過去ログ
 

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言語障害 投稿者:シゲさ 投稿日:2004/09/04(Sat) 11:05 No.82  
脳の左半球に損傷を受けた脳卒中患者の多くは右片麻痺にもまして言語障害に一層悩まされます。私もその例外ではありません。
 言語障害の種類はある本によると、失語症、構音障害、音声障害、吃音の四つに分けられるようです。
 このうち音声障害は声帯の障害ですから声がかすれたり声が出なかったりするのですが、私の場合にも声帯の半分が麻痺しているような感覚なので、小さな声でのヒソヒソ話などをしようとしても声が出ません。
 構音障害は発声発語器官の障害によって正常な発声や発語が作り出せない状態をいうようです。いまでも顔面神経麻痺のように、舌、頬、唇など正常な運動機能の欠如を実感します。例えば口中にある食べ物の残りを舌を使ってきれいにしようと試みても右半分の舌、頬がそのようには働きません。このような舌の動きは正確な発語を阻害するでしょう。
 失語症とは発声器官等に異常がないのに言葉の使用や理解に障害が現れる状態を言うとされているようです。しかし脳卒中の場合の失語はいまみてきた構音障害、音声障害をも含んだところの失語症であって、それぞれの言語障害が単独で成り立っているとは考えられません。何故なら声帯も舌も随意運動によって支配されており、手、足、体幹の随意運動と同様に錐体路を通して反対側の半分にも麻痺が起きるからです。そしてこの障害のアッパーは今でもジワジワと効いています。

失語症(運動性失語)
 失語症といってもブローカ失語、ウェルニッケ失語、伝導性失語等があるようですが、この中でもブローカ失語者が多いのではないかと入院等を通して感じます。そしてその具体的症状は次のように文に書かれていますが、大部分は体験上肯定できます。

「ブローカ失語とはいくつかの症状の複合体である。自発発語の障害は重度では一種の唸り声、例えばクル・クルという発音しかできないものから、やや重度で二〜三語なら言えるもの、より軽度の場合は助詞が省略され電報文のようになるもの、非常に軽度では一見健常人のように話すが、句の途中で話が止まり、努力と探索の後でやっとその語を発することが出来る状態である。
 イントネーションはしばしば障害され、抑揚を失ったしゃべり方である。とくに目立つのは、つっかえつっかえ苦しげに話す話し方である。
 物の名前を言うことが出来ず、例えば時計を見せられても(トケイ)と言えない。これを語健忘という。また発音を誤る。例えば時計と言おうとして(タケイ)と言うなどである。これは字性錯語という。
 自発言語の障害以外に復唱障害、音読障害、文字の読解障害、自発書字障害、書き取り障害がある。また軽度の話し言葉の理解障害がある。以上がブローカ失語と言われる言語障害の概略である。」  杉下守弘 著「言語と脳」

 ブローカ失語は「外国語」を使って話すときのようなしゃべり方になります。つっかえつっかえ話します。従ってあらかじめ話す内容をイメージし、単語を選択し、かつ単語の並びかへを繰り返しながら意味が通じる文かをチェックしてからゆっくりと、構文を確かめるように話すことを意識します。「努力と探索の後やっとその語を発することが出来る」のです。だからますます「外国語」を喋っているようにとられもするのだと思います。
 また例えばAさんと言うべきところをBさんと言い間違えてそのことに気づかない事が多いのは、会話文が相手に通じる文として成り立っているか否かのチェックに注意が集中されたため、中身であるAさんBさんに無頓着になっていたからだと考えられます。短期記憶と重大な関係があるのではないでしょうか。それが錯語を発する原因の一つだとおもいます。
 さらに「猫がネズミに噛みついた」という文を聞いて又は読んでから「さて噛まれたのはどっちでしょうか」と質問されて、即座に正解を答えることができるかです。なんでもない日本文でもちょっとひねりを入れると途端に高度な、あるいはややこしい質問に変貌して頭の中がこんがらがってしまうものです。こういうことがブローカ失語者にとっては苦手な分野ではないでしょうか。
 電報文とは「て、に、を、は、が」等の助詞(格助詞、接続詞など)が省略されることです。今日(は)天気(が)いい、等です。似たようなことですが「太郎と花子は一緒に学校へ行った」と言おうとして「太郎と花子に・・」と意図しない助詞が続き、会話が途切れたり、言いたくないことを惰性で口走ったりすることもあります。こうした助詞に絡む間違えは多く、これが治っただけでも会話らしい会話になるはずです。
 音読していて読み間違いもします。例えば人の名前の「デジェリーヌ」を「デリジェーヌ」と言ってしまいます。これはカタカナに限らず漢字、ひらがなでも同様です。その原因を幾つか考えてみたのですが「この方が喋りいいから」間違えるのだという事実です。つまり呂律が回らないから回る方の言葉を無意識に発話すると言うことです。ちょっと油断するとこれが頻繁に繰り返されます。失語症でなくてもこうしたことはありますが呂律が回らないと言う運動性障害の特徴かもしれません。

