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   4

 数十分後、孝彦と萠香は<イゾルデ>というバーの片隅で肩を並べていた。
 細長い店内の壁はコンクリートの打ちっ放しで、天井近くを走る銀色の配管がアクセントになっていた。入り口の右手に小さなカウンターがあり、奥に向かって幾つかのテーブルが並んでいるが、突き当たりの一角は、木の手摺に囲まれて床が一段高くなっていた。一番奥のそのスペースだけは、壁に煉瓦が貼り付けられていて、天井の低さもあってか、穴蔵のような雰囲気になっている。
 客は増え始めていたが、店の中はわりあいに静かだった。客の年齢層が高めなのかも知れない。
 孝彦は一番奥のスペースに席を取り、煉瓦の壁により掛かりながらメニューを眺めていた。テーブルの上には布製のシェードをかぶった小さな灯が吊され、壁にはモノクロ写真の額縁が沢山並んでいる。写真の多くは、欧羅巴の古い絵葉書のようだった。
 孝彦は萠香のために赤ワインをグラスで注文し、自分はバーボンと、食べ物のメニューからパスタを選んでオーダーした。
 飲み物が運ばれてくるとすぐに、孝彦はグラスを持ち上げて乾杯の仕草をした。
「萠香サン、今日、絶対来てくれると思ってたんだ」
 と言って、彼は背もたれに身を預けながら、萠香の着物に目をやった。
「でも、今日はあの着物じゃないんだね。……紅い花と、蝶。先週、あなたを見たとき、ボク、自分の目が信じられなかったんだ。袂から、紅い蝶が見えてさ。着物の方は、紅い花弁が舞っててさ。それで、足もと見たら、やっぱり、非時の花が咲いてた」
 ほんと、信じられなかったよ……と、孝彦は何度か嬉しそうに繰り返した。無口で無愛想だった第一印象とは逆に、孝彦はとても饒舌だった。躁状態が止まらなくなったような、度を過ぎたはしゃぎようにも見えた。
「非時の……花……」
 萠香は思い切って口を開いた。
「あの写真……それとも絵なの……? 場所はどこ? あなた、なぜあの場所を知っているの?」
「場所? あの崖のこと言ってるなら、三浦半島の方だよ。ちょっとした、自殺の名所だけどね。だから柵があったりなんだりで、修正が大変だったけど」
「修正、って……?」
「コンピューターさ。コンピューターグラフィックスだよ。写真をもとにして、合成して、修正して造った。……だって、アレはこっち側の世界には無い存在なんだから」
 存在しない風景……萠香はほっとする気持ちと共に、幽かな落胆を感じた気がした。
「それじゃあ……あの風景は、あなたの頭の中に……?」
「ま、とりあえずそう言ってもいいのかな」
 萠香は眉根を寄せ孝彦を見つめた。
「でも、私……分からないわ。こんな偶然ってあるものなの?」
「偶然?」
「ええ。全然関係のない者同士が、偶然に、同じ幻想を持っているなんて……。あなたが『非時の花』って呼ぶ、あの紅い花。風に吹かれて、蝶に変化する花。海に臨む崖の上に咲いているところまで、そっくり同じだなんて……」
「違うよ」
 孝彦はきっぱりと言い切り、軽く左右に頭を振った。
「アレはただの幻想なんかじゃない」
「でも……」
 萠香は言葉を探しながら、壁に飾られたモノクロ写真に視線をさまよわせた。見知らぬ風景−−おそらく今では変わり果ててしまっただろう、過去の影法師。
 知らない場所に置き去りにされたような気分で、萠香は呟いた。
「私には……記憶の出所がないのよ。あの写真の崖に行ったことなんてないし、あんな紅い花が咲いてるところも、もちろん紅い蝶だって、実際に見た覚えはないわ。現実の経験にはないし、絵でも、写真でも、テレビや映画で見た記憶もないのよ。なのに……」
「そういうンじゃないよ」
 孝彦はさして苛ついた顔もせずに、簡単に萠香の言葉を遮ってから、続けた。
「記憶も、体験も関係ない。でも、ただの空想でもない。どこにも出所なんかはないさ、こっち側の世界にはね。アレは、別の種類の存在の仕方なんだ」
「存在の、仕方……」
