シゲさ
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2000年9月22日

「脳の国から」

 入院してから3ヶ月目くらい経ってからリハビリ病棟で担当医師から病状について色々懇切に説明を受けたが、そのとき初めて、自分の脳のレントゲン写真と遭遇した。
 入院直後、脳の半分は真っ白であった。その白い部分の面積もかなり広漠としていた。出血部分が白く写るのだと思うが、脳梗塞の如く通常(普通)の写真とはまるで違う。空虚な白が半面を覆っている。脳の半分は血液により消去されてしまったのか。
 僕はそれを見て愕然とし、こりゃダメだなと一瞬思った。「頭の中が真っ白になった」の喩えは脳出血から来たのかとさえ思った(そんなこと思うわけないが、今考えると人の心理状態を白色で表現すなんてのはすごい、と半分だけ感心する)。兎に角頭の半分にかなりの量の出血があった事が認められた。

 暫しのショックがあったけれど医師は続けた。「でも今は殆ど綺麗になっていますよ、ホラッ」と言ってもう一枚の写真を僕の目の前に差し出して見せた。白が殆ど無くなっていた。あの白は何処に行ってしまったのだろう、あの血の塊は。
 兎に角それらの写真を脳裡に焼き付かせた。その後その白い影は脳の左側(左脳)だと自分で得心できたのはもっと後になってからだった。頭が重く感じられるのは右側だから、まさか左脳が障害をうけているというのは信じ難かった。ともあれ麻痺は右半分だけれど脳血管障害は左という、何ともややこしい事になっている。脳ダメイジは麻痺している半身と逆側になるということは脳出血で倒れる前には知識として常識だった筈なのに、実際自分が当事者になってみると全てが「当たり前、常識」と簡単には割り切れない、と言うことが遅ればせながら実感として分かった。
 因みに麻痺部分は半身全てに及ぶから、例えば右麻痺だったら頭もボディも全て右が麻痺になり、脳は見えないけれども左が障害を受けていると言うことだ。この辺は体験者でないとなかなか理解しがたい部分だと思うが、そんなこと体験すべきじゃあない。

 ところで右脳と左脳のそれぞれの得意分野は何か(逆にいえば不得意な分野は何か)一応脳血管障害者としては気になるので簡単に調べてみた。

 重複しているかも知れないが、だいたいこんなものだと思う。

   我々は赤ちゃんの時には主に右脳が働いて大きくなるにつれ左脳が働いてくるという。「三つ子の魂百まで」と言う諺通り、最初は視覚と右脳の働きによって人間としての基礎的な分野にして大切な育成時期(言葉にならない言葉の世界)が支配し(すなわち3歳頃まで)以降左脳の活発化により言葉をはじめ、知性とか論理性とか要するに表面意識面で利発になってくるという。
 また同じく音楽的(右脳)なことは言葉を覚える以前から体得しリズムや旋律を取ったりするが、その後知性や理性を伴う言語活動が始まり又年老いてくると言葉の方が一歩早く衰え、音楽的なことの方が後々まで脳活動するという。所謂ボケても歌が唄える等だ。そんなわけで最近では音楽療法士の癒しも世間から注目され始めてきている。
 音楽は音楽でも脳にとって良いのはクラシックだそうで、脳波がアルファウ波となり(瞑想状態)特に天才モオツァルトの曲が脳には優しいと一般的には有名、だけど自分はクラシックを解さず専ら演歌フォウクを好む。まさに迷走状態には違いない。

 仄聞なのだけど右脳の記憶容量は左脳の100万倍だという。飽くまで仄聞で例によって科学的根拠なんか無い。100ギガの記憶容量なんてものじゃあないし、ましてや鉄腕アトムの10万馬力とも違うし、100万倍はすごい。何がスゴイか詳しくは全く解らないし簡単にしたって分からないが、兎に角大変なことになっており脳血管障害を知る者としては何となく頼もしくも心強くも感ずる数字だ。

 そこでもし理性や知性、数学や論理が苦手ならば、得意だろう筈の右脳の想像力や直感力で左脳の力不足をカバゥアしたいものだ。
 昔中学の担任の本多先生は主に美術を受け持っていたが、事も有ろうに数学まで受け持っており、そして全然畑違いの教科を楽しそうに教えていた。ある時先生が言った。
 「皆さんもやってごらんなさい。数学で解らないところがあったらくよくよ考えずに寝ちゃうの。ただし眠るときには必ずメモ用紙を枕元に置いておく。すると夜中にフッと目が覚めたときに解らなかった数学の問題がスラスラと解けることが多いの。それを忘れない内にメモる。これが案外と正解なんだ。先生なんかこのやり方で何回も助かったよ」
 何が助かったのかは記憶にないけれど、これは想像力とかインスピレイションが何の束縛もないとき深く発揮され、従って左脳の得意分野とされる数学でさえも右脳のインスピレイション力に依って解決されるという一例ではないかと思う。本来なら左脳で解決すべき問題を右脳にすり替えて解くということで応用が利くかも知れない。

