2003年 5月

――敬称略・逆日付順――



5月26日  24日〜21日  19日〜11日  10日〜4日  3日〜1日

5月26日
2003年05月26日(月) 16:42

[本門寺暮雪]、此経難持坂の決闘

発信:東京都大田区在住
   フォトグラファー・樋口和則さん

平蔵と凄い奴との決闘は、池上本門寺の「此経難持坂」で行われました。
ここに池波さんの鋭い舞台設定を見ます。
自分の有利な場所を選ぶ、尋常な勝負ではなく、暗殺なのですからとうぜんの選択です。
なぜなら、平蔵たちは番傘をさしていた。傘をさして坂を登る、視界はとうぜん足下と前の石段にしかいかない。
上からの攻撃は気配だけでしか感ずることができない。
また、攻撃をかわす手段として後ろに退く体制がとれないのである。
凄い奴のほうは、反撃の予測としては足を払われることのみを注意すればよい。
凄い奴は念を入れ、心理的にほっとする頂上まで 5〜 6段の所を攻撃場所に選んだ。写真を見て頂くとわかるが、ほっとして仁王門に注意が奪われる瞬間である。

加藤清正が寄進造営した頃から、余り変化がないという坂は、切石を並べた96段。
名は経文「此経難持」にちなんでいる。
一段の高さは18センチほど、普通よりやや高い、登り切るとほっとする。
踊り場は 6箇所、井関録之助は上から最初の踊り場まで落ちた。
凄い奴も平蔵の体当たりを受けて太刀を落としてここまで落ちた。後は飛んで逃げ総門のところで切られるのである。
池波さんはこの坂を実際に登ったことがあるはず。池波さんは戸越銀座に住んでいられた。とうぜん、本門寺の御会式を見たことがあるだろう。そんなことを感じさせる決闘場面である。
タイトルの[本門寺暮雪]も、景色のすばらしいことを謳った大森八景の「富士暮雪」と「本門寺晩鐘」を組み合わせたものではないだろうか。





管理者:西尾からのレス

樋口さん。さっそくに書き込みをしていただき感激です。なんですか、ぼくのコピーライター時代に、フォトグファーの重鎮・西宮正明さんの事務所でお会いしたことがあるとか。ご縁ですね。
そうそう、樋口さんがご指摘になった八景坂(やけいざか)からの眺めを謳った八景――本門寺にほど近いJR[大森]駅西口前の天祖神社境内の自然石に刻まれていますね。
笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、荒藺落雁、袖浦秋月、池上晩鐘――でしたか。
ついでなので、『江戸名所図会』に彩色した中から、これにゆかり2景を。



八景坂

六郷渡場

 わいわい談議 井関録之助 ←ここをクリック

樋口和則さんの「荏原郡(大田区)の史跡散歩は、
http://www.photo-make.co.jp



5月24日〜21日
2003年05月24日(土) 16:42

池上本門寺を紹介しました

発信:東京都大田区在住
   フォトグラファー・樋口和則さん

私、カメラマンを生業としております。自分のホームページに地元の荏原郡(大田区)史跡散歩・デジカメ散策などというコーナーを設けました。
その中で鬼平犯科帳の中に池上本門寺が出てくることを思い出し、その決闘の現場を紹介することにしました。
もちろん、皆さんように熱心な鬼平犯科帳のファンではありませんが、池波正太郎の著作は読んでいます。
作りあげてから、もっと知りたい人がいるのではと思い、知るならこのホームページをご覧なさいというために、リンクを貼らせていただきました。
下のアドレスから、大田区の史跡散歩、『此経難持坂の決闘』をご覧ください。2ページ目の下にリンクを張ってあります。

http://www.photo-make.co.jp


管理者:西尾からのレス

リンクのお知らせ、ありがとうございました。樋口さんのHPも拝見しました。もり沢山で、しかも、さすが、写真のキレがいい。感心しました。
相互リンクも考えましたが、いまでなく、本編に本門寺や六郷の渡しなどが出てきたときに、リンクを張らせていただこうと。
それより、当方の週刊掲示板へ、鬼平が決闘をした本門寺の石段の写真とともに、メッセージをお寄せくださいませんか。
そしたら、「わいわい ご贔屓キャラ」コーナーに、樋口さんのメッセージとともに「わいわい 井関録之助」の項を新設します。