 孝彦は萠香にぐっと身体を寄せ、ほとんど頬が触れ合うほど近付いた。天鵞絨のシャツが紬に触れて擦れ合い、緲かな絹鳴りがした。
「非時の花が咲くあの風景を、僕たちは<知っている>。アレに比べれば日常なんて、吹けば飛び散って消えちまうくらい薄っぺらじゃないか。僕たちは<知っている>……あの花弁の感触。しっとりと水分を含んだ、ヴェルヴェットみたいな艶。血溜りみたいな色が、風に揺れるたんびに明暗を変えるのも。草原を吹く風に混じる潮の香りや、打ち寄せて砕ける波の音も。ううん、それどころじゃない筈だよ。あの草原の草なら、葉脈の一本一本だって視えるし、空を覆う雲の水滴の一粒一粒、波頭で弾ける泡の一つ一つだって、僕たちは<知っている>! 現実の世界では絶対に有り得ない、完全認識。僕たちは<知っている>んだ……」
 孝彦の声は、何かの呪文めいて萠香の奥深くへと吸い込まれ、それ自体命あるもののように蠢いていた。身体の芯が熱くなり、小さな火種が掻き立てられるのを、萠香は感じていた。
「現世には拠り所を持たない、別種の存在様式。存在の裏側だから、非存在なのかも知れない。僕たちの魂の半分は、非存在の側の法則に支配されてるんだよ」
 孝彦の言葉が途方もないということは、萠香も頭では分かっていた。
 けれど、否定しようにもしきれない、強烈な力が萠香を掴んでいた。
 萠香は既に急所を押さえられていた。心臓を鷲掴みにされているに等しかった。
 孝彦が囁く。
「だって僕たち……魂の核を、あの花の咲く場所に置いてきてしまったんだもの……」

 孝彦は、萠香が訊ねれば隠さずに自分のことを喋った。デザイン関係の専門学校を出てから数年働いたが、半年ほど前に仕事は辞めてしまったらしい。今はバイトと失業給付で喰い繋ぎながら、イラストレーターとして芽が出るチャンスを窺っているところだという。萠香が思っていたよりは、三つ四つ齢を食っていることになる。
「そっか、じゃあ僕たち、あんまり歳、違わないんだね。着物着てる女の人って年齢不詳になるじゃない。何となく『年上の女』って感じがするだけでさ。……でも、裸の萠香サン、年より若く見えるよ。からだ、綺麗だ」
 その夜のうちに、萠香は孝彦に抱かれていた。孝彦と肌を重ねることは、ごく自然な成り行きのように思えた。
 孝彦はその若さに見合った貪欲さで萠香を求めた。萠香の柔らかな肌の上を狂奔しながら、孝彦はなめらかに猛々しく、囁き続けた。
「ねぇ、萠香サン……あなた、冷たい人だよね。寂しいってことを知らないくらいに。誰かに分かって貰おうなんて、端から思っちゃいないんだよね。酷い女だよね。にこにこ笑って受け流して、何もかも本気にならないんだ……。あなたは誰も愛さない。愛されたいとも思わない。ただ自分がいるだけ。紅い花が咲いているだけ。ああ、でも、本気になんか、なれなかったんだよね……こっち側の世界には、なぁんの手応えもなかったんだものね……でもね、萠香サン、ボクを無視することだけは出来ないよ。ボクはここにいるんだ。あなたの内側にいるんだよ……ほら……」
 一つだけ、萠香が想像していなかったことがあった。孝彦は、萠香を優しく抱いたりはしなかった。大切に愛撫しようともしなかった。萠香がどんなに厭がっても、酷い格好をさせたり、屈辱的な行為を無理強いしたりするのだった。
「ボクの前で清楚な花みたいな顔しても無駄だよ……萠香サン、あなた、べっとりと蜜で濡れたメスなんだよ。……脚、もっと上げろよ。自分で持つんだよ。その方が、ほら、奥まで入るだろ? 気持ちいいんだろ? 好きなんだろ? 言いなよ、もっと突き上げて下さいって……子宮が押し上げられてスゴイです、って。ねぇ、萠香サン、あなた、物凄く淫乱な顔してるよ……苛められたいんだろう? もっと辱められたいんだろう? 痛くされると嬉しいんだろう? ……だってほら、私を罰して下さいって、その顔に書いてあるよ……だから、僕が罰してあげる。もっともっと責め抜いてあげるよ……あなたが望むだけ、いくらでも酷いことしてあげるよ……」
