1974年12月22日、東京都大田区に生まれる。東京で生まれたのは母親が里帰りして出産を行ったためである。そして生後まもなく大阪へ移り住み、20歳まで門真市で育つこととなる。私の父親は長嶋茂雄の大ファンであり、1974年10月に長嶋が引退したことも重なり、「茂雄」と命名されてしまった。そんなこともあり、小学校に上がると、少年野球のチームに入れさせられた。しかし、当の本人は野球にまったく興味がなく、1年くらいでやめてしまった。運動は相当苦手だった。
小学校の時に興味を持っていたことは、工作やプラモデル作り、まんがを書くことだった。とにかく物を作ることに相当の興味をしめしていた。家が建つのを見るのが好きだったり、土日の新聞の住宅広告を見るのが楽しみな少年だった。高学年になったころには、大工さんとか建築家みたいな人になりたいと思っていた、と記憶している。 勉強にはまったく興味がなかった。かなりやる気がなく、宿題忘れ(というか宿題をしない)の常連でいつも先生に怒られていた記憶しかない・・・
身長:150.2cm 体重:37.5kgf 胸囲:68.6cm中学校に入学すると、部活動は水泳部に入部した。水泳部に入ろうと思った理由は、とにかくひ弱な少年だったため、身体を鍛えるためには全身運動である水泳が一番いいと思ったからだ。意外とまともな理由を持っていた。しかし、私を良く知る友達みんなから水泳部入部を反対されていた。私と運動なんて絶対結びつかないので、当然である。さらに私は当時、水泳部=競泳をする、ということを全く理解していなかった。ただ泳ぐだけなのかなと思っていた。
水泳部は当然ながらプール開きが早い。昭和62年4月19日、初めての練習日のことは今でも忘れられない。当然ながらめちゃくちゃ寒い!というか体中が痛かった。私は25m泳いでターンしたところで、顧問のI先生から引き上げられてしまった。「まだ泳げるのに・・・」という気持ちだった。その後もしばらく私は練習途中で中止させられてばかりだった。当の本人はまだ泳ぎたい気持ちだったが、第3者からみると、顔色も悪く、とても長く泳がせることができないようにみられたようだ。
ところで、実は私は当時クロールをまともに泳ぐことができなかった。よって練習ではいつも平泳ぎで泳いでいたため、おのずと平泳ぎが専門種目になってしまった。中学校の水泳部は当時おそらく30人以上はいたが、平泳ぎを専門にしている人は少なかった。3年生のA先輩は女子だったけど、クラブで一番平泳ぎが強く、憧れの存在だった(初恋)。いつも必死に練習についていくが、とても敵わない。 全然速く泳げなかったが、8月には門真市内の大会に参加することができた。100m平泳ぎ1分43秒0だった。よくわからない間に終わった。
その後も練習を続け、9月の始めまでに、自己ベストを1分35秒にまで伸ばした。A先輩の記録(当時1分33秒)とも変わらないレベルにまでなっていた。また、9月中旬には北河内地区(門真市を含む7市)の新人大会があり、これの標準記録(1分41秒)もクリアし、出場することを認められた。北河内大会は50mの公認プールで行われる本格的な大会。しかし当日は37度ちょっとの微熱があり、まともな体調ではなく、100m平泳ぎ1分39秒0に終わった。9月が終わるとプール練習も終わり、冬季は陸上トレーニングをすることになる。
大会結果(中学校1年)
自己ベスト 100m平泳ぎ 1分35秒
種目 記録 年月日 大会名 場所 100m平泳ぎ 1分43秒0 1987.8.2 門真大会 門真2中 100m平泳ぎ 1分39秒0 1987.9.15 北河内新人戦 寝屋川1中(50m公認)
身長:158.7cm 体重:43.5kgf 胸囲:73.2cm中学校2年生になると、当然ながら後輩が出来ることになる。男子部員の中には大して平泳ぎの強い生徒は入ってこなかったが、女子の方は何故か100m平泳ぎ1分40秒程度の力をもつ生徒が3人も入ってきた。私の自己ベストは1分35秒なので、かなり実力が接近していた。インターバル練習も同時に行う機会が多かった。体力の無い私は終わりの方になってくると、よく彼女達に負けかけるどころか、完全に負けていた。したがって、私は練習では全く手を抜くことができなかった。悔しいけれど彼女達は私にとっての練習ライバルだった。そんな練習の成果もあったのか、7月に入るといきなり強くなり出した。1分30秒を切り、練習中のタイムトライアルで1分25秒まで自己ベストを伸ばした。
