
平成10年6月17日、普段と変わらない1日が始まった。事務所を出て午前中からお客さんの所へ行き机上仕事をしていた。昼になっても終わりそうになかったが、切れの良いところまで仕事を進めた。時計を見ると12時半近くだったと思う。何とか仕事の方の目鼻が付いたので、挨拶をして失礼した。そのまま事務所には寄らず、遅い昼食を取りに自宅まで車をとばした。だいぶスピードを出してきたように思うが、パートからやはり昼に家に戻った妻が、もう出掛けるところだった。私はソバを食べ終えると、早く事務所に行こうと急いで家を出た。いつものバイパスを通って事務所方面へと向かった。
1時15分頃だと思う。やけに道に車が走っていなかったことと、人が1人としていなかったことが、妙に不思議だった。家から事務所まで約3キロ。そのうち1キロくらい来たときだ。突然地震がきた。それもすぐ近くに地震が来た、と思った。 「血管が切れた!」と、次の瞬間悟った。血管が切れた、それも自分の頭の中の血管が破れたのだ。その間1、2秒だ。「畜生、やってしまった!」定かではないがそう思った。そして言葉にならない恐怖に包まれた。「死ぬかも知れない、死ぬかも知れない。」車を降りて助けを求めるか。このまま車に乗って真っ直ぐ進行方向に進むか。それともすぐ目の前にある信号機を左折するか。迷っている暇はなかった。左折して次の信号機も左折して家の方へ少しでも近付きたいと思った。
「死ぬかも知れない・・」ハッキリ言って家内や子供にはスマナイとは思うが、こんな時には家族のことなど脳裏には全く無かった(と思う)。ハンドルを握りしめ必死だった。途中知っている家もあったがそこで車を止める気にならなかった。もし、誰かが道端にでも偶然いれば、又状況は違っていたかも知れないが、人が誰一人として居なかったのだ。家まで無事にたどり着くことは考えていなかった。ただ家のすぐ側(そば)までは何とか行き、そこで助けを求めることに期待してはいたが。
学校方面との三叉路に来た。右方向10メートル程行ったところに電気か、電話か判らないが工事をやっている人が2人程見えた。
「そこを曲がればもうすぐだ」と。「う・うわー!」ガシャン!その時突然運転していた車が猛スピードを上げたかと思うと、コンクリートの塀に勢い良くぶつかって止まった。どういう形でぶつかり、車は横転したのか否かは判らない。もう全身の神経も判らない。完全に体が麻痺した。さっきまで自由に動いたアクセルが、ただの棒となった足の重さによって踏みつけられたに違いない。後で判ったが、車はペシャンコで廃車(ツーリングワゴンのレガシー)、道端の塀はぶつかった衝撃で壊れ落ち、直すのに結構お金がかかったらしい。ただし怪我(骨折と言った方がよいか)はしなかった。(と思う)
工事をやっていた人が慌てて駆け寄ってきて、何か怒鳴ったと思うが(たぶん「大丈夫か!しっかりしろ」と言ったのだろうが)定かではない。それからすぐに車の外に引き出してくれたと思う。横たわっている自分を感じた。
自分の車の後ろを見ると偶然にも同業者の人が、従業員と一緒に車から降りて見ている。いや、同業者の人は私が事故っているのを見てどこかに携帯電話をかけているのだった。横たわりながらもその同業者の人に何かを伝えようとするが声が出ない。頭はモウロウとしていた。
何分くらい経過しただろうか。救急車のサイレンの音がして、救急車の中に運ばれた。今思えば同業者の彼は救急車への連絡をしていたと思う。そこで記憶が途切れがちになった。
次に記憶があるのは病院の入り口近辺を運ばれていたこと。救急隊員が1人そばに居たが、何も話さなかったこと。そして「ああ、この人の顔を見て死んで行くんだなあ・・」と、その時は思った。倒れたときの記憶は其処までである。
