| チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 |
| 刊 行 | 1970年3月10日 新潮社刊 |
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| 1982年9月25日 新潮社刊(新潮文庫) | |
| 2001年7月25日 新潮社刊(塩野七生ルネサンス著作集3) |
しかし、イタリアの統一は、チェーザレにとっては使命感からくる悲願ではない。あくまでも彼にとっては、野望である。使命感などという、弱者にとっての武器、というより寄りどころを必要としない男であった。マキアヴェッリの理想は、チェーザレのこの野望と一致したのである。人々のやたらと口にする使命感を、人間の本性に向けられた鋭い現実的直視から信じなかったマキアヴェッリは、使命感よりもいっそう信頼できるものとして、人間の野望を信じたのである。ローマ法王の息子でありながら、あえて枢機卿の地位を捨て、教会軍総司令としてイタリア統一を目指したチェーザレ・ボルジア。父の教会勢力を背景に、自らの王国の創立を夢見た男の野望と挫折の物語。
―「第二部 剣」 より
こんなことを書くと、数多いであろうこの作品のファンからお叱りを受けそうですが、私は正直言ってこの作品は今ひとつだなと感じました。と言っても、つまらなかったわけではありません。面白かったのですが、期待したほどではなかったということです。もとより、期待があまりにも大きすぎたのでしょう。この作品に関しては本当に良い評判しか聞かなかったので、読む前の期待も半端なものではなかったのです。こういうわけですので、この作品の何が不満なのかと聞かれてもよくわからないのです。
それはさておき、この作品の中で私にとって最も印象的だったのは、上にも引用した「使命感よりも、個人の野望に信頼をおく」という考え方です。野望とか野心とかいうものは、一般にはどこか胡散くさいような、マイナスのイメージで語られがちです。しかし塩野さんは、個人の野心と時代の要求が合致したときにこそ理想の実現も可能になる、と考えているようです。これは私にとって全く新鮮であり、共感できる考え方でした。
周囲の大勢力の侵入に悩まされていた当時のイタリアにとって、イタリア統一というチェーザレの野望は、イタリア全体の利益とも合致するものでした。しかし、チェーザレは失敗しました。チェーザレのやろうとしたことは、やはりまだ少し、時代の要求に合わないところがあったのかもしれません。現実のイタリアの統一は、ずっと時代が下って19世紀のイタリア王国成立まで待たねばなりませんでした。チェーザレの出現は早すぎたのでしょうか。
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