 いたぶられ、抗いながらも、萠香は久しく忘れていた、女としての自分を引き出されて、そのことに陶酔した。そして孝彦に呵まれるほどに、その手酷い罰され方が、自分にはひどく似つかわしいと萠香は感じた。愛されたいと思ったことがないから、心底拒むということも出来ない。そんな萠香の空白を、孝彦は知っていてくれる。
 孝彦が後ろから覆い被さりながら、萠香の髪を片手で掴みあげた。そして激しく萠香を責め、果てる前の束の間、艶の乗った恍惚とした声で、こう言った。
「僕はあなたに同情なんかしない……可哀想だから酷いこと出来ないなんて、思ったりしないよ……いくらでも酷く責めてあげるよ……だって……あなたは、僕と一つ魂の、非時の花なんだから……」
 孝彦の言葉が尽きたとき、萠香の目には、紅い花が蝶となって舞いたつさまが、ありありと浮かんで見えた。
 そして二人は同時に、その蝶に向かって手を伸ばした。
 紅い蝶は、二人の指の間をすり抜けて消えた。

   5

 その後、萠香と孝彦の関係は、転がり落ちるように深みにはまっていった。
 けれどその関係を何と呼べばいいのか、萠香には分からなかった。ただ、恋人でないのは確かだった。
 二人で会って、街を歩き、食事をするとき、孝彦は弟のように無邪気に振る舞った。立ち寄る先で友人に出会すと、孝彦は笑って萠香を紹介した。
「ボクの新しいヒト。萠香サンだよ」
 その言い方を、萠香は気に入っていた。嘘がないし、過不足もないように思えた。
 孝彦と過すとき、萠香は世界が息を吹き返すのを肌身に感じた。それは、あの着物に袖を通す瞬間とよく似ていた。この世界の裏側に流れるもう一つの現実が、吐く息と、退く息との間にそっと貌を出すような気配が感ぜられた。
 比べてしまえば、それまでの人生総てが色褪せた紛い物だった。孝彦と共有するあの幻視だけが、本物と言いうる実在感を持っているのだった。
 萠香は、孝彦の自己理解の仕方が、自分と似ているのを感じていた。萠香と名付けられた女は「こちら側」の世界だけの半分であって、自分の総てではないという感覚だ。こちら側の「萠香」は、彼女にとって「この子」であり、「この人間の女」だった。「萠香」と名付けられた存在より、その前と、その後の方が、ずっと長いような気がするのだ。孝彦と二人きりでいるとき、「萠香はそんなこと思わないわ」というような言い回しが、自然と多くなる。孝彦もまた、「この男は気にしないよ」などと言う。
 二人でいると、言葉にして口に出す前の思考が伝わってしまうようなことが、当り前のように何度もあった。そんなとき、孝彦は笑って言うのだった。
「不思議がることないよ……萠香サンとボクは、同じ場所に心を置いてきちゃってるんだもの」
 共有された幻視。
 孝彦と萠香は、あの蝶に変化する紅い花が咲く草原、その岸壁が臨む海と空とについて、完全な認識を共有していた。同じ光景を心に持つことは、同じ心の像りを持つことだった。彼らの魂を像っていると本当に言い得るのは、名前でもなく記憶でもなく、ただ、あの幻視だけだった。
 自分の中で最も鮮やかで手応えのある存在が、まさに相手の中にある。それは理解という言葉の意味を掘り崩す、圧倒的な同一性だった。萠香の知る限り、それは一番幸福に近いように思えた。ただ、孤独を癒す力だけがなかった。二つの孤独は重なり合って深まり、寂寞とした空白がそれぞれの心に残るだけだった。そんな空虚な幸福感が、自分達には合っていると、萠香は思った。
「萠香サンとボクは、少しも似てないね。萠香サンは世界を諦めて、死んだように生きてきた。でもこの男は、ずいぶん無茶をしたよ。生きてることの手応えを感じたくて、あの花の咲く場所に帰りたくて、いろんな事をやってみたよ。ただ日常を生きてるだけじゃ駄目だって思ってさ、新しい体験さえ出来るなら、何にだって手を出してみた。肉体を苛め抜いたり、快楽を貪ったり……女も抱いたし、男も抱いた、抱かれもした。でも大したことなんて、何もなかった。愛してみたいと思ったけど、愛せた事なんてない。誰かと一緒にいるって事、めんどくさいと思ったことはないけど、ほんとに意味があるって気もしなかった。