血管が破れたまま車の運転をしていた時間はせいぜい1分か2分だったろうと思う。脳の血管が破れたにしては良く細かいところまで覚えているな、と我ながら思う。まあ、お酒が入っていたんじゃあないから当たり前かも知れないが。
さっきまでの自分と今の自分とでは確実に違っていたし、さっきまでの自分に二度とは戻れないことを知ったのは、勿論、もっと後からだが。
何日間眠っていたのだろうか、どのくらい気づかなかったのだろうか、家内も記憶が定かでない。たぶん三、四日程ではないだろうか。ふと目を開けると家内がいた。すぐに又眠りに入ってしまう。次に目をあけると弟がいた。又眠りに入ってしまう。頭が痛む。頭が重い。たぶん十日間くらいそんな状態のまま集中治療室にいたと思う。生きているのか死んでいるのか自分にもよく分からなかった。あるとき自分がベットに縛られて身動きできないようになっていた。たぶん夜だと思う。誰か悪者が私を縛り上げて別の部屋に姿を眩(くら)ませていると思った。私は悪者が居ない今の内にコッソリと逃げ出してしまおうと思い、左腕を縛っているロープ(実際には手拭いかタオルだが)と、其処につながっている鎖(もちろんその時は点滴なんて判るはずはないが)を外そうとした。この鎖は外れなかったが、左腕を縛り上げているロープだけは外れた。それからベットから這い落ちた。暫くすると廊下の方から悪者の足音と喋り声が聞こえてきた。見付からないように!と心の中で祈った。人声が廊下から消えると又静まり返った。ホッとした。そうこうしている内にそのまま眠り込んでしまった。
後になって家内に話を聞くと、私がすごく暴れたらしいので、看護婦さんがベットに結わえ付けたそうだ。血官造影剤を試みたが拒否反応をおこし、それはものすごく暴れて、且つ叫(わめ)いたそうだ。だからというわけではないだろうが私は手術をしないで点滴だけ(勿論点滴だけと言っても色々行っただろうが、少なくとも手術は行わなかった。否、出来なかったと言うべきか。)である。つまり内科的治療である。
「今居るここはいったいどこなのか」ということが、自分には不明だった。足繁く弟が見舞いに来てくれたが(感謝)私は喋ることを忘れてしまった人間のように、気力もなくただ頷くばかりだった。何にも出来ずどうしようもない自分だけが其処にいた。それでも日が経つにつれて意識だけはハッキリとしてきた。自分がどうして病院にいるのかとか、ここは自分が知っている病院だとか。因みにちょっと前までは南の方の暖かい山の麓の、家からずっと離れた病院だと勘違いをしていたし、病院に入院をしてから何年も経っているんじゃあないかとさえ思っていたのだ。こうして十日間くらいでその集中治療室から大部屋へと移ったと思う。もっともその間に見舞いに見えた方々もいたが、全く覚えていない人もいる。子供たちさえ全く記憶にない。
このころ 自分の障害(と言うより車でぶつかったので怪我という意識だった)を漸(ようや)く意識できる状態になったと思う。右手足の麻痺、失語症が主なる後遺症だが(勿論すぐに治るものと思っていた)、自分にしか判らない自覚症状があった。これからも長く付き合っていかなければならない障害だとは思っていなかった。
なお、倒れて病院に担ぎ込まれた私を見て、且つ手術も出来ず、助からないかも、と医師は思ったそうだ。
6人部屋だったと思うが、皆さん結構年輩者に見えた。たぶん私と同じような病気を抱えた人たちだろうが、手足も不自由でなさそうな患者もいた。私のベットは窓際であり、外の景色がよく見える。前の病室は窓が高くて景色は何一つ見えず、高い空だけが見えたのに比べ(まるで独房)、人間の住む環境に戻って来たようだった。ちょうど其処から見えるのは三階建てのスーパーの駐車場だ。食事のときだけベットに腰をかけるので必然的に毎日スーパーを眺めていた。食事のときは朝、昼、晩と、家内が病院に来て食べさせてくれた。感謝している(思い出したことはすぐ書いておかないと忘れてしまうから今書いておこう・・)。食事をしないときはベットに横たわり眠っているばかりだったが、何時からかベットに備え付けのテレビを見るようになった。テレビのスイッチの入れ方を家内から聞いたのだろう、いつの間にか一人で操作していた。勿論左手で。しかし何を見たか、又は見たかったのかは全く覚えていない。トイレは車椅子で行ったが、馴れるまで家内に何かとお世話になった。これが本当の臭い中か、一言も文句を言わず付き合ってくれたものだ。