8月の市内の大会ではさらなる記録を期待したが、力を全く出し切れず、1分28秒に終わった。その後も記録の伸びは止まってしまい、自己記録を更新できずであった。9月の北河内地区の新人戦でも1分29秒8と長水路(50mプール)で辛うじて1分30秒を切るにとどまった。
急に記録が伸びなくなったことに焦りも感じていたが、当時、それ以上の悩みがあった。平泳ぎ以外の種目を全く泳げないことであった。通常、水泳の基本はクロールであり、クロールが泳げて初めて、他の3泳法に取り組むのが普通である。しかし、私は素人から始めて、かつ平泳ぎしかしていなかったため、4泳法をまともに泳げないどころか、クロールより平泳ぎの方が速く泳げるという通常では考えられない状況になっていた。
水泳部のプールでの練習は9月で終わるが、3年生になるのを前にして、4泳法をまともに泳げないようではいけないと思い、冬の間に遅まきながらスイミングスクールに通うことを考えた。しかしここでも問題があった。中学生の年齢だと、どこのスイミングスクールでも頂点レベルの「選手育成コース」に属している場合がほとんどである。しかし、選手育成コースのレベルは当時の私のレベルよりも相当高く、とても練習にはついていけない。かといって、小学生ばかりのスクールに入るのも相当恥ずかしい。
そこで考えたのがスイミングスクールの「成人コース」を利用することであった。水泳部で私と同じようにスイミングへ通いたいけれど、選手育成コースではついていけない友達2人と10月から成人コースへ通い始めた。冬の陸上トレーニングを続けながらスイミングに通うつもりであったが、11月に私は学校で問題を起こしてしまったこともあり、以後冬の間はまったく部活に顔を出さなかった。ところでスイミングでの慣れない平泳ぎ以外の練習は私にとっては相当つらいものであった。週2回のスイミング通いを3月まで続けた結果、まがりなりに、4泳法を泳げるようにはなった。冬の間はタイムトライアル等は無かったため、どれくらい力がついたかはわからなかった。
大会結果(中学校2年)
自己ベスト 100m平泳ぎ 1分25秒
種目 記録 年月日 大会名 場所 100m平泳ぎ 1分28秒0 1988.8.7 門真大会 門真1中 100m平泳ぎ 1分29秒8 1988.9.15 北河内新人戦 寝屋川1中(50m公認)
身長:165.6cm 体重:51.1kgf 胸囲:79.5cm4月になり、プール開きのころからクラブに復帰した。学校の練習が始まっても、スイミング通いも続けた。話は変わるが、5月にはスポーツテストがあり、1500m持久走で初めての5分台(5分49秒)を出した。2年生のときは7分もかかっていたのだから、全体的な体力がだいぶ向上してきているのがわかった。
だんだん気候もよくなり、6月になると朝練が始まった。ある日の朝練で100mのタイムトライアルを行った。朝だから記録なんて望めないとおもったが、記録がでた。1分22秒7の自己ベストがあっさりと出てしまった。思いがけず大阪府中学総体の参加標準記録を突破してしまい、顧問のI先生から出場することを認められた。よくわからないが参加資格は公認記録である必要はなかったようだ。
しかし、7月中には体育の授業で25mの潜水を行ったら、猛烈な偏頭痛に襲われてしまった。もともと私は偏頭痛持ちで、時々頭痛をおこしていたのだが、たいがい一日寝れば治っていた。しかし、今回は3日経っても消えず、病院に行ってみてもらったが、結局原因はわからなかった。しばらくしてから良くなってきたが、その後も練習中突然痛くなることもあり、しばらくまともに練習できないときがあった。