 で今ふっと疑問に思ったのだが、それは「利き腕交代」と同じじゃないか、と。麻痺した本来の効き腕復活を諦めもう一方の腕を利き腕に変えてしまうことだが、まあいいか。

   インスピレイションをバックボゥオンにした緻密な論理構成が変幻自在、融通無碍に駆使できれば良いけれど、そうなると「もう昨日には戻れない」脳血管障害者じゃあなくなるから今暫くこの夢世界に留まろうかとおもふ。

    ついでに言語障害も右麻痺には圧倒的に多い。それは「右利きの97%、左利きの50-60%において言語機能は左半球優位(左脳)といわれている」からだろう。「大脳の前頭葉にある運動言語中枢周辺での障害が運動性失語(ブローカ失語)を引き起こし、側頭葉の上側頭回後部(感覚言語中枢)でウェルニッケ失語が、弓状線維束障害で伝導失語が生ずる」という。  失語症と言ってもこのように障害部位によりそれぞれ違い、障害状態もさまざま。詳しくはこちらで→http://www.nmt.co.jp/~shichijo/aphasia.html

 言語障害と言った場合、失語症と構音障害を含んだ概念らしいけれど、自分には甘く「ろれつが回らない構音障害」ではないかと思ったりしたが冷静に考えるとほぼ違うと思う。簡単なテストでは「構音障害」って言うのに該当するけれど。→http://www.nmt.co.jp/~jiyuukai/gengoryouhou.html

 しかし「はじめに言葉ありき」とはよく言ったものだとおもう。まあ日本人には「以心伝心」という伝家の宝刀が伝統的にあるのだから言葉なんか要らないよ、と言う人も中にはいらっしゃると思うけれど、大抵はそのテレパシーは特定の間柄にしか通用しないし、やはり言葉の持つ意味は重いものがある。そうは言っても言葉にならない言葉、つまり、言葉という表面意識の産物より深い意識層に埋もれた思い(想い)の方がなお一層重いものが有ると思うのだ。

 (自分が右麻痺なので左麻痺の人には偏見だと思われる事柄があったかも知れないけれど、意図的なことではないので勘弁して欲しいと思う)



9月17日

「ねぇドラえもん、人助けだと思ってあれだしてよ」

 先月もニュウスが流れた。ニュウスは毎日流れるのだが、一人暮らしの50代後半の男性が家の中で脳梗塞により倒れたニュウスだった。幸いにして意識はあったようなのだが、やはり手足の麻痺が自由を奪い外部への助けの道を断たれ、そのうえ口も麻痺してしまったのだそうだ。 それでダイヤル方式なのかプッシュ方式なのかは分からないが119へHELPの電話をしたらしいが如何せん言語障害で上手く喋れない。結果、電話は通じていても声なき声しか届かなかったのだ。「・・・」119では、悪戯電話と錯誤し電話を「プツンッ」と切ってしまったらしい。悪戯電話は日常茶飯事なのだろう。またか、と応対者は思ったに相違ない。 何回電話をしたのかは知らないが必死だから数多したと察するが、翌日もその翌日も声にならない声で切られても切られても助けを求め、3日目に漸く助け出されたらしい。軽い梗塞でよかった。 喋れなく、動けなく、その上に混濁した意識で必死に助けを求め発見されたが、正気を失っていれば最悪になるところだった。

 それに付けても色々と言いたいこともあろうかと思うが、私に一言だけいわせてもらいたい。

 「ねぇドラえもん、倒れたら無言通信ボを出してよぅ」

 ボ、はボタンの略だがいざ倒れたときにはボタン一つでOK、周りに人がいなくても無言「・・・」で確実にしかも迅速に119が来ると言う優れ物。
 無言というところがポイントで、実際倒れたときには一時的にせよ口など効ける物ではない。無言なんだけれどヘルプの信号が119へ勝手に飛び、且つそれを受けた119へは場所、時間、電話番号等の情報が自動的に送られてくるので無言通信ボに対する絶対の信頼感がある。ただし取り扱いには呉々も留意したい。全ての対応時間は秒刻みで記録に残るため隊員はちょっと一服してから、なんて訳にはいかない。そんな悠長なことをしていれば即刻馘首だ。また一般人の悪戯は非常に高額な罰金を科せられることになっている。詳細は分からないが「5年以下の懲役若しくは禁固又は50万円以下の罰金」が相当刑かも知れない。人命に関わること故「無言通信ボ」はそう言う意味では恐ろしい代物なのだ。
 似たような発明品というか品物はあるかと思われるが確実性迅速性正確性実在性網羅性明瞭性継続性単一性の原則が具備していないように思われリコォルの対象に数えられるのではないか。いやしくも真実信頼性が欠如しているとの風説も聞く。似たような品が有ればの仮定の話しだが。