見舞いにも職場を始め顔を知った人たちが見えたが、会話 をしようにも発音できなかった。否、自分では何とか通じる喋り方をしているつもりだったが、後で思うと全然通じてはいなかったはずだ。それでも判った判ったという様に相槌を打ってくれるので相手に充分通じていると思っていたのだ。それから時々車椅子で同じフロアーのラウンジに行き、外の景色を眺めながらジュースを飲んだり、時には見舞客と会ったりしたが、気分は良かった。気分がよいと言っても頭は痛くかつ重く、目も良く見えず、車で塀に激突したせいか首も上手く回らなかったが。
病院へ担ぎ込まれてから3週間目くらいから足のリハビリが始まった。二十代の女性でニコニコした笑顔が印象的な先生だった。PT,OT,STの先生は女性が多い。最初は床から一段と高い所に敷いてある畳の上で足のマッサージをし、次に靴を履いてから立つ練習をする。立つには平行棒のような二本の鉄棒の間に立つが、其れは難しかった。二回目か三回目に装具という物を履いて立つことに挑戦したが、先生の言う通りには行かなかった。遅々として進みそうになく自分も諦めみたいな感情であった。まだ積極的に治そうという気持ちになっていなかったと思う。それでも20分か30分のリハビリは嫌いではなかった。
リハビリの時も家内が来て車椅子を押してくれたが、そう長くは必要なかった。病院を移ることにしたからだ。それはリハビリをやるにはここにはPT関係者しか居らず、手の訓練や、話す訓練、つまりOT,STが居なかったのだ。脳神経外科の担当医師が話を切り出し、隣接の市にある病院を紹介して下さった。「私がしごかれた先輩が居るが良かったら行ってみないか?」と。どちらにしてもこの病院にいてもリハビリは上肢関係と喋る練習には物足りなかったことから、家内も病院を移ることには賛成であった。
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病院を移転する日がやってきた。当日は親戚の従妹(看護婦をやっていたが)も病院に見送りに来てくれ嬉しかった。移送は救急車で行く、とは驚いた。私が倒れた時に救急車で駆けつけてくれた人が運転をしていくとのこと。私は担架に横たわったまま運ばれることになり、家内も看護婦さんと同乗した。ピポー、ピポーとサイレンを鳴らしながら隣町の病院までと行ったが、病人ながら照れくさかった。転院先のA病院はリハビリにも定評があるとのこと。
新しい病室は5階にあり、4人部屋であった。前よりもさらに見晴らしが良かったが景色を楽しむゆとりはなかった。同室の患者も脳卒中の患者だったが、一番早く退院した人は何か別の病気だったようだ。1週間で2人患者が入れ替わった。ある日患者が運ばれて来て、付き添いの人たちも数名心配そうにしていた。何か呻(うめ)いているらしく騒々しくなった。数日経ってから静かになったが彼も又脳出血であった。彼は36歳と若く、私より8歳も若かった。私は彼と親しくなり、1年と半年になる今も付き合いがある。その彼が脳出血になったのは、会社の慰安旅行で台湾に行き、その日の夜、何軒目かの飲み屋(?)で突然に脳出血になり意識を無くしたということだ。脳出血の手術も台湾で行い、日本からは両親も駆けつけたそうである。その彼は頗る(すこぶる)元気が良かった。大きな声で喋ったり、楽しそうに笑ったり、時には泣いたりもした。泣いたりしたというのは、幼稚園の女の子とまだ幼稚園に上がらない男の子が時々病院に来たが、そう言うときに涙を見せることがあったのだ。私も子供が3人いる。小四の女の子、小六の女の子、高一の男の子だ。気持ちは分かった。