平成元年7月27日、初めて大阪府中学総体に参加した。場所は通称扇町プールと呼ばれる大阪プールで行われた。この扇町プールは現在では取り壊され今は存在しないのが非常に残念であるが、外観は大きなスタンドの壁にツタがびっしりかかっており、甲子園球場のようだった。プールはもちろん50m公認、そのまわりに馬蹄形をしたスタンドがあり、ゆうに2〜3万人くらいの観客席がある立派なプールだった。こんなところで泳げることがとても嬉しかった。
もちろん参加標準記録ギリギリでの出場だったため、予選落ち当然であったが、偏頭痛であまり練習できていなかったにもかかわらず、1分22秒57の自己ベストが長水路で出てしまった。これには自分もまわりもみんな驚いた。
大阪大会の次は8月の門真大会が目標となる。門真大会では初めて200m平泳ぎに挑戦することになっていた。これまで、普段の練習では最高でも100mしか泳いだことがなかったので、ペース配分とかがまったくわからない。とりあえず門真大会までは2週間しかなかったが200m用の練習をした。といっても練習中に200mを何回か泳ぐだけ。それでもそれなりに200mの距離をどうやって泳げばいいかなんとなくつかんできた。試合前に行ったタイムトライアルでは3分10秒を少し越えるくらいだった。門真大会当日。昨年に比べずいぶんと力をつけていたため、賞状(3位入賞)をもらえるかもしれないレベルにまではいた。しかし、他校には100m1分16秒のベストを持つN君、また1分20秒くらいの力をもつI君とU君がいた。彼ら3人は昨年秋から通い始めたスイミングスクールのいわゆる選手コース生だった。順当にいけば僕は4位だが、N君の次、すなわち2番にはなりたかった。結果、両種目で2位入賞ができたが、N君との差は歴然としていた。
次の試合はお盆をはさんで3週間後の北河内大会。本大会へは3年生になって初めての出場となった。調子は上向きで、試合の4日前のタイムトライアルでは100m平泳ぎでついに1分20秒を切る1分18秒9が出た。かなり信じがたい記録だったが、北河内大会が楽しみになる。今度は100m一本に絞る。
北河内大会1日目、まずは400mメドレーリレーの平泳ぎ泳者として泳いだ。なんと門真大会で2位だったのに、門真で優勝した中学校より良い記録で決勝にぎりぎり残ってしまった。ちなみに決勝は9位だった。2日目は、100m平泳ぎ。自分は2組5コースであった。競泳のコース分けは通常1組が一番速い組であることが多く、組の中でも5コースが一番速い人(全9コースの場合)、その次が6コース、4コース・・・というように配置される。すなわち自分は1組9名の次番手、決勝にかかる一歩手前に位置していた。これは決勝に残れる可能性があるぞと思わぬ期待が膨らむ。
予選1組は寝屋川のS君が順当に1着、2着には門真大会で優勝したN君がしっかりついていた。電光掲示板等の設備はないので、1組の選手がどれくらいで泳ぎ、自分が決勝に出るためにはどれくらいで泳がなければならないかは把握できなかった。1分22秒あたりがボーダーラインだと思っていた。結局自分も順当に2組1着に入ったものの記録は1分22秒2。決勝は微妙だ。レースが終わりしばらくしてからの場内アナウンスを待つ。「さきほど行われました男子100m平泳ぎの結果・・・・8着、2組5コース・・・」自分の名前が呼ばれたときの嬉しさは今でも忘れられない。決勝はもろに緊張してしまい、上位にも食い込めず、平凡な記録で9番だった。
北河内大会の2週間後は大阪府学年別選手権に出場した。これが中学校最後の試合となった。私の出番は2日目で、自分の中学校から出場するのは私一人、しかも翌日は実力テストにもかかわらず、たくさんの人が応援に来てくれた。当日は身体がよくうごき、1分21秒37長水路自己ベストをマークした。ゴール後は好記録が出た嬉しさと、中学校最後の試合が終わった安堵感で非常に晴れ晴れとした気持ちだった。
大会結果(中学校3年)
自己ベスト 100m平泳ぎ 1分18秒9
