トピックと違って、ここには徒然なるままに書かれた文を公開します。楽に書く、をモットーにしていますのでオチも脈絡もなく終わったりすることもあります。あしからず。
目次
12/28 同級生
今頃になって『同級生』のWin版を買った。
正直言って、エルフはもうダメかな、と思っていた。もともと、パソコン、それもエロゲーのソフトハウスなんてものは、どこもミニマムな製作環境から出発する。ところが、儲かれば事業を拡大せざるをえないのが資本主義の原理というもので、間違って一発当ててしまったエロゲー会社ほどその後の経営がおかしくなるものはない。エルフはまさにその典型で、もともと社長のワンマン会社だったのが急に図体がデカくなっても、それだけの仕事をできる人材はいないし、育ちもしない。かつて並び称されたアリスソフトが少数精鋭の体制を維持して体質の変化を防いでいるのと、全く対照的である。絵描きは外注で、しかも仕事をしない奴ばかり。社長は余計な仕事に時間をとられ、現場の製作に直接タッチするのが難しくなる。
ここ数年、エルフの新作が殆どなく、DOS時代の作品のリメイクばかりやっているのは、特に蛭田社長が一人で手がけていたシナリオを代わって書くだけの力を持ったスタッフがいないからであり、中枢を失った製作が空洞化している状況がハッキリわかる。
蛭田昌人は『ドラゴンナイトW』以来、私の最も尊敬するストーリーテラーの一人だが、そんなわけで最近はなかなか新作が見られないのが残念である(その『ドラゴンナイトW』のリメイクも、いつ発売することやら。待ってるぞ)。
PC−9801版の『同級生』は、私の人生を変えてしまったゲームである。当時98を買ったばかりだった私は(敢えて年齢は書かぬが)、このゲームの洗礼を受け、一気に道を踏み外してしまった。一日20時間『同級生』をプレーする日々がしばらく続き、その間私はほとんどインサイドして向こうの世界に住んでいたと言って良い。
何故だろう。面白かったから、としか言いようがないのだが、それにしても私のゲーム歴にも他に類がない、異常なハマり度であった。
一つには、ゲームシステムそのものの問題がある。このゲームの展開は、街をブラブラと歩き回って、女の子とバッタリ会ったら雑談する、以下繰り返し、というのが基本的な流れであり、主人公のヒマつぶしに付き合ってプレイヤーがヒマをつぶしている、というシステムは、ダラダラとプレーするのにうってつけなのである。最近になってプレーした知人は「なんかウロウロしてるばっかでつまらん」というような感想を漏らしていたが、それこそこのゲームの本質なのだ。同じ恋愛シミュレーションゲーム(と呼ぶ)でも、イベント、イベントの連続から成り立つようなものとは、決定的に異質なのである。この手のゲームでは、システム上の「イベント」の発生を目的として、パラメータの向上につとめる、というシステムが一つの典型になっている。いわばイベントの合間にゲームがある、という、よく言えばメリハリの効いた、悪く言えば「作業」と化してしまっているゲームが主流である。ところが『同級生』では、イベントはあってもそれはストーリー上のクライマックスであり(事実、キャラクター毎のイベント数は決して多くはない)、その他のシナリオ展開の大部分はそれ以外、いわば「地」の部分に負っている。このゲームにとって「ウロウロしてる」部分は攻略のための作業ではなく、密度の濃いシナリオが詰まった、一番オイシイ部分なのである。
つまり、そもそもイベントなるものの必要性は純粋にゲーム的な要請によるのであり、シナリオ上はそんなもの別に必要ないのだ、という真理を『同級生』は明らかにしてしまった。私がいまだにパラメータの増減を操作するだけのゲームを好きになれないのも、多分にこのゲームをやったせいだと思われる。
あまり効率よく攻略しようという発想は、このゲームに合わないのだ。あくまで漫然とプレーし、その時の気分によって、美沙につかまったり、さとみに転んだり、というのが正しいプレースタイルだと思う。換言すれば、ハマってやるべきゲームなのである。
しかし、では、悲しいかな、いまだにイベント発生=CG回収を目的として極端な効率主義のプレーに走るしかないようなゲームが主流なのは何故だろうか。どうして、本当の意味で『同級生』に追随したゲームが作られないのか?作れないからだ。
こんなゲームを作るには、ゲームとしては並外れたシナリオの演出、全体の構成力が必要で、そして辻褄合わせだけでも恐ろしく膨大な作業量となる。はじめにシナリオありきの製作体制、それもシナリオを書く人間が製作全体のヘゲモニーを握っている体制が望ましい。事実、私の好きなゲームはそういう体制下で作られたものが多い。そういえば、あの菅野ひろゆき(剣乃ゆきひろ)氏も、シーズウェアを飛び出してエルフに入社、『YU−NO』を手がけた後、再び独立し、現在は自分の会社でゲームを作っている。
で、『同級生』だが、今回のリメイク版を買うにあたって二の足を踏んだ理由はいくつかある。まずは、原画こそ同一だが、CGがフルカラーであること。私は元々、いわゆるアニメ絵(広義の)を塗るのにあまり色数を使いすぎるのは好きではない。背景はともかく、キャラクターの肌などにテカテカのグラデーションを施すのは悪趣味だ。あくまで一般論だが。アリスソフトは今でもWin95環境のゲームに256色しか使っていないし、スペックもそれ以上要求していない。容量を考慮しても、このくらいで十分だと思う。
PC-9801では同時発色最大16色という中途半端な制約があった。それ以前の8801等における、デジタル8色という絶望的な制限に比べれば、4096色中16色というスペックは、不足をカバーする特殊技術の発達を促進する程度の微妙な制約だった。16色をシステムカラー、キャラクター(前景)、背景という風に割り振り、モノトーンの背景、タイルパターンの使用など、この時代独特の技術が培われた。これらの技術は、フルカラースペックの爆発的な普及により、一挙に、そして永遠に失われてしまったのである(過渡期とすら呼べぬPC-9821の256色の時代は到来する前に去ってしまった)。
当時、エルフの16色塗りの技術は円熟の域に達しており、アリスソフトですらこの点に関しては一歩を譲ったと言わねばなるまい。98版『同級生』のCGも絶品で、『同級生2』の、まさに16色の限界を超えた塗りも驚異だったが、『1』のドライな仕上げも私は大好きだった。
そんなわけで、画面写真を見る限りでは、Win版のハイカラーのCGは私にとってあまり好ましいものではなかったのである。「昔の記憶が美化されてるせいだ」などと言われるが、そうではない。こちとら今でも98を現役使用中なのだ。
次に、第二の理由。ボイスキャストである。
現在でこそ、恋愛ゲーム(こう呼ぶ)においてフルボイスはごく当たり前だが、われわれ昔気質のゲーマーにとってやはり特別なものであり、素朴な憧憬のような感情の対象となっているのが音声なのである。
CD-ROM媒体の普及が、この点でもゲームに革命を起こした。CD-ROM一枚の容量は、650MB。単純計算で、98スタンダードの1.2MBフロッピーディスクの540倍ということになる。。98版『同級生』はフロッピー9枚組、『同級生2』ではフロッピーベースで12枚、ハードディスク専用版で14枚組だった。枚数が違うのは、エルフが独自フォーマットのDOS(ELF-DOS、基本的にはMS-DOS互換だが)を使用しており、MS-DOSよりディスクスペース効率のいいファイルシステムをとっていたためである。他にもいわゆるメガデス系、アートディンクなどが同じく独自フォーマットを使っていた。このことからも、いかに当時の各社がフロッピーでの快適なプレーを意識していたかがわかる。
閑話休題、『同級生』の、98版フロッピー9枚と、Win版CD-ROM2枚では、容量においてやはり120倍の差があることになる。無論、あくまで単純計算ではあるが、実質的な差も推して知るべし。しかし、いくら容量が増えても、製作する側の予算、スケジュール、マンパワーが変わらない以上、何十倍もの密度の内容のゲームを作ることができないのは当たり前である。シナリオやメインプログラムのデータ量は、ハードのスペックには殆ど関係ない。CGも、色数が増えたことで一枚あたりのデータ量が増えたとはいえたかが知れており、かといって枚数を大幅に増やすのはやはり製作状況が許さない。
では、何のデータが増えたのか?
実は、増えていない物もある。CD-ROMという媒体のメリットは、大容量であること、コンパクトであること、記録の耐久性が高いこと、そして、安価であること。フロッピー数枚に収まる程度の量のデータでも、CD-ROM一枚にした方が安上がりで、記録の信頼性も高いため、データ量に関係なく、フロッピーで供給されるソフトはほぼ絶滅してしまったのである。事実、数MB程度の容量しか使っていないソフトは現在でもあるが、これらは媒体のCD-ROMのキャパシティの1%も使用していないことになる。書籍・雑誌の付録もCD-ROMが主流になった。否、CD-ROMの普及で初めてソフト・データを雑誌付録にするという形式が定着したと言えよう。
では、実際に大容量を活かしたソフトとは、どのようなものか?それが、音声データをふんだんに使ったソフトであると言える。オーディオCD一枚の音声収録時間は、74分。長いのか、短いのか、把握しづらいかもしれないが、たとえば74分間、ある文章を朗読するとして、果たして400字詰原稿用紙何枚読めるだろうか?1分一枚として、74枚である。しかし、その原稿用紙74枚分の文章を、一文字2B(バイト)のテキストデータに変えると、59200B、約60kb弱のデータにすぎない。これはCD-ROM一枚の全容量の一万分の一にも満たない量なのである。むろん、音声と文字の情報量の比較は単純にはできないし、音楽CDは音質最優先のデータ形式だから実際はもっと量を減らすことはできるのだが、いかに音声データが膨大なものかイメージするのに、少しは参考になるのではないかと思う。そもそもデジタルデータで波形を表現しようというのだから、膨大な情報量になるのは当然である。
そんなわけで、昔と今のゲームとで最も違う点が、音声なのである。BGMならFM音源でなんとでも誤魔化しようがあったが、人間の声はそうはいかない。98時代にも、『Gokko』シリーズなど音声がウリのソフトがあったが、極めて低いサンプリングレートで音質は悪く(しかも演じているのは素人のねーちゃん)、それでも全編というわけにはいかなかった。フルボイスなど夢のまた夢である。だからこそ、最低の音質でもウリになったし、プレイヤーは音声による演出にあくなき憧憬を抱いた。
たとえばCD-DAは音楽CDと同じフォーマットであり(つまりCDプレイヤーで聴けるもの)、逆にいえばCDと同等の音質である。仮にこの形式でBGMを3分×10曲の30分間収録したとすると、それだけでCD-ROMの全容量の4割を使用することになる。音のデータがどれだけ贅沢に容量を取るか、目安になろう。実際に、アリスソフトのゲームは現在全てCD-DAでBGMを収録しているのである。
セリフ等のいわゆる「音声」データは、区切りも多くアクセスに時間がかかることもあり、さすがにCD-DAで収録はされることはない。それでも、ノイズが入らない程度にサンプリングのレベルを上げると、かなりの容量を使うことは自明である。事実、極端な例としては、全容量の9割以上を音声データに当てているゲームもあるほどだ。もっとも、さすがにこれはマジメに作ってないだけだが。
以上のような現状に関しても、一般プレイヤーはあまりにも無知である。フルボイスを当たり前と思っているユーザーはこのことを全く重要視していないし、製作側としても、音声データは容量に見合った苦労をして作るものではない。ほとんどは録音、サンプリングして終わりである。そのため、現在ボイスデータの重要性が双方に理解されていないのは残念である。特にエロゲーにおいてはまだまだ、業界全体でほぼ決まった狭い範囲のメンツからキャスティングするにとどまっており、シナリオも、純粋にテキストとして書かれてきた従来の性質が残っており、「演じさせる」ことを意識して書かれたものがない。ここに着目するプロデューサー、および脚本家の登場が待たれるところである。
私としては、これからのゲームの鍵を握るのは、音声をどう扱うかというポイントである、と声を大にして訴えたい。
甚だしく脱線したが、同級生の話に戻る。
98版には、もちろん、音声はない。OVAでは、美沙のこおろぎさとみ以外、特筆すべき点はなかった(ある意味ではさとみの高田由美、健二の速水奨、喫茶店マスターの玄田哲章などは注目に値するが)。ラジオドラマについては省くが、セガサターン版の『同級生if』では、美沙:こおろぎさとみ、よしこ先生:井上喜久子、舞:國府田マリ子、美穂:丹下桜、といった瞠目すべき超弩級の豪華キャストが実現した。むろん、18禁・15禁と一般向き作品の違いはあるにせよ、発売元のNECインターチャネルのプロデュース力の凄さというべきであろう(閑話:男性キャラにも一哉:古川登志夫、健二:古谷徹、マタロウ:千葉繁という異常な豪華キャストが配された。ヒロイン以上だぞ、こりゃ)。
このような経緯を踏まえた上でWindows版の『同級生』がフルボイス、と報じられれば、いらぬ期待をするなという方がムリというものである。ここまで全メディア制覇の美沙=こおろぎさとみは多分、大丈夫だ。高田由美も、おそらく入ってくるだろう。そのくらいか…、いや、井上喜久子も18禁出演経験はあるし、最近でもノークレジットとはいえ某ゲームに(以下略)など、さまざまな憶測が飛び交った。
私としては本来、最低限、美沙がこおろぎさとみならOKなのだが、多少、欲をかいて、できればよしこ先生は井上喜久子で、などと期待したのがいけなかった。そのあたりの実状が確認できなかったので、つい買いそびれていたのである。
以上、書いてみると、我ながら薄弱な理由だ。やはり買うべくして買ったということなのだろう。ちなみにキャストは美沙:こおろぎさとみ。高田由美はさとみではなく、田町ひろみだった。あとは全滅。さとみは川上とも子にちょっと似てる感じがするが、まぁ違うだろう。他にも名前を知ってる声優がいるのかもしれないが、今のところ聞いた限りではわからない。
ちなみに私の好きなキャラは(敬称略)、美沙、ちはる、よしこ先生、さとみ、といったところ。かおり、ひろみ、舞、麗子、亜子、なんかも、まあ、よし。夏子、真子先生、美穂、くるみ、やよい、あたりにはあまり思い入れがない。以上、だいたい下降順。誰も訊いてないが、一応お約束ということで。
肝心のゲーム内容について全然書いてないが、今回はここまでにしておく。
12/18 ノベライゼーション
OVA『機動戦士ガンダム0083』は、ガンダムファンの間でもわりと評価の高い作品だと思われる――極めて曖昧な表現だが仕方ない。この作品の悪口というと、ヒロインのニナ・パープルトンに関することくらいしか聞かない。…他が良い分ヒロインに対する風当たりが強いのも確かなようだ。
概ね好評な『0083』だが、実は私はあまり好きではない。理由は、小説版を読んでしまったからである。断言するが、小説版を読んだあとでこのOVAを見ると、つまらなくて観ちゃいられないのだ。話の辻褄が合わない点はまあ措くとしても、ジオン軍人をカッコ良く描いたという点も小説に比べれば全く物足りない。今西隆志という監督は、まあ無難にまとめる力はあるにせよ、どうもケレン味に欠けるようだ。そしてそれこそ、この作品に必須のものだったのではないかと思う。
また、この物語の本質的な暗さ、重苦しさを描写する場面が、OVAでは明らかに恣意的に省かれている。これは演出の欺瞞であり、小説版は、鮮やかにそれを指摘する。例を挙げよう。
コロニー落下阻止に失敗したバスク・オムは、ソーラ・システムを再度照射して友軍もろとも敵艦隊を殲滅せんとする。それを見守るしかないアルビオン、エイパー・シナプス艦長。
「バスク・オム!」
望遠モニターに投影された、第1軌道艦隊の姿を睨み据える。
「貴様らのしたこと、決して忘れん!」
同じく、コウ・ウラキは、
――誰が味方だ。何を信じて戦えばいい!
地球連邦軍。もう二度と、そこに戻るつもりはない。コウは襟首の階級章を引き剥がした。
結局、コウは軍を離れない。離れられないのであり、これは彼が軍に敗北したことをハッキリと示す事実だ。この作品の暗さは、『Zガンダム』の得体の知れぬ、救いようのない暗さとは違う。ティターンズ台頭の過程というサイドストーリーの伏在による、歴史を背景とした重苦しさなのである。それをハッピーエンドに見せかけようというラストシーンは欺瞞でしかなく、全くチグハグなものである。
まあ、『0083』については他日あらためて論じるので、異論のある方はそれまで待っていただきたい。って、ここまで書いちまっちゃ誰も納得しないよな。
しかし、今回はノベライズの話なのである。
アニメでも、ゲームでも、その他のメディアからでも、ノベライズされる作品は最近多い。しかし、その意義はどこにあると考えられているのかというと、特にないらしい。どこの馬の骨とも知れぬライターに書かせて、「ゲームをプレーした(アニメを観た)人も楽しめるように」ストーリーを変えて小説化されることも多い。否、編集方針としてそれが一般的なようだ。ではそれが付加価値になるのかというと、なるはずもない。もちろん、最低限、面白ければ文句はないのだが、それだけならその作品のノベライズである必要はないではないか。結局、これらのノベライズ作品は、元の作品のファンが半ばコレクターズアイテムとして渋々買う、という程度の存在意義しか持っていない。
そもそも、元のゲームなりアニメなりの、ストーリーの核心となる部分を変更してしまう神経が、私には全く理解できない。特に推理モノのノベライズにおいては必ずと言っていいほど犯人が元の作品とは違う人物になっているのは、信じがたいが事実である。
アニメーションならば、必ずしも完成した作品に全て表れるとは限らない、脚本の意図を再確認する意味合い。また、条件に従ってイベントが発生することによってストーリーが進行していくタイプのゲームの場合、プレーによってはシナリオが意図した展開にならないこともある。この場合も同様。主人公の視点からの描写という制約を無くすことによる再構成。その作品のノベライズであることの意義はいくらでも考えられるのに、なぜ元の作品を変えることによってしか商品化できないのだろう。
『ガンダム』のノベライズは、それなりの佳作が揃っている。『Vガンダム』までのTVシリーズ(遠藤明範の『ZZ』を除く。これについてはノーコメント)、劇場版『逆襲のシャア』、『F91』(そして小説オリジナル『閃光のハサウェイ』)は、富野監督自身によるノベライズ。監督によるノベライズはそれだけで価値があると言って良い、と私は考える。映像作家が書いた小説、というだけでエキサイティングではないか。しかも自分の映像作品を小説にしようというのだ。しかし、まぁその点を抜きにしても、軍隊の描写はアニメの限界ないし制約を軽々と超えているし、いわゆる設定マニアの類を嫌う富野監督ではあるが、その付加的な価値についてはごくまっとうに理解しており、映像を補完する意味で小説には巧く活用している。文章家として日本語表現にかなり難があるのは事実だが、作家としての資質は並の脚本家以上にあると思う。いや、マジで。
OVAシリーズに関してはどうか。『0080』は、シリーズ構成を担当した結城恭介がノベライズ。作家としては『ヴァージンナイト・オルレアン』などといういかがわしい小説(未読)を書いている彼だが、このノベライズはよくまとまった佳作である。そもそも『0080』は、脚本が山賀博之だけに(笑)、非常に地味でイイ話なのだが、一話毎に戦闘シーンを入れるという制約のためにアニメとしてはかなり破綻している部分がある。そのあたりをフォローして、きっちり一本の話に仕上げたのは良し。誰の手柄か知らないが、セリフ回しも小説版の方がセンスがいいようだ。シュタイナー大尉の口癖は「返事が不明瞭な奴は特務ではやっていけんぞ」というものだが、アニメでは「ハッキリせん奴は死ぬぞ」と、その効果が殆ど失われてしまっている。これはほんの一例。また、ラストに仕掛けが施してあるのは、まあ賛否両論だろう。私としては許容したい。
そして『0083』のノベライズは山口宏。実は私はノベライズの名手として彼に大いに注目している。雑誌編集者からゲームデザイン、シナリオライターをこなす多才な人物だが、小説はこれが二作目と知って驚いた。デビューは『野性時代』誌だそうだから、サイバーコミックス創刊号に書いた『トップガンダム』という小説は数に入っていないらしい(笑)。要するにもともとそういう人だったわけだ。最近ではアニメ作品に「ベースプランニング」などというクレジットで参加していることもある。
そもそも彼はあとがきにこう記しているが、全く同感である。すなわち――「何より僕は、『0083』というアニメ作品にスタッフとして関わっていません。そのような人間が、安易に内容を改変することは、許されないと考えたからです。」――正論である。なぜ、こう考えられないのかと思う。しかし、これは私がノベライゼーションの最低条件と考えていることにすぎないのであって、特に山口宏に注目する理由ではない。
山口宏は、ノベライズのツボというものを実によく押さえているのである。『0083』がフロックでなかった証拠に、その後『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社ジャンプJブックス刊)、『ジャイアントロボ』(角川スニーカー文庫刊)など、およそ小説化して面白くなると思えない作品のノベライズを次々と成功させている。前掲『0083』のあとがきに、彼はこうも書いている。「小説としての特徴を最大限に生かし、各種設定、メカニズム、心理背景の描写に全力を注ぎ、映像本編との相互補完が可能なようにまとめあげた」…これぞ、ノベライゼーション。しかし、さらに彼の、並のライターなら設定のフォローで終わってしまうところを、『ジョジョ』における、スタンドを肉体に収める際の感覚の描写。『ジャイアントロボ』では「BF団・血の盟約」といった設定描写の挿入。またケレン味溢れる描写を活かすための、講談調の文体の採用など、原作のノリを再現する絶妙のサジ加減こそが彼ならではの部分であり、他人がヘタに真似すればぶち壊しかねないところである。…紹介はこのくらいにしておくので、あとは是非、実際に読んでいただきたい。
例外はあるが、私は脚本家によるノベライズなら大抵は読むことにしている(元の作品を観たうえで興味がある場合だ、もちろん)。機動警察パトレイバーの劇場版第一作は、『風速40メートル』というタイトルで脚本の伊藤和典がノベライズしている、というより、殆ど脚本そのままである。これは、脚本の意図があらためて確認できる好例である。
たとえば、方舟の中央制御室から各ブロックをパージしつつ、アルフォンスで野明を、人のいる疑いのあるサブ・コントロールに向かわせる場面。進士が「せめて、通過したブロックを一気にパージした方が…」、遊馬は「大丈夫、開放系のブロックを優先的にパージすれば、相当、共鳴効果を減殺できるはずだ」と返す。セリフは映画と同じであるが、その後に説明が入る。『進士はそういうことを言いたかったのではない。アルフォンスがそのブロックにいるうちにパージプログラムを起動するやり方は、野明にとってリスクが大きすぎるのではないか、』このくらいは映画を観て読みとらなければならないのかもしれないが、初めて読んだ時私は不覚にも、なるほど、と思ってしまった。いずれにせよ、確認にはなる。
「脚本家のノベライズ」自体が面白いこともある。横手美智子という、私の好きな脚本家がいる。伊藤和典の一番弟子というふれこみで、パトレイバーTV版(『太田、惑いの午後』というエピソード)でデビュー、最近では『カウボーイビバップ』などに参加している人物だが、その昔、パトレイバーの小説を何冊か書いた。全てオリジナルの話だが、キャラクター一人一人に焦点を当てて掘り下げる手法がいかにも脚本家的で、興味深い。小説らしい描写とはいえないかもしれないが、なかなか奥行きのある佳作である。
とりあえずこんなところだろうか。あとは押井守によるパトレイバー2のノベライズ『TOKYO WAR』を読んどけ、とだけ付け加えておこう。
12/3 CDの話
オリジナルのオーディオCDを編集して焼くのに凝っている。世の中ではMDがずいぶん普及したようだが、私はプレイヤーを持っていないし、欲しくもない。単位時間あたりの情報量はCDの1/5だなどとテンからバカにしている。今まで容量に余裕があるのに任せてCD何枚分ものWAVEファイルをHDに入れっぱなしで聞いていたのだが、「ハードディスクレコーディング」という概念がいよいよ戯言ではなくなったのだな、と感じる。MP3も最近やっと試してみたが、どうもなじめない。さすがにモロ「生」データのWAVE形式は馬鹿らしいのでデータを数学的に可逆圧縮するのは納得できるが(「レコーダー」形式の簡易プレイヤーにはできない芸当だ)、あまり上下の音域をチョン切ってまでコンパクト化するのは感心しない。まぁ、これも程度の問題で、そのうちアナログレコードにこだわるマニアみたいな立場になってしまうのだろう。データ形式の規格を変えても簡単に対応できるのが、専用ハードを使わないことの強みでもある。扱う情報量の増加によってパソコンという機械の汎用性が現実に利用できるレベルになってきた一つの好例である。そういえば、着メロがMIDI形式に対応した携帯電話が遂に登場したらしいが、これこそ私の待っていた物だ。いずれは、あらゆる機械のインターフェースがパソコンに接続できるような標準規格になるだろう。
閑話休題、CDである。オーディオCDからWAVEデータをデジタルに抜き出して、そのままCD−Rに焼く。この場合、読み書きするのは全てデジタルデータであるから、劣化は理論上一切ない。ところが、オーディオCDに対するOSを介したアクセスは、「指定したトラックを演奏する」というレベルのものしかないため、これを利用したコピーは「CDを演奏しつつ、その音を録音する」という仕組みになる。この場合、一度サウンドボードを介している分、音質は劣化する。ライン入力その他の音源から録音する場合と原理的に変わりないのである(演奏して録音するという過程で劣化が生じるが、情報量は減っていないのが面白いところだ)。せっかくCDというデジタルなデータがあるのにこれではバカらしいので、直接(Windowsを介さず、いわゆる「ハードを叩く」)ドライブにアクセスして、トラックのデジタルデータを読む、という作業を行う。まず、そのためのソフトが対応しているドライブでなくてはならない。トラックをベタ読みで抜き出し、WAVファイルに落とす。繰り返すが、これはサウンドボードで演奏してWAVにレコーディングするのとは全く違う。あくまでデジタルデータとして読み出すのだ。こうして生成したデータをCD−Rに書き込むことにより、完全にオリジナルの音質でオーディオCDを自由に編集できるようになった。遂にこの時代が来た、というところである。
また話がそれた。
今、編集しているのが、ガンダムの主題歌集である。はるか昔(1987年)、キングレコードより『ガンダム シングルスヒストリー』というアルバムが発売された。文字通りガンダム関係のシングルレコードの曲を集めたCDだったのだが、これには『ZZ』までのシリーズの曲が収録されていた。それから幾星霜、今年になって突然(むろん20周年だが)、『シングルスヒストリーU』、『〜V』と称するアルバムが同時に発売された。発売元は当然ながら、いずれもキングレコード。そこが問題だった。
『U』にはOVA『0080』のOP・ED、『V』のOP、『Gガンダム』のOP・挿入歌、劇場版『F91』の主題歌・挿入歌、ボーナストラックとして『いまはおやすみ』の間奏セリフなしバージョン、『永遠にアムロ』の戸田恵子バージョンが収録されている(このあたりはかなりレア)。同じく『V』には『ガンダムW』のTV版OP、ラジオドラマ版主題歌・OVA版(『ENDLESS WALTZ』)主題歌・劇場版主題歌、『ガンダムX』OP、OVA『第08MS小隊』OP・ED・挿入歌・劇場版主題歌、ボーナストラックは『Z』関係の曲、という構成。