病院の1日はトイレで始まる。なかなか思うようにいかないのは今まで居た病院と同じであるが、こちらの病院のトイレ(勿論障害者用)の方が狭く、且つゆっくりとやっていれば、トン、トンと音がする。トイレが少ないのだ。否、少なくはないが一人当たりの所用時間がちょっと普通よりかかるのだ。廊下の向こうまで車椅子で行けば在るのだが、シンドイ(廊下の向こう側はどちらかというと女性の病室が多く、トイレに行くのは気が引けた。)。トイレの中も汚くなる。初めから汚いのではなく、右とか左側の麻痺の症状の人たちが多いので仕方ない面もあるが、床一面の海となっている日も。だいたい誰がやったのかは判っても本人に面と向かっては言えない。まだ頭の中がハッキリしていないケースが多いのだ。
朝食は7時30分から8時までで、食堂まで車椅子(1ヵ月程してからは、杖を突いて歩くようになったが)。20人から30人の患者が食堂に集まり、車椅子でも移動できない人は病室で食事をした。その後リハビリが始まるまで自由時間で、10時からリハビリ(下肢)。昼は12時からで2時くらいまで休み。もっとも「お喋り」が出来るようにSTに依るリハビリがあったので、その分昼休みは短かった。
その後リハビリ(上肢)。風呂は週2回。この風呂が最初は女性のヘルパーのため何となく恥ずかしい気がしたが、馴れれば全然気にならなくなり風呂のある日が楽しみになっていた。風呂は病室から遠く離れていて別の棟にあった。従って車椅子で移動した。風呂場の中も装具を脱ぐと歩けないので担架に横になったままで石鹸を付けて洗ってもらい、その後そのまま別の担架に移り機械で風呂場の中に移動(吊して)して入った。馴れてくると浴槽のある風呂に一人で入ることになったが、装具無しでは一歩も歩くことは出来ず、当然自分で体を洗うことはできない。なお今も殆ど左肩とか左腕は洗わないし本当に時々洗ってもらうだけ。自分で出来ないことの内必要最低限だけ手伝ってもらう。夕飯は五時頃だった。後はテレビを見たり、同室の人と話したり、それを聞いて笑ったりして9時頃就寝した。
勿論口には出さないがいろいろの悩みがあり、今もあるが、其れには触れないこととする。
理学療法(下肢)のPTは、私の足の状態を躊躇(ちゅうちょ)無く判断し「装具は一生やっていなくちゃあね」と、軽く言ってのけた。ショックだったが、自分でも装具を付けていても歩ければヨシ、とは思っていた。新しい私の装具をオーダーメードで作り、本格的なリハビリにも熱が入った。ただし「やれば出来る」と云ったごく常識的な心構えはすでに無く、「やってもたいして良くならないけれどもやらざるを得ない」と云う心境だった。その下肢のリハビリの場所は病室と同じ階の廊下であった。1ヶ月くらいは、廊下に据え付けられた木の手摺りに掴まって立ったり座ったりの運動。それから支えてもらい左手で杖を持ち最初はゆっくりゆっくりと短い距離を歩いた。次第に歩き馴れ出してからは、距離も伸ばし、廊下の端から端まで何往復もした。目が回ったこともあった。 女性のPTだったが指導はなかなか厳しそうだった。前を見て真っ直ぐ歩くように注意されるが、なかなか真っ直ぐとはいかなかった。そして階段の上り下りの練習も短時間だがリハビリのあるときには必ず行った。階段を下りるときには右側が麻痺していて言うことを聞かないから、右足を最初におろして左足をそろえる。又右足をおろして左足をそろえる。そうやって階段を一歩づつ降りていく。反対に階段を上るときには左足から階段に足をかけ最初の一歩を踏み出してから右足をそろえる。左を上げて右をそろえる。この繰り返し。特に降りるときに右と左を間違えると大変なことになる。今でも時々頭で考えないと右を最初に出すか、左を出すのか迷うことがある。