2003年05月24日(土) 10:05

信玄が開いた道…梅ヶ島=陸合村

発信:管理者の西尾

池波さん初の長編『夜の戦士』(角川文庫)は、昭和37年(1962)01月16日から「宮崎日日新聞」ほか5紙に 373回にわたって連載。その上巻p299でこんな文章に出会いました。

山道は、梅ヶ島を経て甲州の陸合村(りくあいむら) に通じている。この山道を切りひらいたのは武田信玄である。今川家との間に同盟をむすび、駿河の港に数隻の持船をおいて、中国地方との交易もおこなっている武田信玄だから、この陸合路とよばれる道のほかに駿河へ出るための四つの道をもっている。

2002年11月25日の掲示板で、梅ヶ島の湯での〔雨乞い〕庄右衛門の湯治にふれ、その後、池波さんが安部峠を越した経緯も明らかにしました。
「駿河へ出るための」ほかの四つの道……の一つが、富士川に沿ってくだる道でしょうかね。



 わいわい談議〔雨乞い〕庄右衛門 ←ここをクリック



2003年05月23日(金) 15:05

長浜の名越村のこと

発信:長浜市役所市史編さん室学芸員 橋本 章さん

1.名越(なごし)の地名は、同地に創建された名超(なこし)寺と
  ここに祀られた名超(越)童子に由来するとされています。

江戸時代中期の書物『近江輿地誌略』には、名超寺について「寺記に曰く人皇40代天武天皇白鳳年中の草創、三朱沙門の開基、名超童子久條練行の臨跡、故に名超寺と號す」との記述が見えます。
また、名越町には後鳥羽上皇行幸の伝承があり、明治12年に名超寺境内に後鳥羽神社が創建されました。この付近は古代に鳥羽上庄と呼ばれる荘園が置かれたあたりとされ、後鳥羽上皇の侍臣藤原能茂の子孫に預所職があてがわれています。
なお、名越が村として単立したことが史料上確認されるのは、幕藩体制下の彦根藩支配においてで、正保・元禄・天保の各郷帳では、その石高は常に約 507石と報告されています。
ちなみに元禄8年の「大洞弁天寄進帳」には、当時の人口は男126、女126、寺方の男7、同女5と見えます(ただし、郷帳などの書き出しには高持ちではない人びとは記載されません。念のため)。

2.合併時の名越村の人口と戸数、および主たる産業

合併時の様相ですが、名越村はいわゆる行政村ではありません。明治維新の後、明治22年(1889)の町村制施行によって西黒田村の大字となり、その後昭和18年(1943)には、西黒田村ほか6地区が合併して現在の長浜市域となりました。
明治13年前後に刊行された『滋賀県物産誌』によると、名越村の人口は平民のみで 210人、戸数は63とあり、全戸が農業に従事し、その約半数が養蚕を営んでいます。米以外の主な作物としては、大麦、大豆、菜種、桑葉、そして葉煙草とあり、周辺他村と際だった違いはありません。
ちなみに、平成14年8月時点での名越村の世帯数は71、人口は男女共134名となっています。


管理者:西尾からのレス

「名超寺」は、池波さんが座右に置いていた吉田東伍『大日本地名辞書』にも、たしかに、こうあります。

 常喜院とも称す。伊吹山護国寺の別院にして、三修法師の弟子名超
 童子の創建とぞ……(以下略)。


『鬼平犯科帳』の文庫巻17[鬼火]では、家督を弟にゆずり出奔せざるをえなくなった幕臣が、〔名越(なごし)〕の松右衛門の世話を受けるのですが、この正統派の盗賊の出身が近江なのか三河かで、なやんでいました。
三河の「名越」は、愛知県南設楽郡鳳来町史跡文化財係の谷川さんのご教示で、「なこえ」と音訓するそうなので、どうやら、長浜の「名越」出身としてよさそうです。
長浜はたしか、織田方の武将の一人だった秀吉が最初に拝領した土地でしたね。
秀吉の前は、浅井家が支配していましたっけ? とすると池波さんは戦国ものの取材時に立ち寄ったのかも。