お気づきかもしれないが、この二枚には『Vガンダム』、『Gガンダム』、『ガンダムW』のEDが収録されていない他、OVA『0083』に至っては影も形もない。わざわざ二枚に分けて出した割には手落ちというべきではないか。
実はこれらは、レコード会社が原因だった。上記の収録されていない曲に関して、前三者のEDは発売元がアポロンレコード、『0083』はビクターだったのだ。話がこういうレベルになってしまっては、プロデュースの問題だから仕方ないという他ないのかもしれないが、仮にも20周年記念のテコ入れ事業として出すのなら、何とか権利問題を調整して完全収録して欲しかったものである。プレイステーション版ゲーム『逆襲のシャア』のEDではオリジナルサイズの『BEYOND THE TIME』を使っているというのに。このコダワリを見習ってもらいたいものだ。TMネットワークに比べれば他の曲の権利などゴミみたいなものだろうに(暴言)。
ともあれ、他はともかく『Vガンダム』のEDくらいは欲しいと(個人的に)思った私は、それぞれのCDを探してきて1枚にまとめようと考えた。そこでアポロンレコードの『ガンダムエンディングテーマコレクション』なるアルバムを借りてきたのだが、これがヒドイ。本当に前述3作品のED計5曲を突っ込んだだけのミニアルバムで、ふた昔ほど前のアニメ関係のサントラを思わせるダサいデザイン、ジャケットもそれぞれの主人公機のセル画を並べただけという超手抜きプロデュースである。営業が必死になってとりあえずタイアップを取ってきたが、制作は全くやる気がない、という体制がハッキリと商品に表れている。だからダメなんだよアポロンレコード!!いや知らんけど。
仕方ないのでとりあえずコレと、『0083』関係がやたらある中からサウンドトラックボックスという二枚組を借りてくる。さて、『U』、『V』およびこれらの計5枚から編集するわけだが、全ての曲を収録したいわけではなく、一枚に入る範囲で編集しようと考えた。というより、最初から切り捨てるものは大体決まっている。
なるべくガンダム以外のものは入れたくないので(こういうことを書くから原理主義者とか呼ばれるのだが)、まず『Gガンダム』、『ガンダムW』、『ガンダムX』は全却下(曲としては惜しむべきものもあるが)。ボーナストラック系も特に聞くべきものはなし。問題は『0083』だ。やたらボーカル曲があるが、なにしろ思い入れがないのでどれがどの曲でどこで使われたのかさっぱりわからない。好みで言えば『THE WINNER』だけでいいところだが、それでは構成上美しくない。OP・EDに使われた曲のみというのがまあ無難なところか、しかし『THE WINNER』の英詞バージョン『BACK TO PARADISE』も捨てがたい(この曲は第一話冒頭のシーンで使われているのを確認した)。などとやっていたが、基本的には『逆襲のシャア』以降に制作されたシリーズについて、作中時間の時代順に並べるイメージで構成する。大体、以下の通り。
いつか空に届いて (OVA『0080』OP)
遠い記憶 (同ED)
嵐の中で輝いて (OVA『第08MS小隊』OP)
10 YEARS AFTER (同ED)
未来の二人に (同挿入歌)
永遠の扉 (同劇場版『ミラーズ・リポート』主題歌)
THE WINNER (OVA『0083』OP)
MEN OF DESTINY (同)
MAGIC (同ED)
ETERNAL WIND 〜ほほえみは光る風の中〜 (劇場版『F91』主題歌)
STAND UP TO THE VICTORY 〜トゥ・ザ・ヴィクトリー〜 (『Vガンダム』OP)
Don’t Stop! Carry On! (同)
WINNERS FOREVER ―勝利者よ― (同ED)
もう一度TENDERNESS (同)
これでほぼ70分になるはずである。ちなみに、現在主流である650MBのCD−Rメディアにはオーディオトラックは最大74分までしか収録できない。ところが、市販のオーディオCDには80分近い収録時間のものもあり、以前は焼くことができなかった。最近、ようやくにして700MB/80分対応のメディアが出始めてこの問題は解決した。逆に30分足らずのCDなどは2枚分を1枚に収録などという荒技もやったものだ。
みたび閑話休題、上記リストのうち、『0083』に関しては前述の通りどの曲がEDやらよくわからないので、一、二曲の増減があるかもしれない。『F91』の挿入歌「君を見つめて」(森口博子)も、いつ使われたのかさっぱり分からないが曲は好きなので入れたいところ。しかし余裕がないのでこれはムリか。さらに大きな問題だが、F91の前に『逆襲のシャア』の「BEYOND THE TIME」を入れるべきか否か迷っている。理屈から言えば入るべきなのだが、長い曲だしバランス的に難しいところだ。おまけに逆シャアのサントラは現在手元にないし、あるはずのTMNの『CAROL』も見つからないという有様。ひとまず保留。
そんなこんなでまだ焼いてはいないが、こんな風にあるコンセプトで構成するも良し、好きな曲だけ詰め込むも良し、CDを編集するのが楽しくて仕方ないのである。もちろん、焼いたあとは聞きまくるのであった。何しろ自分で選んだ曲ばっかりなんだから。
余談:
そもそもCD−ROMという呼称がおかしい。ROMとはRead Only Memoryの略で、Mは無論メモリーのことである。メモリーというのは広義には「記憶装置」のことだから内部記憶装置、外部記憶装置の両方を指す。しかし、通常「メモリー」といった場合、内部記憶装置、すなわちCPUが直接アクセスできる範囲の記憶装置を指すのが、長い間常識だった。ところが、今さら出てきたCD−ROMというのは外部記憶装置であるにもかかわらず「ROM」の名を冠している。どうしても違和感を覚えるのは私だけだろうか。CD−Rに書き込みを行うのを「焼く」と称するのも、ROMを焼く、という古い隠語から来ているのだが、CDをプレスする工程とは全く異なるとはいえ、これをCD−Rに援用するのは疑問だ。まあ、言葉とはそうしたものだろう。私も使っているし。
11/16 本
本屋へ行って、文庫本を3冊買うつもりが、8冊も買ってしまった。
「そのうち買う予定の本」のリストは常に頭の中にあり、どんどん追加され続けているので、実際に買う分が追いつくどころではない(読む方はさらに遅れている)。別の本を読んでいたり調べ物をしていて、急に「やはりあの本が必要だ!」と思い立って買いに行くパターンが多いが、いつも書店で眺めては購入を見送っていた本を、ある時ちょっと手に取ったら、突然、「なぜ今まで買わなかったのか?」という気分が高じて、その瞬間風速がある値を超えると買ってしまうこともある。元々買う予定はあったのだが、これも一種の衝動買いだろうか。
ともかく、ある本を買いに行き、予定外の本を一、二冊ついでに買ってしまうのは私にとって当たり前で、止めるに止められぬ習慣なのである。財布の中に一万円札があったりすると後先考えずやってしまうのだが、今回はさすがに度が過ぎた。文庫8冊5000円也。
8冊をレジに持って行きながら、カバーの事を考える。文庫本にはカバーを掛けてもらう主義だが、一度に多く買いすぎると時間がかかってこちらも居心地が悪い。少し後悔したが、まあ、幸いレジは空いているからいいか。レジ係の店員は「カバーいかがなさいますか?」と聞いてくる。「あ、お願いします」とかなんとか答える――つい頭の中でシミュレートしてしまうたちなのだ。実際、その書店ではいつも同じことを聞いてくるし、私も同じフレーズで答えることにしている。
ところが、レジの女の子はこう言った。「カバーお掛けするものはございますか?」
予想外の言葉である。同じだろう、と思われるかもしれない。しかし私は、“まさか全部じゃあるまい?”というニュアンスをそこに読みとった。書店店員というものはこのようなレトリックに極めて長けている。一冊だけ買う場合、彼らは何も聞かずにカバーを掛けてくれるのが常である。複数冊の場合、「カバーはいかがなさいますか?」だ。そして、「カバーをお掛けするものございますか?」と言われるのは、文庫と新書、ハードカバー、雑誌など複数種類の本を一緒に買う場合だ、と私は今まで思っていた。私自身が、文庫のみカバー、という習慣だったせいかもしれない。それが違ったのである。このフレーズは、単に冊数が多い場合にお伺いを立てる、微妙な駆け引きを含んだセリフだったのだ。
私は完全に虚を突かれた。「カバーはいかがなさいますか?」なら「お願いします」で問題ない。慣れてもいる。ところが、「カバーお掛けするものはございますか?」と聞かれた場合、こちらがより能動的に、コレとコレにカバーを掛けてくれ、と指定しなければならない。全部、とはなかなか言いづらい。
私が逡巡していると、「いいですか?」と聞かれたので、思わず「はい」と答えてしまった。しまった。結果、カバー無し。私は激しく後悔した。後ろにはまだ誰も並んでないし、レジにもう一人助っ人の店員も来ていた。「全部」って言えばよかった…。
なぜ、私がそれほどカバーにこだわるのか、それを明かさねばなるまい。といって、必ずしも論理的な理由でもないが。いくつかあるが、強いて挙げるなら凝ったデザインよりシンプルなカバーが並んでいる方が落ち着く、とか、帯やカバーが外れないように、というのが主たるところだろうか。書店カバーは大抵地味な色をしているし、袋状になっているのでズレたりしない。もちろん、本を汚さないという目的もある(環境保護がブームだった頃、資源節約のために書店カバーを自粛しろ、という声に対して、書店カバーは本を大切にしようという心の表れだ、それをやめろとは何事か、と反論するというバカバカしい議論が持ち上がったのを思い出す)。外で読むときはあまり他人に表紙を見られたくない、というのも一つ。
総じて気分的な理由なのはおわかりいただけただろう。理屈屋の私ではあるが、時にはこっちが優先されることもある。まず、当然ながら馴染みの書店を利用することが多いので、同じカバーの文庫本が氾濫して、いちいち開かなければ中身がわからないのが非常に不便だ、という問題が起きた。整理が悪いのでなおさらである(よく読む本は厚さ、カバーの傷み方や汚れなどで見分けがつくが、さすがに蔵書全てがそういうわけにはいかない)。そこである時、部屋中の本のカバーに片っ端から書名を記入した。カバーを取っ払った方が速いのは自明だが、それは「イヤだった」のだ。蔵書の確認にもなったのはよかったが、しんどい作業ではあった。それ以来、買ってくるとすぐにカバー表紙に書名を書くことにしている。それでも、本棚に並んでいる分(ごく一部だが)に関しては、背表紙のタイトルがないので、ちょっと抜き出して表紙をチェックしなければならない。これはこれで不便だが、再び全ての本の背表紙にタイトルを記入する気には、今のところなれないのだった。
新書やマンガ単行本にはカバーはつけない。新書はもともと全部同じ装幀だし(いわゆるノベルスには付ける)、マンガは表紙も含めて作品だから、見えなければ仕方がない――、と強いて理屈を言えばこうだが、実際はこれも気分の問題である。前述のように一冊だけ買うと何も言わないうちにカバーが付いてくるので、わざわざ外したりしている。文庫と一緒に買う場合は「文庫だけ」である。ただ、これも外出時に持って出て読む場合は外してあったカバーをその時だけ付けたりしている。要するにそういう心理的な習慣なのだ。
文庫を買うときでも、カバーをしてくれない本屋や、今回のようにもらい損ねることもある。その場合どうするか?以前は仕方ないのでそのままにしてあったが、最近、なぜか部屋にあったB4のカラーコピー用紙(私の部屋には用途不明の所持品が多いとよく指摘されるが、このように思わぬ時に役立つこともあるのだ)を折って自前のカバーを作っている。色はライトグリーン。折るのは手間だが、これがいたく気に入っているので苦にならない。シンプル・イズ・ベストだ。出来合いのカバーを売っているものもあるが、半端な数を買っても追いつかないし、こちらのほうが安上がりだ。というわけで、今日も私は8枚の色紙をせっせと折ったのであった。
11/12 吹き替えと字幕
無謀にも、映画のことを書いてみる。
『インディー・ジョーンズ』のシリーズでは、第三作『最後の聖戦』が好きだ、などというと、大抵の人にアホじゃないのかと言われる。この三作目だけ別物扱いで酷評する人もいる。以前はムキになって反論したものだが、最近、もういちど観なおしたところ、あらら、と思った。全体として、盛り上がらないことおびただしい。確かに、映画としては見劣りするね、認めよう。しかし、私がどうしてこの映画が好きなのかは改めて確認できた。コメディなのだ。私にとってこの映画のキモは、主にショーン・コネリー扮する父親とインディの絡みからくる面白さだったのだ(余談だが、私はずっとこの父親の名はインディアナ・ジョーンズ・シニアだと思っていたのだが、実際にはヘンリーだった。なぜだろう?やはり「ジュニア」という呼びかけのせいだろうか。犬の名前というオチはちゃんと覚えてたのだが)。密林探検ものが生理的に好きではないという理由もあるけど。
ナチスの基地で捕まったインディ父子が、椅子に座った姿勢で背中合わせに縛り付けられる。インディが父親にポケットのライターを取らせて、後ろ手に縛られたロープを燃やして切ろうとする。ところがヘンリーは「熱っ!」と思わず火のついたオイルライターを床に投げ捨ててしまう。床の絨毯が燃え上がるが、後ろ向きのインディには見えない。火が燃え広がるのを見ながら、ヘンリーが「話がある…」「何?」「床が燃えてる」
また、ナチスの士官に変装して党大会に紛れ込んだインディだが、熱狂した参加者に押し流されて通路に出てしまう。見ると目の前にアドルフ・ヒトラーが立っている。手帳を手に呆然と立っているインディ。その手帳こそ、関係者が奪い合っていた、聖杯探索の手がかりが記された手帳なのだ。ヒトラーは無表情にその手帳を手に取ると、白紙のページにサインして返した。
その後、旅客飛行船に乗って辛くもドイツを脱出しようとした親子だが、離陸寸前にナチスの査察が入る。チケットをチェックする乗務員に化けたが発見されそうになったインディは、もみ合ううちに相手を窓から放り出してしまう。唖然として見つめる乗客達にインディは苦し紛れに「タダ乗りだ」。乗客は先を争ってチケットを提示した。
こうして無事離陸したのも束の間、地上から通信が入って、飛行船は国境近くでUターン。それに気づいたインディ親子は非常用の小型飛行機で脱出するが、ナチスの戦闘機が追撃してくる。後ろにつかれたインディは、後部座席の父親に、機銃で応戦するように言う。ヘンリーは後ろに向けて機銃を掃射するが、銃の反動に振り回されて自機の尾翼を撃ちまくり蜂の巣にしてしまう。「撃たれたのか!?」とインディ。ヘンリーは、「…まあな」。
他にも、父子で同じ女(もちろん敵側の美人スパイ)と寝ていた、というお約束のシチュエーションもあるし(このシーンはヘンリー役がショーン・コネリーに決まってから追加された、という説があるが、出来過ぎのような気もする)。また、断崖から転落して死んだと思ったインディが生きていた、というシーンなど、殆どバック・トゥ・ザ・フューチャーである。そう、この『最後の聖戦』はスピルバーク節が全開のコメディ映画だったのだ。
インディ・ジョーンズだけでこんなに書くつもりはなかったのだが、つい芸もなく書き連ねてしまった。一ヶ所でも面白そうと思ってしまった人は、機会があれば観てほしい。観た人はもう一度。そう、私は好きな映画はしつこく観るたちで、もちろん、好きな映画を一度しか観ないという人はいないだろうが、ヒマさえあればビデオで観ている。ビデオで観ることに何の抵抗もないので、劇場に行くことがあまりない。以前にも「映画はビデオで観ろ!」などとブチあげたが、その考えは基本的に変わっていない。
しかし考えてみると、実はこの『最後の聖戦』は私が劇場で観た少ない映画のひとつであり、そのことも印象に残っている一因かもしれない。…とややフォロー。
インディ・ジョーンズついでにもう一つだけ書いておく。このシリーズの第四作の企画があったのだが、ハリソン・フォードが出演を断ったために流れたという話を聞いたことがある。「一つのキャラクターにイメージが定着してしまうのを避けたい」と本人が言ってるのをどこかで読んだが、役に愛着がないのかなぁ、と残念に思ったものだった。ところが、別の説もある。大御所ショーン・コネリーと共演したハリソン・フォードがビビッて下りてしまった、というのだ。次回作も当然、ヘンリーの登場が考えられ、私ももちろんそれを期待していたのだから、真偽は不明だが、どちらにせよ残念な話である。ちなみに、この企画はゲームという形で日の目を見た。『アトランティスの秘密』というようなタイトルだったと思うが、日本ではFMタウンズ版で発売された。…その末路のあまりの凋落ぶりに、私は涙を禁じ得なかったものである。
チラッと書いたが、私はバック・トゥ・ザ・フューチャーも大好きである。こちらもシリーズ三部作があるが、やはりTが最高で、とりわけUはダメ、というのが定評のようだ。T、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』について前述のインディ・ジョーンズのように語り出すと、キリがない。「すべてのセリフが何らかの伏線になっているという、恐るべき映画」と、とり・みきも言っているが、本気でそれだけを書いて一つにまとめてみようかと思うくらいだ。
『ラヂオの時間』のLDには、副音声で監督・三谷幸喜全編を解説するというオマケが付いている。蛇足という向きもあろうが、ソフト化するんだったらそれくらいの特典が付いていてもいいなと思うのだ。ノーカットやノートリミングが売りになる時代は終わった。私が思うのは、なぜ日本語吹き替え版を別のソフトとして出すのかということだ。字幕が邪魔になるという人はまさかいるまいし、吹き替えを副音声として入れておけばいいではないか。DVDのソフトでは、吹き替えの副音声はもちろん、日・英二カ国語の字幕がインポーズで切り替えられるものがあるようだ。ハード側の規格とも関係するのだろうけど、詳しくは知らない。
さて、「日本語吹き替え」を忌み嫌う人も多い。吹き替えで観ようなどというのはトーシロだ、という風潮である。しかし、私はTVで吹き替え(二ヶ国語放送)の映画を観る場合は(そもそも常にヘッドフォンなので)、片方を主音声(吹き替え)、片方を副音声(原語)にして観ている。これなら役者の演技も損なわれない。せめてビデオでもこれができるようになればと思うのだ。
なぜ、吹き替えが良いのか?吹き替える声優が豪華な場合は、それ自体が楽しめる。山田康雄のクリント・イーストウッドは、ある意味で本人を超えたと言っていいのではないか。『続・荒野の用心棒』ではリー・バン・クリーフの納谷悟朗との掛け合いがある。『荒野の七人』ではユル・ブリンナーが小林修、ジェームス・コバーンが小林清志、スティーブ・マックイーンが内海賢二、チャールズ・ブロンソンが大塚周夫。さらには、未確認だがチコ役のホルスト・ブッフホルツという役者をアテていたのが井上真紀夫という説もある。吹き替えも超豪華キャストだ。後述するかもしれないが『グーニーズ』では、マイキーが野沢雅子、その兄が古谷徹、チャンクが坂本千夏、データが名前は忘れたが「それ行けノンタック」、女の子二人が冨永みーな・岡本麻弥、フラッテリー一家の母親がジャイアンの母ちゃん、などこれも凄いキャスティングだった。
そんなものは邪道だ、といわれるかもしれない。認めよう。しかし他にもあるのだ、吹き替えそのものの意義が。
情報量である。字幕はどうしても抄訳になる。原理的に単位時間あたりの字数が制限されるから、ニュアンスは失われ、極端な場合は全く訳されないセンテンスもある。ハッキリ言って私は字幕を読むのが早いので、もっと字数を増やしても情報量を優先してくれ、と思うのだが、その選択権はこっちには与えられていないのだ。残念ながら字幕無しで理解できるほどの英語力はない(もちろん英語以外も)。ところが、人一倍セリフにはこだわるたちなのだ。だから吹き替えである。これも意訳はあるが、情報量は断然多い。ニュアンスもある。エントロピーの法則である(大ウソ)。
例を挙げよう。恥ずかしい話だが、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムマシンが作動するための速度を、私は長い間「時速140キロ」だと思っていた。字幕では必ずそうなってるし、私が観た吹き替え版もそうだった。しかし、元のセリフを聞いていればわかるが、明らかに「88 miles」と言っているのがわかる。そう、「時速88マイル」なのである。これが一番典型的な例で、ヤード・ポンドからメートル法に換算されていることは多い。1マイル=約1.6キロメートルと知ってはいても、感覚的に即座には理解しづらいので、これはまあ、わかる(ただこのケースでは、デジタルの速度計の数字が上がっていくシーンが88という数字を認識していないと理解できないのが問題ではある)。妙に半端な数字が出てくるな?と思ったら大抵はコレだ。ヤードなど数字はそのままでメートルになってたりする乱暴なケースもある。少し違うが、「twenty-five times as twenty-five
thousand dollars」これを日本語にすると「25000ドルの25倍」となり面白くも何ともなくなる。
また、許し難いことに、訳の解釈が違うどころか、明らかに誤訳の場合もある。今度は『荒野の七人』を例にとる。
若僧のチコに、他の6人がガンマン渡世の虚しさを説く場面。「He has no ...,no ...,」という形で、「家族も無し、家も無し、友人も無し」とやりだすのだが、私一推しキャラ、ロバート・ヴォーン演じるリーが言う。「No enemies.」吹き替えでは、「敵も、無し」。ユル・ブリンナーのクリスが「No enemies?」―「敵も?」と聞き返すと、リーは答える、「...alive.」吹き替えは「…生きてるのは。」そう、もちろん、「No enemies alive」で、「生きてる敵はいない」の意味だ。キザ男リーの面目躍如、私の大好きなシーンである。
ところが、字幕版を観ると、この「alive」の部分がこうなっている―「今はいる」。「敵無し?」とツッコまれて、「今はいる」って、何だそりゃ。aliveをどう訳せばそうなる?こういういい加減な翻訳は、意外に多い。
本当はバック・トゥ・ザ・フューチャーの話がしたかったのだが、今日はここまで。
10/23 CAROL−K
TMN、かつてのTMネットワークの『CAROL』というアルバムがある。「ミュージカル仕立てのコンサートのサウンドトラック盤のようなもの」というコンセプトでプロデュースされ、設定された世界観やストーリーを元に小説、アニメ、ゲームにまでなった。木根尚登が小説を書く契機となった他、後の小室哲哉のプロデューサーとしての側面が垣間見えるようで興味深い一枚である。アルバムとしても、私はかなり気に入っていた。TMNの好きなアルバムというと、大抵の人は『ヒューマンシステム』や『セルフ・コントロール』あたりを挙げるようだが、私はこの『CAROL』を推していたくらいである。まあ、『Beyond The Time』や、『Still Love Her』、『Seven Days War』まで入っていたりするのは、(曲自体に不足はないにせよ)構成上のバランスが良いとは必ずしも言えないのだが。
人間の住む世界とは別にどこかに存在する闇の世界――その名を「ラ・パス・ル・パス」という。その世界を支配する魔王ジャイガンティカは、人間の世界をひそかに侵略し始めていた。彼は、人間の心の支えである音楽、またそれを愛する心、それを信じる心を憎み、嘲笑して、人間たちからあらゆる音を盗もうとしていたのである。
(以上、アルバムより)
実は私は木根尚登の書いた小説版を読んだことがあるのだが、イギリスの少女キャロル・ミュー・ダグラスが異世界に召還され、人々から音楽を奪おうとする魔王に歌の力で立ち向かう、というようなストーリー。彼女の仲間になるのが、TMNの三人をモデルにした「ガボール・スクリーン」というバンドである。
…どんなにつまらなかろうと、この手の企画が大好きな私である。CAROLのコミック版があると聞いては、黙っていない。
先日、レンタル屋で偶然『CAROL−K〜Graduater〜』なるCDを発見した。「原作・木根尚登/高河ゆん(『きみとぼく』連載/ソニー・マガジンズ刊)」と帯に書いてある。私はてっきり、これはCAROLのマンガ版のイメージアルバムだと早トチリした(まるで、ゲーム『高橋名人の冒険島』を原作にしたアニメ『Bugってハニー!』のゲーム化のような本末転倒な関係だ)。実際はそうではなく、まあ似たようなものだが、マンガ『CAROL−K』のラジオドラマのCD化であり、その『CAROL−K』なるマンガは『CAROL』の続編にあたるストーリーだという。
とにかく、帯に「キャロル役の高山みなみによる『Carol(Carol's Theme II)』を収録」という文句を見つけた私は一も二もなく借りて帰った。
高山みなみの歌はたしかに収録されていたが、曲自体も英訳詞バージョンというほかは、特別ヘタなわけでもないので(笑)面白みに欠けた。個人的には「Chase In Labyrinth」あたりが聞きたかったな。詞で「キャロル」という呼びかけがあるからキャロル自身が歌うのはおかしいのかもしれないけど、どうでもいいじゃんそんなこと。
…それこそどうでもいいことで、問題は他にあった。私は当然、ドラマの方も高山みなみ演じるキャロルが主人公だとばかり思っていたのだが、それが違ったのである。マンガ版の設定に準じているのだろう、なぜか主人公はキャロルの「孫」、品川京呼という、音楽学校へ通う日本人の女の子。…続編どころか『CAROL』とはほとんど縁もゆかりもない話になってしまっている。キャロルは「謎の人物(しかも男装の)」としてチョイ役で顔を出すだけである。むろん京呼の祖母ということは老女のはずだし、しかも亡くなっているらしいので、このキャロルは何らかの超越的な存在らしい。…なにしろドラマ自体がマンガのダイジェストのようなので、単体ではわからない部分が多すぎる。
それはまあ、よしとしよう。勝手に期待したのはこっちだし。しかしこのストーリー、誰よりも歌が大好きで、自他ともに認める歌唱力の持ち主・京呼が、その才能を妬む友人との関係に悩みながら、学園祭でのライブを成功させる、というものだが、主人公の京呼を演じるのが椎名へきる、ときては話にならない。劇中でもMCのあとイントロなしで歌い出す場面など聞いていてひっくり返りそうになった。「歌には自信がある」といったセリフもなんとかしてほしいものだ。ちなみに、劇中歌はカバーではなく、木根尚登が作詞作曲したオリジナル曲(のはず)。それはそれで貴重かもしれない。ついでに書くと、京呼とバンドを組む友人が白鳥由里、小西寛子だったり、担任の先生が根谷美智子だったり、キャストもある意味スゴイ。
…さて、以上のような体験をしたら、みなさんはどうされるだろう?しばらくしたら忘れてしまう――普通はそうだろう。私はさにあらず、こうなったらコミック版なるものが気になって仕方ない。「ソニー・マガジンズ刊」ということは単行本が出ているということではないのか?つーことで、何年でも執念深く探し、ついには目的を遂げる、…だろう、おそらく。連載していたのが意外にも最近、95〜96年らしいので、案外簡単に見つかるかもしれない、などと思ってもいるのだが。
10/4 ザッツ エンターテイメント
ストーリーテリング、という言葉を好んで使う。が、実のところ、その意味するところを精確に説明しろと云われると困る。要するに、ストーリー展開のダイナミズムで魅せるタイプの作品が好き、という陳腐な表現にならざるをえない。
映画でも、小説でも、マンガでも、アニメでも、ゲームでも、人はその作品のどこに惹かれるのだろうか?
