3

(1へ   2へ)



   7

 <イゾルデ>には三十人ほどが集まっていた。孝彦のお祝いだからと−−その意味はさほど明らかではなかったのだが−−萠香は例の着物を着ることにした。仕事帰りにわざわざ着替えて、非時の花と紅い蝶の装いで、萠香は店のドアを開けた。
 パーティーの始まりからは既に一時間ほど過ぎていた。遅れてやって来た萠香を、椙田がいち早く見付けて近付いてきた。
「孝彦から、連絡無い?」
 開口一番、椙田はそう言った。今夜の主役である筈の孝彦が、まだ姿を見せないのだという。萠香はふっと、背筋に寒いものを感じた。
 孝彦は、来ないかも知れない。
 そう萠香は思った。
 連絡してみるからと言って、萠香は店の外に出て、携帯で孝彦に電話してみた。
 意外にも、数回のコールで孝彦が出た。声が近かった。
「孝彦くん?」
「ああ、萠香サン。今どこ?」
「<イゾルデ>に来てるけど……何かあったの?」
「……別に。それよりさ、今、どんな格好?」
「え?」
「洋服?」
「あ、ううん。お着物よ」
「非時の花の?」
「……ええ」
「やっぱりね」
 無邪気な、嬉しそうな声だった。
「そうじゃないかと思ったんだ。萠香サン、そういうところ好きよ、僕」
 初めてのような気がした。孝彦から、好きだという言葉を聞くのは。それを嬉しいと感じている自分に、萠香は軽い戸惑いを覚えた。
「ああ……萠香サン、入り口のライトの下に立ってよ」
「え?」
「いいから、早く。横向きがいいな。駅の方に向いて」
「孝彦くん……今どこにいるの?」
 クスッという笑いが携帯電話から聞こえ、次の瞬間、道の向こうから大きな声がした。
「ここだよ!」
 孝彦は笑いながら携帯をポケットに突っ込み、道を渡って萠香に駆け寄った。
「アハ、びっくりしてる」
「だって……」
 萠香の肩を抱き寄せ、孝彦は陽気に笑った。萠香は、孝彦の胸にそっと耳をつけた。あの岸辺に寄せる波の音が聞こえた。
 萠香は、小さく呟いた。
「来ないのかと思ってたわ……」
「どうして?」
 萠香を覗き込むようにして、孝彦は悪戯っぽく笑って見せた。何だか綱渡りのようだと萠香は思った。
 孝彦の声は明るかった。
「僕は……まだここにいたいんだ」

 二時間ほどしてパーティーがお開きになったあとも、<イゾルデ>にはまだ七、八人が残っていた。
 不意に携帯の呼び出し音が鳴った。
 孝彦はポケットを探り、電話に出た。
「はい……はい、そうです」
 椙田や他の連中はたわいもない話しに笑い合っていたが、萠香だけは、孝彦の横顔を見つめていた。
 孝彦は、しばらく携帯に耳を寄せたまま話を聞いている様子だったが、最後に、「そうですか、分かりました」とだけ言って、通話を切った。
 何故ということもなく、テーブルの回りにいた全員の目が、孝彦に向いた。
 孝彦は薄笑いを浮かべて、言った。
「……作品が、焼失しましたってさ」
 何を言っているのか、誰もすぐには飲込めなかった。孝彦は椅子の背もたれに身を預けながら、投げやりな口調でもう一度言う。
「S社の広報が保管してたあの絵が、燃えちまったんだと」
 椙田が叫んだ。
「あの絵って……お前の、受賞作品か!?」
「ああ」
「なんで……」
 孝彦はゆっくりと、くわえた煙草に火を点けてから、肩を竦めた。
「警察と消防が調べてるってさ。失火か、放火の可能性もあるかも知れないから」
 一斉に、孝彦の仲間たちが騒ぎ出した。
 賞はどうなる。授賞式は明日なのに。それより、早くプリントし直せばいいんじゃないか。予備のプリントはないのか。データは保管してあるんだろうな……
 孝彦は平然と煙草を吸い続けていた。むしろ、幸福そうにさえ見えた。
 ざわめきから遠く、萠香は海鳴りを聞いた気がした。耳元で、孝彦がそっと囁く。
「大丈夫……悪い未来は、全部僕の取り分だから。出来れば萠香サンには、もう少しましなものをあげたいよ……」
 孝彦の囁きは、激しく岩肌を打つ波の音と一つになり、いつまでも耳の奥で呻り続けた。