だからやり方を変えなくちゃと思ったんだ。それで、人並みにスキューバとか、スカイダイビングもやってみたんだよ。重力から解放されてみたかったんだ。確かに日常感覚が破れるような経験だったけどね……快感もあったし。でも、そんなのは所詮、肉体の快感でしかない。せいぜい良くても、感覚的な快楽なんだよ。ドラッグも同じさ。感覚が変容して、知らなかった世界が見えてくる気がする……けど、ボクが欲しかったのはもっと違うものなんだ。もっと圧倒的な実在感。感覚の次元じゃないんだ。だって、精神が変容するのでなきゃ、存在の裏側に滑り込むことなんて出来やしないんだもの……」
 孝彦の言う『存在の裏側』……非時の花が咲くあのもう一つの世界には、いくら手を伸ばしても届くことがない。けれど孝彦にとって萠香は−−そして萠香にとっての孝彦もまた−−裏側の現実そのものではないにしても、その世界に実体を置いてきた、影法師のようだった。
 影と影が重なることで、より確かな輪郭が得られるように、二人は光を遮り合い、肌を重ねた。それは、故郷を懐かしむよすがのような愛着だった。

 何度目かの夜、ホテルのベッドに横たわりながら、萠香はふと、孝彦に尋ねてみたことがある。
「……非時の花、って、あなたが名付けたの?」
 孝彦は煙草の煙をふうっと天井に向けて吐き出した。
「……ああ。日本神話の……知ってる?」
「ええ。非時の香菓でしょう、多遅摩毛理と垂仁天皇の……」
「そう。常世の国から持ち帰った、不老不死の果実……似てると思ったんだ。僕にとっての、あの花の存在と、非時の実の神話。でもね……」
 孝彦は何か言いかけたようだったが、そのまま口を噤み、煙草を吸い続けた。
 多遅摩毛理は但馬の国の守で、非時の香菓は、橘の実だったとも言われてる。しかし、歴史的な事実に神話の意味を求めても、意味がないと萠香は思った。特に、孝彦と二人でいるときには。事実や合理性が存在の法則の総てではないことは、あまりにも当然の了解だった。その向こう側こそが、二人の関心事なのだ。
 非時の香菓は、垂仁天皇の最期には間に合わず、多遅摩毛理もまた死なねばならなかった。誰も救わない、不老不死の果実。果実すら結ばずに、風に揺れて舞う、非時の花。
 萠香はシーツを引き寄せて胸元の青あざを覆いながら、呟いた。
「非時、って……なんだか、不思議な言葉だわ。永遠の生命、永遠の若さを保証するのが、時の否定なのかしら。それとも、時が流れを止めることを意味してるだけなのかな」
「……不老不死ってのはさ、延命や若返りとは関係ないんじゃないかな。生命の源って、世界開闢の、始まりのときにあるわけじゃない。だから、総ての存在の始まりに近ければ近いほど、世界は若いわけだし、その始まりの中心には、時の流れを越えた永遠があるわけじゃない。始まりとか、中心とか、そういうイメージの反映なんじゃないかなと思うのね、本来の不老不死って概念は。時間が流れているのは、世界開闢からこっち側だけで、あっち側には、時間はない。こっち側からあっち側を見上げると、まぁ、永遠とでも言うしかないでしょ」
「非時の花は、そういう永遠と関係している、って……?」
 ベッドサイドの灰皿で煙草を揉み消して、孝彦はふっと目を伏せた。
「そうね……非時間的な存在。或いは無時間的な。或いは、非存在的な。非時の花が変化した蝶は、さしずめ、非存在の蝶、ってとこかな。……アレの存在の仕方って、たぶん、始まりと関係あるんだよ。世界の始まりとまでは言わないけどさ、アレが棲まっている、人間の精神、その始まりと、関係あるんじゃないかな。……表と裏みたいな具合にね」
 萠香は孝彦の横顔を見上げていた。薄闇に輪郭をぼかして、不確かな影のようだった。
「……ずいぶん、難しいこと考えてるのね」
 孝彦は幽かに笑った。……そうだね、という声が聞こえた気がした。萠香はひどくリラックスした軽い気分で、言葉を継いだ。
「誰かに、話したことある? 非時の花のこと」
「……どうかな……あの花の絵は、昔からよく描いてたからなぁ……萠香サンは?」