映画ファンと呼ばれる連中は、なぜあんなに節操なく映画を観るのだろう、と思うことがある。私自身の好みはかなり偏っていて、マカロニウェスタンに凝ってみたりする一方、制作費○億ドルのハリウッドの大作アクション映画などには偏見があるし、ホラー映画は観ちゃいられないし、ラブロマンスなど薬にもしたくない。要するに「ジャンル」でかなり選んでしまう傾向が人一倍強いので、ある程度の話題作なら片っ端から、といったスタンスで劇場に足を運ぶ映画ファンの考え方には量りかねる部分がある。自分で観なければ文句も云えないからか、と意地悪く考えたりもする。無論、映画をたくさん観ることが財産になるのは身を以て知っているつもりだし、たまたま畑違いの映画でいいのを観ると、もっと観なければ、と思うのだが、なかなか二時間を費やして観る踏ん切りがつかないのだ。「〜する習慣がない」とよく表現するが、私はよくよく保守的な人間であるらしく、昨日やらなかったことを今日やろうという意欲がなかなか湧かない。たとえばTV。一度TVを見なくなると果てしなく見ない。なんとなくTVでもつけてみる、というようなことすら無くなる。「TVをつける習慣がない」ためである。そんなときちょっと面白い番組でも見つけて、よし、これから毎週見ようなどと思っても、なかなかそれができないのだった。はじめの何週か意識して見る習慣を作ってやらないとすぐ元に戻ってしまうのだ――これは誰しも、ある程度経験はあるかもしれないが、私の場合TVに限らず、かつ度を超えているのである。
話を戻そう。やや飛躍するが、映画を「ジャンル」で選ぶのでなければ、好きな映画、良い映画というのはどのように規定されるものだろうか。「映画の面白さ」に普遍的な基準はあるのだろうか。結論を言えば、あるはずがない。にも関わらず、「あの映画は“よく出来ている”」などという誉め方がある。ウェル・メイドなどという言い方も同じだろう。もっとも、well-madeという語の本来の意味は微妙に異なるようだ。よくあることだが。
ある程度の基準となるのは、脚本だろう。私もシナリオを少し勉強してみよう、などと思ったことがあるが、それは脚本というのが、ストーリーとセリフというエッセンスからなる形式であり、その二つこそ、私が興味を持っている部分に他ならなかったからだ。が、この場合のアプローチは少し異なる。映画の構成を決定する、設計図としてのシナリオである。私の注目する脚本家、伊藤和典は言った、「脚本の役割は二つ。構成とセリフ」。彼は押井守と仕事をすることが多いが、こうも言っている。多少長くなるが――
押井守の映画はシナリオにしにくい。すごくしにくい。
(中略)
人はシナリオのどこで映画のデキを判断するのか?(中略)いろいろあるけど、これらはすべて《物語》の要素という点に集約される。
《物語》は器を選ばない。映画もまた、《物語》の器のひとつである。その意味において、《物語》の面白さで映画のデキを判断する方法はけして間違っていない。ただし、映画が物語の器であることを選択した場合おいては、だ。
(中略)
そう、押井守はけして、《物語》のための映画を撮ってはいないのだ。
ここまで明晰に文章化されたものにははじめてお目にかかったので、暗愚な私はこれを読んだとき少なからず感銘を受けた。一方、押井守は、「(自分には)基本的にドラマを作ろうという欲求がない。ところが、シナリオというものはストーリーがなければ形にならない」という趣旨の発言をしている。お互いにこれがよくわかっているからこそ、長年コンビを組んでいるのだろう。
かなり脱線したが、つまり、映画をシナリオで評価するとき「構成」がひとつの基準になる、ということである。私と伊藤和典が使う「構成」と「ストーリー」という言葉のニュアンスに多少の食い違いがあるので話がややこしくなるのだが、要するにそういうことだ。映画が時間芸術であればこそ「構成」がこれほど問題にされるのであり、黒澤明は「映画に一番似ているのは音楽だ」と言ったが、人類史上最も成立が古い時間芸術の形式が音楽であれば、これも当然である。音楽における楽曲の構成こそが、「ストーリー」という言葉で表現しきれない「構成」の本質である、とも言えるかもしれない。石ノ森章太郎は、マンガこそ映画に一番近い形式だと言ったが、「時間の経過に伴う展開」という要素を持たないマンガであればこそ、同一の構図のコマの繰り返しによって「間」を表現することに彼は人一倍敏感だったのかもしれない。が、これは完全な余談。
そろそろ話を戻して、具体的な例を挙げれば、最近ではスターウォーズのエピソード1『ファントム・メナス』が、大ヒットにも関わらず評論家筋の評価が必ずしも高くなかったのは、「構成」上の評価が重視されたためだろう。しかし、スターウォーズの凄さは実際に観なければ決してわからないものである。さらに言えば、二番目のトリロジーの第一作として、エピソード4の構成を必要以上に(?)意識しているのも、不評の一因だろう。映画の構成は当然、その一本の映画全体で完結するもので、それ以上でも、それ以下でもない。極言すれば、三部作などという考え方自体が邪魔なものでしかないのだ。
しかし、少なくとも私は、特に思い入れもない映画を「脚本が良くできている」などとしたり顔で語るよりは、スターウォーズの映像はスゴイ!とか、『荒野の七人』のユル・ブリンナーはカッコイイ!とかいった興奮を大事にしたいのである。
最初の論旨と逆になったような気もするが、映画の評価は決して一元的なものではなく、一般に構成を基準とするのが主流ではあるが、私の場合「ストーリーテリング」と「カッコよさ」に偏る、という話だった。唐突に結論を提示して、ひとまず終わり。
10/1 MIDI制作中
昔、小学生の頃だが、ピアノを習っていた。5年生の時、引っ越しに伴う転校を機にしてやめてしまった。ガキにとって、まして感受性に乏しい私にとってピアノの練習は苦行でしかなかった。そして、ピアノとは、音楽に感動することなど知らないガキの頃から練習しないと満足に弾けるようにならない楽器なのだ。誰だったか、偉大な作曲家が子供の頃、ピアノの練習が苦痛で泣いてばかりいた、という逸話を読んだことがある。
「温室でしか育たない才能がある」と云ったのは誰だったか、今なら少し、理解できる。もしもピアノが弾けたなら、と(今にして)思っても遅いので、ピアノとは本質的に、ピアノが家にある環境に育ち、本人の意思によらず叩き込まれなければ弾く技術が身に付かない楽器なのだ。本人が音楽の素晴らしさ、演奏する喜びを知るのは、得てしてその後のことであり、そこに悲劇が生まれる。
ピアノを弾く技能というのは自転車に乗るのと同じで、一度覚えたら忘れないものだ、と思っている人も世間にはいるようだが、それは嘘である。私とて数年間、教師に就いて習い、小規模ながらホールを借りての発表会で稚拙な演奏を披露したことがある程度には、当時は弾いたものだ。ところが現在ではどうかというと、右手と左手で同時に別のフレーズを弾いていたなど、自分でも信じられないくらいである。右手の練習、左手の練習、じゃあ次は両手合わせて、などと何の疑いも抱かずにやってたのだから、子供の学習能力というものは恐ろしい。あるいは更にあと何年か、練習を続けていれば、自転車に乗ることのように身についたのかもしれないが、現在の私は殆ど素人以下、初めて鍵盤に触った頃の方がまだ弾けただろうと思われるくらいで、ブランクなどという生やさしい段階ではない。いつかショパンの『英雄ポロネーズ』を弾けるようになりたいものだと思うが、今からでは必死の努力を続けたとしても不可能だろう。そういうものだ。ピアノを習ったことが現在に活きているのは、楽譜がちゃんと読めるようになったこと、音感が多少は鍛えられたであろうこと、くらいか。
で、このあとが本題。
某友人の影響で、MIDIに凝っている。…というのは実は正確ではなく、『音楽ツクール95+』など自分で買って持っていたりする私である。ツクールシリーズは素人臭さが好きになれないのだが、単に一番安いシーケンスソフトがこれだったというだけの理由で買った。…本当はせめて40鍵はあるキーボードと外部音源も欲しかったのだが。入力用キーボードのためにインターフェースだけでも欲しい。
MIDI音源というのは、昔は高嶺の花だった。なんかMIDI音源ってバカ高いけどスゲーいい音するらしいよ、ってな感じだった。当時はソフトウェアMIDIなどという馬鹿げたものもない。98のゲームでBGMがMIDI音源に対応していると(銀英伝Wとか)、それだけで高級感漂っていたものである。だから当時はFM音源でシーケンスをやっていた。グラフィカルなユーザーインターフェースのシーケンスソフトなどあるはずがない。楽譜代わりにMML(Macro Music Languageだと思う。MIDIでも似たような(同じ?)ものがある)という高級言語(!)で曲データを記述してコンパイルする、というシロモノだった。携帯の着メロに近い、かもしれない。
そんなわけで、昔のリベンジというわけではないが、MIDIデータを作るのに凝っている。しかし、元々移り気な私。今回もたちまち悪い癖を出して、完成するまで一曲に取り組むことができない。もともとミュージシャンでもないのに耳コピできるほど鋭敏な聴覚を持ってるわけない。それどころか、手元にあるバンド譜の打ち込みすら途中で飽きる。曲の途中でシンセの音色変えるな!ってな具合。そんなわけで、現在なんとおよそ15曲、制作中の曲がある。打ち込んだあとのミキシングのことも考えると、いつできるものやら見当もつかない。
と、いうわけで、作りかけの曲を公開するという暴挙に出る。むろん、私の流儀に反するのだが、膨大な時間と労力を費やして、何も形になっていないと感じるのは精神衛生上もよくないので、何でもよいから公開して一区切り付けたい気分なのだ。で、あるから、気分次第ではすぐに抹消してしまうかもしれない。仮コンテンツにしてあるのでメインメニューから聴きに行って下さい。…ってなわけで。
9/12 秋葉原電脳組
各所に書いている通り、昔から私は、投げ売りされているクソゲーを買ってきてプレーするのが大好きである。5000円でそこそこ面白いゲームより、1000円でそこそこ笑えるゲームのほうがお買い得と感じてしまうのは、たぶん貧乏性のせいだけではあるまい。一昔前は、数百円で買えるファミコンのクソゲー、それから、スーファミはただつまらんだけのゲームが多くしかも安くならないのであまり買わなかったが、CD−ROM媒体になってからはロット生産のため価格もよく落ちる(笑)。大体2000円以下というのを一つの基準にして買い叩いている次第。
そんな私が最近凝り始めたのが、クソアニメLDである。1巻30分のものなら、ヘタするとこれも2000円を切る。中古ならなおさらだ。投げ売りセールを覗くと実に心惹かれるモノがある。先日もまた秋葉原で、『ダーティペアF』1巻580円!…うーん、惜しいが、2の5巻なら買ったのに、などとやっていたのだが、以前から探していた掘り出し物を発見した。
『楽勝!ハイパードール』1巻である。
ビデオを観て以来、いつか買わねばと思っていたのだが、ついに念願を果たした。OPの映像と歌が、あの代々木アニメーション学院のCMに使われていたことがあるので、観れば「ああコレか」と思う人も多いかもしれない。
原作は月刊少年キャプテンに連載だったので、一応読んでいた。キャプテンが突然休刊になるまで連載は続いていて、アニメ化したのもその直前といっていいタイミングだったと記憶している。「一応読んでいた」などと描いたが、実は友人に伊藤伸平が大好きなのがいて、彼は中津賢也も大好きというどうしようもないヤツなのだが(当然、島本和彦派の私とは対立関係にあった。という冗談はさておき)、そいつに単行本を借りたので、たぶん事実上全編読んだことがある、と思う。全然覚えてないが。アニメ化に伴って小説版なども出たのだが、さすがの私でも全く手が出なかった。
とにかく、ヒロインのコスチュームや決めポーズは正気かと云いたくなるほどダサイが(無論ギャグなんだろう)、アニメ版の絵柄は好みでないこともないし、なによりヒロインのキャストが野上ゆかな、飯塚雅弓ときては、私が気に入らないわけがない。いや、本編は正直どーでもいいのだが、はじめて観たとき衝撃を受けたのは何といってもEDだった。歌はピンクレディーの『モンスター』のカバー。歌っているのは勿論、野上ゆかな&飯塚雅弓。それだけでも私が泣いて喜ぶシチュエーションだが、驚くのはまだ早い。なんと、この2人がピンクレディーの振り付けで踊りながら唄う映像付きなのだ。
さらに特典映像は、実写ビデオクリップ・特別編と称して、文字通り特撮でハイパードール実写版をやっちまったというシロモノなのだが、この実写パートの脚本は小中千昭、監督はその弟の小中和哉という、あの小中兄弟コンビが担当している。これは実話である。それなりのアクションシーンがあるので、さすがにパードル(と略す)を演じているのは別の役者だが、『〜恐怖のモンスター〜』というサブタイトルから察せられるように、全体が『モンスター』のミュージッククリップ風の構成になっていて、青くテカテカ光る、それこそアイドル風の衣装を着た野上ゆかな&飯塚雅弓が振り付きで歌う映像が随所に挿入される。これがまた……冗談ではなく、私は観るたびに悶絶するのだった、いろいろな意味で。衝撃のあまり『モンスター』の振り付けはほとんど全部覚えてしまったほどである。飯塚雅弓がノリノリなのに対して野上ゆかなは実に複雑な表情をしてるなぁ、とか、踊りがマズイのは当然だが飯塚雅弓のほうがずいぶんマシだ、とか、パッと見で身長差が10cm以上あるのが惜しい、とか、興味は尽きないのであった。あーあ、いっそ純粋なミュージッククリップにしてくれれば良かったのに。
しまいには、本家のピンクレディーとどのくらい違うものか、比べてみたくなってくる。つーわけで、今、ピンクレディーの映像資料を探しているのだが、どこかにないですかねー?
(ちなみに、2巻では白鳥由里を加えた3人でキャンディーズの『わな』だそうだが、どうしたものか。)
8/21 コミケ大反省会
今回は酷かった。ペーパーを出せなかったのはいつものことだが、自分の原稿がほとんど形にならなかったのが、やはりショックだった。そう、今回のコミケでは、原稿をあげていないに等しい。今日は、そのあたりの事情を、筆の赴くまま書きつけて見ようと思う。
ただ、今日、私が書きたいのは飽くまで、主にコミケ前日から当日にかけて、いかなる不運、苦難の数々が私を襲ったか、そして私がいかにしてそれらに立ち向かい、多くの知人を巻き込み、神経をすり減らし、知略の限りを尽くし、体力にモノを云わせて危機をくぐり抜け、無事コミケを終えたかという、血沸き肉躍る活劇譚であり、一大娯楽絵巻である。はっきり云って、各方面に差し障りのあるエピソードも相当あるが、書く。直接の当事者でこれを読んでいる者は皆無だと確信するからだ。
彼らが読んでくれるのを期待するのではないことを重ねて断っておく。云いたいことがあれば直接云ってやる私だ。そんな姑息なことはしない。基本的にはすべて私の責任だし。では始めよう。
今まで、同人誌を作るのに、他人に原稿を依頼したことはなかった。
理由はいくつもある。
ジャンルがマイナーであること。単に、同じ物を好きな人間が身近に見つからないという理由。
無計画であること。どのような本になるのか、書き終わるまでわからない。編集するまでわからないこともある。
完璧主義であること。どうせやるなら、隅々まで自分の思い通りにしてやろう、と思ってしまう。結局は自分で全部やることになる。
責任を取りかねること。いつも落とすか落とさないかの境界線上で戦っている私である。自分の原稿だけならともかく、万が一本が出なかった場合、寄稿してくれたみなさんに申し訳ない(あたりまえだ!!)。
だいたい以上の如き理由で、私は今まで単身、同人誌を書き続けてきた。自分の方は、誘われれば喜んで他人の本に寄稿した。自分が発案者、メインライターの一人という立場に留まり、編集を知人に任せて発行した本もある。それでも、自ら編集主幹として原稿を集めて本を作ることはしなかったのである。自分では、編集気質かなと思わないでもないのだが(なんてことをいうとバカにされるので、これ以上は書かない)。
そんな私が、今回に限って友人から集められるだけ原稿を集めてコピー誌を作ってやろうと思いたったのは、無論こちらも理由あってのことである。
要するに、先に列挙した理由に対抗しうるだけの条件が挙げられたためだ。まず、お題が『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』という、全国区で(関係ないけど)TV放映中のアニメであり、原作小説、ラジオドラマ等メディアミックスで人口に膾炙した(笑)作品であったこと。これなら同志には事欠かない。充分なページ数の原稿が集まりそうなメドが立った時点で、(私の一種特殊な原稿との調和を考えずに済む)独立したコピー誌にすることでかなり編集が楽になる。次に、友人Wが編集を半ば肩代わりしてくれるようなことを云ってくれたこと。あとは片っ端から知人に声をかけまくるだけで(最低限、今回のTV版はちゃんと観ているのが条件だ、もちろん)、本ができるはず。いつも文字ネタばっかりで殺風景な私のところに、華を添えることができる、という目論見だった。では現実はどうだったか。
結論を書くと、やはりギリギリまで始動しない私が悪い。
心理治療の交流分析という技法に、「人生脚本」という概念がある。人間は3〜5歳ごろまでに作った脚本に従って、人生ドラマを演じようとしているのだ、という考え方である。私にとってこの説は大いに納得できるものであり、自分は「ギリギリのところまで怠けているが、最後は何とかなる」という脚本を持っているに違いないと思う。もちろん、いつも脚本通りにいくとは限らない。今まで20年もごまかし続けてこられたのが奇跡のようなもので、今年か来年あたり、一気にツケが回ってくるのではないかと恐れている。
閑話休題、コピー誌の編集、コピー、製本などの所要時間に余裕を見て、締め切りを3日前の10日に設定。自分の原稿がそんなに早く上がらないのは分かりきっているのにゲストの締め切りは早いという言語道断の所業である。さっそく原稿依頼を開始。コンセプトはなし。「なんでもいいから描け!」という無軌道極まる編集方針である。絵でも文でもマンガでも、エロでも健全でもその全部でもOK。とにかく描いてくれ、というのが口説き文句。はじめから乗り気だったE氏、W氏はもちろん主軸に据える心づもりである。さらに前回のコミケではハード官能小説で有明を震撼させたH氏の執筆を取り付ける。さらに調子に乗ってT氏に表紙カラーイラストを依頼。「鎧兜を着けた洋子の正面顔アップ」と細かい指示まで出す。この時点で本の屋台骨はできた。あとはいかに人数を集めて脇を固めるか。「何でもいいから描いてくれ」と、後輩筋に声を掛け、半ば無理矢理執筆を承諾させる。N氏、イラスト2枚。Y氏、イラストと文、1枚。そして最大の難物、I氏、1,2枚。よし、こんなところか。
全話解説をブチ上げた自分の個人誌の原稿はもとより遅れている。もう一冊にもイラストくらい描きたいし、さらに穴埋めも必要になるかもしれない。だんだんタイトなスケジュールになってくるが、いつものことだ。まだなんとでもなる。
甘かった。
まず9日、帰省を遅らせて描いてくれていたN君の原稿が届く。イラスト2枚。全く予定通り。ありがとう!ムリ云って済まなかった。と、心から云いたい。
10日、Y君の原稿が届く。イラスト+文、1枚。全く予定通り。ありがとう!ムリ云って済まなかった。と、心から云いたい。いや、マジで。
その他の全員から、もう一日待てとの要請。…全く予定通り。いや、マジで。このくらいはまだまだ計算のうちである。
このあたりから、歯車が狂い始めた。まず、I君と全くコミュニケーションが取れていなかったことが判明。原稿依頼を巡ってずいぶんやりとりはしたのだが、こちらの意向が全く伝わっていない。「ヤマモト・ヨーコ本に、なんでもいいから描いて」という表現が悪かったのか、彼が『機動戦艦ナデシコ』のルリルリを描こうとしていることが、9日深夜判明。仰天して探りを入れたところ、まだ描いてないようだ。「ルリと洋子の組み合わせでもいいから、とにかく洋子を入れてくれ、頼む」と説得。なんとか理解してもらえたようだ。と、安心したのも束の間、翌日午前、アップロードしてもらったラフを見ると…「ずいぶん似せるのがウマイね!何か参考にしたの?」「友人に借りたアニメ雑誌のイラストを模写しました」「……模写か……」作品として、模写をどう位置づけるべきか私には今もってわからないし、明言しておかなかったのが不手際だろう。忸怩たる思いもやり場はない。いまさら描き直せとも云えないし。「やっぱりまずいですか?」「…いや(今さら云ってもなぁ)。…そうだ、もう一枚の、ルリ&洋子のほうはどうしたの?」「これから描きます。」「時間がなければ、ムリにとはいわないから。一枚でもいいよ」「そうですか?」「その場合、オリジナルのルリ&洋子の方がのぞましいかも…」「はい。なんとか2枚描きますから」「たしか、明日(10日)までに帰省する用事があったんじゃなかったっけ?」「はい。でも、免許の更新をするだけですから、すぐ戻ってきます。1日待ってもらえれば11日には2枚出せます」「(オイオイ!)せっかく帰省するのに、そんなに無理しなくても…。こっちの原稿のために無理させるつもりはないから。スケジュールの許すところで適当に切り上げていいよ」「いえ!ゼヒ描かせて下さい」「…わかりました」(以上のやりとりには、無論、多少の脚色はある)。さらに彼はトーンの貼り方を知らないのでフォトショップで彩色するとのこと。はたしてコピーに出るのだろうか?私にも判断が付かないのでその点念を入れておいたが大丈夫とのこと。不安が残る。
次に表紙。Tよ。以前から思ってたんだが、「これ以上、時間かけてられない」とか、あまり他人に頼まれた原稿やってるときに、しかも頼んだ本人に向かって云うセリフではないと思うんだ。いくらオレたちの仲でもさ。いやいや、こんなこと書いてはいけない。――ラフを確認した段階で、OPの1カットをそのまま描いた構図になっている。私は「OPで着ている鎧兜を着た洋子」を頼んだのであって、「OPの洋子」を描けといったのではないのだが。昔からヤツは人の指示を聞くようでいて実は聞かない。いやいや、絵描きのセンスというものも尊重しなくてはならんよな…。10日夜、ポスターカラーとコピックで彩色した表紙原稿が届く。これを取り込んでフォトショップで加工するのが私の仕事。なに?色が暗い?明度調節。なに?ポスカが滲んでいる?色がはみ出している?仕方ない、修正。その間Tは、私が寄稿するギャルゲーレビューのネタにする予定の『東京23区制服WARS』をプレー。どハマリ。もともと、表の木村貴宏ファンの代表である私を隠れ蓑にしてはいるものの、VGのOVAまで喜々として全編観たほどの節操のない隠れ木村貴宏ファンのTである。その潜在能力は間違いなく私以上だ。とにかく、各章ごとにしかセーブのないそのゲームを、じりじりしている私の横で悠々とプレイしやがった。「セーブしていいから、頼むから続きは今度にしてくれ」という私の涙ながらの懇願に、やっと重い腰を上げたときはすでに夜半すぎ。その間私は資料のビデオも観られず、メシも食いに行けず(なぜかTが来るのは、私が食事をしようと思いたった瞬間であることが多い)、半分死にかけた状態で無為な時間を過ごしていた。あたら貴重な数時間を…。
もう云うまい(云ってるけど)。
次はH氏だ。ヤマモト・ヨーコの原作小説全巻および、コミック版7巻という貴重極まる資料を貸してくれた人物でもある。彼なくして、今回の本はありえなかった。その彼が、まどかのハードエロ小説を書くので資料として原作小説を返してくれと云ってきた。私は傍らに資料がないと何も書けない人間だ。当然、小説も借りっぱなしで随時リファレンスするつもりだった。その予定が狂う。8日、返す。彼の原稿が終わり次第もう一度借りるという、これまた無茶な約束を取り付けるが、スケジュール的にかなり痛い。9日深夜、打診したところ「文章だけなら、明日中には終わる」との返事。なんと自ら挿し絵を描くつもりらしい。小説は、文体の参考のみならず、原作版の挿し絵を参考にするつもりだったらしい。「後生だから、なるべく早く、原作をもう一度読ませてほしい」死に行く者の最後の頼みだと思って聞いてくれ、という私の哀願かなって、もう一度貸してくれることに。なんなら取りにくるか?とのことだが、私も自分のスケジュール、および原稿受け取りのことを考えるとそろそろ身動きがとれなくなってくる。原稿と一緒に渡してくれればいいのだが…。結局は、挿し絵をコピーして原作をもう一度貸してくれたのが、11日朝。待ち合わせて受け渡しをする。原稿はまだ。
結局、彼の原稿が完成したのは11日深夜。本文のみ。朝までに挿し絵が描けるかどうかわからない、などと云っている。しかも、山梨に行くことが急遽決定し、翌12日朝にはもう出発するという。何しに行くのかと問えば、友人につきあって、というよく分からない理由。もともと多忙な男とは知っていたが、自ら求めてさらに多忙なスケジュールに身を投じているのではないのか?という疑問が、初めて私の胸をよぎった。しかもその前に提出すべき原稿はまだ彼の手元にあり、しかも挿し絵はまだ描いていないというのだ!
…さて、これはこの物語全体に深く関わってくるキーポイントになるのだが、彼はパソコンの無茶な使い方が大好きで、本来の用途を超えたところまで酷使してこそ、パソコンを120%活用しているといえる、と考えている節がある。
その時点で2時すぎだったろうか。彼は朝までに挿し絵を描いて送るなどと云っているが、メールサーバがストップしていることが判明。いいかげん逆上気味だった私は、じゃあどうやって送るんだ、と詰め寄る。今思えば、ICQで送ってもいいはずだが、なぜ断念したのかもはや記憶にない。とにかく、絵を画像ファイルにして送る、などと云ってくるので、表紙の例もあり、大きさを変える以外の加工をさせられるのは真っ平御免だと突っぱねたせいではなかったかと思う。「.jpgなら自由に大きさを変えて出力云々」とまた面倒なことを云ってくるので、紙媒体で渡せと云ったのかもしれない。だとしたらヒドイ奴だ、私。そのときはチャットで打ち合わせしていたのだが、私の最後の言葉は、「もし接続が切れていても、どうせ起きているから電話してくれ」というものだった。
とにかく、結果として彼は次の朝早く原稿を持って私の家に来た。荷物が重いし、方向が違うので、一度自宅に帰ってからもう一度山梨へ出発するという。
結局、ヨーコ本に関しては挿し絵はなかった。前述したギャルゲー本の原稿に挿し絵を描くのが精一杯だったという。
ところが、まだまだこれで終わらないのが彼、H氏の恐ろしいところである。渡されたフロッピーが壊れているという最悪の結果は避けられたものの、まずWordが最新の98なので、ファイルが私のワープロで読めないと云うトラブルが発生。コンバートしておいてくれって云ったのに…。ムカついたが、仕方ないのでWord98をインストールして作業。このことがのち重要な伏線になってくるので注意。
さらに中身だが、なんだこりゃ!?小説書きのクセにむちゃくちゃな原稿だ。
“――”(ダッシュ)の代わりに図表に使う罫線が使われている?しかもズレてる!「ダッシュって、二文字分使うと間にすき間が開いちゃわない?」それは文字幅を調節して解決するんだ!!