 兎にも角にも脳細胞組織が壊死してしまう前に手当をしなければならないから最低でも現場へは2,3分で到着しなければいけないのである。速ければ速いほど助かる確率は高くなり後遺症レベルもかなり抑えられ、結果重篤に陥らずにすむ可能性がある。可能性に一縷の望みを託さざるを得ない。
 とすると「無言通信ボ」では無理かな。自ら病院へ直行するには「タケコプタァ」が有れば便利だろうけど「タケコプタァ」だと表面意識と無意識と平衡感覚が淀みなく作動していないと却って危険だ。119を呼ぶときは「無言通信ボ」で無言連絡し、それを受け119の担当者は通信場所まで「タケコプタァ」で上空より飛来し患者を病院まで空輸するという手方もある。ウルトラC級で目が回りそう。
  本当は「どこでもドア」が有れば一番良いのだが満更漫画出品空想作品でもいけないしな。
 だいたいどこでもドアが造られる時代には脳卒中なんて病気は今の水疱瘡とか盲腸とかこじらせた風邪みたいに考えられる世の中になっているはずだが(であればいいが)、ここは飽く迄リアリテェイを追求して「倒れたら無言通信ボ」で何とか対処できないだろうか。
 こうしているあいだにも世界中の人々の嘆き声が聞こえてくるのだ。「もうムチャクチャデゴザイマスルうでございまするうウ、もっと真面目にヤレェイ」

「麻痺ののびのびたの真面目な提言」より抜粋。



9月9日

「はぐれ刑事純情派「少年がみた母の犯罪!?駄菓子屋の女」を見て」

ストーリー
 子供相手に駄菓子屋を営むおばあさん、それに絡む小学校の翔少年と母親役の藤田朋子それに不動産屋経営のおばあさんと顔見知りの中年男性が登場。
 ある日の夜、駄菓子屋のおばあさんが救急車で運ばれ入院した。頭部を打って脳内出血を起こしているらしい。現場の居間には客用の湯飲み茶碗が出されており来客中だった様子が窺えたし、店前の自動販売機も同時刻大きな物音と共に不審な人物に壊されている。物取り又は来客と口論になって頭を殴られ脳内出血に倒れたと推理したはぐれ刑事の藤田まこと等はおばあさんの店に赴きしばし様子をうかがうことに。
 そこにおばあさんと親しかった翔少年が現れいろいろと話をするが何かかくしているそぶりである。少年の話の内容からその夜おばあさん宅を訪れたのは母親の藤田朋子であったことがわかる。少年は故あって母親の後をコッソリ付けてきたのだが、おばあさんに暴行を働いたのは母親ではないかと勘ぐっていた。なぜなら、母親が立ち去った直後おばあさんの家に行ったところ、おばあさんは既にそこに倒れていたからである。翔少年はそれをかくそうとしていたのだった。そこで母親が事情を知っているのではないか、と疑問を持ったはぐれ刑事は彼女の取り調べを試みたのだがどうもシロの様であり、捜査は行き詰まってしまう。ましてや母親の翔少年に対する躾の厳しさの由来を聞いては、自分の考えが甘くも感じられしまうのであった。翔少年の父親は数年前贈収賄事件に巻き込まれ、無実の罪を着せられて自殺をしたという。ドラマのような話だが。
 おばあさんの治療にあたった医者の話だと、人は脳出血を起こしても直ぐに意識が無くなることはなく、徐々に悪化して、つまり数時間経て意識を失い倒れるものだと言う。
 そこで母親の藤田朋子の前に尋ねてきた人物はいなかったか、いればそれがホシの可能性が高いと読んだはぐれ刑事。そして1時間程前におばあさん宅を尋ねた人物がおばあさんと顔見知りの不動産屋の中年男性だと分かった。これで犯人も判明し一件落着かと思ったが、彼の話の事情から犯人ではないことがわかった。不動産屋はおばあさんに、気心が知れている者同士がよくやるような冗談半分の小突き会いをしたらしいが、お互いそのまま何事もなく別れたらしく、怪しい点はなかったのだ。
 そこでハタッ、と気が付いたはぐれ刑事純情派。先程の医者の話と、おばあさんと不動産屋との仲の良さそうなやり取りを総合して考えると、今までの犯人探しは間違いであったと気付いたのだ。親子のようにしてきた不動産屋とのホンの冗談をやり合ったことが、くしくも徐々におばあさんの脳内出血を引き起こしつつあり、あの夜の翔少年の母親が尋ね帰った直後には意識を失なう羽目に陥ったのである。そう言うことなのである。
 こうして事件は解決した。早い話事件では無かったのだ。
 堀内孝雄の演歌をBGMに、スナックのママに扮する真野あずさが映し出され、ボケをかました藤田まことの笑い顔と共に純情派はお終いとなった。