 翌日の夜、椙田から電話があった。
 孝彦が姿を消したのだという。
 不思議と、それを聞いても驚きはなかった。ただ重く沈み込むような疲労感だけが萠香を捕えていた。
 椙田の話によれば、前夜、慌ただしく<イゾルデ>で別れてから、孝彦は『非時の花』の画像データを取りにアトリエへ向かったらしい。アトリエのプリンターでは、大判の印刷ができない。椙田は、電話で知り合いの印刷屋を何軒か当たり、都合をつけてから孝彦の後を追った。
 しかし、アトリエに孝彦の姿はなかった。
 不審に思った椙田は、とにかくコンピューターを立ち上げ、作品の画像データを探そうと思った。
「やられたよ……コンピューター三台とも、ハードディスクが初期化されてて……もう、頭まっ白よ。バックアップもみんな無くなってた。孝彦のデスク探したけど、フロッピー一枚残ってなかった。完全におじゃんだよ。孝彦の受賞作、『非時の花』、もう、どこにも無いんだ。孝彦の奴、何考えてんだか…」
「それって……本当に孝彦くんが?」
「他に考えられないよ。鍵もかかってたし、部屋が荒らされてたわけでもない。孝彦とはそれっきり、いくら電話しても連絡がつかないんだ。自分の部屋にも戻ってないし、今日の授賞式にも現れなかったって」
 孝彦に何かが起こっているのは確かだったが、萠香は異変を認めたくなかった。
「けど、まだたった一日……子供じゃないんだし……すぐに戻ってくるかも……」
 椙田が声を荒げた。
「だってアイツ、ここずっと様子が変だったじゃないか! どこがどうって言えないけど……受賞の報せが来てから……いいや、萠香さん、あんたと付き合い始めてから、孝彦、どっかおかしくなってたんじゃない? 萠香さん、あいつが行方くらました理由、何か知ってるんじゃないの?」
「そんな……」
 理由、と聞かれても、萠香には答えようがなかった。二人はただ、一つの幻視を共有していただけの間柄なのだ。そう思ってみて、萠香は苦い味が口の中に拡がるのを感じた。
 ただそれだけの間柄だとしても、或いはそれだからこそ、萠香は認めたくなかった。幻視が、孝彦にだけ別の意味を持ち始めていたことを。
「とにかく、孝彦から連絡あったら、すぐ俺にも教えてよ。こっちからも、何か分かったら知らせるから。あいつを引き留められるの、多分、あなただけなんだ……あいつが女に執着するのなんて、初めて見たんだ」
 吐き捨てるような椙田の声を残して、電話が切れた。
 孝彦を引き留めることなど、出来るのだろうか。彼は行ってしまったのに。一人で。
 視界の端で、紅い蝶の鱗翅が舞っていた。砕け散る波の音が絶え間なく、耳の奥で繰り返す。
 激しい波音に呑まれそうになりながらも、孝彦の囁きが生々しく蘇った。
 いつか、幻視にとり殺されるよ……