英数字が全部半角じゃないか!縦書きだから字が横向きになっちゃうぞ!?「全体を統一しちゃえばいいんじゃない?」……。
まるでテキストファイルをそのままコンバートしたみたいだぞ!?鈎括弧を閉じた次の行もインテンドしてないし。「そんなきまりあったっけ?」…いや、たしかに編集の仕事だけどさ…。
第一、A5じゃねーかコレ!?レイアウトやってくれたのはいいけど、紙の大きさが違うぞ!「やっぱりB5だったっけ?そうかもしれないとは思ったんだけど…。でも印刷するとき、紙の大きさ変えられなかったっけ?」いや、そうではなくてだな…。
他にも、三点リード“…”を使ったあとの、句読点なしの改行や、ダブルクォーテーションマーク“”の開閉の間違いなど、気になる点はあったが、なんとか解決(してない点もある)。フォントサイズ、行送り、余白を調整してB5版のレイアウトも完成。…かなりの時間を取られた。ギャルゲー本の原稿に関しても同様の作業。私が編集じゃないのになぁ…。
さて、話は前後するが、11日、先輩筋にあたるEさんの原稿がUP。当初からやる気は伝わってきていたのだが、予想以上に気合の入った原稿。ありがとうございます!編集にもプレッシャーがかかる。もう後には退けない。
次にW。原稿を描くほか編集・製本を手伝ってくれるはずだった彼も、ほかに2冊のコピー誌の執筆・編集を抱えて身動きできない。もう他の原稿はすべて上がった(私の穴埋めを除いて)、と(当然の事実を)告げると、驚きを隠そうともしない。おいおい。はじめて焦りを感じたらしい彼は、「いつまでに上げればいい?」と聞いてくる。私もそこは、言質を取らせてなるものかとばかり「なるべく早く」としか云わない。まぁ、彼の異常な速筆は知っているし、本当は心配していなかった。事実原稿はあがったし、彼はこれのほか2冊のコピー誌を編集、というより殆ど単身執筆するというどう考えても無謀な試みを敢行し、一週間足らずの間に30ページ超の原稿を描いて勇名を馳せた。
そんなこんなで時間をとられ(他人のせいにしてはいけない!)、自分の原稿は全く書いていないに等しい状態。12日の昼過ぎ、原稿を取りに訪れたギャルゲー本の編集・Aは、私のあまりの憔悴ぶりに驚いたに違いない。そのギャルゲー本にも気合いの入った序文を書くつもりだった私だが、精神的に完全に煮詰まっていてとてもそれどころの状態ではない。ほとんどちゃんと謝ることもできずに彼を追い返すような形になってしまった。なぜか表紙イラスト、というよりラクガキは描いた。それらの作業にも時間がかかったのは事実だが、夕方6時をすぎ、コピー屋の利用を今回も断念。自分の原稿が少ない分、当初、別にしようと思っていた自分の本と、もう一冊を、合併してしまうことを考えていたのだが、両面コピーが使えないとなると厚くなりすぎるため、再度予定変更。やはり2冊になる。
そもそも、個人誌の方はすべて文字ネタで、全話解説の他、キャラクターごとの分析、原作のこきおろし、コミック版の紹介など、かなり盛りだくさんの内容になる予定で、事実、かなりのところまで下ごしらえができていた。しかし、結局なんとか形になったのが全話解説のみ。といっても、それすらロクに読み返すヒマもないようなありさまだ。もう一冊の方には、なんとか時間をみて描いておいた鉛筆描きの落書きイラスト1枚のみ。もっとも最初からペン入れする予定はなかったが。
つまりどういうことかというと、今回私は、自分の原稿を全く書いていないに等しい状態だ、ということに気づく。
それでも、いつもに比べれば、やや時間に余裕がある。製本は会場でやるとして(製本してから持っていくなど、今まで考えたこともない)、コピーが早くすめば、一晩かけてチラシのような形で増補版ができるかもしれない。材料はあるのだから、勿体ない。まだ夕方の時点ではそんな目論見を立てるだけの気力が、それでも残っていたらしい。が、甘かった。
表紙をカラーで頼んだものの、1枚50円のコンビニコピーではコストがかかりすぎる。そこで例のH氏の口車にのった私は、表紙をプリンターで大量出力することを決断。コストパフォーマンスという言葉に騙された私がバカだったのだ。
時間がかかるだろうと先に表紙50枚のプリントアウトを開始した私は、その間外出してメシを食った。帰ってくると、まだ印刷は続いている。ふと印刷済みの一枚を見た私は仰天した。何じゃこりゃ?赤茶けている?黒で入れたはずのロゴが灰色に――?
賢明にも私は、一瞬で事態を諒解した。
インクが切れたのだ。
ヒューレットパッカード社のプリンタには、ソフトウェアからインクカートリッジの残量をチェックする機能がない。カートリッジを直接目視することで大まかな残量はわかるが、それも怠っていた。
普段の私は、プリンタはワープロの出力先としてしか使っていない。カラー印刷に使うことは、ほとんどない、といって良い。つまり、黒のインクだけが大量に消費されていたことになる。それでも、文書の印刷に使う量など、と無意識に高をくくっていたのかもしれない。
とにかく、気づいてみれば、最悪のタイミングでインク切れが起きている。理解はできても、すでに正常な判断力はない。完全な恐慌状態。まさに「ぱにぱにーっ!」と喚きたい気分だ。落ち着け、考えろ!すでにスペアカートリッジを売ってるような店は閉まっている。問題は一点、すなわち、「近所に使用可能なプリンタはあるか?」だ。使えそうな施設は、この時期、この時間帯では全て閉まっている。プリンタを持っていて、押し掛けても大丈夫な近所の友人――意外に、いない。その時、ICQオンラインに知人の名前を発見!これだ!!私は即座に彼――先輩筋にあたる人物、O氏にメッセージを送信した。これからプリンタを使わせてもらいにお伺いさせて頂きたい、と。Oさんの快諾の言葉が、私には福音にも聞こえた。原稿は、推敲どころかろくに校正もできないが、致し方あるまい。一時間後の訪問を約した私は、最低限の準備を整え、それでも約束の時間には大幅に遅れてOさん宅を訪れた。
さて、この物語も、いよいよ佳境に近づいてきた。O氏の家まで、神行太保と呼ばれた私の足でも十数分はかかる。Oさん、確かMOドライブを持っていたはず――、MOとFD(これの耐久性には、もはや全く信を置いていない)にそれぞれ文書ファイルを入れ、持っていったのだが――、考えられないミスである。普段の私なら、部屋ごと持って行こうと試みただろう。そうすれば少なくとも、次の一幕はなかったはずなのだ。
挨拶もそこそこに、ネット上で仕事中の氏と交代で画面に向かうような形で作業を始める。ところが。
Wordがない!
迂闊だった。知っていたはずなのだ。ワープロ専用機を持っているOさんは、パソコンのワープロは殆ど使わない。インストールしてあるのは、なぜか一太郎のみ(なぜだろう。今も納得できない)。それすらも使わず、文字の出力にはむしろPhotoshopを使っているという。
結果はわかっていたが、一太郎を起動してWordファイルの読み込みを試行。失敗。古いWordならいざ知らず、さすがに98のファイルはコンバートできなかった。さて、私はどうしたか?Oさんは文書をPhotoshop画像として出力してはどうかと提案。ムチャだ。だいいち、Wordファイルを読み込めればそんな苦労はせずにすむのだ。結局、自転車を借りて自宅へとって返し、WordのCD−ROMを持って再訪し、急遽インストール、文書を出力させてもらうという非常策を採る。著作権法にはこの際目をつぶってもらおう。
数年ぶりに自転車というものに乗り、沈鬱な気分に相応しからぬ爽快さを味わった。ペダルの手応え、風を切る感触!ああ、自転車ほしいなぁ。
無論、その時はそんな余裕もない。家路を一気に走破、Wordはおろか、ノートパソコン一式を持って行くことにする。そう、これが本来の私だ。万が一の可能性のために手間を惜しまない。不測の事態は常に起こりうるのである。
さすがに汗をかきながら、もと来た道を戻る。休むヒマなどない。なんとWord98は標準インストールで100Mb近い容量を喰うことが判明。幸い、HDの空きに余裕があった。MOから文書を読み込む。よし、足りないファイルもない。印刷!これで助かった…誰もが(私だけだ)そう思った。
前述した通り、私が使っているプリンタは、ヒューレットパッカード社製のものである。一方の雄、EPSON社のものとは構造に大きく差がある。一言でいうと、EPSONは画質最優先の一点豪華主義。対するHPは印刷スピード、コストパフォーマンスなどトータルバランスで勝負。私に云わせれば、素人目には判別できない程度の僅かな画質の差など問題にならない。迷わずヒューレットパッカードなのだが、世間には――パソコンユーザーには、目に見えるものよりスペック表を重視する風潮が根強い。かくして、私の身辺にもEPSONユーザーが蔓延している(以上極論)。そしてOさんのプリンタもまた、エプソン製だった。
印刷を開始して間もなく、私は異変に気づいた。
遅い!遅い!!
云いたくないが、気が狂いそうになるほど遅い。ワープロ文書の二十数枚くらい、私のプリンタなら二分とかからず印字し終えるはず。それがこの遅さはなんだ?一ページにつき何分もかかる。一分が惜しい私の身の上では、拷問にも等しい遅さに感じられる速度である。所有者であるOさんは動じる様子もない。習慣とは、かくも恐ろしいものか?人間、どんな環境にも慣れてしまうものなのか。
私は提言する。すべてのEPSONプリンタユーザーよ、目を覚ませ!!そのプリンタの印刷速度が遅すぎることに、君は気づいていないのだ。プリンタメーカー最大手というブランドイメージに洗脳を受けているのだ。誰かが云わねばならない、王様は裸だと。「おいおい、このプリンタの印刷スピード、いくらなんでも遅すぎるよ。」
さあ、云ったぞ。あとは君たち次第だ。目を覚ますことを、私は切に望んでいる。
脱線したが、結局、焦燥で死にそうになっている私の前でプリンタが仕事を終えた時には、一時間以上が経過していた。
さて、もう書いてるこっちが疲れてきたので、そろそろ筆を置くことにしたい。全ての原稿を合わせて一冊にするとなると、四十数ページ。コンビニで手差し両面コピーをするつもりだったが、時間がない。となると、片面コピー、袋で四十ページは、厚すぎて閉じられない。Oさんは大型ホッチキスを貸そうと申し出てくれたが、私には別の考えがあった。やはり二分冊。私の原稿などオマケにしてしまえばいい、という自嘲的な考えもなかったとは云えないだろう。別冊付録という形で体裁を整える。
これは書かずにすませたかったが、編集しなおしたことによる変更――表紙、奥付は、自宅へ帰ってから急いで作成した。どうやって?黒のインクがない以上、文字の色を「青」にして出力、白黒コピーすれば、無事原稿の出来上がりだ。ツッコミは却下。
もう気力も尽きた。最後に、今回のコミケで学んだ最大の教訓は、原稿は書くものではない、あげるものだ、ということであった。書いていた原稿の大部分はムダになったとはいえ、過去二回連続遅刻という実績に対して、無事サークル入場し、新刊を発行できたのだから。心から、そう思う。
…などと、教訓話を装って終わる。
7/29 みんな二十面相になりたかった(?)。
みんな二十面相が好きだった。
近年、江戸川乱歩の、前期の主に怪奇趣味的な作品が再評価され、映像化されたり、角川ホラー文庫に収録されたりとちょっとしたブームになりかけた。
それはそれで結構なことだが、もう一つの風潮には敢えて異を唱えたい。明智小五郎VS怪人二十面相、そう、あの『少年探偵団』シリーズを無かったことにしてしまおう、という世の中の動きである。
「荒唐無稽に過ぎる」との理由で、小学校の図書室から姿を消しつつある。乱歩本人も書いたのを悔いていると述懐した、などとまことしやかに云われる。ポプラ社から刊行されていた全集も、現在は一部を残すのみである。日本推理小説の父である人物の業績の、一部というにはあまりにも巨大な部分が、故意に無視されようとしているのではないか。おそらくはかつて、それらに胸を踊らせたであろう多くの少年達、他ならぬ彼ら自身によって。
後期の明智小五郎の変貌について、乱歩が忸怩たる思いを持っていたのは、どうやら事実であるし、晩年のエッセイからもそれは感じられる。モジャモジャ頭を掻き回し、タバコ屋の2階の下宿で本に埋もれて暮らす高等遊民から、世界を股に掛ける名探偵、伊達男で柔道の達人、果ては月光仮面にまでなってしまったスーパーヒーロー。「明智は2人(あるいは3人)いる」といわれる所以であるが、久世光彦などは同題のエッセイで、昭和4年より後の乱歩には「心惹かれるものはなにもない」と言い切っているほどだ。これは極端な例だが、斯界において後期乱歩の少年物の評価が極端に低い、というより無視されているのは事実である。
私は、小学生の時に転校を一度経験したが、その前後どちらの学校の図書室にも、ポプラ社の『少年探偵団』シリーズが全巻揃っていた。このシリーズこそ、偕成社の怪盗ルパンシリーズと並んで、私の小学校時代最大の愛読書であった。全巻読破したのはもちろん、大半は二回以上読み返したはずである。ただ一冊、ルパンの方の『虎の牙』の下巻がなくて悔しい思いをしたのを覚えている。また、転校前の学校では、乱歩の『夜光怪人』の表紙が取れていたので、一体どんな表紙なのだろうと気になったのを覚えている。転校後に後者は見ることができたが、前者は読んだか否か、覚えていない。幸い、メジャーな作品なので今でも読むことができる。
余談だが、横溝正史に『夜光人間』という長編がある。未読だが、題名を見たときは自分の記憶違いかと疑ってしまった。内容はわからないが、いいのかこのタイトル?余談ついでにルパンについても少々。創元推理文庫『怪盗紳士リュパン』の解説を引用する。
…それに反してリュパンのほうは、ある個人に翻訳の独占が許されていると思われていた。リュパンの登場しない作品にまで、彼を活躍させるという、はなはだ無茶な紹介だったが、その翻訳権に根拠のないことが判明したため、昭和三十四年にはじめて東京創元社により、「アルセーヌ・リュパン全集」十二巻が刊行された。原書に基づいた正確な紹介で、長年の日本読者のルパン観を一新するほどの、画期的な事業であった。
翻訳独占権に実は根拠がなかった、とは時代を思わせる逸話だが、どうやらこれが、件の偕成社版らしいと思われる節がある。引用文では婉曲ながら強く批判されているが、「リュパンの登場しない作品にまで、彼を活躍させる」とはいささか大げさな表現で、実際にはタイトルを『ルパンの○○』と翻案して、冒頭に次のような断り書きを入れていた、というだけである。
「この物語に、ルパンは登場しない。だが、ルパンを思わせる人物は登場する。もしかしたら、彼こそはアルセーヌ・ルパンの仮の姿だったかもしれない云々」
この序文が実にいい味で、私としては大のお気に入りであった。実際、モーリス・ルブランの主人公の造形が、長身でハンサムで、スポーツマンで伊達男で頭が切れる、という典型的なスーパーヒーローばかりだったので出来た荒技なのだが、実際、どいつもこいつもルパンに見えるし、ルパン自身も(というのもおかしな表現だが)物語の途中まで正体を隠していることが多いため、登場人物表には変名しか載ってないこともしばしばである。よって、少なくとも小学生の目には、最後までルパンが名乗らない話もある、という程度の認識しかなく、むしろその方がカッコイイなどと思ってしまうのであった。要するに、「はなはだ無茶な紹介だった」とは、少なくとも当時は感じていなかったのである。もっとも、タイトルの付け方はさすがに疑問で、私のお気に入りの一冊は、『ピラミッドの秘密』とかなんとかいう、今考えると相当にウソ臭いタイトルだった。『奇岩城』、『813』、『三十棺桶島』といったメジャータイトルはさすがにそのままだが、『カリオストロの復讐』などは『ルパン最後の冒険』となっていたと思う。あながち間違ってはいないが。こういうタイトルはやはり特別に期待して読んでしまうので、記憶に残っていたのだと思う。記憶喪失になった元貴族の海賊の首領が主人公の『ジェリコ公爵』は、タイトルはそのままだったが、私はずっとルパンの話だと思っていた。まあ、創元社版の紹介文にも「ルパンの後半生を思わせる人物」と書かれているのだが。あと、このシリーズで記憶に残っているのは、巻末のシリーズ紹介の「…単身、美少女を救わんとするルパン!」といったノリの古くさいアオリ文句で、文語体にやたら違和感があったのを覚えている。
ルパンに関してはまだいくらでも書きたいことがあるが、また別の機会に譲ることとする。おまけ。創元社版では、フランス語の発音に忠実に「リュパン」と表記を統一しているが、さすがに「ルパン」でよいのでは、とも思う。同社に言わせれば、間違った発音が人口に膾炙しているのもはじめに訳した某人物の為した弊害なのだろう。あと、「ルパン三世」という呼称はおかしい、とこの場で言明しておく。以上。
さて、話は少年探偵団に戻る。ルパンおよび同シリーズの共通点として、いわゆるお約束の展開、黄金パターンというものが存在する。ルパンにおいては、必ずといっていいほどラストシーンでゲストヒロインが旅立つか、自殺を図るかして、「アデュー(永遠にさよなら)」と言うのだが、ルパンは(自殺の場合は止めてから)「いや、それはいけない。オウ・ルボワール(また会う日まで)」と言う。このパターンに親しんでいた私は、アデューというのは「永遠にさよなら」の意味だとばかり考えていたので、そんな挨拶、いったいどんな時に使うのだろう?とずっと不思議に思っていた。ところが実際には「アデュー(adieu)」はふつうの「さよなら」の感覚で使われている。今引いてみた三省堂のクラウン仏和辞典を引用してみよう。
adieu 【間投】 さようなら、さらば.◆長期間あるいは二度と会わない相手に対して言う。また会う相手にはAu revoir.ただし南仏ではAu revoir の代わりにも用いられる。
なるほど、そうだったのか。フランス人の感覚はいまひとつわからないが、訳のニュアンスは意外と正しかったらしい。
対する少年探偵団ではどうか?ルパンに対して怪人二十面相の最後は?
いうまでもなく、少年探偵団シリーズの多くで敵役を務めるのが二十面相である。タイトルに『○○怪人』(透明怪人、宇宙怪人など、いずれもかなりムチャな話だった)、『魔人〜』などとついたら、まず二十面相の話だと思って間違いないし、無論、それ以外のタイトルにも多数出演している。そのラストシーンはというと、二十面相のアジトに、明智探偵以下、少年探偵団が踏み込む。追いつめられた二十面相は、普段は「人殺しはしない」がモットーなのだが、この際そんなこと言ってられるかとばかり、ピストルを出して撃とうとする。ところが、どうしたことか、カチリカチリという音がするばかりで、一向に弾が出ないではないか。そこで明智がスーツのポケットから弾丸を取り出して見せる。「フフフ、こんなこともあろうかと、弾はちゃんと抜いておいたのだよ」「ちくしょう!」進退極まった二十面相は、思いあまって、樽一杯に詰まった火薬に(用意してあったのか?)火を着けて、基地もろとも爆破しようと試みる。ところが、なんとしたことか、火が着かない。これも先回りした明智が火薬を水びたしにしてしまっていたのである。結局、奥の手まで封じられた二十面相は捕まって、めでたしめでたし。ところが、稀に二十面相が本当に秘密基地を爆破してしまうというパターンも存在する。シリーズ中、私が最初に読んだ記念すべきタイトル『大暗室』や、『海底の魔人』といった作品がこのパターンだったと思われる。特に海底基地の爆発などは、二十面相といえど到底生き残ったとは思えず、部下が後を継いで二代目になったのかな、などと考えていたものである。
もう一つのパターンとしては、逮捕された二十面相を警察まで護送するパトカーが、彼の部下と入れ替わっていて、見事脱走、と思いきや、裏の裏をかいた明智小五郎がそのニセパトカーの運転手とすり替わっていた、というオチ。このパターンは、黒幕が二十面相ではない『影男』でも使われていたと記憶している。
だいたい、この人物の入れ替わりというパターンが顕著であり、二十面相の盗みの場面でも、パターンは殆ど一緒である。日時を指定した予告状が届き、たいていは芸術品などがターゲットなのだが、それをスーツケースに収めて、持ち主である富豪と中村警部か誰かがそれを挟んで向かい合って座っている。無論、屋敷は厳戒体制。柱時計が十二時(予告の時刻)を打つと、持ち主はホッとして「さすがの二十面相も、この厳重な警備の中では、予告どおりの犯行はムリだったようですね」とかなんとかいう。すると何故か警部はニヤニヤしだして、「本当にそう思いますか?」とかなんとか答える。「え?だって物はこのとおりここにあるじゃないですか」「本当にそうですかね?開けてみましょうか」スーツケースを開けると、中はカラッポになっているのだった。目の前の中村警部こそ、二十面相の変装した姿だったのである。……中村警部は、明智の友人であり、適当に名前を考えたわけではない。この手のエピソードが挿入されるのはまだ序盤で、その時点では明智小五郎は海外に出張していて不在のことが多いのであった。
などなどと、お約束とケレン味に満ちあふれた展開が少年探偵団シリーズの魅力である。これを江戸川乱歩のもう一つの顔と言わずしてなんといおう?もともと、怪人二十面相のモデルとしてアルセーヌ・ルパンの影響が大きいのだから、私が二つのシリーズを等しく愛読していたのも驚くにはあたるまい。まさしく我が国が誇る娯楽文学といって少しも恥じるところはない、というのが私の主張である。
余談だが、「明智小五郎VSアルセーヌ・ルパン」夢の対決、という趣向が実現していたのをご存じだろうか。江戸川乱歩『サーカスの怪人』には、A.L.こと晩年のアルセーヌ=ルパンが来日して活躍する。残念ながら明智と直接対面する場面はなかったと思うが、最後はアドバルーンにぶら下がって脱出、太平洋上で消息を絶つというムチャをやってくれるのだった。晩年という設定のせいか、やや精彩を欠くように見えるのは『ルパン対ホームズ』と同じか。ルブランとしても、文句は言えないところだろう。(同書のタイトルは『アルセーヌ・ルパン対ハーロック・ショームズ』(原題「Arsene Lupin contre Herlock Sholmes」フランス風に読むとエルロック・ショルメス)だが、現在ではルパン対ホームズで知られている。そもそもルパンが登場する短編集『怪盗紳士』の、『遅かりしシャーロック・ホームズ』というエピソードで両者は早くも対決しており、『奇厳城』を含めて都合3回、競演していることになる)
7/5 ライブということ 〜ケの日ハレの日〜
多少ネタが腐ったが、先日、奥井雅美の『BEST−EST』というアルバムを買った。お察しの通り、私はこの奥井雅美が好きである。自覚したのは最近だが、メロディアスでノリのいい曲調はいかにもアニメ主題歌に相応しく、キングレコードのプロデューサーにしてアニメ界の大立者、仕掛け人・大月俊倫の慧眼はさすがと云わざるをえないところである。昔は玄人好みを気取っていたこともある私だが、最近はひたすら景気のいい音楽ばかり聞いている気がする。ツライのだな…(?)。
もともとタイアップの楽曲提供が多かった奥井雅美であり、過去のアルバムでも毎回のように「リミックス・ベスト」「○ndベスト」などとさりげなくベストを主張していたのだが、今回は改めてベストの最上級(?)、ベステストと銘打って登場である。
CMによれば「シングル曲24曲収録、2枚組、ライブ版」とのことだった。ライブ版というのが多少気にはなった。ライブでは録音状態そのものの問題のほか、使う楽器やアレンジ、エフェクトも制限されるし、なにより最高のパフォーマンスが録れるとは限らない。かっちり仕上げたスタジオレコーディングの方が完成度が高いのは当然だし、その方が好きだ。ライブの雰囲気が伝わってくるアルバムも時には良かろうが、わざわざベスト版でそれをやることはないのに――大体において、一般的な意見に同じはずである。それでも買うのは決めていたし、その意思は揺らがなかった。
買ってきて開けて、まず不審に思ったのは、特別限定パッケージの中に、各曲の簡単な解説がついたライナーが入っていたほか、中のCDケースの中に歌詞カードが入っていなかったことである。特別限定版でもあり、いかにも豪華な2枚組のケースのなかにあるはずの冊子がなかったため、あるいは入れ忘れかと疑った私は、CDを聞く前にその場で、同じ物を買ったはずの友人に電話した。ところが、やはり歌詞カードは無しとのこと。
ライブ版にはままあることかとやや残念に思いつつも納得した私は、気をとりなおしてCDを聞き――仰天した。私が想像したのとはあまりにも異質な「ライブ」がそこにあったためである。
かつて米米クラブが、8周年記念のライブにおいて、前代未聞の『ノーカット・無修正』版のライブビデオを発売して業界を騒然とさせたことがある。そのライナーノーツの序文をここに引用してみる。
人間、ありのままの姿ほど美しく力強いものはない。が、無防備な自分を人前にさらすことに誰もがためらいを持つ。コンサートは、非日常の場。共同幻想の上に成り立っている。ミスも苦し紛れのごまかしも祭の夜と許される。が、その映像をノーカット/無修正のまま茶の間に送り込もうというのである。ミュージシャンにとって、これ以上、辛いことはない。そのタブーに、このビデオはあえて挑戦しようとしている。これは米米CLUB生誕日の彼らのあるがままの姿を捉えた実録ものである。
署名はないが、おそらくメンバーの手になるものではなく、推測するに、マネージャーによる起草と思われる。が、なかなかの名文と云うべきであろう。
ここにもあるとおり、普通、ミュージシャンのライブビデオは、ステージ構成を完全に再現したものではなく、何曲かを選び、またツアー中、出来が良かった日のものを使用し、プロモーションビデオの映像を挿入するなど、さまざまな編集を加えられている。いるのだと思う。一般的な製作事情を詳しくは知らないが。ところが、米米クラブ(以下K2C)は、8日間のライブのうち、最終日のステージを、開幕からアンコールまで余さずビデオにして発売してのけた。もともと、音楽以外の要素も強い、総合エンターテイメントショーを以て自認する彼らならではの荒技である。
ライブは激務である。最終日ともなればメンバーの疲労はピークに達し、ボーカリストののどもボロボロの状態になる。それでなくとも、長丁場のステージで、大観衆を前にしてのパフォーマンス、ミスが出ない方がおかしい。それら全てをさらけ出すのだから、まさに「ミュージシャンにとってこれ以上辛いことはない」のである。ところがK2Cは前述のライナーノーツにおいて、トチリ、歌詞の間違いをはじめとするミスの数々を自ら指摘・解説したうえ、本人のコメントまでとっているのだから、これぞまさに彼らの真骨頂と云う他はない。
話は、奥井雅美に戻る。
今回のアルバムのライナーに、奥井雅美自身が寄せた小文がある。『BEST−ESTについて』と題されたこの文も、ここに引用すべきだろう。
約6年間・・・気がつくとこんなに時が過ぎ、そして大切な私の
歌達はすっごい数になっておりました。
アルバイト感覚ではじめたソロ歌手だったのに、今じゃ
歌詞をつくることに生きがいを感じ、その詞を歌い
感動、感激、同意してもらうことで
すごい喜びを与えてもらえる所に私はいます。
“ベストアルバムを出す”と言うので考えました
やっぱりライブで、みんなを前にして歌っている私が一番
本当の私だから その音でアルバムをつくりたいと。
皆様、御承知の通り、私はよく歌詞をまちがえる、パニック症でございます。
だけど、そのつくり込んでない私をみんなに
お届けできればいいかナ〜っと思いました
まだまだライブの数も少なく、行くことのできない街が多いので、
その街にいる人達にもライブを味わってもらいたい。
レーザーやビデオだと曲もかぎられているしね。
本当に、一日も早く生のまっくんを見てもらえるようにと
鼻息フンフンの毎日です。
攻撃の年 99年
それにふさわしいアルバムだと思ってます。
80才まで歌い続けたい私はまだスタートラインです。
これからも よろしく。 いつもありがとう。 お元気で〜。
で、『BEST−EST』を聴いたのだが、「つくり込んでない私」どころの騒ぎじゃないぞこれは。といって、歌唱力がスタジオレコーディングの時より劣っていることを云うのではない。それは当然だ。「スタジオとライブでこんなに差があるアーティストは初めてだ」という意見も聞いたが、その主はおそらくライブというものを知らないのだろう。何曲も、何時間も、何日も歌っていれば、人間声が出なくなるのが当たり前だ。もともと本人が限界近くまで声を駆使して歌う曲ばかりなのに、ライブで歌い続けるのがムリなのである。その点を責めるつもりはない。まあギリギリ及第点だ。
では何かというと、これぞライブ最大の難関、歌詞の間違いが多い!のである。歌詞カードが付いてないわけだ(笑)。一番、二番を間違えるどころか、全く詞が出てこなくて、まるまる一フレーズをハミングで誤魔化している所すらある。K2Cのビデオでも同様の場面はあったが、その時の当人・周囲の表情などがまさにライブで伝わってくる、という楽しみ方ができた。それでも十分に衝撃的だったのだが、ましてこのアルバムには映像がないのである。歌詞に詰まったところでは、こちらもハラハラしながら固唾を飲んで聴いているしかない。人にもよるだろうが、私としては痛々しくてとても聴いていられないような曲もあった。
前出の引用文に明らかなように、奥井雅美は、もともと歌手志向ではなかったらしい。自分のバンドではボーカルを務め、現在もライブではそのバンドを率いているようだが、仕事としてはスタジオミュージシャン、楽曲提供を本分としていたのが伺える。松任谷由美のバックコーラスをしていたことがあるとも聞くが、「歌手」であることに特別な思いはなかった彼女が、「ライブで歌っているのが一番本当の私」とまで云うようになったのはこの6年間を経てのことなのだ。
しかし、やはり奥井雅美にはどこか、ライブで歌う「歌手」になりきれない面があるのではないか、と私は思う。MCや、キッカケの前口上にも照れが感じられるし、今ひとつ客との距離を測りかねているところがあるのではないか。それこそK2Cのような、ある意味全て計算ずくのステージとは違い、「アルバイト感覚ではじめたソロ歌手」の危なっかしさが残っているように見えるのである。しかしそれこそがライブ奥井雅美の魅力ともいえるし、K2Cのようなエンターテイナーの方が特殊なのだろうとも思う、ので、一応、前言は撤回しておくとしよう。
ヘタクソだった曲は最近のライブで歌い(録り)直した、とは本人の弁だが、ともかく、この無謀なる試みを敢行した彼女に、ひとまずは拍手を送りたい。
6/25 華劇、やっと開演。
プレゼントプレイがやっとこインストール出来た。
最小1GBなんてどこにも書いてねーじゃん、と思ったら、箱の側面に「※注意:HDに1GBの空き容量が必要となります。」て書いた小さいシールが貼ってあった。これじゃサギだよ。「動作条件」に必要HD容量が入るかどうか、解釈しだいで微妙なところではあるんだが。フツー書くよなぁ。書かないとヤバイと思って慌てて付けたのか?買う直前にデジアニメのHPは確認したんだけど、「HDD容量:1GB (ムービーインストール時)」とあったから、誰がムービーインストールなんかするか、と思ったのだが、必須じゃないか。騙された。
んなわけで1GBの余裕などあるはずもないし、最近、動作が不安定なこともあったので、思いあまってシステム再セットアップを敢行しようと試みたのだが、やはりバックアップに不安があるのでやめた(根性ナシ)。そこでHD内の大粛正により1GBを確保せんという無謀の挙に出た。ゲーム全部は当然として、アプリケーション、アーカイブ、画像ファイル等、ほぼ根こそぎともいうべき大規模な削除を断行。写真屋すら消してしまった。最低限、ブラウザとテキストエディタがあればHPの更新はできる、とばかり。Wordはかろうじて残った。結果――、やればできるもんですね。とうとう空き容量が1GBの大台に達し、無事プレプレをインストール完了。まだ80MB強の容量が残っている。少しやりすぎた。
で、華劇開演。
本編はフルボイスじゃないのだが、本編開始までによく喋る。前回起動時間なども記録しているらしく、「一日に何度も来てくれて、それだけで嬉しいですわ」とか言われた。ドレスブラウザーシステム搭載!なので(着せ替えゲーというほうが相応しいと思うのだが)、まず服を選び、それから主演女優を選ぶ。最初は麻布ユウキのみで(ボクキャラがメインヒロインとは、やってくれるわ菅野ひろゆき)、そのうち服も増え、他の二人も登場するらしい。それまでは起動する度に「私はまだ出演していないんですねぇ〜(井上喜久子)」「ナミも〜(こおろぎさとみ)」というセリフを聞かされるようだ。
さて、国電パンチがどうしても気になったので、しょっぱなからメタルパンクの服を選んでしまったのだが、すかさず「最初にメタルパンクを選ぶなんて、なかなかやるね」と言われた(笑)。芸コマ。チェックするなよ…。
で、話だが、思ったよりフツーだった。むりやりサスペンスに持っていったりするのかと思ったけど、適当にドタバタで、適当にギャグがあって、適当にイイ話で、そしてサービスシーンはあったけどHはナシ。意外ではあったがむしろ嬉しかった。本当の意味でのシナリオ優先(ていうのはそんな単純なものでもないけど)、やはり脚本家がヘゲモニーを執って作ったゲームはイイ。『悦楽の学園』の頃から「グラフィック・音楽以外の全部」を担当していた菅野(剣乃)氏である。さすがだね。
でも「国電パンチ」はどこにも出てこなかった(笑)。服を選んだときの前口上で言ってるだけ。そこから取ったタイトルなのか?「国鉄が民営化された云々」というセリフがあったからてっきり前フリだと思ったのだが。
あと、何故か主人公の名前は「総二郎」で固定らしい。よくわからん。
『デザイア』でもそうだったが、シナリオの選択は自由とはいえ、ある程度意図された順番があるらしいと睨み、次は順当に(?)上段、一番左のエレベーターガールを選択。タイトルは『さ迷える箱』。なるほどそーいう話かと思いつつプレイしていたら、ムービー開始時にエラーでストップ。MCIエラーらしい。アクティブムービーコントロールの問題。今まで何度か悩まされたことがあるが、根が深そうな気がする。イヤな予感がしたがとりあえずデジアニメHPをチェックすると、パッチファイルがアップされている。あまり期待せずに実行したところ、見事解決。よかったよかった。
つーことで、もう一度同じシナリオを開始。大筋では一本道みたいだけど、途中の選択肢で多少メッセージが変わる。でも何回もやるのはちょっとツライかも。そういえば『国電パンチ』ではOLの服(未登場)が一瞬出たんだけど、結局追加はされなかった。あの辺が選択しだいなのか?