 こうしてブローカ失語症状を羅列してみると、自然な又は適切な文法処理の障害がクローズアップされてきます。前頭葉にあるブローカ野は運動性言語処理の他、文法機能に関する局在だと再認識します。
  


脳と心 投稿者:シゲさ 投稿日:2004/08/21(Sat) 10:55 No.81  
「脳と心は、構造と機能の関係に帰着する。これはちょうど心臓と循環のそれと同じである。心臓血管系をいくら分解しても循環はでてこない。つまり心臓は構造(物)であるが循環は機能だからである。同じように脳をいくら分解しても心はでてこない。脳は構造であり心は機能だからである」 ”唯脳論”養老孟司 著
 心は心臓にあるのではなく脳にあるのではないかとはウスウス感じてはいました。そして心をハートと呼んでその在処をジェスチャーで指し示すには頭を指し示さなければいけないのかと少々悩んでしまいました。それでもハートは脳にあることには異論はない時代になりました。

「心とは体の奥深くにあり、人格や意識などの言葉で置き換えることができる個人個人の核のようなものであると考えています。そして当然の事ながら心も目に見えない脳の働きが生むものと思っています。脳は心を生み出す器のようなものであると思えばいいのではないでしょうか」 ”幸せ脳は自分でつくる”久恒辰博 著

「心とは脳の働きの一部であって、知覚―記憶―意識 の総体であると位置づけた。心は脳の働きという生命現象の一部であると考える。脳の働きは、さらに遺伝や発生、分化などといったもっと一般的な生命現象によって支えられている」 ”言葉の脳科学”酒井邦嘉 著
 ベン図では外側に大きな円で書かれた脳があり、その中に一回り小さな心の円があり、その中にさらに一回り小さな言葉の円があります。機能である脳の働きは生命現象の発生、維持等こそが脳の基本的に重要な働きであって、その中の一部が心であると主張しています。こうなると「脳」と「心」の定義付けが必要だとおもいますが難しそうなのでフィーリングだけで止めましょう。

「テレビではどんなに楽しい番組が放送されても、それによってテレビの配線が変わり、その後のすべての番組が楽しいものになるということはありません。しかし脳は違います。私達の思いや努力が神経のつながりを変え、次に何かをするときにはそのつながりで行動したり、考えたり、感じたりするのです。環境や刺激によって変わるというのは脳の最も重要な特性で、これを可塑性と呼んでいます。よい文章を読んだり感動する話を聞いたりすると、あなたの脳は変わります。奮い立たせられるような刺激を受ければ、あなたの脳はより積極性をもつようになります。そしてあなたはより積極的に行動し、考えるようになるでしょう。するとこの考え方がさらに自分を向上させるような刺激を求め、それが自分の脳をさらに変えるのです。このように、脳と心とは相互に関係しあって、変化してゆくのです」 ”五十歳からの元気な脳の作り方” 高田明和 著
 構造と機能という静態的視点に比べ脳の可塑性という動態的視点から脳と心を考える点にさらなる可能性を感じさせてくれます。これはfMRIといった時間を取り入れた医療機器の開発によるところが大きいと思います。
 脳は、心は変わるのです。日本人が好きな無常観にもつながっています。儚いという無常ではなく、変わらないものなど無いんだ、変わることができるんだという積極性のある無常を、科学的に脳と心は証明しているのだと思います。


臨死の経験 投稿者:シゲさ 投稿日:2004/07/20(Tue) 12:28 No.80  
病院の緊急車両入口に救急車は横付けにされたようだった。そのとき同乗していた隊員の男がこっちの顔を覗き込んだ。何か声をかけてくれるものと期待したが彼は無言のままだった。別にあわてている気配は微塵も感じられなかった。何かを訴えようともがいてみたが体はピクリとも動かずさらに呻きさえ口からでてこなかった。
「俺はこの人の顔を見ながら死んでいくんだな。この世の見納めだ」そう思いながらその男の顔を見つめた。ここまでの意識はかなり明瞭だった。その後一瞬意識を失いかけたがすぐにストレッチャーが病院の待合室を駆け分けていくのに気づいた。左右から待合室の患者の視線を感じたがその直後意識を無くした。
そのときを境に死への途を突き進んだ。再度意識を取り戻すことができなければ「死」、取り戻すことができれば「生」だった。このときの経験によると「死」とはただそれだけのことだといえる。その後最初に意識を取り戻したと自覚できたのはナースセンター横のベットの上だった。左腕は何故かサイドレールにタオルで緊縛されていた。
この一連の過程が死に臨み生還したという意味での臨死の経験だった。世上に語られているような臨死体験、つまり神秘的な体験には出会わなかった。思うに臨死体験が可能な状態とは半覚醒でなければ体験できなのではないか。何も意識がなければそこからは何も生じないのだから。だから意識を無くした者が臨死体験を得るには生還することと、どこかで半覚醒の時間帯があることによって夢を見ることが必要だろう。夢を見ることができなかった者には臨死体験は夢でしかないのだ。