   8

 孝彦から電話があったのは、三日目の夜だった。
「会いたいんだ……来てよ、今、これから」
 そう言ってからすぐに、孝彦は自分の言葉を打ち消した。
「ううん、今すぐじゃなくてもいいから……あの着物、着て来て。あれを着た萠香サンを、もう一度見たいんだ……」
 孝彦の声は、微かに震えていた。明るい口調を装ってはいたが、憔悴しきった様子がありありと分かる。
「孝彦くん、すぐに行くから、そこ動かないで待っててよ。絶対よ」
「うん……でも、非時の花の着物、ちゃんと着て来てよ」
「分かったから、絶対そこにいてよ」
 そう念を押してから電話を切ると、萠香は大急ぎで例の着物を着た。パーティーの時に着たまま、襟を拭いただけでしまわないでおいたのがせめてもの救いだった。馴れた手つきで、十分とかからずに着付けを済ますと、萠香は孝彦が告げた喫茶店へと、タクシーを乗り付けた。明々と看板を光らせた終夜営業の喫茶店だった。
 広い店内には低いソファとテーブルが並び、主張のなさが個性であるような、お手軽で散漫な印象のインテリアが目に付いた。煙草の煙で白く濁った空気を通して、萠香は孝彦の姿を探した。
 窓際の観葉植物の鉢植えの向こう側に、一番隅のテーブルで背中を丸めてコーヒーを啜る孝彦の後ろ姿が見えた。
 萠香は半ば駆け寄るようにして、孝彦に近付いた。一瞬、孝彦の肩がびくりと動いた。それからゆっくりと振り向いた彼の顔は、頬がそげ、陰惨な影すら滲んで見えた。
「孝彦くん……」
 立ち尽くす萠香を見上げ、孝彦は力無く笑った。
「……出ようか。この店、萠香サンには似合わない」
 そう言って立ち上がった孝彦は、じっと萠香を見つめ、呟いた。
「ごめんね……萠香サン」