ともあれ、今度はムービーが観れた。そのすぐあとで終わりだったけど、全然意味不明。というか、突然とぎれたような終わり方。要するに、井上喜久子、否、高梨ヨウコが登場していないと、続きは見られないようだ。というか、ヨウコの初登場エピソードというのは決まっていて、先にそれを見なければならないらしい。
とりあえず今日はこの辺までにしておいたが、全体としては昔98であった『ストレンジ・ワールド』シリーズみたいな感じかな、ってみんなついてきてるか(笑)?普通のサウンドノベルでは裏シナリオの扱いで入ってることが多いんだけど、最初のシチュエーションが同じで、展開に従ってどんどん設定が変わってくるという話?違うのは最初のシチュエーションが一つではなく、服を選ぶことによって変わるという点だろう。
とりあえずチャイナドレスとか、おいしそうなのは後にとってある(笑)。OL服(&メガネ)、はやく見つけねば。
6/20 ヤマモト・ヨーコ南の島編スタート!
こんなことばっかり書くのは本意ではないが、仕方がない。
庵野秀明、かつてナディアを語って曰く、「原画から韓国に出さなきゃいけなくなる瞬間からが厳しかったッスねぇ」。そうなのだ。動画の海外発注はもはや常識。原画を抑えられなくなってからが地獄である。その地獄がこうも早くやってこようとは、正直思いもよらなかった。新キャラクター・沙羅の登場もあり、決して捨ての回ではなかったはず。これは製作進行のミスなのか?これまでも作画レベルにバラツキはあったが、今回は全く次元が違う。しばらくこの調子が続くのだろうかと思うと気が重い。ナディア・南の島編がどうしても頭をよぎる。
気を取り直して、借りてきたOVAのUを観た(我ながらよくやる)。Tはキャラデザの中沢一登が一枚も原画を描いておらず、作監の相性が悪かったのか絵柄がイマイチしっくりこなかった。が、このUでは中沢一登が、EDの絵一枚だけかと思いきや、原画で参加。クライマックスの3話では遂に作監をも務め、気合爆発の出来となった。南の島編のあとでは余計そう見える。いわゆる美少女アニメを見慣れてない私には(ホントだよ)そのサービス精神についていけない部分もあるが、話としてもTより随分見られた。TV版のメインライターである関島眞頼がシリーズ構成とクレジットされている。そのおかげか?…などとここに語ってもしかたないな。
今回、メインのライバルキャラはシルヴィー・ドレッド。声は根谷美智子。メガネ。中沢一登はこれが描きたくて原画に入ったのか、と邪推してみたくなる(笑)。TV版の沙羅は明らかにこのシルヴィーをモチーフとしている。声は同じ根谷美智子。が、メガネは掛けていない。そしてローソンとの因縁話がある。
原作のようにどーでもいいキャラばかり増やしても、長丁場のシリーズは保たないと踏んでこういうキャラにしたのだろう。「恋愛編」に突入したこととも無関係ではあるまい。絵はともかく(くどい)、今後の展開に注目である。
この二日間で二つのトピックを公開。なんだ書けるじゃん。実は4ヶ月ぶりの新トピックであることは秘密。二つともギャルゲーってのも…気にしないように。
6/15 更新、夏コミ、ヤマモト・ヨーコ …そして富野
さて、珍しく連絡事項がたくさんある。
まずは4000HIT突破、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
というわけで、これを機に刷新を試みたのだが、いかんせん、準備をしていなかったので、大リニューアルなどとブチ上げた割にはあまり変わっていないかもしれない。
まず、リンクバナーが出来た。これはあって当然のものがやっと出来たので、威張るような類のものではないが、報告まで。
http://member.nifty.ne.jp/dormouse/image/banner.gif
サイズは200×40ドット。
トップ画面のレイアウトを変更。いまいちキマらないので今後も調整を続けるつもりだが、今日のところはこれで勘弁。
メインメニューの構成も変更。ネットスケープの人にはさらに見づらくなってしまった。昔もやったんだけど、背景画像の固定の仕方、誰か教えて下さい。勢いで作ったのだが、絵もあんまりだなこりゃ。でっかくすることで逆にアラを誤魔化そうと思ったのだが、無謀だった。処理の段階でできるだけのことはやったが、いかんせん元の絵が…。いっそもっとバカでかくした方がよかったのだろうか…。
さて、次に夏コミの件。
我が「やまねプロダクション」は、8月13日(金)東カ−35b「DORMOUSE SOFT」に協賛という形での参加だが、本家のDORMOUSE SOFTさんが開店休業に等しい状況にあるので、事実上、スペースを乗っ取ることになる。
突然のヤマモト・ヨーコ宣言にあるいは仰天された方もいるかもしれないが、かなり本気である。なにしろもう書き始めているのだから。モチベーションは高い。そこら辺の事情を多少、説明しようと思う。序文の草稿に使えるかも、という下心もある。
私とヤマモト・ヨーコ、というところから書き起こすのが順当かと思う。TV版の第一話を観たのは、全くの偶然だった。たまたま、当時の生活サイクル上、日曜の朝に起きているタイミングが合ったにすぎない。最近は起きていてもTVをつけていないことが多いが、『おジャ魔女どれみ』はできる限り観るようにしていたので、惰性で『デジモンアドベンチャー』を観て、という流れだったのだろう。それはさておき、最初の印象は、OPがいいな、というものだった。一体、私はOPが気に入ったアニメはそれだけで観られるという特技を持っており、あの『ネクスト戦記エーアガイツ』ですら、ハミングバードの歌聞きたさに全話見続けた男である。『Weiβ kreuz』を見続けたのも、怖いモノ見たさ以上に、OP(前期)の曲が気に入ったからである。もっとも、柳沢テツヤが命を削って(?)描いた、数少ない見せ場の回はかなり見られたと思うし、白状するがあのノリは好きだった。話戻って、OPアニメはさすがに気合いを入れて製作されるものであるし、歌に関してはスタッフの働きに関係なく、プロデューサーがいい曲を持って来さえすれば、それでOKである。実際、こんなところで使うのは勿体ない、といういい曲が埋もれていることも多い。
ともあれ、奥井雅美屈指の名曲『天使の休息』を得たのは、ヤマモト・ヨーコにとって僥倖であった。もっとも、OVAの主題歌を歌ったのも奥井雅美だし、第U期の主題歌『そうだ、ぜったい。』の正統な続編にあたる歌がこの『天使の休息』であるというのだから、当然といえば当然の選曲である。矢吹俊郎のあいかわらずサービス精神旺盛なアレンジも嬉しい。詳細は後述するが、当然、絵も気に入った。鎧兜を着けた女の子というのもなかなか良い。というわけで、OPを観た段階で、見続けることが決定づけられていたのである。
本編はあまりマジメに観たわけではないが、最初の感想は、寺沢武一の『コブラ』みたいだなー、というものだった。物語導入の処理としては巧い。OVAがあるのは知っていたから、その続きとして観ることができる作りなのかな?と思った。この時点では、あくまでその程度だったのである。
第二話、第三話、と観ているうちに、おや、と気になる点が出てきた。各話毎にキャラクターの性格がまるで違う。もしかしてこれは、『ガッチャマン』のように、脚本家ごとの演出の差を楽しむアニメなのか?と。結論としてはそうではなかったのだが(三話までがある意味で最も興味深いのは事実である)、「これはネタになるかも」という下心はすでにこの頃からあったと思われる。そして、起爆剤になったのが次の事実であった。4月23日付のこの日記に書いてあるとおり、キャラデザが渡辺明夫であることに気づいたのである。4月23日は金曜日で、第三話の放映の五日後である。なぜこの日付なのかというと、三話を初めてビデオに録った私が、OPばかり何度も繰り返し観ていて、「キャラクターデザイン 渡辺明夫」のテロップに気づいたのがこの日だからである。この中途半端な日付に、私の思い入れのほどが読みとれるのだ。――「思い入れ」、この語こそ私の精神作用を解き明かす上で重要なキーワードだと思われる。この直後、友人に原作の小説をまとめて借りてきて、ほぼ丸一日かけて一気呵成に読破したのだが、これはアニメが面白いと思ったからではない。いわんや、原作が面白そうだと思ったからでもない。『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』などというタイトルを見て、この小説は面白そうだなどと思う方がどうかしている(暴言)。その昔『NORIEが将軍!?』とかいうタイトルの小説があったのを記憶しているが、こっちをナメているとしか思えない。閑話休題、あくまで私は、アニメの絵柄が気に入ったから、原作小説を読んでみた、という点に注意されたい。この全くロジカルでない動機こそが重要なのである。導入部分を小説と比較してみたい、という興味があったのは事実だが。
今回試みようとしているのは、決して世上の批評子諸賢に注目されているとは云えぬこのアニメを、近代批評精神とは相反する要素、思い入れによってどこまで語れるか、という挑戦なのである。一度やってみたかった「全話解説」を、あえて『ヤマモト・ヨーコ』で実践する。スケジュール的にギリギリ十九話までが限界だが、原作、OVA(!)との比較を含め、縦横に論じ尽くすつもりなので、乞うご期待。
(いつになく自信たっぷりだなぁ)
サークルカットが全くアテにならないのは毎度のことなのだが、もう二年間取っ組み合っている富野由悠季ともそろそろ決着をつけたいところだ。
深入りすればするほど、私にとっての富野はガンダムに尽きる、という結論にたどり着かざるをえない。今まで、歴史学というアプローチでガンダムを捉えようと試行を続け、表現しきれずにいた部分も多かった。そこで今回は、柳川房彦氏に示唆を受けた「架空世界」という概念を取り入れてみようかと考えているのだが、はたして時間的余裕があるのか、どうか。できれば富野由悠季小論もまとめたい。
6/12 ズッコケ三人組
NHK教育で土曜6時から、あの『ズッコケ三人組』のドラマをやっている。気になって最近チェックしているのだが、なかなかよい。大体、この手のドラマでは気に入らない子役が一人はいてイヤになるものだ。原作に思い入れがあればなおさらだが、幸いそれもなく、観ていられる。難をいえば、「越中ふんどしをしめている」という噂がある年寄りだったはずの宅和先生がなぜか若い。ちょっと残念。
30分で一冊分の話を消化しようというのはムリではないのかと心配なのだが、毎回それなりにまとまっている、ようだ。今週は、『ズッコケ結婚相談所』だった。モーちゃんの母親の再婚話である。観た印象はやはり、よく30分に収めた、というものだったが、気になった点があった。
母親の再婚話に悩むモーちゃんが、物心つくまえに離婚した実の父親に会いに行く、というプロットはそのまま。モーちゃんは、父親が酒を飲んで暴力を振るったのが離婚の原因、と教えられていたのだが、原作では父親に冷たくあしらわれ、逆に酒を飲んだのは母親の方だ、と云われて、完全に父親をふっ切るという話だった。母親も、「離婚したのは間違いじゃなかったと今でも思ってる」と譲らず、両者の言い分は物別れのままである。ところが今回のドラマでは、父親(なぎら健壱!)が訪ねてきたモーちゃんに冷たくするのはわざとだった、という解釈で、父親の再婚相手によって離婚の原因が母親にあったことが暴露され、「父親はあなたが思っているような人ではない」と諭される。別れ際に父親との和解のシーンもあり、母親も離婚の原因は自分にあったことを認め、「今までウソをついていた」と謝る。
結局、「再婚には反対しないが、再婚相手を父親とは呼べない」というモーちゃんの言葉で母親は再婚を諦めるという結末は同じだが、父親に対する感情という点では、原作と大きく異なる話になった。ドラマの方も、解釈は異なれ、まとめるのに成功したと思う。原作の結末にはスッキリしない点があったのも事実で、ドラマとしては相応しい展開だったのだろう。実際、なかなか泣ける話だと思った。
それはそれとして、一番気になった点は、実はそこではない。モーちゃんの「兄」の存在である。原作では、モーちゃんが父親の家ではじめて、いることすら知らなかった実の兄に会う、というくだりがあるのだが、ドラマでは無くなっていた。原作では、父親にもまして冷たく、弟に全く興味を示さない兄の存在が印象に残っていたのだが、これがカットされていたのは残念だった。
このシークエンスにこだわる理由はそれだけではない。作者が本書『結婚相談所』のあとがきに書いていわく、そもそも、モーちゃんの本名を無意識に「奥田三吉」とつけたのだが、彼には姉が一人いるだけである。「三吉」とは三番目の子につけるべき名ではないか。モーちゃんには兄がいたのではないか?と、そのことに気づいた時から気になっていたのが、本書執筆の契機である――と、あったのが記憶に残っていたためでもある。この手の逸話が好きな私には、なおさら「モーちゃんの兄」が強い印象を残したのである。いや、それだけなんだけど。
原作のズッコケ三人組シリーズは未だに続いているらしい。古い方からポプラ社文庫に落ちているので、買い揃えようかな、とちょっとだけ思った。単価安いし。うーむ、児童文学好きだなー、やっぱ。
ちなみにドラマの方の次回は『ズッコケ山賊修行中』。これも原作は印象深いが、なかなか無茶なストーリーだ。どう処理するのか楽しみである。
6/9 お習字の時間
最近、お習字に凝っている。
お習字、という語感もかっこわるいが、書道、というほどご立派なものでもない。
現在のカリキュラムではどうか知らないが、私が小学校、中学校にいたころは、国語の時間のうち週一時間は習字の時間だった(と思う)。高校では音楽、美術、書道が選択科目だったので、迷わず音楽を選んだのを覚えている。
一体、私は昔から字がヘタクソで、母親がなぜ習字だけは習わせようとしなかったのか、今考えると不思議である。小学校の頃書いたものを見ると自分でもイヤになるくらいだが、では今では少しはマシになったのかというと、下手は下手だが判読しやすい字を心がけているばかりだ。
そんな私であるから、毛筆、墨汁、文鎮、半紙といったものとは学校でしか縁がなかった。小学校の最初の習字の授業で、先生が「筆は2/3だけおろせ」と言ったのを、適当にやったので半分くらいしか柔らかくならず、残り半分は糊で固まったままで、しかもロクに水洗いもしないので墨汁でさらに固まって使いにくいことこの上ない筆であった。習字はずっとキライだったが、その原因の大半はこの筆にあったのではないかと思う。それでも筆を換えるなど思いもよらず、ずっとその筆を使いつづけていたのだから、これで楽しいわけがない。中学で習字を担当した教師は、文学青年のなれの果て、というか、かなりエキセントリックで気むずかしいタイプだったので、機嫌を悪くすると手がつけられず、そのせいで習字の時間はますます気が滅入るものとなった。その先生は一応、それなりの能筆家で、聞いたところでは「湖風」と号していた。どうでもいいことをよく覚えているものだ。筆は相変わらず例の筆である。習字が楽しくなるはずもなかった。
書道とはそれっきりのつきあいだが、その後私は、レタリングの一種としての「書き殴ったような毛筆書体」に興味を持っていた。筆と墨汁を用意して書いてみよう、とはなかなか思わないものだが、ある時必要に迫られて、(切羽詰まっていたので)面相筆を製図用インク(墨汁くらい手元にあったはずだが)に突っ込んで書いたところ、これが意外に効果的だった。味を占めた私は、このサイトを立ち上げるにあたって、タイトルロゴに使えると思い、ひとつ本格的にやってやろうとばかり文房具屋に筆を買いに行った。
もとより一番安いのを買ってやろうくらいの考えである。高級なものは際限なく高くなるのは分かっているし、そもそもほんの気まぐれではじめようというに過ぎないのだ。というわけで1000円の筆を買ってきたが、これが今ひとつ。初心者には「短峰」の方が使いやすいとのことなので、小学校の教師もあながち間違ってはいなかったらしいが、昔のリベンジのつもりで一気に全体をおろしてしまう。人工の毛だからやたら弾力が強く、大げさに言うと歯ブラシみたいな手応えだ。練習用にはいいんだろうけど、穂先が揃いすぎるので強弱もつけづらい。
そこで結局、現在は面相筆を使っている。書道でいう小筆くらいの太さだけど、非常に毛が柔らかく、根本までいっぱいに使えるので、太さも自在にかえられる。自在な分だけ乱れやすいともいえるが、習字には断然、これを使うべきだ、と私は思った。西洋ではサイン=筆跡がアイデンティフィケーションであるのに対して、日本の習字はひたすら画一的な「お手本」の字に近づけようとする、という指摘があったが、まさにその通り。わけのわからない自由詩など作らせる前に、自由闊達な字を書かせるのが正しい国語教育の第一歩だ、と私は確信した。
閑話休題、それ以来、興が乗ると開明墨汁に面相筆で、一心不乱に書きつけるのだが、なるほど禅のマインドにも通ずる点がある、心が洗われるような気分になってくるではないか(大げさ)。みなさんにもお薦めしたい。
難点は、紙を無駄使いしているような忸怩たる気分になるところだろうか。といっても、もともとミスコピーやプリンター用紙の反故がいくらでもあるからその裏を使っているので、実際には消費量が増えたわけではない。
たしか中村博文画伯だったか、「同じ字を何百枚も書いていると、文字が記号になってくるのがわかる」と言っていた。小学校の教師も似たようなことを言い、その境地に入ってからが字の上達する瞬間なのだ、というようなことを言っていたが、今にしてその意味がわかる気がする。何度も繰り返し書くうちに、自分でもハッとするほどうまい字が書ける瞬間があるのだ。審美眼も欠けている私には、それが本当に「巧い」のかどうかはわからないのだが。
と、本来ならば今回の更新でトップの題字を新しくするつもりだったのだが、なかなか納得いくものが書けないのでパスする。かっこわるー。今の字も出来はよくないんだけど。誰も見てないよね、もはや。
余談:文具屋の書道コーナー(?)に、「写経セット」なるものがあった。般若心経が楷書で書かれた「お手本」と、縦罫線の入った紙のセットで、お手本を下に敷いて、般若心経を写すらしい。思わず買いたくなったが、とりあえずやめておいた。うーん、話の種にもなるし、欲しいなー。
6/1 断腸亭日乗
永井荷風ってガラじゃないけど(あたりまえだ)。
久々に(というかはじめて)メインページの絵を替えた。絵的には前の方がマシだったと思うが、どっちにしろ数分で描いたラクガキである。加工の方が時間がかかるくらいだ。もともと適当に描いてはちょくちょく更新するつもりが、数ヶ月間そのままだったことになる。そこまで気に入っていたわけではなく、単なる横着。
何故『ずっしょ』なのかわからん人も多いと思うが、某所で(私が勝手に)盛り上がったので、と云うしかない。一体、余所では大いに盛り上がっている話題も、自分のHPではおくびにも出さなかったりと、私のやっていることはよくわからない。身の周りのことでも、これはネタになるな、とか、これはまだ書かないでおこう、などと微妙な線引きをしているのだが、基準は自分でもよくわからん。今回の更新は新たな一歩を踏み出す歴史的な転換かもしれない。
たとえば、このサイトからリンクしているデジアニメコーポレーション。シーズウェア、そしてエルフを飛び出した菅野ひろゆき氏が黒幕であることは公然の秘密なのだが、その第一作『プレゼントプレイ』が、いよいよ6月24日に発売する。ジャンルは「華劇アドベンチャー」とやらで、着せ替えゲーなのだが、ヒロイン3人全員に、メガネをかけるシチュエーションが用意されているのだ!純メガネキャラは一人だけど。
そして、その一人というのが――デジアニメのHPでヒロインのボイスデータが一部公開されたのだが、キャストがなんと井上喜久子であることがほぼ確認された。以前にも18禁アニメに出たことが一度あるらしいが、関係者は動揺を隠せない様子。私はそれを面白がっているほうだが。それがメガネのお姉さんキャラ、高梨ヨウコ。一人称が「ボク」の麻生ユウキは、私の一押しキャラなのだが、声は今井由香らしい。その筋での分析結果が一致しているので確かだろう。まぁ特に思い入れはないが、聞いた感じではオッケー。そして3人目のロリ系、綾小路ナミは――聞く前からわかってしまった人もいるかもしれないが、こおろぎさとみ。あまりのベタさ加減に私も脱力してしまった。キャスティングにも力を入れてるのは確かだろう。もっとも私は、原画が中沢一登という時点でとっくに購入決定している。あれほどの絵描きが、形の上とはいえ田島直(EVE、ただしburst errorの)の下に甘んじていられるのか、心配なのだが。
などという話は、あちこちで吹聴しているのだが、なぜかここには書いていなかった。なんでだろう?