参謀本部陸地測量部 明治22年制作

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

栃尾市ホームページ
 http://www.city.tochio.nigata.jp



2003年05月23日(金 08:55

ガセ・ネタ……「牛伏」

発信:管理者の西尾

堀 眞治郎さん。
先日来より文庫巻11「穴」の〔平野屋〕の番頭…〔馬伏〕の茂兵衛の出身地をめぐって、情報をいろいろ寄せていただきました。
で、きょうは、お遊びのガセ・ネタ。
例の郵便番号CDで検索したら、なんと、茨城県東茨城郡内原町に「牛伏」という字(あざ)がありました。あのあたりに詳しい池波さんが仮にご存じだったとしても、信濃出身のお頭…〔帯川〕の源助との接点がないため、採用しなかったでしょうね。



2003年05月23日(金) 01:30

池波氏、草葉の陰で嘆いている……

発信:「週刊ポスト」ライター 
今若さん

いやはや、カウンター9万間近とはすごいですね。鬼平ファンの多さを実感するとともに、このHPの精密さ、底の深さを堪能させていただきました。主宰者としては大変な労力を必要とされるんでしょうね。

かくいう私も最近、久々に本棚整理中、たまたま「池波正太郎読本」(新人物往来社)を発見してしまったのが運の尽き。「鬼平」「梅安」「剣客商売」3大作のそれぞれ第1話や処女作「厨房にて」などが盛りだくさんで、既読のはずなのについつい読みふけってしまい、結局、いまだ本棚の整理はつかないありさまです(笑)。

読みふけったのには前段があって、このGW、発作的に池波氏のエッセイ集を6冊ほど立て続けに読んでいたのですよ。とくに、食べ物について書かれたものが中心です。というのも最近、外食するにつけ、思うことがありまして……。
雑誌などでの注目度は高いものの、じつは格好ばかりで見かけ倒しの店がいかに多いことか。
あるいは、六本木ヒルズに進出した名店の数々にもちょっぴり失望していました。
名店はやはり、その店構えのなかで、ご主人の手による料理の数々を堪能したいからこそ食べにいきたいわけで、六本木ヒルズのような、一部の人種しか縁のない箱の中で味わいたいとは思いません。
進出した店の店主たちは、いずれも酸いも甘いもわきまえた人格者なはずなのに、いったいどうしたことでしょう。誘致した連中に騙されたとしか思えません。
新しいものを否定するつもりはありませんが、あんまりだと思うのです。
それに輪をかけて、マスコミもこぞって六本木ヒルズ大特集ばかり。批判精神の1つくらい持ち合わせたメディアはないものか、といいたくなります。
そして、池波氏も草葉の陰で嘆いているのではないでしょうか。
そんな気持ちを慰めるために、ついつい池波氏のエッセイ集に手が伸びてしまった次第です。
あっ、ついついボヤキオヤジになってしまいました。
お忘れください。


管理者:西尾からのレス

先日、丸ビル36階の〔招福楼〕で都心の夕景を眺めながらのコースを試みました。さいわい、ご亭主・中村秀太良さんの説明も受け、けっこうな一夕でした。



2003年05月22日(木) 14:25

文庫巻10に登場する〔荷頃〕の半七

発信:新潟県栃尾市行政管理課 広報広聴係
   
石丸さん

戦国の武将・上杉謙信の旗揚げの地・栃尾には、静御前、那須与一、酒呑童子と茨木童子、弘法大師など、かずかずの伝説があり、語り継がれていますが、『鬼平犯科帳』巻10に登場する〔荷頃〕の半七に関する伝説は、残念ながらありません。
『栃尾市史』は、「中村検地帳」(慶長3年[1598])の栃尾郷に濁(荷頃)村の名前が見えていることを報告しています。
『栃尾市史 別巻2』は、荷頃は栃尾市街地の南西約4キロに位置し。「北荷頃・一之貝・軽井沢・比礼・本津川の五集落で旧荷頃村を形成」していたといいます。北荷頃の開村を大同3年( 808)とする伝承もあり、縄文土器も出土しています。
『鬼平犯科帳』の時代に近いといえる天保12年(1841)の戸数は 147、人口は 919人です。
明治10年(1877)の荷頃を地誌は、田は23パーセント、畑が約14パーセント、山林61パーセントとも報じ、稲作のほかに大豆・小豆・栗・蕎麦・里いも・大根を記します。秋には広瀬辺(北魚沼郡)から炭を買って長岡藩の家中へ入炭もしていたとも。
栃尾縞紬の創始(天明から寛政のころ)の地としても記録されています。
荷頃村が市に合併されたのは昭和29年(1954)6月1日でした。