 問い質したいことは沢山あったが、口に出すのが怖いような気がして、萠香は黙ったまま孝彦の後について歩いていた。
 大通りでタクシーを拾い、孝彦は帝国ホテルと行き先を告げた。
 シートに身を沈めると、孝彦は何も言わず萠香の手を握った。
 石のように冷たかった。
 萠香は両手で孝彦の手を包み、思い詰めたような横顔を無言で見つめた。
 やがてタクシーはホテルのアプローチに止まり、孝彦は真っ直ぐにフロントへ向かった。
 部屋に案内されると、孝彦は真っ先に窓に近付き、サッシの枠を幾度か軽く手で叩きながら、外を見下ろした。
 案内係が出て行って二人きりになると、孝彦は萠香を振り返り、ふざけたように言った。
「あのフロント係、前金をお預かりしますだって。紅っ毛の若造だからって、警戒したのかな」
 孝彦の明るさは痛々しいくらいだった。萠香は窓際へと歩み寄り、孝彦の隣に立って外を見た。皇居と、日比谷公園の暗がりを縫うように、車のライトが光の帯となって流れていた。
「孝彦くん……こんな一流ホテル……それにここ、授賞式があったはずの……」
「授賞式か……そう言えばそうだったね。別にここじゃなくたって良かったんだけどさ。窓が開かないような、ちゃんとしたところなら」
「窓……?」
 孝彦は笑って首を振りながら、ソファに腰をおろした。
「いいでしょ? たまには、こういうところも」
 萠香は向かいのソファに座り、孝彦を見つめた。煙草に火を点けながら、孝彦はひっきりなしに窓の方を気にしている様子だった。
「孝彦くん……窓が、どうかしたの?」
 点けたばかりの煙草の火を灰皿で揉み消し、孝彦は立ち上がった。
「何でもない。今は、大丈夫なんだ。落ち着いてる」
 ミニバーからウイスキーとグラスを持ってきて、孝彦は再び座った。どこかちぐはぐな手つきで、ウイスキーをグラスに注ぐ。
「大丈夫……今は平気だ……」
 ストレートでウイスキーを一口飲むと、孝彦はやっと萠香を見つめた。何かに怯えているような眸だった。それが愛おしいと感じていることに、萠香は不思議な気がした。
 自分にとって、彼は何なのだろう……。少なくとも、もう、彼の存在に無関心でいることは出来なくなってしまった。単に、共に在ることが自然だというだけではなくなっていた。一人で行ってしまおうとする孝彦を、追い掛け、縋りたいような気持ちが、萠香の中にいつの間にか生じていたのだ。
「孝彦くん……何があったの? 椙田くんから電話があったわ。あなたが行方不明だって……」
 萠香はそっと腕を伸ばし、テーブルの上で孝彦の左手を握った。孝彦はその手に視線を落とし、呟いた。
「存在の現実感が極まっちゃって……身動きがとれなかった」
「……どういうこと?」
 不思議そうに眉根を寄せる萠香を見て、孝彦は空虚に微笑んだ。余所余所しいその微笑が、ひどく萠香の癇にさわった。
「孝彦くん、話す前から諦めたような顔しないで……お願いよ。……それとも、あなたにとっては結局、私さえも、向こう側の人間だってことなの?」
 孝彦の眸が萠香を見つめていた。その表情には何かに抵抗するような辛さがあり、やがて、孝彦はゆっくりと息を吐いて、話し始めた。
「あの夜……<イゾルデ>で萠香サンと別れてから、急に始まったんだ。最初、目の前にね、道路があった。次から次へと車が横切っていくのが見えた。今まで、そんなのはただの街の風景だったし、特にどうっていうふうに感じたことなんて、無かった。けど、突然……本当に突然、見ている風景が、物凄い存在感で迫ってきたんだ。凄い力のある現実に思えてきて……それを、僕は<知っている>って感じが、僕を支配するんだ……。そしたら、頭の中で言葉が貼り付きはじめた。『車』。『車』。『車が走っている』……それから、『車に轢かれる』。その言葉が頭に貼り付いて、どんどん大きくなる。僕は、道の真ん中に飛び出しそうになるんだ。僕の意志とは無関係に、足が動き出すんだ。全身が物凄い力で操られてるみたいに、僕は、道の真ん中に飛び出そうとしてる。僕はその力に抵抗してる。でも本当は、飛び出して轢かれてしまいたいんだ。そうなりたくて仕方ないんだ。『車に轢かれる』。その言葉が現実になろうとして、物凄い力で働きかけてくる。<知っている>僕なのに、支配されるのも僕なんだ。冷汗ぐっしょりになって、必死に抵抗した。やっとその言葉が遠退いていって、気が付いたら、二時間以上経ってた……」