ついでだから、まだ秘めておくつもりだった情報をさりげなく書いておく。夏コミにスペースが取れた。一日目(金)東カ−35b、サークル「DORMOUSE SOFT」。やまねプロダクションは協賛という形での参加となる。知っている人は殆どいないようだが、準備会のHPで当落が確認できるのだ。通知のハガキは発送が遅れているらしいけど。
夏コミについてはいずれ宣伝をはじめるつもりだけど、今はここに書くにとどめる。ガンダムか、プレプレか、ヤマモト・ヨーコか、それとも…?
5/30 ミラクル・リトル・ジャイアンツ
白状するが、私は巨人ファンである。
阪神ファンというのも独特な存在だが、巨人ファンというのも一種特殊な生き物だろう。二種類に分けるなら、@長嶋茂雄が好きだったオヤジ、Aその他、というところだと思う。
@に関してはいうまでもあるまい。私の親父がまさにこれであった。長嶋茂雄が監督に就任したときは、「長嶋さえ監督をやっていれば巨人ファンは満足なんだ」などと至極嬉しそうであったが、負ければやはり機嫌が悪い。微笑ましい人達だ。私はこの父親の影響で、一時期はわりと熱心に巨人を応援していたものだが、じきにどうでもよくなってしまった。最近はわりと野球を見るようになっているが、ブランクは相当長い、いわば懐古的巨人ファンである。が、私のことは後述する。
Aその他、というのは、正直いってなんだかよくわからない。私の知人、主に同年代の巨人ファンというのは、オヤジどもと一緒に蔑まれて肩身が狭いのか決して数は多くないが、何故、巨人が好きなのかよくわからん連中が多い。野球ファンの殆どにバカにされながら(あるいは私が意識しすぎなのか、)巨人ファンを続けていくモチベーションのようなものを感じないのである。まあ、好き嫌いは理由というよりキッカケだと思うし、誰それが好き、というようなタレントは多いのだからそういうものかもしれない。
では、私の巨人というものを語ろう。長嶋茂雄は好きではない。長嶋の偉大さなんてものは我々世代は知らないわけだから、ただのバカなおっさんにしか見えないわけである。では誰か?もちろん、王貞治である。何よりホームラン世界記録がでかい。世界の王である。小学校の図書室には、エジソン、ワシントン、ベートーベンなんかと並んで『王貞治ものがたり』のマンガがあった(長嶋もあったとは思う)。くわえて、物心ついた頃には、巨人の監督は王だった(歳がばれるなー)。少なくとも私にとって、背番号1・王貞治こそ神様のような人だった。「王監督」は万古不変の真理だとすら思っていた。だから監督が藤田元司に替わった時は非常なショックを受けたのを覚えている。藤田って誰それ?これはある意味、巨人ファンとして正しい姿であったと思う。
うまくまとめる自信がないのだが、ここで本題に入る。「巨人の選手が、ウルトラ兄弟とダブる」と言ったのは誰だったか、これはウルトラマンと同じレベルに巨人の選手という偶像というかヒーローが存在する、という一面の真理を突いている。野球マンガにおける長嶋茂雄・川上哲治はちょうどプロレスマンガにおける馬場・猪木のように理想として描かれる。これは現実においても、巨人の選手にはプロレスラーと同質のショーマンシップ、虚構的なヒーロー像が求められていることに対応しているのではないか。人はジャイアンツにウルトラ兄弟を見るのである。
それを一番よく知っていたのが梶原一騎で、ボール一個分の大きさの壁の穴に飛雄馬が投げ込んだボールを、川上哲治が打ち返してやはりその穴を通す、という『巨人の星』のエピソードはあまりにも有名である。さすが「打撃の神様」、と当時の少年はうなづいたのだろうか。また星飛雄馬が、その川上の永久欠番16番を背負って入団する、というシチュエーションもまさに梶原一騎の真骨頂というべき絶妙のハッタリである(『新・巨人の星』で復帰する際の背番号は長嶋茂雄の3番)。ちなみに、永久欠番というのは公式に制度化されているわけではないので、これは現実的にも問題ないらしい。閑話休題。
私が純粋な巨人ファンでいられた頃のジャイアンツは、まさにウルトラ兄弟並のキャラクターが揃っていた。「青いイナヅマ」松本匡史、「職人」篠塚利夫、クロマティ、原、中畑、駒田、吉村、岡崎、山倉、…単に思い入れがあっただけなのか、豪華なのは事実だが、私にとっては特別としか言いようがない顔ぶれである。事実、私は97年までは、友人に止められながらも野球ゲームでは吉村をライトでスタメン出場させていた。これは次に述べる「バカ理論」とも通じると思われる。
それは「代打、宮本!」を見た瞬間だったと思う。「これだ!!」今の球界に唯一人、水島新司のマンガに負けないバカを現実にやる人物がいる。巨人の監督というのは、まさにこれでなくてはならないのだと、私はその瞬間悟った。
地味だが堅実な監督に、数年がかりでチームを作らせる。しかる後に、人気のある監督を胴上げさせる――藤田→長嶋もこれだったはずだが、他のチームもやっていることだと思う。しかし、最近の巨人がやっているのは、絶対に他のチームにはマネできないことである。すなわち、首脳のまずさを金でカバーする。換言すると、指揮の拙劣さを、選手の個人能力を高くすることで補う。逆の言い方をすれば、贅沢すぎるほどの戦力と、監督のバカさでバランスをとる。現在は呆れるほどの戦力増強をもってしてもバランスが取れないほどに監督のバカさ加減が冴えわたっているが…。
「人気のあるバカ」ということで、原辰徳をもってきたのは絶妙で、誰だか知らないが全てわかっててやってるんじゃないのか、と思う。「野手総合コーチ」などという肩書きを付けてみせるあたりも、プロレスを彷彿させる売り出し方ではないか。原は昔からけっこう好きだった。あんなバカだとは知らなかったが、知った今も好きである。引退のときの異常な盛り上がりは逆に白けたくらいだが、今にして思えば、監督候補として得難い人物なのだろう。
さんざんなことを書いてきたが、現在の私はこのように、巨人の野球という現象を気楽に楽しむ、という立場で、これはファンというよりあるいは巨人を馬鹿にしている他球団のファンに近いのかもしれない。でも原、篠塚、鹿取といった顔ぶれが控えているベンチを見るとやっぱりスゲーと思うし、「篠塚を出せ篠塚を!」と叫びたくなることもたまにはあるのだった。
そんな私だから、二岡より川相びいきである。この前もセカンドというなれない位置でものすごい美技を見せてくれた。二岡は引っ込めバカヤローと思っているとホームランを打ったり、わけのわからんところでやってくれたりするので、これは代打で使うべき選手だと思えてならない。あと槙原は先発に戻せよ。
今日の試合が面白かったので、つい筆が走りすぎた、ということにしておく。
5/7 フーダニット・サーカス
世の中には、二種類の人間がいる(、と、私は思っている)。
すなわち、わかってる人と、わかってない人。
自分がどちらに属するのか、知っている人も知らない人もいる。わかってるのが当然と思っている人、わからなくていいと思っている人、どちらだろうと無頓着な人――
では私はどちらか、というと、わかってない方に自分が属していることだけは知っているつもりである。ソクラテスになぞらえれば、それは真の知にいたる出発点のはずだが、自分がそこからどちらへ進んでいるのか、あるいは退いているのか止まっているのか皆目わからないのは、やはりイヤなものだ。
御無沙汰でした。こんなことを何度も書いても仕方ないのですが(“「仕方ない」という言葉はキライだ”)、元来このコーナーは、できるだけ気楽に書けるよう、形式上の制約を無くすのが主旨だったはず。ところが気がつくと、毎回一つのネタを一定量の文で書こうとしている自分がいる。その結果書かれたものは、私がトピックと呼ぼうとしているものの出来損ないばかりです。だから――だからこそ、今日はこれだけ。
4/24 理想のシティーハンター
ポスト『ルパン三世』的なシリーズとしてスペシャルがまたまた登場のシティーハンター。放送日をすっかり忘れていて、9時過ぎに気づいたんだけど、ナイター中継の延長のおかげで間に合った。よくやった横浜。
冗談はさておき、結論から書きますと、今回は文句なしにシリーズ史上最低の出来でした。
なんつーヒドイ脚本だ。
私はシティーハンターには思い入れもあるし、脚本にはかなり寛容なつもりである。モノがモノでもあるし、ムリが通れば道理が引っ込む部分はあって当然と考えている。にしても、こりゃないでしょ。
シティーハンターのストーリーなんてものは、基本的にワンパターンである。長尺の構成がある程度しっかりやれる脚本家がいれば充分なはずなのだが、納得のいかない設定の数々、行き当たりバッタリな展開、無茶苦茶なオチ、努めて何も考えないように頭を空っぽにして観てすら目に余るシロモノだ。ついでにセリフ回しもダサイ。いちいち指摘はしない。
今回の主立ったスタッフリストを挙げよう。
脚本:岸間信行
作画監督:佐久間信一
総監督:奥脇雅晴
脚本。見たような名前だと思ったら、先に発売されたノベライズ版も書いてた。90分の構成にはそれなりの技量が要るんだから、もっとまともな脚本家を連れてきなさいよ。作画監督。TVシリーズの作監は一目で全員見分けられる私だが(やや誇張)、聞いたことも無い名前だ。総監督。誰?知らん。どいつもこいつも、おそらくTVシリーズでサブライターやら原画やら演出助手やらをやっていた連中が出世したのか、サンライズは完全スタジオ分業制だから全く別のスタジオなのか、それは知らないが、これだけは言える。全員力不足。
ルパン三世スペシャルに習い、毎回スタッフを替えていくことにしたのか?とはいえ、向こうもどんどんつまらなくなって行ったが…。ちなみに、私は『ナポレオンの辞書を奪え!』がお気に入りだったのだが、監修を出崎統がやっていたことを最近知った。
やるなぁ、やっぱり。
私の考える『シティーハンター』理想のスタッフは、ほぼ『シークレット・サービス』の時のメンツである。
脚本:遠藤明範
キャラクターデザイン:神村幸子
作画監督:北原健雄
総監督:こだま兼嗣
遠藤明範では可もなく不可もなさすぎるので、山口宏あたりを起用してもいい。シリーズに関わった経験のあるライターが望ましいのは勿論だが、オリジナルのイメージを絶対に崩さずその魅力を120%引き出して見せるのが山口宏の十八番である。キャラクターデザインは神村幸子で安定。が、原画を描かせるとややクセのある、くどい絵になるので、作監は北原健雄、神志那弘志、谷口守泰らTVシリーズ歴戦の猛者から選ぶべきだろうが、やはり総作監の北原健雄が一番安心できる。演出に目新しさは要らないので、監督は勝手知ったるこだま兼嗣で問題なし。
『シークレット・サービス』では、原作終了後の?(リョウ。漢字が表示できません)と香の関係、を主眼においていた。冒頭、リョウと香に追いつめられた殺し屋が叫ぶ。「聞いてないぞぉ!シティーハンターに相棒がいたなんて!!」リョウが返す。「俺達は二人でシティーハンターなのさ」――これまでさんざん繰り返して取りざたされ、エンディングで見せていたシーンをアバンタイトルに持ってきた、さらにOPは原作の最終回を意識した構成。なるほどお見事!今回はそういう趣向か、と思ったのだが、本編の方はイマイチだった。理由としては、某国の要人が来日して、という黄金パターンは健在なのだが、その要人のシークレットサービスであるところの女性を本人に気づかれぬように護衛する、という意味不明なシチュエーションの必然性が見えなかった、というのが一つ。もう一つの理由は後述しよう。
総合評価でシリーズ中ベストを挙げるなら、トップはやはり劇場版『愛と宿命のマグナム』だろう。父娘の関係というテーマは奇しくも『シークレット・サービス』と同じである。違うのは、実は私はこれがシティーハンターに不可欠な要素だと思うのだが、魅力的なライバルキャラクターの存在である。ゲストヒロイン・ニーナの父親であるヘルゼン大佐との対決がストーリーの軸となって盛り上げるポイントになっている、これが成功の要因だったと私は思う。
『シークレット・サービス』にはダンケルクという殺し屋が登場するが、ライバルとしては役不足で、二流の悪役でしかない。ここで、シティーハンター、ライバルの条件。裏の世界で、超一流のプロと言われる凄腕であること。カッコイイこと。できればリョウと何らかの因縁があること(過去の相棒、師弟・親友であったなど)。例を挙げれば(海坊主は別として)、TVシリーズのロバート・ハリスン、マイケル・ガーラント、ソフィー・シルバーマン、原作ではミック・エンジェル、ケニー・フィールド、ローズマリー・ムーン、などなど。
『愛と宿命のマグナム』以降のシリーズが今ひとつ盛り上がりに欠けるのは、ライバルの不在が要因だと思うのだ。どうせワンパターンなら、魅力的な仇役との対決を主軸に据え、その上で趣向を凝らせばいい。
その意味で今回のプロットは正解だったはずなのだ。エンディングを見る限り、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の路線を狙ったのだと思われる。最近では史上初の直木賞・乱歩賞W受賞作(だったはず)『テロリストのパラソル』(藤原伊織・著、だったはず)が同じパターンだった。閑話休題、現在はメディア王として君臨するかつての戦友との対決、という設定は方向性として間違っていなかった。ただ見せ方が稚拙だっただけで…。かつての親友・ジャックに関する伏線は全然ないので、エンディングであれだけあざとく見せられてしまうと却って興ざめなのだ。シティーハンターなんだから、バレバレでいいからもっと伏線を張りまくるべきだった。さらにいえば、傭兵時代のリョウにあんな親友がいた、という設定には承服しかねる点もある。もう少し気を使って欲しかった。
オチもひどいものだったが、エンディングに『GET WILD』が流れるだけで、全て許せるような気分になってしまうのが、このシリーズの得なところだ。こりゃ反則だ。変なアレンジだったけど。好みの問題もあろうが、OPのsex MACHINEGUNSは今ひとつイメージに合わなかったのではないか。『シークレット・サービス』の時のKONTAは、明らかに岡村靖幸、大沢誉志幸らの“変な歌い方”と同じカテゴリーに属していて、シティーハンターに実によくマッチしていた。余談だが劇中で『愛と宿命のマグナム』の挿入曲であるピアノのアレンジが使われていたのも、感涙もののシブい選曲であった。
実は、前回のスペシャル『グッドラック マイ スイートハート』(だっけ?)は見逃してしまった。周囲の評判(私の評価と食い違うことも多いが)も芳しくないのでビデオを借りてまで観る気にならないが、再放送の際には観るつもりである。
4/23 ヨーコプロジェクト
おかしいとは思っていたのだ。確かに綾乃はいい。久々のみやむーに新鮮さを感じるほどだ。高山みなみだって悪くはない。林原は個人的にはどうでもいいのだが。デコだし…と、そんな話ではない。何故だ?
最初は奥井雅美の歌のせいだと思った。シングル発売は5/8か、ちくしょー待ち切れねえとかいってビデオを巻き戻してはOPを100回くらい観た。奥井雅美のベストアルバムを友人に借りる約束を取りつけた。もっとも今回の作曲は矢吹俊郎だけど。……しかし!そんなことでは説明しきれない。何故だ!?
何故、私はいまさら『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』にはまりつつあるのか?
理由は至極、簡単だったのだ。あまりに単純明快すぎるが故に、私の理性がその答えを拒絶していたのかもしれない。制作会社がJ.C.STAFFという時点で気づいてしかるべきだったのだから。
勿体ぶらずに一言で書くと、キャラクターデザイン・渡辺明夫である。
まだ分からない?…仕方あるまい。ではもう一言。
『ずっといっしょ』だ。
これでわかったでしょう?え?まだダメですか。
もうやめよう。
以前私は、『ずっといっしょ』というギャルゲーの
レビューのようなもの
を書いた。努めて冷たく突き放そう、笑い飛ばそう、としたものの、文全体ににじみ出る屈折した愛情のようなものをそこに読みとるのは容易である。そう、私はこのゲームを愛していた。何故だ?(やめろっての)
絵が好きだったのだ。それに尽きる。ギャルゲーは絵で選べ、は現在も私の持論だが、そのことの是非はさておいて、『ずっしょ』が好きな理由は渡辺明夫の絵柄に説明を求める他はない。基本路線はオーソドックスなアニメ絵、目は大きすぎずスッキリした線で、適度に丸く…好みをいえばキリがないのは当然だが、巧拙以上に好みに忠実な私の趣味にズバリ的中してしまったのが我が身の不幸、ケチのつきはじめ、盲亀の浮木、優曇華の花だ。
というわけでヤマモト・ヨーコである。とはいえ、本編の出来はツライものがあるのだが…思い入れだけでどこまで観られるか、やってみるしかあるまい。
最近尻切れトンボが多くて申し訳ないのだが、書くだけ書いた気がするのでお開き。何がいいたい?と自分でも聞きたい。
4/18 それは心の隠れ家、
私事で恐縮だが、今日は某資格試験で計5時間、蒸し暑い部屋で机に向かって苦闘したので死にそうに疲れた。久々に完全な一夜漬けで、しかも結構必死に取り組んでしまったので。つーわけなので前回の続きは次へ持ち越しにさせてもらいます。
それでは疲労した身体にムチ打って何を書こうというのかというと、これである。
蓬莱学園!! 我が心の故郷、青春の全てがそこにあった。私は未だに本屋で富士見ファンタジア文庫の新刊が平積みになっているのを見ると、反射的にあのタイトルを探してしまう。そう、『蓬莱学園の革命!2』を。無い、無い。あんな○○○なシリーズの続刊は出ているのに、何故?今日もまたそんな寂寥の念を背負って帰ろうとした、と、その時!何かが私の足を止めた。どうした?何の変哲もないファンタジア文庫じゃないか。『フルメタル・パニック』、3冊出ているからそれなりに好評なシリーズなのだろうが、特に私の目を引くものではない――。目に入ったのは、著者名だった。
賀東招二。本シリーズでファンタジア文庫デビューした新進作家、というのは世を忍ぶ仮の姿、彼こそは蓬莱学園グランドマスター・柳川房彦氏のもとでマスターを務め、グランドマスター後継者とも目されていた、かどうかは知らないが少なくとも私はそう見ていた。蓬莱学園第一短編集では、表題作ともなった佳作『弁天女子寮攻防戦』でこの人ありを天下に知らしめたその賀東招二がファンタジア作家然として(失礼)ドラマガに短編の連載まで持っているというのである。ああ、あの良き時代は終わったのだと、私は今更ながらの思いを噛みしめた。
八雲睦美生徒会長の退陣。個人的にショックだった秘密結社“黄昏のペンギン”総統・上福岡三五八の卒業。そしてこちらは全学を震撼させた、公安委員長・離修竜之介まさかの卒業、教師就任。次殻二月の跡を受けて就任した生徒会長はなんと、恵比寿寮大破壊の張本、白鳥咲耶だった。――時代は変わったのだ。今は生徒会長が誰なのかすら知らない。…それでも、「あの時代」にケジメを付けなければ、先には進めないのだ。『蓬莱学園の革命』が完結しない限りは。
とにかく私は、『フルメタル・パニック』の1冊目を買って帰った。『あとがき』のスペシャルサンクスに新城カズマ(旧・十馬)の名を見たためである。このあとがきは賀東ホームページのアドレスや蓬莱学園ネットゲームの情報も掲載されているエキサイティングなものだった。そして私は有限会社エルスウェアの存在を知った。蓬莱学園が遊演体を離れるというような噂は耳にしていたが、その筋の情報にはすっかり疎くなっていた私は今日まで柳川房彦氏の消息も知らなかったのである。
オチがつかないのでもう終わる。メイルゲーム『蓬莱学園’99』は、遊演体との間で開催を協議中とのこと。終わってはいない。敢えて最後に書こう。
見よ、蓬莱学園はそこにある!