小冊子「2001 栃尾市勢要覧 湧水楽園」より


栃尾紬(つむぎ) 小冊子「2001 栃尾市勢要覧 湧水楽園」より

なお、小千谷市に「南荷頃」という地名があると承知しておりますので、参考までに申し添えます。


管理者:西尾からのレス

文庫巻10[五月雨坊主]に登場する〔荷頃〕の半七が、越後から岩代、信濃へかけて働く越後生まれの盗人〔羽黒〕の九兵衛と兄弟分の盃をかわしていたところをみると、やはり越後の出身といっていいとおもいますが、小千谷市も越後なので、石丸さんのご教示にしたがい、「南荷頃」も一応はあたってみる必要がありそうですね。もっとも、吉田東伍博士『大日本地名辞書』には、古志郡の「荷頃」しか載っていませんが。

荷頃と云ふ。橡尾の南に接す、比礼(ひれ)、本津(ほと)川、一   之貝、軽井沢等の五大字之に属す、荷頃又逃人に作り、古書には濁に作れり。

池波さん着用の縞紬は、もしかしたら『蝶の戦記』で越後を取材したときにもとめた栃尾産だったのかも。

 わいわい談議〔荷頃〕の半七 ←ここをクリック



2003年05月21日(水) 18:25

「名越」について

発信:愛知県南設楽郡 鳳来町教育委員会
   史跡文化財係 谷川立樹さん

1.名越村の誕生の時期
  名越村の誕生の詳細な発生については、不明ですが、寛永年間(1624
  〜44)の検地本帳には、「なこへ」という文字が見えます。
  また、享保8年(1723)の文書には「名越」というものが見えていま
  す。
  現在でも字名として「名越」の地名が残っています。

2.名越村の合併の経緯と人口、戸数および主たる産業
  名越村→大野村(明治22 合併)→名越村(明治23分村)
  七郷村(明治39 合村)→鳳来町(昭和31 合併)
  明治21年 45戸  224人
  明治39年 49戸  280人
  平成 3年 51戸  220人
  
  主たる産業 明治・大正と養蚕。

3.名越の読み方
  「なこえ」


管理者:西尾からのレス

谷川さん。ありがとうございました。
池波さんは、盗人の呼び名をつくるとき、ときどき〔池波流〕音訓をやります。「名越」は、〔池波流〕だと〔名越(なごし)〕の松右衛門。<文庫巻17 p318 新装p329 >
ところで、「名越」は、

 滋賀県長浜市名越町←名越村
 愛知県南設楽郡鳳来町名越←名越村
 大阪府貝塚市名越


とあり、貝塚市は「なこせ」と読ませているそうです。
鳳来町のは「なこえ」。
鳳来町名越は鳳来寺山の下ですが、武田軍団か織田軍団になにかゆかりがあるのでしょうか。

参謀本部陸地測量部 明治22年制作

画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。



2003年05月21日(水) 14:56

当山貫主も大の鬼平ファン

発信:茨城県真壁郡大和村 雨引山楽法寺
   大畑さん

写真3枚を添付しました。サイズは適宜調整してご使用下さい。
ご本尊さまの写真は秘仏なので、申しわけありませんが、お送りできません。あしからず、ご了承下さい。
じつは、当山貫主も大の鬼平ファンでして、ビデオを全巻購入して見ています。時間があるときに、西尾さんのホームページを見てもらいます。