しかし全て一概には言えないのがこの病気(後遺障害)の難しいところだと思う。36歳の彼は左麻痺だが神経は相当感ずるらしい。手で触っても判るくらいだから。その彼は階段のリハビリ練習を見ると足を相互に右左というように出している。つまり健常者と同じ歩き方である。一見健常者(障害者の反対語だろうがあまり好きな言葉ではない。だいたい健常者という言葉は殆ど日常使われない専門用語?か)の歩き方と同じで、何処が悪いんだと思う。しかし装具を外すと足の裏がひっくり返るようになり(私もなる事はなるが)歩けないとのこと。私は人それぞれによっていろいろと症状に違いがあるものだなと彼を見て思った。
目と云えば別に視力が極端に悪いわけではないのに、右目の方が見えづらい。ある時、右目の視界がおかしいので病院の眼科で検査してもらった。やはり目自体が悪いのではなくてこれも脳神経が影響しているとのことだった。検査の結果では4分の3くらい見えない。それは今でもそうである。ついでに言うと、後遺症としてはもっとも気になるのが頭の右側が重い、と言うか目が回るような症状。例えて言うならば度の強い眼鏡を暫く掛けてから外したときの、その頭の中の状態と言ったらいいか。もしかしたら、目と頭とは対で症状になっているかも知れない。
作業療法(上肢)のOTは最初に簡単なテストを行ったと思う。それから毎日やるべき手の作業を確認した。机の上で右腕を半円を描くように時計回りと反対側に10分間動かす。その後直径3pくらい、縦10pくらいの円柱を、20個ほど穴の開いた板の台に差し込む練習をする。これは殆ど惰性、だいたい手が円柱を掴(つか)まえる事もできないし、左手で無理矢理握らせても手が開かないから今度は手から放れない。毎日の日課だから仕方なくという感じであった。もっと手に神経でも通っていれば張り合いがあるしやる気にもなったが。次にはビニールでできた輪投げを、真っ直ぐ立てた棒の下から上に座ったまま背伸びをして掛け替える訓練。これは右手を伸ばすから良いと思う。そして最後にOTが手と腕を動かし、且つマッサージ。手首が90度になるように折り曲げる事をするが、いくら神経が行っていなくとも、手のひらを下に向けたときの痛さといったら無い。左手だって普通に曲げても90度近くなんて曲がらないのにやりすぎだと思うが。
手の麻痺、足の麻痺は、手足そのものに原因があるのではなく、脳に原因があると言うが、司令塔がしっかりしていないとそれを支える働き者も単なるでくの坊に過ぎないのだ。
どちらにしても手の方のリハビリには途中から期待しなくなった。手は足に比べ神経がすごく繊細にできているらしい。足のように大雑把に出来てはいないらしい。この手の繊細さを恨む。それでもこの畳の上で横になりOTの先生の手の動きに身を任せているのが感覚はないにしろ一番気持ちがよかった。
言語療法は毎日30分と時間的にハッキリしていた。お喋りをしながら授業を進める。小学校の先生と生徒だ。小学3年生位の足し算をやり引き算をやる。左手で字を書かなければならないのでよい字の練習にはなった。シリトリもした。花の名前、動物の名前、植物の名前、魚の名前、食べた物は何か、昨日見たテレビは何でそのアラスジはどうだったかetc。パズルのような問題、さらには先生が口頭で言った短い文章を聞いて紙に書くこと等。頭の中の整理のためのリハビリという感じであった。そして何となく判る、という状態からなるべく明確に、且つ言葉に出すことによって其れを立証するというようなリハビリであった。左麻痺の36歳の彼も最初はロレツが廻らなかったせいか言語治療を受けていたが1月で終わった。羨ましかった。私は相変わらず算数、国語だった。口の動かし方が言語療法は中心的にやるものだと思っていたから偉くガッカリした。