4/11 映画はビデオで観ろ! 《その@》
映画館でまず問題になるのが、ロケーションである。近すぎて見づらいなんてのは論外だが、位置はよくても前の客の頭が邪魔でスクリーンが見えないのが一番始末が悪い。
先日行った時は、最後列中央やや右という理想的な席を確保した。かなり段差があるので視界良好、現に目の前の席にはすでに客がいたがスクリーンがよく見えるのは確認できた。最後列なので自分が後ろの邪魔になることもない。まさに最高のポジションである。
ところが、目の前の客、『三田評論』など読んでいたのでおそらく慶応の、物腰からみて大学院修士課程、専攻は現代日本文学とみた(根拠無し)、が突然動いた。ほぼ席が埋まりかけた館内をうろついていた外人に声をかけたのである。「ここどうぞ」とかなんとか言ったのだと思うが、その外人が中央の通路から入ってきたので自分が一つ右にずれて席を譲った。つまり私の目の前はその外人になったのだが、彼が身の丈190センチはあろうかというずば抜けた長身だったことが(私にとって)災いした。私の視界、スクリーン中央下半分が完全に彼の後頭部で遮られているではないか。スロープ状の座席配置も、規格外サイズのこの外人までは計算に入れてなかったらしい。今や私の席は館内でおそらく唯一、前の客の頭が邪魔でスクリーンが見えない席になってしまった。幸いにも私の右隣の席はまだ空いていたので、そっちへ移って事なきを得たが、心中は再び私の目の前の席の客となった慶応野郎に対する、国際人ぶりやがってこの似非インテリが!という理不尽な怒りに満ちていた。
そんなトラブルも含めて映画体験は成立する、という意見もあろうが、私にはそんなものいらない。例の『ガンドレス』のように、もう2度と観られない!というのでもない限りわざわざ観に行く気にもならないのだ。映画ファンのように半ば義務に駆られて観に行く人達はビデオになるまで待てないのかもしれないが、私にはそれもない。ちょっと棘があったかな。
劇場で観るメリットは他に何があるだろう?大画面。『ジュラシック・パーク』が公開された時にさんざん言われたが、私は映像の迫力に殆ど興味がないのであまり意味がない。走ったり、飛んだり、爆発したりと言ったことにも興奮を覚えないので、アクション映画もせいぜい、ニコラス・ケイジのマヌケ面よりはピアース・ブロスナンの正統派二枚目顔の方が好きだ、といった程度だ。まあ、スターシステムとはそういうものかもしれないが。同じアクション映画でも『ダイハード』の駆け引きの妙が好きである。が、同じブルース・ウィリスの『フィフス・エレメント』の映像には少しも関心が持てないのだった。
音。『プライベート・ライアン』を観た劇場はかなり音響の良いところだったので、迫力があった。デジタルシアターシステムズだそうだ。弾丸が空気を切り裂く音、弾着の音、弾が金属に当たる音がサラウンドで聞こえてくる。こればかりはヘッドホンでは再現できない。無論、元の映画の音が出来ていての話だが。
このくらいしか思いつかないが、劇場での映画体験を特別視する立場からすれば自ずと異なるだろう。映画ファンの意見を聞きたいものである。
近々、映画のトピックを立ち上げようと思っているので、こうしてデタラメ書いているうちにその叩き台になるかと思ったのだが、さっぱりモノにならない。続きは次回。いよいよビデオの話。
4/2 盗まれた手紙
今日は日記風に。
TVのリモコンが行方不明になった。部屋の中で。
整理整頓の得意な人には(というか普通の人には)想像しづらいと思うが、私の部屋では、つい一秒前まで使っていた物がほんの一瞬目を離した間に無くなる、ということが頻繁に起こる。昔からそうだが独り暮らしを始めてからますます部屋の散らかり方が酷くなった。私の部屋を訪れた知人は大抵最初に、「どこで寝てるの?」と聞く。ベッドはあるのだが半分以上のスペースが物で埋まっているためである。いわゆる『床に平行な平面』には全て本が積んであると考えて間違いない。これがしょっちゅう崩れるのでますます状況は悪化する。先の質問に対する答えは、「わからん」。私以上に散らかった部屋で名高い友人がいるが、「どうせ片づけても一日で元に戻る」というのが彼と私の一致した意見である。
そんな私の部屋では、必然的に自分の居場所というのも限定される。机に向かっているか、ベッドに座っているか、床に確保してあるスペースに座っているか、しかない。そこで無くなった物、リモコンだったり、文庫本であったり、CDだったりと様々だが、それらは明らかに手の届く範囲、せいぜい半径1メートル以内の空間にあることが確実であるにも関わらず、いくら探しても見つからないのである。
今回はTVのリモコンが消えた。4つもリモコンを使っていると、置き場に困って妙なところへ置いてしまうことも多いし、紛失することも無論ある。が、最も使用頻度の高いTVのリモコンを、これほど長時間に渡って見失ったことはかつてなかった。殆ど一晩中探しても、無い。
ありとあらゆる可能性を検討した。ベッドの上・下、雪崩を起こした本の下敷きになった?ベッドから滑り落ちてゴミ箱かどこかへ紛れ込んだ?果てはカバンの中から上着のポケットまで探したが、無い。
ふと私は、珠玉の名短編『盗まれた手紙』を書いた時のエドガー・アラン・ポーはきっとこんな気分だったのだろうと思った。
ポーという人物はいわゆる破滅型の人間で、その私生活はだらしないことこの上ないものであったらしい。思わず親近感を覚えてしまうが、無論、その生活からくる不安定な精神状態を文学に昇華したのがポーの偉大さである。ただのダメ人間ではない。にしても、その真に迫った筆致は彼の心情を吐露したものに違いないと思われる点が多々ある。一人称で書かれた短編『ウィリアム・ウィルソン』の冒頭の一節を引用しよう。
かりにしばらくウィリアム・ウィルソンとしておこう。なにもわざわざ僕の本名をあげて、僕の前のこの美しい紙面を汚すことはないからだ。それはすでに、僕等一族にとって、あまりにも侮蔑、――恐怖――嫌悪の対象となりすぎている。その比類ない汚辱は、風さえ怒って、すでに世界の果て果てまでも、姦しく吹き伝えている有様ではないか。おお、追放無慚の堕地獄漢よ、この世界と、そしてその名誉、その栄華、その黄金なす希望に対しては、汝はすでに永劫に死んだものなのだ。 (中野好夫訳)
追放無慚の堕地獄漢よ、というフレーズが私は好きなのだが、中野好夫によるこの訳が日本では決定版らしい。ちなみに原語ではこの部分は、< Oh, outcast of all outcasts most abandoned ! >となっている。ともかく、この延々と続く自虐、罵言の数々は、作者が自らに浴びせたものに他ならないのだろうと感じさせる迫力がある。
『盗まれた手紙』は御存じの通り、ある建物の中にあることが確実な一通の手紙が、いくら探しても出てこない、という話である。ミステリー仕立てになっているが、このプロットは、あるはずの物が探しても見つからない、というポー自身の体験に着想を得たものだと私は確信している。つまり、ポーは非常に片づけの苦手な人間で、部屋を散らかしていたに違いない、というのが、私の提出する文学史上の新説である。また一つ自分との共通点を見つけて、改めてポーに親近感を覚えた私であった。
その後リモコンは無事発見されたが、どこにあったかは書かないでおくことにする。
3/25 ゴッド姉ちゃん
今日のお題は「ゴッド姉ちゃん」である。前回の『ギルガメシュ叙事詩』との落差に我ながら驚いているが、その前はコロコロコミックだったのだからバランス的には妥当なところかもしれない(?)。
「“ゴッド姉ちゃん”って何?」と聞かれたら、皆さんはどう答えるだろうか。何を聞かれているのか分からない人が大半だと思う。こんな訳のわからないことを調べるにはどうすればいいのか。ありとあらゆる項目で引けるアカシックレコードのような百科事典があれば、と私は時々本気で思うのである。事典は見出し語でしか検索できないのが難点だ。情報検索のシステムが最も優れたデータベースは、人間の記憶なのであった。
一体何の話なのかというと、「ゴッド姉ちゃん」というフレーズの元ネタが分かった、という話なのだ。
『サルでも描けるマンガ教室』の「ウケるファミリー4コマの描き方」の回で、竹熊が「ファミリー4コマは「さん」「ちゃん」「くん」が語尾に付いて、今まで使われていないタイトル!!これさえ見つかれば、あとはもーどーでもいいのだ!!」と暴言を吐く。その場面で使われるギャグなのだが、大御所マンガ家・青空のぼるが4コマ誌に新連載を始めることになり、編集者にタイトルを伝えるのだが、『ホカホカねえさん』にしようとすると、すでに同じタイトルのマンガがあるという。仕方がなく『ホカホカねえさま』『ホカホカねえさんちゃん』と似たようなタイトルを次々に提案するが、みなすでに使われている。最後にヤケクソになって「『ホカホカゴッドねえちゃん』!!これでどうじゃ!?」と叫ぶと、やっとそれに決まる、という。要するにファミリー4コマなんかどれも同じで、しかもタイトルも同じようなのばっかりだというオチなのだが、いいのかこれ?「なんかこんなよーな絵でウッカリチャッカリしてて、4コマにさえなってればそれでいいのだ。」とか言って、本当にこれがこの回の結論になってしまっているのである。
それはさておき、ここに『ホカホカゴッドねえちゃん』というフレーズが登場したのだが、何故「ゴッドねえちゃん」なのか、妙に気になってしまうのが私の悪癖である。なにか元ネタがあるんだろーなと思いながらもそれが何なのかは分からなかった。
説明が冗長でうっとおしいが、もう一つ例を挙げる。今はなき、月刊少年キャプテンに連載されていた、あさりよしとおの『宇宙家族カールビンソン』のネタで、劇中劇にかこつけて、暗示的に(といってもかなり露骨だが)映画の辛口批評をやってのけるという回である。『ゴジラVSデストロイア』がネタなのだが、劇中に登場する映画は『ゴッド姉ちゃん対デストロイヤー』面白いので劇中の会話を引用する。
「幻の超兵器「4の字固め」から生まれた完全生物デストロイヤーが大暴れする映画なんだけど……科学考証は一つも正しくない/専門用語は全部意味が違う/セリフには脈絡が無くて全くかみ合わないし/ストーリーには起伏が無い!!」
「だいたい生物が原子力で動いてレーザー光線に燃料がいる世界なんだぜ!!」
(間)
「なるほどそりゃすごいお笑い映画だ」
「でしょー」
「”この物語はフィクションであり実在の人物・団体・一般常識・物理法則とは関係ございません”……ってわけさ」
さらには、
「低温レーザーとかのたわけた設定も/マンハッタン計画以前の原子力の認識も/素人の集団にしか見えない特殊部隊も/全部ギャグだと思ってたのに……アレ…全部本気らしいんだ。」
そして、
「今度のはなんだァ!?他の映画の名場面のパクリばっかり/おまけに全部元ネタよりできが悪いときてる……/やる気のないエキストラ/水と油の特撮と本編/科学常識をくつがえすバカな設定の数々/見てるこっちの頭が悪くなりそうだ/そして意味もなく唐突なラストシーン……/しかもオチが無い」
ちなみに『ゴジラVSキングギドラ』の時には、朗読している小学校の国語の教科書が批評文になっているという仕掛けだった。「…何より金色の怪獣の出生の秘密が人をナメている」という具合。
話は脱線したが、ここにも「ゴッドねえちゃん」が登場したことによって、私の疑念に対する確信は深まったわけだが、それからさらに長い間、元ネタは謎に包まれたままだった。その疑問が遂に氷解するときが来た、というのが今回の話。
ある脚本家の書いた文章を読んでいたら(ごく下らないエッセイなのだが)、唐突に見つけたのである。引用しづらいので結論だけ書くと、かつて『うわさのチャンネル』というTV番組内に、「ゴッドねえちゃん」というコーナーがあった。どんな内容かは「せんだみつお君やデストロイヤーなんかと一緒に和田のアッコちゃんにいびられる」という記述があるのでおおよその見当は付く。
かくして私は、「ゴッドねえちゃん」の元ネタは何なのかを知ったが、なおかつその元ネタを直接見知っているわけではない、という結果が生じた。いつもこんなことばかりやっているので、わけのわからない知識ばかりが増えていくのである。
上記の引用部に「デストロイヤー」なる人物が登場する。おそらく芸名なのだろうが何者か私は知らない。ここで、あさりよしとお先生のネタは、「ゴッドねえちゃん」の部分で笑わせるのだが、実は「デストロイア」と「デストロイヤー」も掛かっていて、「ゴッド姉ちゃん対デストロイヤー」全体がまとまったネタになっているという、ムダに完成度が高いギャグになっているのである。(おそらく“幻の超兵器「四の字固め」”という部分もこのネタの一部だろうから、デストロイヤーなる人物はプロレスラーなのだろう、と推測できる。ちなみに本来はオキシジェン・デストロイヤー)
と、これだけ知っていて初めてこのギャグはここまで楽しめるわけだが、こんな楽しみ方は邪道だ!と非難される向きも無論あろう。所詮は二義的な楽しみ方でしかないのかも知れないが、なるほどこんな奴もいるのかと、私のような人間の視点もあることを認識していただき、少しでも共感してもらえたら望外の幸せである。と、思ったのだが、面白くなかっただろうか。
元ネタがマイナーで難解なパロディというのは、わからないこと自体がギャグになっているのだ、とその慧眼で指摘したのはとり・みき氏であったが、みんな元ネタが気になることはないのだろうか?と私は思うのである。てゆーか、「ゴッドねえちゃん」って知ってました?
3/22 ギルガメシュ叙事詩
ちくま学芸文庫に、『ギルガメシュ叙事詩』が入っているのを見つけて、買った。
高校生の頃、ギルガメシュ叙事詩を読もうと思って探したことがあった。本屋で聞いたら、バイトの店員が「叙事詩」という言葉を知らなかったので呆れたのを覚えている。挙げ句の果てに、石森章太郎の『ギルガメシュ』ならある、などと言う。昔はそんなことばかりやっていた。だから田舎ではダメだと思いこんでいたものである。それでも図書館に買わせるなどという面倒なことはしなかった。ちなみに石森のはコミカライズというよりは『〜叙事詩』をモチーフにしたSFものだったようなので読まなかった。結局今に至るも未読だが、文庫にも落ちたので機会があれば読みたい。
その後、問題の『ギルガメシュ叙事詩』の本は見つけたが、当初の情熱は失われていたし、高かったので買わなかった。そもそも何故興味を持ったのかよく覚えていない。ひょっとしたら『FF X』の元ネタとしてだったかもしれない(苦笑)。そういえば、『ドルアーガの塔』の主人公の名前もギルガメシュだった。
高校の世界史の用語集にも載っていたので、主人公の親友の名前はエンキドゥ、というあたりまで暗記していた奴もいたかもしれない。あとは、ノアの方舟のエピソードの原型となった大洪水の話があるということくらいしか知らなかった。神話伝説に凝っていたのもあっただろうし、元ネタ探し好きの流れでもある。聖書の元ネタってスゲーじゃんか(笑)。さすが『世界最古の文学』。
それ以来、「ギルガメシュ」と聞く度に(どこで?)心にひっかかるものがあったのだが、遂にそれが解消された。この文庫版と以前買い損ねた本が同じものかは確認していないが、こんなものを翻訳する人間がそうそういるとは思えないからおそらく同一の本だろう――と、思って「文庫版あとがき」をざっと読んだら違った。おそらく私が見たのは96年に出た月本昭男訳の岩波書店版だったようだ。あれはそんなに最近のことだったのか、と愕然としてしまった。一方、今回買った文庫版が出たのは昨年だが(もっと古かったら、探し回っていた私はとんだマヌケだ。実際マヌケだが)、元は1965年に刊行された版だというから考えていた以上に古い。
まだ中身を読んではいない。本編はそれほど長くはないからいいが、外国の韻文を日本語で読むのはやはり辛い。同じ理由でミルトンの『失楽園』にも手が出ない。これは私の持論だが、『〜叙事詩』はストーリーを追えればいいから良いものの、外国語の詩を日本語で読んでも意味がないのではないか。定型詩の形式も韻も失われてしまうからだ。自由詩というものは殆ど日本にしかないと聞いたことがある。その故ではあるまいか。私はたとえ日本人の詩であっても詩などに全く興味がないが、以前バイロン卿の生きざまに感動して(そんなんばっか)その詩を読んでみようと思ったときに、せめて対訳の詩集はないものかと探したが、これも見つからなかった。最近、岩波文庫に『対訳・ポー詩集』が入ったのを見つけて思わず買った。出たのは一昨年。
ポーにはキチガイ的な面と完璧な計算とが同居したところに興味を持ったので(もちろん取っかかりは推理小説の始祖としてだったが)、後者は好きでも前者には弱い私にとって橋渡しになるのではないか、という下心でもある。幸い、小説全集及び詩論は創元推理文庫に入っている。そういえば、アクションヒーローからの脱皮を目指すスタローンがポーの役をやるという話を聞いて「そんなゴツいポーがおるか!!」と叫んだことがあったのだが、あの話はその後どうなったのだろう?
そろそろなんの話か分からなくなって来たのでやめる。もう夜だ。明日の日付にしようか、どうしようか。
3/15 コロコロと西部劇
月刊コロコロコミックで『超速スピナー』というマンガが連載されている。作者は橋口隆志。このマンガの知名度がどの程度なのか見当がつかないので書きにくいのだが、いつもどおり何も知らない人を想定して書く。
『超速スピナー』は、オモチャを軸としたいわばコロコロ式フォーマットにしたがったホビーマンガである。お題は「ハイパーヨーヨー」そう、スピナーというのは「ヨーヨーをする人」のことだ。とりあえずカッコイイ用語を使うのはホビーマンガ第一の要諦である。ハイパーヨーヨーというのは普通のヨーヨーとどう違うのかよく分からないが、ヒモが軸に固定されていないということなのか?それを昔はマジックヨーヨーと呼んでいた気がするが…。などと考えてはいけない。ドッジボールですら「スーパードッジ」にしてしまうのがコロコロである。
それはさておき、これらのホビーマンガには一定の、お約束のシチュエーションというものがあるのだが――今日は、キャラクターについて。都合によりはしょって書くが、ホビーマンガにおいても根底にあるのは「勝負」であり、当然ながらライバルが続々登場する展開になる。『超速スピナー』においては天才児で宿命のライバルになるのが北条院聖斗(ほうじょういん・せいと)。その登場エピソードではピアノを弾きながらヨーヨーをするという大技を見せる。「天才=ピアノ」というパターンも興味深い。彼の他にもボクサーだったりサーカス出身だったりとバラエティに富んだライバル達が数多く登場するのだが、今回はその中の一人に注目したい。
名前は安濃慈円馬(あのう・じえんま)。登場時のエピソードはいまいちインパクトに欠けるが、それを補って余りある外見上の特徴を備えている。つば広のストローハットに首から足下までをすっぽりと覆うマント。要するに西部劇のガンマン、それも実際の西部劇には滅多に(全く?)存在しない、松本零士風のいわば「トチロー・スタイル」である。もちろん、ヨーヨーはガンベルトのホルスターに入れてあり、そこから抜き差しして見せる。
さて、そこで私は『ビーダマン』にも似たコンセプトのキャラクターがいることに思い至った。やはりカウボーイファッションの、マントなしでスカーフで覆面をした強盗スタイル(?)のキャラ、“風のビリー”である。ビーダマン自体がビー玉を打ち出すおもちゃであり、「早撃ち」というコンセプトをも取り入れて、屈指の名脇役である(と私は思っている)。
さらに私は、『ダッシュ四駆郎』にもその類型にあたるキャラがいたことに気づいた。もはや記憶が定かではないが、やはりトチロースタイルで、「クリムゾングローリー」というマシンを使う(なぜかこんなことは覚えている)、新シリーズの尖兵となったキャラクターだ。ミニ四駆とガンマンが結びつかず、当時はスナフキンみたいなイメージしかなかったが、コンセプトは同一線上にあるキャラクターといってよかろう。
そこで本日の結論。もはやコロコロホビーマンガにおいて、西部劇キャラはなくてはならぬものとなっている!今回の慈円馬は、名前からしてマカロニ・ウェスタンの元祖『荒野の1ドル銀貨』でスターダムにのし上がったジュリアーノ・ジェンマを意識しているなど、特に作者のコダワリが感じられる。しかも「貧乏」というキーポイントもあるらしく、今後の活躍が実に楽しみなキャラクターである。
3/10 久しぶりに
いつだったか『アンタッチャブル』の、乳母車が階段から落ちるシーンの話をしていたら、友人が「それは『戦艦ポチョムキン』ではないのか」と言い出して、話が合わないのだが結論としてどうやら両方に似た場面があるらしいということになった。皆さんはどちらを(あるいは別のものを?)連想されるだろうか。
それ以来ずっと気になっていたのだが、『戦艦ポチョムキン』を観ると、確かに件の場面があった。ズバリ第四部「オデッサの階段」のクライマックスシーン。港に集まった市民をコサック兵が鎮圧する場面である。乳母車を押している母親が撃たれ、赤ん坊の乗った乳母車が階段を落ちていくのだが、最後は乳母車が倒れかかったところで、コサック兵が刀を振り下ろすカット、続いてそれを見ていた老女が絶叫するカットでこのシーンは終わっている。
対する『アンタッチャブル』では、主人公のネスが、高飛びしようとしているカポネの帳簿係を駅で待ち伏せている場面。汽車の時間を気にしながら見張っているのだが、荷物を抱えた女が乳母車を引いて階段を上がろうとしているのが気になって仕方がない。とうとうその女を助けて乳母車を引き上げてやるのだが、その途中で目的の人物が姿を現し、しかもその護衛が周囲を固めているのに気づく。
階段の途中で銃撃戦が始まって乳母車を離してしまうのだが、そこからはスローモーションでガンガン撃ち合い、結局は駆けつけた部下が階段の下で乳母車を受け止める。サスペンスとしてはともかく、エイゼンシュタインへのオマージュとしてはどうかと思う。ここでは乳母車は単なるアクションシーンのガジェットでしかない。赤ん坊が死んでたら、抗争の犠牲者ということで、冒頭の爆発に巻き込まれる少女と同じ役割になったはずなのだが。まあ、終盤でそれをやっても意味がない。
赤ちゃんの運命は対照的だったが、前者が後者の元ネタ、といってなんならモチーフになっているのは間違いないだろう。そんだけ。何がいいたかったのだろう?
3/1 あかね雲ちゃん
『スローラーナー』というバンドをご存じだろうか。おそらくご存じないはずだ。マンガ家・山本直樹の率いるバンドだということ以外、私も知らない。最近、書き出しで奇をてらいすぎるきらいがあるのが自分でもわかるのだが、実は、そのバンドが3月2日に下北沢のクラブ・キューで行うライブに、とり・みきが前座で出るという情報をキャッチしたので、行こうかなと思った。が、下北沢方面にはあまり行かないので、地図が載ってるかと思って「ぴあ」を買った。この時点で発想がおかしいのだが、まあ気分はわかっていただきたい。その「ぴあ」をめくっていると、三谷幸喜の新作舞台公演の情報を見つけた。戯曲に加え演出も三谷幸喜自身が行っていて、出演は唐沢寿明、戸田恵子、梶原善ら、おなじみの「三谷組」である(演出家が同じ役者ばかり使うのを批判する向きもあるが、イメージを大事にすればするほどそうなってしまうのが必然なのだろう。押井守しかり)。見に行こうかと思ったのだが、それは「今週はじまる公演」の情報で、前売りはとっくの昔に売り切れていた。が、ぴあ読者のための特別追加席が今日発売だったので問い合わせたところ、それも売り切れ(夕方)。こっちは「ぴあ」の発売日は火曜だと思いこんでいたていたらく。甘かった。
このように書くと、芝居には詳しいのかと思われるかもしれないが、そこが私の知ったかぶりたる所以である。
最近、芝居に興味があるのは事実だが、実際に見に行ったことは殆どない。演劇に興味を持つと、まず戯曲や「演劇入門」の類を読むのが私のやりかたで、しかもシェイクスピアから入ってしまうようなところがあるのが私の悪い癖なのである。それも、「ロミオと〜」はあまりにも話が馬鹿馬鹿しいのでパス。『ジュリアス・シーザー』が面白そうだ、という具合で読み始めたのだが、これは今ひとつ。『ハムレット』も、筋は下らないと思っていたが、これが意外と面白い!などとやっていたのだが、さすがにこれは何か間違っていると思って、いっちょ実地に芝居を見に行くか、と思い立った。
そもそも、私は芝居なんてものはキライだった。舞台の上でやるお芝居が映画より面白いはずがないと思っていた。そういう見方しか出来ないのが私だったので、演劇というのは私にとって全く理解の外にあるもので、それだけに「気になる」ものであった。世の中には、趣味とか好きなものがある。それらは自分の感性や嗜好にピタリと一致したものであると言える。その対極にあるのが理解できないもの、肌に合わないもので、多くの人にとって理解できないものにピタリ一致してのめり込んでしまった人達は、マニアとかフリークとかあるいは更に差別的な言葉で呼ばれることになる。
私のような唯物論的で渇ききった感性を持った人間には、映画は楽しめても演劇はわからなかった。映画は(娯楽映画は、といおうか)、現実にそこで起きている出来事に立ち会っているのと同様の立場で見ることができる。換言すると、何も考えずに見ることができる。対する芝居の場合、目の前にあるのは舞台と役者であり、極言すれば全てが比喩であるから、観客の側に変換作業が要求される。そういう頭の使い方は、私は苦手だったのだ。
だから私にとって長い間、芝居というものは、わけのわからぬ不気味なものであり、かつ、気になる現象であった。この「気になる」というのがポイントで、たとえ理解できないものでも、「気になる」ものには首を突っ込んでみるべし、それは好きになる二歩手前かもしれない、というのが、現在の私の持論である(この話はこれで長くなるので省略)。
そんなわけでお芝居を見に行こうと思った私だが、長年の先入観や偏見はそう簡単に拭い去れるものではない。それこそ下北沢の小劇場でやっているような大学の劇団の公演を見に行くのがまずはお手軽なのだろうが、「難解」「素人芝居」というイメージがあって行きづらい。私の性格上、そっち方面の友人を頼るということもしない。
となると、好きな役者の出ているものを見に行くというのが一般的なのかもしれないが、とくにそんな役者もいなかった。そのかわり、作家で選ぶことを思いついたのである。
そんなわけで、私が初めて(のはずだ)自分の意志で見に行った「演劇」が、井上ひさしの新作、こまつ座の『貧乏物語』だった。井上ひさしを選んだのは、『ひょっこりひょうたん島』の戯曲を書いていたからである(山本護久と共作)。資料がないので調べられないのだが、私の記憶が確かなら、同じNHKの人形劇『ひげよ、さらば』(原作・上野僚)の脚本も担当していたはずである。また『不忠臣蔵』などの小説でも馴染みがあった。大体以上のような理由で選んだ井上ひさしだったのだが、『貧乏物語』は、私には今ひとつだった。笑うところでは笑ったが、演劇の面白さって何、という疑問に関しては得るところがなかった。そう簡単にわかってたまるか、というのが当然だが、見る前と何も変わっていないのでは空しい。
「芝居は趣向」井上ひさしの言葉である。「芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目にこっそりと顔を出す程度でいい」無論ここでいう「趣向」とは芝居の用語であり、日常使うそれとは違うだろう。が、要するに私には、この戯曲がなぜ、河上肇の家を舞台に、その娘を主人公にして書かれたのかがわからなかった。逆に言うと、だからこそ私は、未だに「子供向け」の活劇の方が好きなのだ。
何を書いているのかわからなくなってきたのでやめるが、その前に一言、現在の日本の出版界に苦言を呈したい。名作といわれる戯曲をもっと手軽に読めるような状況にならないものだろうか。手軽というのはハッキリいえば文庫本で、という意味である。『ゴドーを待ちながら』くらいは岩波文庫に入っていてもよいのではないか?イプセンも『人形の家』以外の作品がいくつか岩波文庫に入ったのだが、なぜか私が読もうと思った『ペール・ギュント』はそこにはない。もちろん、旧版が品切れで、しかも訳が古すぎて再販できないものもあるのだろうが、もっと早いペースで改訳してもらいたいものである。
文庫でなくともハードカバーで買えばよかろうといわれるだろうが、経済的な理由は勿論、本の置き場所がなくなるという強迫観念があって買えないのだ。もちろんその分文庫本を買っていれば同じことなのだが。
冒頭に書いたライブについて、詳しいことはわからないのだが、とり・みきが編集者と組んだアコースティック・デュオ「あかね雲ちゃん」で出るのだと思われる。SF大会などに登場するのだが、見られるチャンスなので見に行きたい。が、ものがものだけに誘う相手の心当たりもなく、一人で行くしかないかと思っている。ライブハウスなんてところにも行ったことがないのだが。
2/24 シャアの逆襲
一応、前回の続き。
近未来というと一昔前のSFでは極度の管理社会になっているのが相場だが、ガンダム世界では逆に、非常に管理がルーズになっている。地球の不法居住者という存在がまずその表れだし、一年戦争で更にデータの散逸があり、シャアをはじめジオン軍人が簡単に連邦の軍籍を得ることができる状況が生じた(「Z」の小説では具体的な描写があるが、TVでは連邦の正規軍人ではなく単にエゥーゴで大尉を名乗っていただけとも考えられる)。シャアのことを書き出せばキリがないので独自に扱わねばなるまいが、そもそも親が付けた名がキャスバル・レム・ダイクン、地球ではエドワウ・マス、ジオン軍人としてはシャア・アズナブル、エゥーゴでは4つめの名、クワトロ・バジーナを名乗ったのがシャアである。そしてその後、ネオジオンの総帥になった際に使った名は、シャア・アズナブル。「父ジオンの遺志を継ぐ」が当然シャアの大義名分なのだからダイクンを名乗れば良さそうなものなのだが、軍を基盤とした政体である関係上、軍人としてのシャア・アズナブルとして統帥する。更に言えば、4つの名のうち最も知名度が高く、人気もある『赤い彗星』シャアの名を使う、というフレキシブルな判断が、この時代では自然なのだろう。魅力ある設定である。もうひとつ言うなら、この時のシャアの階級が「大佐」であることに異を唱えるむきもあるが(『ギレンの野望』では、ネオジオン総司令官になったキャスバルの階級は大将である)、それは軍隊における階級の概念が我々にとって馴染みのないものだから生じる誤解だろう。欧米では在郷軍人などにも一般的な敬称として階級を呼ぶように、近代軍の階級は、一つの社会的地位として認知されているのが普通である。よって、自ら高い階級を名乗るという発想が向こうにはない(某独裁者が「伍長あがり」とバカにされていた例もある)。それに、階級は軍隊の指揮系統を明確にするためにあるので、当然、階級が上がるほど人数は少なくなるピラミッドの形になる(軍の組織が形骸化し階級が単なるステイタスになっていた中世などの例外を除く)。よって、将官級の人物がゴロゴロしている某「第08MS小隊」などがおかしいのであって、あの規模の軍隊の長としては「大佐」くらいでちょうど良いともいえる(キシリアが少将、ガルマは大佐だったことを想起すべし)。シャアの場合、むしろ大佐への昇進が早すぎたのが問題なので、キシリアに拾われた際に二階級上がったのはやはり妙だ(小説では中佐で、「どうせ位攻めなら大佐が欲しかったな」と言っている)。
