〕の又平 ←こちらをクリック



2003年08月11日(月) 09:20

〔牛尾〕の又兵衛は誤植

発信:管理者の西尾から永野啓吾さんへ

ぼくたちも執筆した文春文庫『鬼平犯科帳の世界』の「鬼平犯科帳人名録」p84の、〔牛尾〕の又兵衛は「又平」の誤植ではないか、との指摘をさる方からもらいました。原典の文庫をあたってみたら、新旧版とも〔牛尾〕の「又平」となっています。
あの部分は永野さんがお書きかとおもい、ご連絡します。それにしても、版を重ねている当文庫の誤植に、これまでだれも気づかなかったというのは驚きです。


1988年07月発行『オール讀物』7月臨時増刊号を改変して
1990年05月に文庫化。永野さんは「鬼平一家WHO's WHO」を、
西尾は「江戸ショッピング案内」を執筆。後者で、盗人たちに
襲われる商店を、池波さんが『江戸買物独案内』(文政 7年刊)
から採っていることを初めて指摘。


 わいわい談議〔牛尾〕の又平 ←こちらをクリック



8月9日〜4日
2003年08月09日(土) 21:13

〔牛尾〕の又平と〔高山〕の治兵衛

発信:隅の隠居さん

お初に発言させていただきます。
ここは史料性がきわめて高く、ファンへの有用さでも鬼平関連HPのなかで群を抜いている、とつねづね評価していました。
そこへ、読売新聞福島支局の記者氏との08月06日付やりとりを拝読。
〔牛尾〕の又平は福島県西会津町の出、右腕〔高山〕の治兵衛が福島市生まれということだと、2人の関係は郷土がらみということ?
盗人の出生地まで調べあげるたぐいの読み方をすると、読売の記者氏の言にもあるごとくに、小説がうんと身近になりますね。
いや、小説の深読み法を学ばせていただきました。


管理者:西尾からのレス

いつも当HPを見ていただいているとのこと、おん礼申しのべます。
『聖典』に登場する盗人たちの出生地調べをおもついたのは、どこかにも書いたとおり、ある雑誌に載っていた池波さんの書斎の写真に写っている本の背文字をルーペであたったとき、明治期に刊行された吉田東伍博士『大日本地名辞書』を見つけ、「盗人の通り名(呼び名)はこの辞書から引用されているのではないか」とひらめいたからです。地名とおぼしい通り名(呼び名)をもつ盗人は 300人余……それらを一人ひとり、あれこれ空想しながらあたっているところです。

 わいわい談議〔牛尾〕の又平 ←こちらをクリック



2003年08月09日(土) 19:01

糸井重里さんの埋蔵金探しは梅ヶ島金鉱?

発信:コピーライター志望のUさん

静岡県北端の梅ヶ島村が、武田信玄の砂金堀りの場所だったとの、08月04日付のコメントを読みました。コピライター志望者あこがれの糸井重里さんがやられている金鉱探しは梅ヶ島のそれなのでしょうか?


管理者:西尾からのレス

え? ぼくもコピーライター出身ですが、糸井さんとは年代がはるかに隔たっており(もちろん、ぼくのほうがロートル)、糸井さんが金鉱探しをやっているなんて初耳。
それはそれとして、ご質問は、糸井さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』へなさるべきでした。
ま、コピーライター必須条件の一つが質問上手……との観点からいえば、Uさんは第一関門をみごとクリヤーなさっていますよ。

 わいわい談議〔雨乞い〕庄右衛門 ←こちらをクリック



2003年08月06日(水) 22:26

福島県出身の盗っ人リスト

発信:読売新聞 福島支局 室さん

近く順番が回ってくる県版コラムに、いただいている盗人リストを使い、「福島県出身」という題で、「鬼平熱愛倶楽部」「鬼平研究の西尾忠久さん」「福島県出身の盗っ人リスト」の話題を盛り込ませてたいと思っております。
県内にも鬼平ファンは多いと思われ、江戸が舞台とばかり思っていた小説に、地元とのつながりが出てくるとしたら、作品への親しみもいっそう増すと思います。
結果は改めてご報告致します。


管理者:西尾からのレス

室記者の福島支局転勤のお祝いのつもりでお送りしたリスト、まずはお役に立ちそうでなによりです。
池波さんが盗人の通り名(呼び名)の多くを、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(明治33〜)からひろっていることは、いまでは周知のことなのです。