「そんな……」
 孝彦はグラスに唇をつけ、ウイスキーを舐めた。
「とにかく帰って寝ようと思って、駅に行った。切符を買って、ホームに行ったんだけど……入ってきた電車を、僕は<知っている>って……反対方向なのは分かってるのに、乗ってしまうんだ……。しかも乗ってて、別の電車が駅に入るのが見えると、今度はその電車に乗り換えなきゃならない……。莫迦みたいに走って、階段駆け下りて、駆け上って、飛び乗るんだ。どこにも行き着けないまま、何度も、そんなことを繰り返した。……でも、それは長く続かないで済んだ。じきに終電になったからね。
 気が付いたら、千葉の方の、聞いたこともない駅に一人で立ってた。人気のない住宅街を歩いた。車も殆ど通らない、広い道路を、ずうっと歩いてた。ぽつん、ぽつん、と街灯があるんだけど、その間隔が広くってさ、街灯と街灯の間は、闇が深いんだ。僕は真っ直ぐに続く道路を、歩き続けなきゃならないんだ。『道路』。『道路』。『道路を歩く』。……目的も何もないのに、どうしてもやめられない。足はもうクタクタで、座り込んで眠ってしまいたいのに、歩かなきゃならないんだよ。そのうち、空が明るくなってきた。犬の散歩の人とかが通り過ぎてった。でも、また何か別の物に……別の言葉に捕えられたらいけないと思って、なるべく周りを見ないようにして歩き続けた。
 膝がガクガクになるまで歩いて、やっと、『道路』から解放されたんだ。車が多くなってきてたけど、そのときは何とか平気だった。商店街っぽいとこに辿り着いたんで、急いで貯金おろして、最初に目に入ったビジネス・ホテルで、何時間かダウンした。けど、目が覚めたら……『窓』が見えたんだ……」
 その先は、萠香にも想像がついた。
 窓。
 窓を開ける。
 窓の外を見る。
 窓から飛び降りる。
 萠香は背筋を這い上る悪寒に、身を震わせた。強迫観念、とでも言うのだろうか……と思いかけて、萠香はその言葉にひどい据わりの悪さを感じた。そしてあの夜の孝彦を思い起こす。孝彦は言っていた。火を、見ていた、と。見つめる眸に、見つめられる火が、容赦なく近付いていた。
 知るということ。
 支配すること、されること。
 <知っている>というのは、孝彦の単なる口癖だと萠香は思っていた。しかし、知ることが在ることそのものへと浸食してしまう予感は、もっと早くに気付いていてもよかったのかも知れない。萠香自身、あの幻視が魂の象りだという感じを、孝彦と出会って以来ずっと持っていたのだから。彼らはあの幻視を<知って>いた。けれど、彼らの魂はあの幻視によってしか、象りを明らかにしない。「非存在」の世界を<知っている>ことだけが、彼らの「存在」を標す。誰かが、何かを、知る、のではない。ただ、<知る>ということがあるだけなのだ。
 <私>という定点を得る以前の剥き出しの現実。認識の真昼だ。強烈な陽射しが真上から事物を照らし出し、孝彦は影を失った。存在から溢れ出す生のままの現実認識……それはもう、現世からは遠い向こう岸の眼差しではないのか。
 萠香は震える喉から、声を絞り出した。
「三日間……抵抗し続けたの……?」
 力無く、孝彦が頷いた。
「いったい……どうしてそんなことが……?」
「分からない……。ただ……」
 言い淀む孝彦を、萠香が促す。