一回性 投稿者:シゲさ 投稿日:2004/06/28(Mon) 16:34 No.79  
紀元前5世紀頃29歳になった王子が城から抜け出し、6年間の麻麦の修行の結果、菩提樹の下で悟りを得た、と言われています。その王子の名はゴーダマ・シッダルータ(ブッダ)。その後西暦150年頃、ブッダの説教を論理的に展開し大乗仏教の礎を築いたのが竜樹(ナーガールジュナ)と言われています。
当時のインドではバラモン教という宗教が主流だったようです。そこでは超越的絶対不滅なアートマン(魂、自我)というモノが存在し、たとえ人間の体が滅びようともアートマンというモノは永遠に存在し続ける、との教えでした。このバラモンの教えに対しブッタは言いました。超越的なアートマンなど存在しない、永遠不滅の自我など無い、自我の実体は無い、永遠不滅のモノなど存在しない、つまり常ではない、と。竜樹もまたあらゆる現象(自我を含む森羅万象)は永遠不滅のものではないことを「空」と呼び、さらにブッダの教えを相互依存という縁起思想へと展開していったそうです。
したがって般若心経 の「色即是空」は、あらゆる物質現象は無いのではなくて、永遠不滅のものではない、ということだと思います。

以上から言えることは、人は死により永遠に消えるのだ、ということです。この世に未練を残して幽霊になって時折姿を現すこともないし、後世の仏教が説くような六道、すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界を流転することもありません。死んだ後に魂が肉体を離れて別の肉体に移り生き続けることはないのです。
ブッダ達は人生とか世界の真理探究はしましたが我々の一番知りたい点については教えてはくれませんでした。ブッダ達は人々の苦しみの人生ーそれは飢餓とか自然環境の厳しさとか疫病とか身分制度とかの苦ーそういったものからの解放法を探求していたのですから、どうしたらよりベターな又は最高の生き方あるいは死に方が出来るのか、といった質問には答えてくれませんでした(答えているのかもしれないけれど少なくとも不明)。しかしながらブッダ達の説教からは「人生は一回こっきりなんだぞ」という解が導けます。
そしてそこからの生き方の判断は人それぞれでしょう。最澄伝教大師のように自我も空なんだから自利利他に生きようとする人、永遠不滅の自分は存在しないなら生きている間に好い思いをしようとするひと。井原西鶴の「日本永代蔵」では若いうちは真面目に働き金を貯め45歳になったら「遊楽」を目指せという人生訓があるという。そのためには若い内からそのような計画を立て実行せよと、なかなか浮き世に生きるのも厳しい。

とまれ、「人生は一回性」をどう捉えるかが問題です。


きん 投稿者:シゲさ 投稿日:2004/06/23(Wed) 15:15 No.78  
2ヶ月程前から私のCPのメール機能を取り止めました。メールによるウイルス進入防止と同時に感染防止のためです。従いましてメールを下さった方がいらっしゃいましても、ご返事も出せませんことをお詫び申し上げる次第です。



百倍 投稿者:シゲさ 投稿日:2004/06/11(Fri) 17:15 No.77  
水五則は秀吉の軍師として知られる戦国時代の黒田如水の作と言われています。如水(じょすい)は出家したときの法号であり、クリスチャンネームはドン・シメオンと言うそうです。
それでは何故仏教とキリスト教を同時に或いは別々に信仰したのか。憶測ですが、それは戦国時代の下克上という世の中を生き抜く為にはより多くの確実だと思われる心の支えが必要だったからなのでしょう。命の尊厳と矛盾する命の略奪が正義に適う時代、そんな中で浄土と天国を約束してくれる仏教の教え、キリスト教の導きは救いだったのではないでしょうか。
しかしそうした信仰心とは別に、心底には現実世界を洞察する如水の冷静さがあったのではないかと思います。そして融通無碍に移り変わる「水」の性質の中に物事に執着しない柔軟な生き方を徹見し、宗教を信仰しつつも己の信念を突き進んでいく道を選んでいたのではないのか、と考えます。

一 みずから活動して 他を動かしむるは 水なり
二 常に己の進路を 求めてやまざるは 水なり
三 障害にあっては激しく
  その勢力を百倍し得るは 水なり
四 みずから潔らしくして他の汚濁を洗い 
  清濁あわせいるる量あるは 水なり
五 洋々として 大海を満たし 
  発しては霧となり 雨雪と変じ霰(あられ)と化す
  凍っては玲瓏(れいろう:玉のように美しく輝くさま)  たる鏡となり 
  しかもその性を失わざるは 水なり