〔青田〕の文太郎
〔伏屋〕の紋蔵の配下。
[11-5 密告]
p215 新装p217
福島県安達郡
福島県本宮町の字名
〔赤観音〕の久兵衛 [2-4 妖盗葵小僧]p144新装p153 福島県白川郡薄木の赤観音で知られる馬頭観音
〔穴原〕の与助
〔寺尾〕の治兵衛の盗人宿番
[20-7 寺尾の治兵衛]p276 新装p289 福島市の北。穴原温泉
福島県館岩村
〔石川〕の五兵衛
 27,8歳
[21-2 瓶割り小僧]p49 新装p51 福島県石川 ほか全国にある。
〔犬神〕の権三郎
 42,3歳。役者顔
[10-1 犬神の権三]p7 新装p7 福島県西白河郡
〔牛尾〕の又平 [20-1 おしま金三郎]p16 新装p17 福島県西会津町
〔江口〕の音吉 [4-2五年目の客]
p49 新装p57
福島県二本松市。他県にもある。
〔落合〕の儀十
〔網切〕の甚五郎の配下
[6-7 のっそり医者]p267 新装p278 福島県葛尾村。同・下郷町。同・二本松市。他県にも多数
〔霞〕の定五郎
 掏摸の元締め
[2-2女掏摸お富]p100 新装p103 福島県福島市。他県にもある
〔刈野〕の九平
 60近
[16-2 網虫のお吉]p59 新装p62 福島県双葉郡浪江町。他県にもある
〔熊倉〕の惣十 頭領 [4-4 血闘]
p146 新装p156
福島県喜多方市。南会津郡只見町。西白河郡西郷村
〔坂田〕の金助 [10-3 追跡]
p128 新装p134
福島県南会津郡 他県にもある
〔高山〕の治兵衛
〔牛尾〕の又平の右腕
[20-1 おしま金三郎]p17 新装p18 福島県福島市 他県にもある
〔塚原〕の元右衛門
 口合人
[16-4 火つけ船頭]p167 新装p196 福島県相馬郡 他県にもある
〔松倉〕の清吉
〔舟見〕の長兵衛配下
[12-1 いろおとこ]p44 新装p46 福島県双葉郡双葉町。同・西白河郡矢吹町 他県にもある。
〔湯舟〕の松蔵 小泥棒 [8-5 白と黒]
p237 新装p250
福島県東白河郡塙町山形 他県にもある。

……といったリストですが、室さんが福島県版でどんなふうに紹介してくださるのか、たのしみ。また、記事にに触発された県下の鬼平ファンが〔わいわい談義〕にどんどん情報を寄せてくださるようになることを、管理者として大いに期待しています。



2003年08月04日(月) 15:10

梅ヶ島村誌を見つけました

発信:管理者の西尾からメッセージ

このところ、月1で静岡県立中央図書館へ資料さがしに通っており、きのうは、文庫巻 7[雨乞い庄右衛門]で〔雨乞い〕のお頭が湯治していた梅ヶ島の湯に関係のある『安部郡梅ヶ島村誌』を見つけました。
毛筆書きで製作年月日は記載されていませんでしたが、文章から推測して明治期か大正期のものかと。
温泉の部と金山の部を一部引用しましょう。

温泉を説明した原文(原寸はB5サイズ)


「五、温泉。新田より北すること1里、三河内川の右岸にあり。称して金光泉という。けだしその泉の色、黄金を帯ぶるをもって命名せりといふ。温度42度にして湧出の量多からざるも皮膚病および上衝(のぼせ)などに効あり。平常は浴客少なきも春秋の季節には大に賑ふ。地勢上僻遠の地で困難なるゆえに、接近するところの山梨県人の浴客多く、その他としては本郡(注・静岡県安部郡)静岡市および志太郡などの浴客を最なるものとす。(以下略)」

梅ヶ島は現在、静岡市に編入されており、市の中心部からバスで1時間ちょっとの距離だが、江戸時代のように徒歩だと、山梨県側から安部峠ごえのほうが、静岡市からの15里よりもうんと近かったのかも。それでも安部峠ごえは半日がかりと。
泉質は炭酸系なので「入浴すると滑らかに感ずる」と。湯効に上衝(のぼせ)とありますが、50をこえた〔雨乞い〕庄右衛門の疾患は「関節炎と心臓」。まあ、「のぼせ」は循環器系なので関係なくもない、といえましょうか。
そうそう、庄右衛門が発病したのは東海道・藤枝に近い下ノ郷の〔盗人宿〕でした。そこで10ヵ月ほど療養していたのち、
「こんなところにかくれていては、死ぬのを待つばかりだ。一か八か、梅ヶ島へ行ってみる。あそこの湯につかって、気長に湯治をすれば、もう一度、お盗(つと)めができるかも知れねえ」
安部峠をこえた甲斐の富士川ぞい、横根生まれの庄右衛門は、少年のころに父親につれられて梅ヶ島の温泉に来たことがあったのです。
池波さんが、梅ヵ島から安部峠ごえで身延町へでた事実は 3月22日のこのコーナーで明らかにし、わいわい談義へ記録しています。

 わいわい談議〔雨乞い〕庄右衛門 ←こちらをクリック

砂金坑を説明した原文


「第四節 遺跡
一、砂金坑 年代不明の坑道にしていまなお旧形を現存するものに3個あり。入島地内向ひ山に1か所、梅ヶ島本村に1ヶ所、おなじく新田地内三河内に1ヶ所あり。しかして最近に至るまで発掘作業の従事せしは、日影沢とす。(以下略)」


戦国時代には地勢の関係で武田領だったのですが、武田信玄としては、温泉よりもこの砂金が目当てだったふしもあります。




お送りいただいたメッセージは、整理・編集して、毎週金曜日にアップします




(c)copyright:2000 T.Nishio All Rights Reserved.