種目 記録 年月日 大会名 場所 100m平泳ぎ 1分22秒57 1989.7.27 大阪府中学総体・予選 大阪プール(50m公認) 200m平泳ぎ 3分04秒5 1989.8.6 門真大会 門真7中 100m平泳ぎ 1分22秒1 1989.8.6 門真大会 門真7中 100m平泳ぎ 1分22秒2 1989.8.26 北河内大会・予選 寝屋川1中(50m公認) 100m平泳ぎ 1分23秒5 1989.8.26 北河内大会・決勝/9位 寝屋川1中(50m公認) 100m平泳ぎ 1分21秒37 1989.9.10 大阪府学年別大会 大阪プール(50m公認)
中学校でのクラブ活動は9月で終わった。その後は高校受験に向けての準備をすることになる。水泳については、特に高校に進んでからも続けたいという強い気持ちはなかったが、クラブが無くなってからもスイミング通いはつづけることにした。高校は父親の影響が大きく、絶対工業高校と決めていた。何か造る事にものすごい興味があり、建築科に入りたいとおもっていた。ただ父親は電気科だったので、電気科にいけというし、大阪で一番難しいと言われるM工業高校にしろというし。学校と学科を選ぶのに少しの間迷った。そのうち、某書店が行う模擬テストを受けた。テストは大阪府下の公立高校問題にあわせた格好になっており、あらかじめ志望校と志望学科をテスト申し込み時に書いておけば、合格率のようなものが判定される仕組みになっていた。M高校の電気科と建築科、Y高校の電気科を志望にしたが、、、結果は散々でY高校はほぼ大丈夫だったものの、M高校の方はほとんど合格不可能な判定だった。
そうこうするうちに志望学科の考えも変わってきた。家、建物を造る建築よりも、道路や橋、鉄道などもっと大きなものをあつかう土木の方がいいなっていう気持ちになってきた。土木科のある学校は大阪では父親の勧めるM高校ともうひとつN高校の2校しかなかった。調べてみると、過去数年間、M高校の土木科は毎年定員割れしていた。すなわち仕組み上は受験すれば必ず合格する状態だった。かなり甘い考えだが、この時点でここにしようと思った。しかし、いつどこで知ったか忘れたが、土木科は都市工学科という学科に改編されるという情報を知った。なんだか魅力的な学科に思えたが、逆にその分、定員割れが解消されて高倍率になることが予想された。
倍率が高くなりそうなので、11月くらいからまじめに勉強するようになった。いまさら遅いかもしれないがやるしかない。でもまじめにやれば少しづつ今まで解けなかった問題とかも解けるようになってきていた。最後に受けた模擬テストではM高校の合格確率は50%くらいだった。なぜかいつの間にか水泳部のキャプテンだったS君も同じ高校の同じ学科を受けることになっていた。彼は相当頭のいい子だったこともあり、僕なんかが同じ学校を受けていいものかどうかと思い、相当不安だった。 3月の試験前に発表された倍率は1.24だった。80人の定員に対し99人の志望があった。 合格できそうにないと感じていて、合格発表を見に行く前に、定時制高校の2次募集の案内もチェックしていたほどだった。しかし、予想に反して合格することができた。
1990年4月、大阪市立都島工業高校へ入学した。自宅から自転車、電車を乗り継いで1時間かけて通学することになった。入学してから校内のどこを見渡してもプールが無いため、もしかしたら水泳部すら無い学校なのでは?と思ったが、なんとプールは建築科の実験棟屋上にあった。で、やはり水泳部に入ることにした。入部してから2週間くらいはしばらく陸上トレーニングだったが、毎日3〜4kmをかなりのハイペースで走らされ、当時はこれがかなりきつかった(今なら楽勝なのだか)。4月下旬になり、プールでの練習が始まった。しばらくは水が冷たいため、練習は軽めだったが、徐々に練習量が増してきた。いわゆるインターバル練習が非常に多かったのが、中学時代との練習の違いだった。中学校のときの練習は、インターバルが長く一本一本集中して泳ぐいわゆる「耐乳酸トレーニング」がメインだったが、高校に入ってからはインターバルが短く、どんどん泳ぎこんでいくという練習がメインだった。一日の練習量は中学校のときの2倍以上で、ほとんど毎日6000mを超えていた。6月に入ると、初めての故障を経験してしまった。オーバーユースによるひざの捻挫だった。