 いきなり矛先を振られて、萠香は正直に思い出してみるしかなかった。
「ずっと昔に、一度だけね……」
「前に、付き合ってた男にだ。……莫迦だな」
 クスリと笑いながら、萠香は頷いた。そして男の悲しそうな別れの言葉を思い出した。……君が分からない。そう言われて傷付かない自分に、あの頃はまだ失望できた。
 孝彦は萠香を<知っている>。そのことには歓びも、失望もない。喜びや失望は、自分以外のものと出逢ったときに感じるのだから。
 孝彦が片肘を立て、萠香を覗き込んだ。
「僕もね、椙田にはちょっとだけ、話したことがあるよ」
「椙田くん、なんて?」
「……お前は考えすぎだ、って。そんなことにかかずらわってないで、生身の女でも抱いてろ、ってさ」
 孝彦の胸の筋肉を指先でなぞりながら、萠香は呟いた。
「……彼は正しいわ」
 孝彦の唇が萠香の口を塞いだ。口付けが荒々しさを増し、孝彦は萠香を娼婦のように扱い始める。
 僕たちは少しも似ていない、と孝彦は言った。だが、二人の両極端な閉鎖性と攻撃性は、人格の一貫性などよりもっと確かに、一続きのマトリックスだった。ホテルの部屋の暗闇の中、呵む側と呵まれる側とは、身も尾もなく絶えず絡み合い、見分け難くなる。孝彦の嗜虐性は萠香自身の残虐さであり、萠香の被虐性はそのまま孝彦の自虐だった。
 なぶられ、痛めつけられながら、萠香は高まりの頂点で、紅い花が蝶へと変化する様を、ありありと眼前に見た。
 ただその生々しい現実感だけが、二人の間に存在するすべてであり、語り合う過去もなく、未来など更になかった。その行き場のなさが、永遠の裏返しなのかも知れない、と、萠香は思った。

   6

 孝彦のイラストが大きな賞を取ったと聞いたのは、椙田からだった。
 椙田と孝彦は、もう二、三人の仲間と共同で部屋を借りて、アトリエ兼オフィスとして利用していた。
 いつも待ち合わせをする喫茶店で孝彦を待っていたとき、偶々通り掛かった椙田が萠香を見付けて声を掛け、その話を持ち出したのだ。
 現代アートの大御所の名を冠した、大きな賞なんだと、椙田は盛んに強調した。注目が集まるのは決まっているから、アーティストとしてラッキーなデビューになるのは間違いないのだという。
「ほら、展覧会やったときに、孝彦が急にパネルをほっぽり出した、あれだよ。覚えてるでしょ? 萠香サン、あの時ちょうど居たじゃん」
「あの絵を、応募したの……? 孝彦くんが?」
「いや、まあ……俺らが勝手に応募したんだけどさ。んなこと、この際いいじゃん。孝彦も別に文句言ってなかったし。そりゃそうでしょ、賞金三百万よ、三百万」
「そうなの……?」
 萠香は不思議な気がした。パネルを放り出したときの孝彦の言葉からは、彼があの絵を不特定の人々に公開したがっているとは思えなかった。
 ……嗅覚のない奴に、匂いは分からない。
 確か、孝彦はそう言ったのだった。
 それとも、あの絵を公開したいということではなくて、自分の才能を認められたいという人並みな野心があるのだろうか。
 けれど、あの『非時の花』という作品に何かしら魅力があるとしても、その大部分はあの幻視が持つ過剰なまでに鮮やかな存在感のおかげであって、孝彦の才能をアピールしているとは言えないのではないか……少なくとも孝彦自身は、そう考えるはずだろうと萠香は思った。
 第一、『非時の花』を誰かに理解してもらおうなどと、果たして少しでも、孝彦は考えるだろうか。或いは、萠香を見付けてしまった孝彦は、彼女以外にも、あの幻視を共有している他の人間を見付け出したいのだろうか。……その想像は、ひどく萠香を不快にした。
「ね、萠香サンも来るでしょ?」
「え?」
「やだな、人の話ちゃんと聞いてよ。来週、金曜の夜に<イゾルデ>でパーティやるから、って。孝彦クンの受賞祝い。前祝いって感じかな、翌日が本当の授賞式だからさ。そっちはインペリアル・ホテルっだってさ。スゲェよなあ」
 椙田は溜息とも何ともつかない息を吐いて、店を出ていった。