雨引山楽法寺 全景


雨引山楽法寺 境内


雨引山楽法寺 本堂


管理者:西尾からのレス

大写真3点、たしかに拝受しました。さっそくにも、[わいわい 〔雨引〕の文五郎]コーナーに掲げさせていただきます。
そうですか、貫主さまも大の鬼平ファンとは、なんとも心たのしい秘話ですね。
ビデオでは、〔雨引〕の文五郎を目黒祐樹さんが演じていますが、原作のほうにもお目をとおしいただくように、貫主さまへ、どうぞおすすめください。
それから、池波さんが貴山へ参詣した記録が見つかりましたら、ご一報くださいますよう。




5月19日〜11日
2003年05月19日(土) 10:17

「雨引観音」の写真

発信:茨城県真壁郡大和村 雨引山楽法寺
   大畑さん

ホームページに当山をご紹介いただき、まことにありがとうございます。
当山の写真はメールに添付して送らせていただきます。
ご本尊については、秘仏でありますので、貫主の了解が得られたら、お送りいたします。
また、当山のページからもリンクさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。


管理者:西尾からのレス

大畑師。
文庫巻9[雨引の文五郎]の呼び名〔雨引〕を、池波さんは、かつて参詣したことのある貴山のご本尊「雨引観音さま」をイメージして創作されたにちがいない、と思ってきました。
[わいわい 〔雨引〕の文五郎]のコーナーに貴山の写真を載せさせていただけば、鬼平ファンの重要巡行スポットの一つになること、間違いありません。
また、張っていただくリンクで、鬼平の新しい読者、〔雨引〕の文五郎ファンが増えましょう。
合掌。



2003年05月15日(木) 23:41

馬伏塚城跡の写真、見てま〜す!

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   兎忠こと木村さん

掛川城と馬伏塚城跡の写真、HPで拝見しました。それにしても「馬伏」を、「まむし」と読むのにはビックリ!「マブシ」から「マムシ」になったということかしら?


管理者:西尾からのレス

スルドい! 池波さん愛用の吉田東吾博士『大日本地名辞書』(明治38年〜)の目次は「馬伏塚]に「マブシヅカ」とルビをふっています。指定されたページは、

横須賀(よこすか)城址 新古の二址あり。その古城を馬伏塚(マブシヅカ)といふ。(三河物語に…並の辞書にない字で坑の土が虫へん…カワラヨモギを食べる蚕の一種、諭の言へんが土へん…意味不明…につくり、マムシツカと傍訓したり)□□□年、信濃の小笠原長高、来り今川に仕へ、横須賀を賜はり、馬伏塚に築城す……(略)。

つまり、「マブシ」がなまって「マムシ」でしょうね。
横須賀町は浅羽町の南に接しています。
信濃出身だった小笠原氏は、城内に諏訪社を祀り、それがいまでも本丸跡にのこっているのかも。若宮八幡社は、武門が祭った神社ですね。



2003年05月15日(木) 10:50

彩色「江戸名所図会」展によせる

発信:東京都退職校長会 世田谷支部
   支部長:長代重春さん

小泉さんの彩色「江戸名所図会」展を拝観、そして塗り絵師としての体験発表を伺い、「健やかに生きる」本会のテーマを地でいっていると感じました。
余生を夢中になれる技に挑戦するのは最高です。
時あたかも、「江戸開府 400年」、彩色のますますのご精進を期待しています。


管理者:西尾からのレス

元校長・長代先生、お励ましの言葉、小泉さんも感激でしょう。
小泉さんの都営地下鉄三田線[三田]駅のプロームナード・ギャラリー展は、4月16日〜30日で、すでに終わりましたが、作品はこのHP「個人画廊」コーナーで観賞できます。



2003年05月13日(火) 08:39

大立ち回りは無かった

発信:長屋の隠居さん

『鬼平犯科帳』ビデオをみていると、ドラマの終局には盗賊と捕り方の乱闘がありますが、あれはドラマを面白くするための殺陣だと感じます。
当時は各地の大家、名主は町内や部落の情報を現在では想像も出来ないほどよく知っていました。
連帯責任で密告制度の発達した世の中ではたとえ逃げ果せても逃げ切ることは不可能で、よほどの確信犯か狂人でないかぎり、「恐れ入りました」と素直に捕まったと思うんです。