故障といっても全く泳げないわけではなかったので、治療院に通いながら練習を続け、6月末にはインターハイ地区予選に出場した。豊富な練習量のおかげか、200m平泳ぎで大幅に自己ベストを更新した(2分54秒2)。予選突破には2分46秒4が必要だったので、まだレベルは低い。
7月に入ると、校内合宿があった。教室に畳を持ち込み、1週間をここで過ごした。1日の練習は4部連で早朝、午前、午後、夜と一日中泳いでいた。うちの高校は定時制もあったため、プールは照明設備も完備、夜も泳ぐことが出来た。ちょうど天神祭りの時期で、花火の音をききながらの練習はなかなか悲しいものがあった。合宿途中には「100m×100本」という根性練習みたいなすごい練習が用意されていた。ほぼ全員これをこなしたのだが、僕は40本目あたりで意識を失った。
合宿後は慢性的な疲労がなかなか抜けず、ぱっとしなかった。9月初めの記録会で100m平泳ぎで1分18秒0のベストを出したのがやっとだった。
大会結果(高校1年)
自己ベスト 100m平泳ぎ 1分18秒0
種目 記録 年月日 大会名 場所 200m平泳ぎ 2分54秒2 1990.6.24 大阪府高校第10地区大会 桜宮高プール 100m平泳ぎ 1分19秒1 1990.6.24 大阪府高校第10地区大会 桜宮高プール 200m平泳ぎ 2分56秒93 1990.8.4 大阪府高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 100m平泳ぎ 1分21秒38 1990.8.6 大阪府高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 100m平泳ぎ 1分22秒65 1990.8.24 大阪市立高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 100m平泳ぎ 1分19秒55 1990.8.24 大阪市立高校総体・決勝/3位 大阪プール(50m公認) 200m平泳ぎ 2分58秒74 1990.8.24 大阪市立高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 200m平泳ぎ 2分57秒24 1990.8.24 大阪市立高校総体・決勝/4位 大阪プール(50m公認) 100m平泳ぎ 1分18秒0 1990.9.10 6校対抗記録会 汎愛高プール 200m平泳ぎ 2分57秒0 1990.9.10 6校対抗記録会 汎愛高プール 100m自由形 1分10秒5 1990.9.10 6校対抗記録会 汎愛高プール 100m平泳ぎ 1分20秒57 1990.9.16 大阪府高校新人・予選 大阪プール(50m公認)
200m平泳ぎ 2分54秒2
10月になると、プールでの練習から陸上トレーニングに移行した。練習のパターンはたいがい、ランニング(1.5〜2km)→補強トレ→ランニング(1.5〜2km)→懸垂→柔軟、という感じだった。今思えばたいしたことしてなかったが、当時は結構つらい練習だった。ランニングでヘトヘトになっている後に毎日必ずある懸垂がとにかく地獄だった。当時は懸垂がまったくといっていいほどできなかったからだ。一番きつかったのが春休みの陸トレ。ランニングが学校から大阪城までの片道4〜5kmに倍増、ふらふらだった。最後まで練習についていけない情けない1年生だったが、こんな陸トレを半年も続けると春以降走力が急激に伸びた。高校2年生の春のスポーツテストでは、1500m持久走で5分07秒、クラスで1番、水泳部内でも2番の記録を出すまでになっていた。
しかし、肝心の泳ぎの方はまったくパッとしなかった。練習もしっかりこなせているのに、記録がなかなか出なかった。6月のインターハイ地区予選では100mで1分20秒すら切れず、1分20秒が壁になってきていた。200mも2分55秒前後で変に安定しており、確実に伸び悩んでいた。そんな中、8月に3年生が引退、僕は水泳部のキャプテンに任命された。これには正直参った。