 目を開けると、オレンジ色のくぐもった光の点が宙に浮かんでいた。それが孝彦の吸う煙草の火だと理解するまでに、少しだけ時間が掛かった。
 萠香は何も言わず、鈍い痛みと充足にも似た疲労感の中で、孝彦を見上げた。彼はベッドから身を起こし、煙草の先に点る火を見つめているようだった。次の一口を吸うことを忘れてしまったように、ただじっと、鈍く光るオレンジ色の火を見つめていた。先端から、煙草が灰になっていく時間が流れた。それから微かな音をたてて、灰がシーツに落ちた。剥き出しの火が大きくなった。
 孝彦の横顔が、煙草の火に近付いていった。
 何かがおかしい、と萠香は思った。煙草のフィルターの側でなく、火が点っている先端へと、孝彦の右目がゆっくり近付いて行く。
 紅く染めた前髪が、チリッという音と共に焦げるのが分かった。
 萠香は思わず、孝彦の手首を掴んだ。
 視線だけが、萠香に向いた。孝彦の眸には、ぽつんと、煙草の火が点っていた。
「……どうしたの?」
 半ば無意識のように、孝彦は呟く。
「火を、見ていたら……それを僕は<知っている>ような気がして……」
 怪訝そうに眉根を寄せる萠香を見て、孝彦は軽く口もとを弛め、首を振った。
「何でもない……たいしたことじゃないんだ」
「……大丈夫?」
「ああ」
 鼻先で笑いながら煙草を揉み消す孝彦は、もう、いつもの彼に戻っていた。
 萠香は小さな溜息をついて、そっとベッドから滑り降りた。裸のまま孝彦の前を横切って、バス・ルームに向かう。孝彦の視線が、萠香の尻のあたりにまといつくのが分かった。激しく掴んだときの指の跡が、赤い花弁のように残っている。
 釈然としない気分が、出口を求めていた。萠香はバス・ルームのドアに身体を隠し、顔だけ出して言った。
「……来週、パーティだって?」
 瞬間、孝彦の目に戸惑いが見えた。
「……椙田くんに聞いたわ」
 孝彦は何も言わず、じっと萠香を見つめていた。
「大きな賞なんですってね。あの絵、大勢の注目を浴びることになるんでしょうね」
 萠香がそう言うと、一呼吸置いて、孝彦がおもむろに立ち上がった。そして殆ど走るような勢いで、萠香に近付いてきた。
 殴られる、と思い、萠香は咄嗟に目を瞑った。
 しかし、孝彦の大きな両手は萠香の腰に優しく触れ、次の瞬間、緊張した腹筋に、やわらかい前髪が触れるのを、萠香は感じた。
 目を開けた萠香は、膝を折った孝彦が縋り付くように、自分の腹の辺りに顔を埋めているのを見下ろした。
「孝彦くん……?」
 しなやかな筋肉に覆われた孝彦の肩が、小刻みに震えていた。
「……あの絵を、解き放っちゃいけない……それは分かってる……けど……」
 孝彦の涙が臍の縁を伝って、萠香の茂みへと吸い込まれていった。孝彦は涙の跡を舌先で追い、それからまた、萠香の腹部に頬をすり寄せた。
「僕たちは<知っている>……<知っている>ことからは、逃れられないんだ……。僕も、君も、いつか幻視にとり殺されるよ……。」
 幻視に、とり殺される……
「何か……隠してるのね……? あの幻視のことで……」
 もの問いたげな萠香の声を、立ち上がった孝彦が唇で塞いだ。絡みつく孝彦の舌先が、奇妙に冷たく感じられた。涙の訳を訊く言葉が、絡み合う舌先で失われていった。
 二人の間には、共有された幻視の他には理解など何一つ無かったこと、そして理解しようとする努力さえ、これまで殆どしてこなかったことに、萠香は改めて気付かされた。二人で幻視を重ね合う日々の、渇いて空っぽな幸福が、この先ずっと続くわけではないことを、萠香は初めて意識した。
 萠香は孝彦を見上げ、呟いた。
「私たち……愛し合えたら良かったのにね……」
 痣だらけの萠香の胸に顔を埋めながら、孝彦はひどく優しい声で、囁き返す。
「……それが出来たら、違う未来もあったかも知れないね……」
 未来という言葉が、自分達にはひどく不似合いだという感じが、萠香の口元で皮肉な微笑になって沈んだ。


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