管理者:西尾からのレス

長谷川平蔵と同時代の史料……『よしの册子』は、松平定信陣営のバイアスがかかっているので、にわかには信用できませんが、その「寛政元年11月22日より」の中で、平蔵が組の者たちへ申しつけたとして、

十手は腰の物と同じと心得て、みだりに抜くことのないようにと。これから先、十手で人を殺めたなどと耳にしたらそれなりの処分を申しつける、と申し渡したので、よくよく手にあまった時でなければ十手を抜かなくなった、と町々で悦んでいるそうな。

ですから、テレビの十手をふるっての逮捕シーンは、いくぶん行きすぎかも。
引用の文は、このHPの『よしの册子』の第9回に紹介しています。ぜひ、アクセスしてお読みください。

 『よしの册子』第9回 ←ここをクリック



2003年05月11日(日) 15:58

[蛇の眼」の作品年代の疑問


発信:おまさの亭主になりたい密偵(いぬ)さん
   (昭島市在住)

初めてお便りします。いつも先生のHPや著作を拝見しています。
今回ようやくスケジュールが合いそうなので江東区文化センター講座の「鬼平を歩く」に参加できそうですので、楽しみにしております。
自分でも1昨年から「鬼平犯科帳 事件年譜」なるものを作成していましたが、[血闘]の順序確定で悩んでいました。そんな折、先生のHPと「鬼平クイズ」で「寛政元年」とされていたので、何故かと思っておりましたが、[夜鷹殺し]に「寛政元年」と明記され、おまさが囮として登場していることにようやく思いいたりました。こんな考え方でよろしいのでしょうか。
さて、タイトルに在ります[蛇の眼]については先生は「寛政4年」とされております。が文庫12Pの 4行目に、「この年、寛政3年は、かの針売り・おろくが……殺害された翌年にあたる」とあります。[蛇の眼]の事件年譜としては寛政3年ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


管理者:西尾からのレス

たしかに、「この年、寛政3年は、かの針売り・おろくが……殺害された翌年にあたる」とありますね。
しかし、p24 新装p30に、
「平蔵は、新設される人足寄場奉行に、徒行目付(かちめつけ)・村田銕太郎昌敷(てつたろうまさのぶ)という旗本を推薦し、ただちに松平老中は平蔵の進言を採り入れた」とあります。
が、寄場取扱だった平蔵に代わり、村田昌敷が寄場奉行として発令されたのは寛政4年6月のことなのです(『徳川実紀』)。
つまり、池波さんの勘違いが二つあります。

一は、寛政3年と寛政4年の混同。

一は、家禄 100石以下で、お目見もかなわないほど家格の低かった村田昌敷を推薦したのは長谷川平蔵なんかであるはずがなく、また、老中首座の松平定信が「平蔵の進言」なんかを採り入れるはずもない。


のがそれです。
ま、[蛇の眼]の事件年譜として、どちらを採るかは、小説を採るか、史実を採るかでわかれましょう。



5月10日〜4日
2003年05月10日(土) 13:10

池波さんと司馬遼太郎さん


発信:御台さん

西尾先生、こんにちは。
いつも〔御台の間〕でステキなお話をお聞かせくださりありがとうござい
ます。
司馬遼太郎さんの「菜の花の沖」を以前読みましたが、3巻に宗平の通り名〔舟形〕が出てきていたとは気がつきませんでした。
今回「箱根の坂」に、小川(こがわ)村の法栄と称する鬼平さんの先祖が登場していたのを知り、司馬遼太郎さんの作品が案外キーワードになりそうな気がしてきました。
鬼平犯科帳文庫巻3「兇剣」に出てくる、京都西町奉行・三浦伊勢守の子孫のあたる方といっしょにお城めぐりに行くことがあるのですが、池波先生は正確にお書きになっている、と感心していました。
同じく司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」にもその方の先祖が正確に登場しているそうですよ。
時代は違いますが。
司馬さんの小説では、あと「功名が辻」を読んだくらいですが、あの中にも誰かが隠れているのでしょうか? もう一度読みなおしてみると新しい発見があるやも知れません。先生のおかげで、鬼平の謎解きが楽しくなってまいりました!