  1.  教訓
    1. 脳内出血は血管が切れてからも2分くらいは動ける。その間に119へTELせよ。ドラマでは数時間後と言ったが私の体験では2分が限界だった。
    2. 脳内出血は脳の中の出血を言うから原因は怪我、事故でも起こりうる。おばあさんのケースではふざけあった際のタンスにゴンッ、であった。
    3. 冤罪は恐ろしい。無実の罪を着せられることは往々にしてあり得る。このケースの場合には医者の一言を聞いていたこと、優れた洞察力をもつヤッサンが事件の担当者だったから早期解決できたが。
  2. 気付いたこと
    1. 堀内孝雄の嗄れ声演歌調BGMは結構いい。失語症でも何とか歌は歌えそうだし。
    2. 藤田まことさん、てなもや三度笠の白木みのるはどうしたんだい。
    3. 藤田まことさん、どうか頑張って下さい、色々と励みになります。
    4. 課長は胃が痛むのですね。一度個人医院ではなく総合病院で診て貰って下さい。案ずるより産むが易しです。脳検診をやっている所もあるそうですからこの際見て貰ったらいいですね。
以上



9月1日

「夕焼けが」

 無知はただそれだけでは何の罪もないけれど、それをよいことに自分は一見無知を装っていたのではないだろうか、と倒れる前の自分を考えることがある。
 自分はその件に関し何も知らないのだ、と自分の無知を自覚したその瞬間から無知に対し作為的となり、降り掛かるかも知れない将来の不幸に対しての有責性を回避しようとしていたのではないのか。
 知らなかったではない、 敢えて知ろうとしなかったのではないのか。知りえる手段は幾らでもあったはずだ。 それをしてこなかったのは正しく自分であり、そしてその結果の効果は自分及び自分以外の人や物に遍く広がるのだ。
 この件に関して知ろうとしなかったことは実は消極的な加害者たる側面を有してはいないだろうか。結果の発生を予測できたのに目を瞑り、そういうことは起きないだろうとか、そういうことが自分に起きてはならないのだ、と自分勝手に都合良く現実を捻じ曲げて状況を理解し解釈していたのではないだろうか。
 みて見ない振りをする。現実からの逃避である。総て蜃気楼だと思い込ませることに専念する自分。嫌なことは忘れて笑ってすごせば大丈夫さ、とつぶやく。多少は不安だが病気になるにはまだ最低10年は早いな、若いし、と嘯く。矮小な恐怖にさえ対峙する勇気を持ち合わせてはいなかったのである。その無責任性にこそ責任がある。

 血圧が高いことを自覚したなら降圧のための運動をするとか食事摂生とか塩分摂取に注意するとか大嫌いな病院へ診察に行くとか脳卒中とはどんな病気なのか概略を知るとか、そのくらいの努力はすべきだった。まあ何とかなるさと云った安閑とした態度では運命に与して貰えない。

 こんな凡庸な中年男の自分が愛おしくはなかったのか。愛おしかったはずだ。妻子と共に些細な食卓を取り囲むことに大いなる至福を感じてはいなかったのか。いたはずである。

 あ、いやあそのチョッピリ夕焼けが人の心を自虐的ロマンに誘ったもので、心にもないことを口走ってしまった。偶には何でも自分の所為にしてみたい気がするものだ、気が。
 「知らなかったの愛したら〜男の人って強いのね〜」などと口ずさみながら、今考えると奥村チヨはいい女(ひと)だなあとおもう。知らなかったのか、そうかそうかそれじゃあ仕方がないななどと考えながら薄暗くなった小道を夕焼け空に向かって散歩するのであ〜る。あ〜許そう。

  (注:自分に関してだけの戯言)



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