「ただ?」
「……ただ、ずっと世界とまともに向き合わなかったことのツケが、一気に噴き出したみたいに……存在が極まってしまった、そういう感じなんだ……。世界の圧倒的な実在感に圧されて、僕の存在が、消えてしまいそうになる……」
「そんな……」
 何かが孝彦を追いつめているという予感はあった。しかしあの夜、孝彦が口にしたのは、まるきり逆のことだった。……いつか、幻視にとり殺される。
 鮮やかな幻視。それは孝彦と萠香が共有していた、たった一つのものだった。
 だが、孝彦を捕えたのは、非存在ではなく、存在の方だった。まるで、現実を蔑ろにしたことへの罰のように、認識の浅瀬で遊び戯れることを禁じられ、強い力で水底へと引きずり込まれていく。
 孝彦の眸が、現世に穿たれた底無しの穴のように、虚ろに深淵を覗かせていた。
 萠香は孝彦の手を強く握り、必死に繋ぎ止めようとしていた。彼を失いたくない、そんな必死さが、自分の中にもあったのだと、萠香は初めて気付いた。けれどその必死さが、孝彦への思いなのか、それとも自分の半身を失う恐怖でしかないのか、はっきりと言い当てることは出来なかった。
 孝彦の微笑みは、ひどく遠い場所から萠香に向けられていた。
「今は……大丈夫なんだ。さっきから、不思議なくらいに。……萠香さんと会ってからは、ずっと落ち着いてる」
 そう言って微笑む孝彦に、萠香は何を言ってやればいいのか分からなかった。孝彦を繋ぎ止める言葉など、萠香は一つも持っていなかった。ただきつく握りしめた手の冷え冷えとした感触だけが、二人を関係付ける唯一のものだった。
 不意に、二人の手が重なる場所に、紅い蝶の鱗翅が舞い降りた。二人の視線が、同時にそれを追う。
 共有された幻視。
 共有し得ぬ世界。
 世界から溢れ出す存在の奔流に捕えられながら、孝彦の世界には、ただ、他者だけが存在しない。物と、言葉だけの、異様に存在的な世界。
 萠香はとても渇いた気分で、呟いた。
「……私はここにいるわ……」
 言いながら、そっと孝彦の唇を吸ってみる。削げ落ちた頬を両手で包み、紅く染めた髪の黒くなりかけた生え際を、ゆっくりと指で撫でる。
 衣擦れの音だけをさせて、萠香は孝彦の前に立つと、波の泡の白色をした帯締めを解いた。薄縹の帯揚げは波頭を映し、海原の群青をした帯と一緒に、するりと解けて、流れ落ちた。萠香の細い指先が鱗紋の伊達締めを解き、紅絹の腰紐をはずした。
 萌葱色の着物が床に滑り落ちる。白綸子の長襦袢に、無数の紅い蝶が舞い立っていた。
「ここに、あなたの前に、いるのよ……」
 孝彦の冷たい手が、深く合わせた襦袢の襟を割って、萠香の乳房に触れた。熱い緊張が萠香の芯をぴんと貫く。
 勢いよく萠香を抱え上げると、孝彦はベッドの真ん中へ、倒れ込んだ。襦袢の胸元を激しく押し広げ、顔を埋め、片手は裾を割って柔らかな腿へ、そしてその奥へと進み入る。
 前で絡げた伊達締めが弛み、襟合わせを留めていた紅絹の紐が覗く。孝彦はその紐を掴んでグイと引き抜くと、萠香の身を起こし、襦袢を背中まで引き下ろしてから、彼女の両腕を縛った。互いに繋ぎ止める必死さが、きつくきつく萠香を締め上げる。紅絹の紐が、乳房の膨らみに喰い込み、軋みをあげた。肺から圧し出される息が、激しい喘ぎ声になる。孝彦の声が、背後から耳元で囁く。
「……あなたを愛さなかったこと……後悔するのかも知れない……」
 ああ、そうかも知れない、と萠香は思った。孝彦を愛さなかったことで、いつか罰されるときが来るのだろうと。
 けれど萠香は、孝彦の切望に応え得るだけの意味ある言葉を、何一つ持っていなかった。
 ただ熱く溶けた萠香の躰は人の形を失い、孝彦と溶け合い、やがて定かな輪郭を持たぬ波頭の一つとなり果てて、岩だらけの岸辺に寄せては砕け、うねり、激しい海鳴りに呑まれていくだけだった。