彼女(彼)たちは私たちを発病前の仕事に戻そうと本気で考えているのだろうか、と思うことがあった。特に言語治療を必要な人に対してだが。言葉には出さないが何となく、リハビリはやらなければならないが病気前の職場に戻るのは無理、と言っている様な気がして仕方がなっかった。私とSTとは気が合わないのか。否、彼女たちだって一生懸命頑張っていた。やはり言葉が思うように操れないこと、つまり自分を表現できない事がちょっとしたトラブルのもととなったのか。病気になった最初の二ヶ月か三ヶ月は弱気にもなっていたが、頭もしっかりし出した頃からはやる気も出てきたが、社会復帰のことを考えると落ち着かなかった。
五体満足なら何でもないことが障害者になったとたん難しくなる。昨日と今日の違いだけではない決定的な違いが其処に存在するのだ。
同室の患者は脳梗塞2名、脳出血2名であった。当初みんな脳出血の患者かと思ったがそうではなかった。入院をした時には区別をつけづらいが、そのうちに様子が分かってきて、この人は脳梗塞だ、脳出血だ、とわかる場合が多い(それでも麻痺になった状態は判らない場合が多い)。それからクモ膜下出血の患者はすぐ判った。頭に手術後の小さい包帯をやっている。割れるように頭が痛むのが、発病時の症状だと本人が言った。又何かの手術をしたが、医師が間違えて何でもない所を切ったために脳出血(つまり障害者)になった、という人もおり、全く可哀想な人もいた。勿論他の病院でである。又交通事故で頸椎をやられ全身麻痺、勿論喋ることもできない若い女性もいたが、頭は正常だと思った。又、脳梗塞の40代後半の男性がおり、入院3ヶ月くらいだったろう。リハビリも順調でよく廊下を歩いていた。障害は私と同じく右麻痺で、失語症だったが、退院間近でもありたびたび外泊していたようだった。そんな外泊から病院に戻ったその日に再発をした。廊下を挟んだトイメンだから苦しんでいる叫(わめ)き声が聞こえてくる。2,3日声がした後静かになったが、其処にはついこの間まで元気で歩いていた彼のヤツレタ姿があった。 見るからに痩せた体で全身麻痺の、目さえも右、左させられない姿の彼がいた。まさに様々な運命を持った人間の集まる場所が病院だ。
夏のお盆の時に1泊の外泊をするように医師から勧められ、どちらかというと半強制的にやらざるを得なかった。まだ2ヵ月目だった。ハッキリ言って外泊した場合のトイレが心配だった。この時にはまだ小水が自分で出来ないこともあった。とにかく小水が出なければ病院に来ればいいから、と医師に言われた。結果は無事に外泊中は過ごせたが、病院に戻ってから又看護婦さんの手を煩わせる羽目になった。
倒れてから初めての外泊で家に帰ったときは、帰ってきたか、という思いがこみ上げてきた。同時に庭に咲いている満天星(どうだん)ツツジやイチイの木が懐かしく、すがすがしい気分にさせてくれた。子供たちは相変わらず元気そうだ。子供たちが元気だと私も元気になる。妻も同じだろう。子は鎹(かすがい)だ。
それからまた病院でリハビリに励んだが、退院が近付くと3回程続けて外泊をするようになった。まだ入院をしていたい、と36歳の彼はこぼしていた。家に帰っても却って家族に迷惑を掛けるから、ということだったが、そんなわけにも行かず、私の退院した1週間後には彼も退院した。
私は退院はしたが手足の状態はそんなに早く結論を出せる状態ではない。努力しようと思っている。まだ1年半ではないか。
退院してから彼から電話があった。36歳の彼は言った。「病院が懐かしいなあ」。私もそう思う。今となれば「病院が懐かしい・・」と。
しかしこれだけは言える。もう昨日には戻れない・・倒れる前の自分には・・と。