実は当時、水泳部には顧問の先生はいたものの、指導者がひとりもいなかった。すなわち、練習メニューなどはキャプテンが考えなければならない。部をとりまとめるのもすべてキャプテンだった。まわりが協力的ならいいが決してそうではなかった。9月末までのシーズンは何とか過去の練習記録などを参考に練習メニューを作った。
大会結果(高校2年)
種目 記録 年月日 大会名 場所 200m平泳ぎ 2分54秒0 1991.6.23 大阪府高校第10地区大会 桜宮高プール 100m平泳ぎ 1分20秒4 1991.6.23 大阪府高校第10地区大会 桜宮高プール 200m平泳ぎ 2分55秒70 1991.8.4 大阪府高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 100m平泳ぎ 1分19秒87 1991.8.6 大阪府高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 100m平泳ぎ 1分20秒?? 1991.8.27 大阪市立高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 200m平泳ぎ 2分56秒90 1991.8.27 大阪市立高校総体・予選 大阪プール(50m公認) 200m平泳ぎ 2分53秒17 1991.8.27 大阪市立高校総体・決勝/4位 大阪プール(50m公認) 100m平泳ぎ 1分20秒54 1991.9.15 大阪府高校新人・予選 大阪プール(50m公認)
当時,100m平泳ぎで府のインターハイ予選(以下,中央大会と称す)に進出するにはを突破するためには,地区予選において標準記録1分15秒4と以内の記録を出す必要があった。このときの自己ベストが1分18秒0,しかもこの記録は1年生のときに出したもので,今年は1分19秒8しか出ていない。キャプテンになったからには,少なくとも中央大会には出なければとの想いがあったものの,今のままではあと8ヶ月でここまで到達するのは相当難しいと思った。そこで,思い切ってスイミングスクールの「選手コース」に入り,強化をはかることとした。また,来年から高校水泳部の練習メニューを組み立てていかなければならなくなるため,練習方法を勉強したいという気持ちもあった。正直言って,自分の泳力ではスイミングスクールの選手コースの練習にはとてもついていけないレベルだった。入会前にまず選手コースの練習を最初から最後まで見学したが,やはりちょっと次元が違う。練習を見た後,チーフのA先生から「練習についていけそうか?」と聞かれ,本心はとてもついていけそうになかったが「がんばります」って答えてしまった。そして入会がきまった。
練習は週5回,平日は1時間20分,日曜日は2時間の練習時間だった。高校の水泳部は自分がキャプテンだったことをいいことに,毎日5時40分から始まるスイミングの練習にあわせて,陸上トレーニングは5時までに終わらせるようにした。10月2日からスイミングの練習に参加,Nコーチのもとでの練習が始まった。1日目の練習も2日目も3日目も・・・まったく練習についていけず,設定インターバルを守れなかった。練習時間が短いため,練習の量は少ないものの,質がとても高い。小学校6年生の女の子ですら同じ練習をこなしているというのに,自分は全然ついていけない。毎日コーチに怒られ,悔し涙の毎日になってしまった。
スイミングに通いだして9日目,ウォーミングアップの400mを泳いだ直後に専門種目の100mダッシュを行うことになった。どれくらいで泳げるか見当もつかなかったが,とにかく全力で泳いだ。ゴールした後,コーチの口から考えもしないような言葉がでた。「1分16秒7」 たった半月の練習で17秒台を通り越す大幅自己ベストが出てしまった。しかも中央大会の標準記録まであと1秒3にまで迫った。来年6月までには切れるかもしれない希望が突然沸いて出た。さらに2日後には大阪府室内選手権のスイミング内での選考会があり,記録を1分16秒3に伸ばした。中央大会まで0.9秒と1秒を切った。スイミング内でも2番手の記録だった。