 夜が明けるまでには、まだ時間があった。
 孝彦は寝そべったまま煙草に火を点け、淡々と語り始めた。
「萠香サンは、まだ知らないんだよね……非時の花の、本当の生態。僕、あなたのこと結構好きだったから、話さないでおくつもりだったんだ……けど、それももう、限界。話しちゃえば、あなたも逃げられなくなるから、このまま、僕一人で消えてしまおうと思ってたんだ。でもね、そうもいかないらしい。僕には……話さずに心にしまっておく自由もないんだ。自由のあるなし以前に、『僕』って物が、もう、殆ど残ってないんだよ。……けど、もしかすると、緲かに残っている『僕』の残骸が、あなたに、何かを与えたがっているのかも知れないな。そう考えた方が、少しは救われる。あなたにあげる物なんて、僕には何もない。僕にとってたった一つ本物だった幻視も、あなたは、僕と出会う前から持ってたものね。だから、僕があなたに与えられるとしたら、やっぱりこれしかないんだ。たとえそれが禍でも、『僕』の残骸は、あなたに何かを与えたがっているのかも知れない。与え合うことが出来ないにしても、何か一つくらい与えてみたかった。……愛し合えたら良かったのに、って、僕、本当にそう思うもの」
 時折間を置きながら、孝彦は一人で喋り続けた。萠香は枕に頬を埋めながら、ひどい無力感に包まれていた。孝彦の口を塞ぎたかった。荒々しい口付けで、彼の言葉をせき止めてしまいたかった。時間を止めてしまいたかった。しかし、萠香にはその力がなかった。失われていくものの手触りに、思い出のみすぼらしさを感じるばかりだった。人を愛さないのがどういうことなのか、初めて知った気がした。
「聞いてくれる? 萠香さん。聞いてよ。聞いてほしいんだ」
 孝彦は喋り続けた。砂時計のように言葉が零れていく。
「蝶に変化する花……あなた、非時の花のことをそう言ってたね。強い潮風に玩ばれて、散り果てようとするその瞬間、ふっと、花が蝶に変化して舞いたつ。あなたが幾度も見てきたその幻視は、あなたの終りの時なんだよ。舞いたった蝶がどこへ行くか知ってる? 蝶は海を渡るんだ。激しい波が呻る冬の海を、非存在の蝶は越えていく。どこまでも、どこまでも。風に煽られ、流されながら、真っ紅な蝶は飛び続ける。やがて、もう一つの、新しい岸辺を見付けるんだ。
 そこには、紅い花が咲いている。
 蝶はその花を目掛けて舞い降りるんだ。ゆっくりと、海風に邪魔されながら、それでも確実に、舞い降りる。そして、非存在の蝶はね……花を喰らうんだよ。ザワザワと音をたてて、花を喰らい尽くすんだ。そうやって、非存在の蝶は、もとあった花に取って代るのさ。花が蝶に変化するんじゃない、蝶が花に変化するんだ。そうして、非時の花は、痩せた大地に根を張り、養分を吸い尽くすまで咲き続ける。どんなに激しい風が吹いても花が散ることはない。いつか、海を越えて旅立つ日まで、花は咲き続ける。……それが、非時の花の本当の姿なんだよ」
 萠香の耳の奥で、波の音が激しく呻り続けていた。
 萠香は呆然と、孝彦の背中を見つめた。孝彦は立ち上がり、ひどく疲れた様子で服を着ると、それきり何も言わず、振り返りもせずに、部屋を出ていった。
 不意に、波音が途切れた。
 薄闇に静まり返った部屋に一人取り残されて、萠香は長い間、身動き一つ出来なかった。少しでも動けば、世界が砕け散ってしまうのではないかと思った。心臓の音も、呼吸も、世界を毀すのに充分なほどの暴力だという気がした。
 どれほど経ってからか、再び波音が、遠く聞こえた。その音がゆっくりとうねりを繰り返しながら少しずつ近付いてきて、やがて頭の中で激しく呻り始めたとき、それは蝶が花を喰らう音に変っていた。
 孝彦の禍が自分のものになったことを、萠香は理解した。
 孝彦が陥った状態を精神の病だと言うのなら、それは伝染性の病に違いない。一つの幻視を媒介として伝染する、精神の病。孝彦は消え、病だけが残った。
 孝彦はあの絵を描かずにはいられなかった。萠香もまた、あの着物を着ないではいられない。そうやって、非時の花は現世への表出を強要する。それは幻視の繁殖行動なのかも知れないと、萠香は思った。孝彦の絵や、萠香の装いを目にした者達の中に、いつか紅い花の幻視者が生まれることも、あるのかも知れない。
 それが分かっていたから、孝彦はあの絵を葬り去ったのだろう。S社に忍び込み、放火した犯人は分かっていないが、孝彦以外の誰が、あの絵を燃やす必要があったろう。孝彦はあの絵を、あの光景を二度と人目に触れさせぬよう、消滅させたのだ。押し寄せる非存在の力に、孝彦は彼なりの抵抗をしたのだと、萠香は思う。
 けれど、非時の花は強い力で生き延びることを求めた。孝彦を喰らい尽くし、宿主を変えた。孝彦は、花を喰らう非存在の蝶について、語らねばならなかった。それを聞いてしまったことで、萠香はもう、後戻りできなくなった。<知っている>ことの呪縛から、逃れる術はない。萠香は<知っている>。知ることが、魂を象ってしまうような、そんな知り方を。
 非時の花は、孝彦という大地の養分を吸い尽くして、蝶に変化し、飛び立ったのだ。そして非存在の蝶は、既に、新しい岸辺を見出している。萠香という花を喰らいながら。
 それは現実の裏側で、はるかな昔から続いてきた、一つの生態だった。現世に拠り所を持たぬ存在の仕方で、非時の、非存在のその存在は、連綿と生き続けてきたのだ。人の心から心へと、渡りを繰り返して。
 おそらくは、人が人としての精神を獲得した、その始まりの時から、精神の存在に影のように寄り添って、非存在の生命が息づき始めていたのではないか……。そっと絹を纏いながら、萠香は不思議な明晰さで、そんなことを考えた。