管理者:西尾からのレス

司馬さんの資料の量はケタちがいですからね。なにしろ、1か月に 100万円以上も資料を買われていたのですから。その成果が、小説のあちこち、『街道をゆく』の随所にちりばめられているわけ。
しかし、池波さんの映画観賞もすさまじい数で、池波論を本格的にやろうとおもったら、池波さんが見た映画を総ざらえするぐらいの気がまえがないと……。
試写室の最後列右端が池波シートらしく、映画配給会社の宣伝部がリザーヴをこころがけていました。
試写がおわり、振りかえるとたいてい、美女をしたがえた池波さんが……。たぶん、出版社の編集部の女性を誘っていたのでしょう。女性側とすれば勤務時間中に試写が見られるのですから大満足。
挨拶をすると、池波さんはテレたような微笑を返されました。



2003年05月09日(金) 07:54

〔舟形〕の宗平と〔船形〕の五平


発信:管理者の西尾

[わいわい 〔舟形〕の宗平]に、学習院〔鬼平〕クラスの堀 眞治郎さんが、 1月 3日付のコメントで、宗平を東北出身と仮定されていますが、司馬遼太郎さんの『菜の花の沖 (三)』(文春文庫)にこんな文章がありました。舞台は箱(函)館湊です。

 高橋三平の背後に、つねに家来の五平がひかえている。 五平が、出羽の最上川のほとりの金谷(かなや)という在所のうまれで、姓を船形(ふながた)とよぶということは、(高田屋)嘉兵衛もきいていた。(略)
 船形五平は、農民の出である。
 かれの出身地である出羽の最上川沿いの村山盆地では、紅花が栽培される。商品作物としては換金性がきわめて高い……。(略)
 こういう社会から出てきた船形五平が、江戸に出て本多利明から天文、数学、測量を学ぶようになったというのは、奇異とするに足りない。(略)
 最上川は、出羽の大動脈で、日本海きっての交易港である酒田湊にそそいでいる。

    

    
司馬遼太郎『菜の花の沖』(文春文庫刊)

 池波さんと司馬さんは、たしか同年齢で、親しくもしていました。
『菜の花の沖』のサンケイ新聞での連載開始は1978年(昭和53)04月01日で、『オール讀物』1970年(昭和45)05月号の第28話[敵(かたき)]の〔舟形〕の宗平のほうがはるか早くに登場しています。
 まあ、調査魔・司馬さんのこと、『菜の花…』の船形五平は実在の人物らしいので、〔舟形〕の宗平からヒント……はないでしょうが、偶然にしてはなにか暗示的です。



2003年05月04日(日) 06:23

re埼玉県の情報 針ヶ谷について


発信:谷中のうさぎ さん

情報をもとめられている埼玉県の針が谷ですけれど、地形的には大宮台地へきりこんだ溺れ谷の一種と思われます。現在は面影は無いですけど。
JR与野駅大宮に向かって右側一帯です。


管理者:西尾からのレス

文庫巻7[はさみ撃ち]で、たらしこみ専門でまわりの貸本屋をしいる盗人〔針ヶ谷〕の友蔵の通り名についての情報、ありがとうございます。
そうですか、大宮台地でしたか。


拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

この友蔵は、17,8歳から〔夜兎〕の角右衛門に仕込まれ、〔夜兎〕のお頭が短編[白浪看板(のち「看板」と改題](「別冊小説新潮」65年07夏号)に書かれた事情で一味を解散、密偵になったあとは、〔墓火〕の秀五郎の一味へ入ったが、逮捕はまがれたという設定です。



5月3日
2003年05月03日(土) 11:05

内容の濃いホームページに圧倒されました


発信:(京都)襖絵絵師の部屋 絵空事&一期一会
   とりむ さん

はじめまして、すっごい内容の濃いホームページに圧倒されていましたー。すごいすごい!

大覚寺付近に昔住んでた事があって、毎日みたいに何らかの時代劇を撮影していました。僕はそれを見ているのが好きで、ずっと見ていました。
またおじゃまさせていただきますね。


管理者:西尾からのレス

おほめのお言葉、痛みいります。
とりむ さんのHPも美しいですね。

 http://member.nifty.ne.jp/kyoto-saisiki/




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