   9

 インターホン越しに、椙田の声が聞こえた。
 着物を着付け終わった萠香は、手早くバッグをとり、玄関へ出て行った。椙田は2シーターの車のドアに寄りかかって、萠香を待っていた。
「ごめんね、椙田くん、無理言って……」
「いや、俺も孝彦の最後の場所は、見ておきたかったから」
 椙田の車でその岬に向かう間、これといった会話はなかった。途中、花屋に立ち寄り、萠香はなるべく濃い赤の雛罌粟を数輪買った。
 自殺の名所といわれる断崖には、すぐ近くまで車で行けた。道路脇に車を止めて、椙田と萠香は孝彦が飛び降りた崖まで歩いた。コンクリートの柵が行く手を阻んでいた。
 椙田と萠香は並んで柵に手を掛け、眼下の海を見下ろした。吹き上げてくる風が頬を刺す。波の音が、強く、遠く、風に混じって耳を覆う。
「こんなとこ……よく飛び降りようって気になるもんだな……」
 椙田がぽつりと言った。萠香は何も応えなかった。
 孝彦がこの場所を選んだのか、それとも、世界に追い立てられて辿り着いた先が、たまたまこの場所だったのか、真相を確かめる術はない。確かなのは、非存在の蝶が飛び立っていったということ、それだけだ。
「孝彦を……もっとしっかり捕まえておいてほしかったよ……」
 椙田が呟いて、鼻を啜った。
「でも、それは無理なのかな。萠香サンは、昔の孝彦に似てるんだ……なんにも執着しない。俺達が後生大事に抱えこんでるものみんな、ためらいもなく手放しちまう」
 鳴り響く波の音は、萠香の耳の奥で、蝶が花を喰らう音に変っていた。
 たぶん、出逢った最初の頃から、孝彦を愛さないことでいつか怖ろしい罰を受けるのかも知れない、と萠香は感じていた。けれど、それは違っていた。孝彦の残した禍は、少なくとも、孝彦から与えられたただ一つの形見なのだと、萠香は感じた。
 孝彦は愛されないことに傷付きはしなかった。萠香もまた同じだった。愛し合えないことを、許し合うことだけは出来たのだ。
 孝彦を失ってみて初めて、萠香には何もかもが分かってきたように思えた。例えば、なぜ波は寄せるのか。なぜ花は咲き、鳥は渡っていくのか。そしてなぜ自分は、人を愛さないのか。
 見知らぬ恩寵が自分を許しているのが、萠香にははっきりと分かった。
 世界は少しも傷付かずに、萠香の呼吸と鼓動とを受け入れている。たとえいつかそのことが萠香を押し潰すのだとしても、結局、人の身には、禍と恩寵とは区別しがたいのだ。
 椙田が萠香の横顔をちらりと見て、問いかけた。
「萠香サン……悲しくない?」
 その問いかけに答えるべき言葉が、すぐには生まれてこなかった。ただ、非時の花が揺れていた。
 萠香は吹き上げる風を見上げた。
「悲しくはないわ……そういうのは、私たちにはないのよ。……それでもね、椙田くん……たぶん私、孝彦くんのこと、とても好きだったのだろうと思うのよ。それは本当よ」
 椙田は萠香の横顔を見て、せめて哀しそうに笑おうとしたようだったが、それも出来ず、結局、仕方なさそうに小さく笑った。

(了)

『楽園』さんに登録しました。
「らら美」などで検索すると、
拙作に投票できます。


創作トップページへ

☆HOMEへ☆