シャアのことをもう少し書いておくと、『ギレンの野望』では、シャアが第三勢力「ネオジオン」を旗揚げするイベントがある。「ネオジオン」という名称は、史実で後年(『逆襲のシャア』で)シャアが組織するネオジオンに合わせているのだろうが、『ギレン〜』におけるシャアの軍は、『逆シャア』におけるそれとは全く性格を異にしているのであり、この名称はおかしい。
『逆襲のシャア』では、とにかく兵を集めるためになりふり構わぬシャアであり、「シャア・アズナブル」「ネオ・ジオン」の名を使うことでアクシズ以来のザビ家系ジオンを取り込み、かつ父であるジオン・ダイクンの名を利用してスペースノイド一般の支持をも得る。名前の意味はマキャベリズムであり政治的効果が狙いでしかない。
対する『ギレンの野望』では、基本的に小説版のプロットを基にしたイベントで、ニュータイプによるニュータイプのための軍、という性格がまずある。シャアはキャスバル・レム・ダイクンの名で挙兵するのであり、ジオン・ズム・ダイクンの後継者として、またシャア個人の生き方としても一種の理想として描かれている。ただマキャベリズムとしてはデタラメで、ジオン・ダイクンの正嫡としてそれこそ(キシリアが旗揚げする)『正統ジオン』の名こそが相応しいのであり、ネオジオンという名前は出てくるはずがないのだ。また、キシリアとしては終戦でギレンの地位が不動のものとなる前に挙兵しなくてはならぬ道理だが(ちなみにキシリアの大義名分は、名目上の最高権力者である公王デギンを暗殺したギレンを「簒奪者」として、また「父殺し」として討つ、という納得のいくものであるが「正統」の名はいただけない)、シャアがジオン・連邦双方に宣戦布告するのはあまりにも理想家肌というか、マキャベリズムとしてはやはりまずジオンを乗っ取るところから始めるのが定石なのだから、シャアがそれほど純粋か?という疑問は湧く。まあ、そんなシャアだから総帥になるのがあんなに遅かったのかもしれず、「惜しむらくはアジテーターであっても政治家ではなかった」と評される父親譲りの理想家の面も持っていたのかもしれない。富野監督も「シャアが“悩む”ということから脱出してしまったら、彼は途方もなく強いでしょう」と言っている。要するにそれが「Z」までのシャアで、あるていど「強く」なったのが逆襲のシャア、ということだろう。しかし結局は強くなりきれなかった、というのが史実。
話はずっと前、管理のルーズな社会、というところへ戻る。これは腐った地球連邦政府、という設定とも関係してくる。「地球から見上げる形での統治」では全く宇宙の現実が見えていない、という構図が一貫して連邦の欠陥としてあり、ジオン公国をはじめ数々の反乱にまっとうな対応ができたためしがないのである。一年戦争でも、一方的な宣戦、奇襲を受けるまで反応できず、サイド6には事実上の中立国、リーアの成立を許している。地球から見えていないのである。その鈍感さが、ジオン「残党軍」などという存在を許し、彼らは小惑星帯でも活動を続け、地球連邦という国家の不必要性を証明して見せた。
人類初の統一政体である地球連邦の成立は、国家観を変える、というより無くすとともに(連邦を統一国家というよりは、各国の緩やかな連合であるという見方が一時期流行ったし、説得力もあるが、やはり連邦は統一政体なのだ)、主権に関しても鈍感な風潮を生み出した。現代の我々から見るとアナクロとも思える独裁国家が、宇宙世紀において次々に成立するのがその顕れである。統一政体である地球連邦政府の絶対民主制が悪にしか見えなければ、そのアンチテーゼとして独裁、またはそれに類する体制が受け入れられるのも自然なのだ。民主主義に対する疑問、という大胆なテーマが、極めて強い説得力を持ってくるのである。
今日も逆シャアまでしか話ができなかった。続きはいずれまた。
2/22 ガンダム承前
今日は政治論でいこうかな。
『ガンダム』は、オニール博士のスペースコロニー計画を、地球環境の破壊、というテーゼに対する解答として取り入れた。「増えすぎた人口を云々」と言ってはいるが、環境への影響は、人が多ければ大きく、少なければ小さくなるという相対的な問題でしかなく、人の活動自体が地球を汚染しているのだというのがテーマである。
そのテーマを設定の段階で持ち込むことに成功したのがガンダムのすごさで、これと、地球に中枢をおく地球連邦政府という設定が、更にその先にマクロなドラマを生み出していく。
『機動戦士ガンダム』において、宇宙移民を実現した世界で地球に住むことに憧れる人々という発想はまさに富野センスであり、地球に住むのがエリートで、スペースノイド差別、という独自の世界観を見せ得たのが画期的だった。ロボットアニメにおける敵としてのジオンは「悪」でなければならず、“悪の総本山”というイメージでデザインされたズム・シティ政庁の建物にもそれは象徴される。が、地球連邦の絶対民主主義は一貫して否定的に描かれ、アンチテーゼとしての独裁国ジオンには一面の正義が見られる。国父ジオン・ズム・ダイクンと簒奪者ザビ家という構図は、ジオンのイデオロギーの正しさと悪役としてのジオン公国を両立させる巧妙な設定である。ジオンの主張に真理はあっても、「総人口の半分を死に至らしめた」大量虐殺行為という一点においてのみ明確に悪役なのであり、倒されるべき敵となる。
『Z』では、敵であるティターンズは地球連邦軍内の一部隊であり、「スペースノイド差別」の具体的な現れとしての大量虐殺を行うバスク・オムは、地球連邦という組織の最も反動的な部分を代表する人物である。主人公側であるエゥーゴはなんと反地球連邦政府活動なのであり、直接の敵は最も悪い意味での私設軍隊であるティターンズ、というカムフラージュの構造になってはいるが、最終的には地球連邦は悪であり、主人公は反乱軍にならざるを得ない。そこでは『ZZ』への流れで登場するアクシズのネオジオンは、かつてのジオンが持っていた役割を失い、ハマーンは「結局のところ小悪党でしかない(富野監督・談)」のだった。
二日に一度、これくらいの量、というペースが決まりかけていたのだが、ちょっと難しいところに突入したので続きは明日にする。
2/20 ちょっとガンダム
「同じ作品を見ながら別の見方をしている人がいるくらいに幅が広く、刺激を与えてくれる作品を作れたら、僕はとてもありがたいと思えますから」 ――『富野語録』より
昨年の夏コミで『機動戦士ガンダム 宇宙世紀史学論序説』という同人誌を発行した。衒学的なタイトルにしたのは洒落だし、中の文体が論文調なのはいつもどおり私の好みであり癖なのだが、全体的に偉そうに見えたのはよくなかったかもしれない。実際はそれほど高尚なものを目指したわけでもなく、ガンダムをこんなふうに見てもいいんじゃないの、という程度のものだった。
20周年、LD発売、『ギレンの野望』という状況に乗せられて書いたのは事実だが、それはやはり一つの契機でしかなく、以前から溜め込んでいた物を吐き出すにすぎない、はずだった。書名からわかる通り、当初は「ガンダム世界を歴史学研究の方法論で捉える」という明確なコンセプトがあった。が、現実の歴史とは、歴史学とは違うと自分に言い聞かせながらも、実証主義に陥って身動きがとれなくなり、自戒していたはずの「08小隊」攻撃に終始したのが現実だった(今日は文体にも富野入ってます)。いつも書いている間に書いている物の主旨が変わってくる、という現象がここでも起きた。自分は思っているほど意識的に思考して結論をまとめることをしていないらしい、だから書いているうちにまとまる考えや、初めて気づくことも多い。つまり自分は書くことでしか考えられない、ということには気づいていたし、日記を書く意義もそこにあるのだろうと思う。もっとも、昔の自分が何を考えていたのかということは意外と覚えていないので、その記録という意味だけでも日記の価値はあろう。閑話休題、そんな風に書きながら方針を探ることになるのは予想済みだったから、夏コミである程度の土台ができたら、冬に完全版を出す、くらいの計算は実ははじめからあったのである。そのころにはLD−BOXの後半も出ているだろう。よって今回は『序説』、という腹づもりであった。結果としては、『序説』としても甚だ不十分な内容で、未完成という印象を強く残す物にはなったが、もう二度と同じ物は書けないであろう熱気のようなものを感じさせて、今読み返しても愛着のある本である。
しかし、半年後の冬コミで、続刊ないし完全版は出なかった。NOёL3に熱中していたから、というのは私流の諧謔のつもりなのだが、期待して下さった人たちには本当に申し訳のないことをしたと思う。何故そうなったかという実際の理由としては、ガンダムを調べれば調べるほどガンダム史研究にならざるをえず、続々と刊行される関連書籍を読むうちに、状況論が見えてきて、自分のガンダム観が根底から覆されたに等しい変化があったためである。言ってしまえば、アニメック編集部(編集長)による一連の仕事が、私を打ちのめした、ということである。
ここまでが話の枕なのだが、いつもながら長い。
冒頭に引用したのは『Zガンダム』のインタビューの時の発言だが、当たり前と言えば当たり前の言葉だ。しかし、その当たり前の見方がされて来なかったのがガンダムではないか。
ガンダムと言えば、はじめはニュータイプ論。次いで、スタジオぬえによるSF的なアプローチ。やがてそんなものに一家言あるオタクが古いタイプとみなされるようになると、モビルスーツの話に終始してきたのがガンダムをとりまく状況ではなかったか。モビルスーツ論にせよ、デザインの好き嫌いをいつまでも云々していても仕方ないので、一時期の模型誌の特集に見られた開発史の視点も所詮一部の興味でしかなく、下火になってしまった。それでも根強く「シルエットフォーミュラ」シリーズを生む流れとなる。
ロボットアニメの主人公メカとしてのヒーロー性と、兵器としてのモビルスーツとのせめぎ合いの中で、新型機のプロトタイプ、試作機であることで危ういバランスを取っていたのがガンダムである。連邦軍がはじめて作ったモビルスーツが驚異的な性能を持っていたのは、ロボットアニメで言う「博士」にあたる主人公・アムロの父テム・レイ個人の才能に説明を求めるしかないのだが、それをやっては本当にロボットアニメになってしまう。が、ガンダムの量産機であるはずのジムの性能がはるかに劣るのは、量産化を急ぎすぎてコストダウンが優先されたことの他に、行方不明になったテム・レイが量産化計画から離れたのも一因ではないか、という見方もできる。量産の失敗によってプロトタイプであるガンダムのヒーロー性は保たれた。
『Z』以降では、作中世界においても『ガンダム』は伝説的なモビルスーツとしてヒーロー性、シンボル性を帯びた機体となる。ティターンズが制式採用した主力モビルスーツがガンダムMk-Uなら、反乱軍であるエゥーゴが開発したのもZガンダム。しかし、連邦軍純正の機体であるMk-Uは先代を改修した程度の機体でしかないのに対し、エゥーゴがアナハイム・エレクトロニクスに発注したZガンダムは新鋭の可変モビルスーツで、極秘でバイオフレームまで実験的に搭載されていたという説もある(一説には、カミーユがあんな結末を迎えたのもバイオフレームの影響が一因とか)。デザインのことをいえば、Zガンダムのデザインがガンダムとかなり印象を異にするのは、地球連邦軍と関わりのないところで設計された機体だからであり、アナハイム・エレクトロニクスが月を本拠とするという地理的な条件によってジオンの技術をも吸収しえたことにもよる。さらに「0083」ではアナハイム・エレクトロニクス社がRX−78のデータを踏まえたうえでその上位機種を開発する計画が存在し、連邦側に突然変異的に出現したガンダムのノウハウも得ていることが明らかになった。Zガンダムの高性能を生み出す技術力の背景にはこれだけのものがある。ちなみに、Zガンダムの基本設計はカミーユ・ビダンが行ったという説があるが、さすがに無理がある。Zの設計理念はその先行機である百式(開発名Δガンダム)の延長線上にあるのは明らかで、百式の開発途中で断念された可変機構(肩のパイロンはその名残)を実現する決め手となったのが、カミーユの持ち込んだムーバブル・フレームのアイデアだった、という説が、まあ妥当なところだろう。
その後、連邦軍に編入されたエゥーゴにZZガンダムを、ロンド=ベルに(というよりアムロ・レイに)νガンダムを供給して、連邦軍主力モビルスーツメーカーの地位を不動のものにしたアナハイム・エレクトロニクスだが、時代が下ると、海軍研究所の後身であるサナリィとの制式採用試験で競合して敗れ、その地位を奪われる。この時採用されたのがF91。旧来のガンダムからデザインが一新されているのは、開発元が替わったためである。なお、これに衝撃を受けたアナハイム社は、失地回復すべくシルエット・フォーミュラ計画を開始した。
と、開発史から見たモビルスーツのデザインというのも、割と面白いよ、という話であった。本当は他のことも書こうと思っていたのだが、今日はここまでにする。
2/18 『忠臣蔵』の話
忠臣蔵が好きだ。と言うと、インテリゲンチアの人にバカにされる。そういう人達は、基本的に大衆ウケするものが嫌いだからだ。そうとしか思えない。同じく私の好きな『水滸伝』やロビン=フッドなんかも同様にバカにされる。忠臣蔵の場合は、訳知り顔で「浪人になって逆恨みした連中がテロリズムに走る話でしょ?」とか揶揄されるのである。私はこれが大嫌いだ。そういう、「新しい、正しいものの見方」みたいなものをひけらかして、古くさい、馬鹿なものをありがたがっている人たちをバカにしている、優越感が感じられるからだ。実際バカだけどさ。
ある事実に対して、一つの見方が定着すると、それに対抗するように「新しい見方」みたいなものが流行って、やがてそれが主流になる、ということは、世の中で常に繰り返されている。「新しい」「流行」というのがキーである。特に日本では、一度流行語になってしまうと、本質が全く理解されないまま言葉だけが定着してしまい、結局それで終わってしまったりすることが多い。「環境保護」がブームだったころ、自分の箸を持ち歩いてワリバシを使わない、というのが流行ったが、実はワリバシは廃材から作られるものであるから節約しても意味はないことが明らかになるとそんなことをする人は誰もいなくなった。これは例としては適切ではなかったかもしれないが、流行というのが全く見当違いなことをやらせることは、他にもある。「マルチメディア」とか「インタラクティブ」とかいう言葉も流行したが、誰もその意味はご存じ無いし、本来の意味で使おうにも恥ずかしくて使えない言葉になってしまった。そういえば「ユー・ガット・メール」とかいう映画のCMをよく見るが、今時Eメールがオシャレだとでも思っているのだろうか?「ザ・ネット」という映画が「ザ・インターネット」になっていた、みたいなカッコ悪さを感じるが、こういうことは日本以外にもあるのだな、と思った。
今日は半分確信犯的に脱線しているが、忠臣蔵に話を戻そう。
変化の速度は遅いが、最近、忠臣蔵の「新しい」見方になりつつあるのが「逆恨み説」である。赤穂浪士を英雄視するのは間違いで、彼らのやったことはタダの逆恨みの暴挙じゃないか、という見方が、最新の流行なのだ。
そんなことは、現在ではちょっと調べればすぐに分かることで、歴史事実としての赤穂事件に少しでも興味のある人なら百も承知のことなのだ。吉良上野介は地元では大人気の名君だし、浅野内匠頭に賄賂を要求していやがらせをしたという事実もない。勅使饗応役の職務についてウソを教えたなんてことは、それこそ大ウソである。万が一浅野が失敗すれば、責任は指南役の吉良にかかってくるのだから当然だ。こんなことは考えればわかる当たり前のことだし、そうでなくとも殿中で刃傷した浅野がバカなのだということはすぐにわかる。
しかし!これらは全て、史実としての『赤穂事件』の話であって、『忠臣蔵』について、となれば話はまた別である。
『忠臣蔵』という芝居においては、あくまでも吉良は大悪人で、賄賂は要求する、清廉な浅野が拒否すればいやがらせはする、勅使饗応役に必要な専門的な知識については虚偽を教える、というのが正しいのだ。浅野の失敗が自分の責任問題になる、なんてことはおくびにも出さない。それが「芝居のウソ」であって、承知の上で演出していることである。それが物語としての『忠臣蔵』であり、歴史上の『赤穂事件』とは自ずから異なる。が、このことはほとんど認識されていない。それは何故か?
赤穂事件を題材にした、『忠臣蔵』の原型である芝居が、事件後すぐに上演され、大人気を博したからである。赤穂事件に対する評価が(ある程度でも)定まらないうちに、『忠臣蔵』ブームが起こったため、双方に対する評価が混同されてしまったのも当然だった。それは一般大衆の愚かさであるのだろうが、歴史学者すらその混乱から自由ではいられない…と、このあたりの事実関係は、井沢元彦の『元禄十五年の反逆』(新潮文庫刊)という本を読むとよくわかる。著者は「新しい常識」の仕掛け人のような人物である。本書もミステリー小説の体裁を取ってはいるが、ストーリーなど無いに等しく、主人公の劇作家が忠臣蔵に関する歴史事実をひたすら調べる、という話で、忠臣蔵に関する従来の誤解を解き、常識的な忠臣蔵観を覆そうというものである。非常に読みやすいので興味があるなら一読をお薦めする。ただし、書いてあること全部を信じ込むことはお薦めできない(笑)。作者は常識的な見方をひっくり返すのがお得意であり、ウリなのだから、多少強引なレトリックまで信じるのは危険である。
とにかく、『忠臣蔵』に関しては、古くさい見方が正しい、と言いたいのである。正しい見方、というのが引っかかるなら、正しい楽しみ方、と言ってもいい。「現代的な解釈で捉え直す」というのをウリにした忠臣蔵映画もあるが、そんなものは余計なのだ。それ自体に意義はあるにせよ、従来の忠臣蔵の面白さを全て否定したものになってしまうのだから、分のない勝負である。
結論。『忠臣蔵』は、古くさい、お涙頂戴の展開に満ち満ちているからこそ、また、いればいるほど面白い。歴史事実など持ち込んでもつまらなくなるだけだ。分別くさいことをいうのはそれを知らない連中なのだ。
さて、ここまで書いたのは極論である。『忠臣蔵』と『赤穂事件』は峻別されるべきだ、なんてことを言う人はいないし、実際されてもいない。「赤穂事件」に題を取った歴史小説も、ほとんどは「ナントカ忠臣蔵」というタイトルになっているし(もっとも、その方が売れるという編集の意向なのかもしれないが)、赤穂浪士の義挙を正当化する立場で書かれているものがほとんどである。さすがに浅野内匠頭がバカなのは認めても、それでも主君の仇を報じるのが武士道、という理屈に合わぬ格好良さ、というのがまあ折衷案的なところであろうか。
では、今年の大河ドラマ『元禄繚乱』はどうだろう。大河ドラマがどういうスタンスで製作されているのか(毎年あまり熱心には見ていないので)知らないが、ドラマというからにはフィクションなのは当然だが、NHKの目玉(?)シリーズとして、時代考証はかなりうるさいらしい。歴史事実に関してもあまり思い切った新解釈をウリにしているのではなく、(そこは架空の登場人物のサイドストーリーでフォローしつつも)本筋は正攻法で骨太な展開で見せるシリーズのはずである。
『元禄繚乱』の原作は、舟橋聖一の『新・忠臣蔵』である。実はまだ途中までしか読んでいないので、どういう趣向かは知らない(だったらこんなもの書くな、って、これは「日記」だということを忘れてはいけない。でもこれだけ書いちゃったから、いずれトピックにしようかな)。が、ドラマの方を見る限りでは、大河ドラマならではの作りが出来ているようだ。まず、話が事件よりはるか前の時点から始まる。ドラマとしては、まず若い頃の大石内蔵助をキッチリ描いておこう、という狙いである。従来の忠臣蔵では、「昼行灯」と呼ばれていた、という故事はあっても、赤穂開城の時点からは冷静沈着な指導者でなくてはならない大石内蔵助だが、今回はその普段の姿を充分に見せておくことができる。その大石がどう変化(成長、というとあまりにアレだが)していくのか、というところに主眼をおく、作劇のセオリー通りの展開になるだろう。
それはさておいて、現在までのところでは、さらに重要な二つの事件の描写が挙げられる。まず、浅野内匠頭が、事件以前にすでに一度、勅使饗応役を務めた経験があったこと。もう一つは、浅野内匠頭が直接見聞したはずの、殿中での刃傷事件。前者は、天和三年、内匠頭18歳の時のこと。事件以前に勅使饗応役を務めたことがあるのだから、役のことで吉良の指導を受けられず失敗する、というのがそもそもウソなのである。ただ、今回のドラマでは、気を利かせた家臣が吉良に賄賂を贈り、無事にお役を勤め上げる。そして、相役を務めた大名(誰かは忘れた)の方が吉良のいやがらせを受ける。そう、事件の際の内匠頭と、同役の伊達左京亮の関係とちょうど逆になっている、という構図である。そしてもうひとつの、刃傷事件は、前者の翌年、貞享元年に、江戸城本丸、御用部屋において(ドラマでは廊下)、大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺された事件である。何しろ大老が暗殺されたのだから大ごとで、それなりに有名な事件である。これを聞いた内匠頭が、「殿中で刃傷すれば切腹、御家断絶は免れないとわかっていたであろうに…(中略)禄を失う家臣こそよい迷惑」とコメントする場面があり、そう言った内匠頭がどのようにして刃傷を犯すに至るのか、という重要な伏線になった。
この二つを見る限り、さすがにポイントを押さえた作りになっていると言える。東山紀之演じる浅野内匠頭は、純粋で世間知らずの若殿という類型を出ていないが、吉良に石坂浩二を配したのは単なる憎まれ役とはひと味違うキャラクターになると期待したい。ただ、これまでのところ吉良は影が薄く、荻原健一の将軍綱吉に食われている観がある。まだ出番が少ないから当然といえば当然だが。他に注目はといえば、何といっても柳沢吉保を演じる村上弘明。大河ドラマではいつもオイシイ役をもらっているイメージがあるが、これも役者としての実力か。デビュー作がスカイライダーだけのことはある(?)。同じように毎年見かける顔が片岡鶴太郎。本筋には絡まないが、今年も英一蝶とオイシイ役。あとは山鹿素行の伊藤孝雄シブイねーとか、吉田栄作も嫌いじゃないなとか、大河ドラマとはそういう楽しみ方をするものなのかもしれない。ここ数年あまり見ていなかったので新鮮な気分である。
また随分長くなったが、本日はここまで。
2/16 二日目
そして二日目。どうやら新しいのを上に追加していくことになったらしいぞ。これでも結構時間がかかったけど、やっぱり一気に書くと構成はメチャメチャだ。こんなに長くなるとは思わんかった。
NOёL3の話。
『NOёL3公式攻略ガイド』なる本を買った。
順を追って書こう。『NOёL3』というゲームが、昨年12月に発売された。いや、更に遡って、NOёLに触れておいた方が良いかもしれない。何を隠そう、一昨年の冬コミで、私はNOёLの攻略本を発行した。全然売れなかった。参考までに
その本の序文
を発行当時のまま掲載しよう。
(話が逸れて戻らないので一部削除)
そして昨年12月、NOёL3が発売。当然予約して買った私は、冬コミで出すはずだったガンダム本をなげうってNOёL3攻略本を作ることを決意。賭である。が、時間ギリギリまでプレイしたにも関わらずベストエンディングが見られず、不完全版となってしまった。私の敗北感たるや、尋常ではなかった。敗北。そう、その時はそう思ったのである。
何を隠そう、実はこのHPでは、立ち上げ当初の目玉企画が『NOёL3攻略速報』になる予定だった。その本にもURLを掲載しておいた。が、その企画はいつの間にやら立ち消えになってしまった。何故か?結局ベストエンディングを見られなかったからである。冬コミ後も頭がおかしくなるくらいやりこんだのだが、完全に煮詰まってしまって進まない。
私の頭に、はじめてある疑問が浮かんだ。
これ以上のベストエンディングがあるのか?
そもそも、エンディング情報はNOёL3の唯一の攻略本であるソフトバンク社の『NOёL3パーフェクトガイド』によるものだった。この本はデータ的には悪くないが、攻略本としてはやや物足りない。ギャルゲーほど、攻略本の出来にバラツキがあるジャンルはない。最初から絵だけがウリの「ヴィジュアルガイド」の類が多く、それらも実際に原画・設定資料が充実していればいいのだが、適当に画面写真を編集しただけのロクでもない本が多い。前作『NOёL』の場合も、電撃の公式ガイドは全くお話にならない出来で、一方ファミ通の攻略本は滅多に見られないほど突っ込んだ作りで好感が持てた。よって私は今回も、後発のファミ通の攻略本も買うつもりであった。ところが、編集に時間をかけた分内容が充実しているであろうその本は、待てど暮らせど出なかったのである。
閑話休題、2度目のプレイでとりあえず『Very Good』のエンディングは見た私だが、まだ伏線が残っていたので、裏エンディング的な扱いでさらに上位のエンディングがあるのだろうと思い込んでいた。件の攻略本にもそれをほのめかすような記述がある。
目指せベストエンディング、とばかりずーっとプレイしていたのだが全然見られない。いくらやっても見られない。もっと早く気付いてもよさそうなものだが、私は自分の精進が足りないのだと信じて疑わなかった。
で、どう書けばいいのか、結論としては、ベストエンディングなんてものは無かった…らしい。確認はできていない。業界一の良心的ギャルゲー雑誌『電撃G’sマガジン』も攻略記事を打ち切ってしまった。
今回買った攻略本は、講談社・覇王ゲームスペシャルのシリーズ。何故今頃出たのかというと、PS版にいち早く対応、というわけらしい。そう、PS移植版が3/4に出るのだ。サターンで出たのは、AD−PCM音声が使えるというハード的な問題だと思っていたのだが、プレステで出せるのか?と思っていたのだが…今調べたら逆だった。プレステがAD−PCM。ずっと勘違いしてたらしい。それはさておき、PS版があるとしたらシナリオの修正・イベント追加があるかと期待していたのだが、発売の早さから見てそれはなさそうだ。今回出た本の内容はもちろん全てSS版に基づいているので、これをPS版対応というのはサギみたいなものなのだが、それはまあいい。「公式」だし。前作といい今回といい、もっとマシなところに公式の認可を出して欲しいものだ。また話が脱線した。通常私は、移植ゲームにイベントを追加したり、あまつさえ新キャラクターを追加したりするのには反対である。つじつまが合わないことが基本的に嫌いだからだ。矛盾を解消するためのシナリオ修正、というレベルが理想だと思っている。しかし、今回はシナリオに物足りない点があったので、追加を期待していた。それだけ魅力あるシナリオ、ということでもある。実は、恥ずかしながら初めて二次創作小説を書こうかと思ったくらいだ。というか、ゲームシナリオに忠実に小説化すればかなり面白くなると思う。多分小説は出るだろう。前作でも2冊、別の所から出たくらいである。が、どこの馬の骨ともしれないライターによる、わけのわからん小説になるに決まっている。現在、世間一般でノベライズなどという物には全く価値が認められていない。忠実にやっても売れないのでオリジナルの要素で少しでも付加価値を付けようという編集方針が主流になっているほどだ。そうじゃねえだろ!と私は言いたいのだ。ノベライズというテーマもいずれ取り上げたいが、オリジナルを活かしたノベライズの魅力があり得るはずで、名手・山口宏などがその真髄を見せてくれる。
はい、話を戻して、映画などでもそうだが、尺の都合でシナリオを削るのは、時として致命的な失敗につながる。ビジネスの問題だから、と訳知り顔で言ってみても限度があると思うのだが…、ゲームにおいても、容量の関係でシナリオを削って舌っ足らずになってしまう例が、特にAVGに多い。これもいずれ取り上げたいが剣乃ゆきひろ氏の諸作に顕著である。あの人の場合もともと荒削りといえばそれまでだが。
さて、もうどこへ話題を戻していいかわからんので、そろそろ終わりにしよう。とりあえず書きたいことは書いた気がする。NOёL3自体について全然書いてないけど、シナリオの書き換えがあったらPS版も買おうかというくらい好きなのだ。今度はゲームのこともレビューにまとめてみようかな。
ちなみに、NOёL3発売前の予約キャンペーンで、予約して応募した人全員に『ハッキングCD−ROM』なる物のプレゼントを行っていた。が、締め切りがやけに早かったので、私は応募できなかった。発売日前後に発送される予定だったのだが、冬コミの日、応募した人の話を聞いたところ、まだ送ってこないとのこと。その後どうなったのだろうか。ちなみにその人は「ソフトは結局買ってないんですよね、へへへ」と言っていた。だったら私に譲ってくれー!そう、結局ハッキングCD−ROMとやらはゲットできなかった。余った分が流出してソフマップのオマケになっていてもよさそうなものなのだが、それもなし。応募締め切りの早さから見て、ロットではなく受注分のみの生産だった可能性がある。CD−ROMなのにセコイまねするなよー。ただの音声とデスクトップアクセサリらしいけど、超レアアイテムだろう。そうでなくても欲しかった。うーむ、悔しい。
2/15 誕生編
というわけで、『上海亭日記』のはじまりはじまり。
何故はじまったのかというと、更新のペースがあまりにも遅くなってきたので、その弁解も兼ねてメインタイトル下の二、三行の戯れ言の拡大版のような形でお送りしようと考えた次第です。
それでは何故、更新が遅れるのかと申しますと、移り気な私がトピックを書き上げられないからであります。現在のところ、煮詰まったものから準備段階のものまで含めると10以上の書き途中のトピックを抱えている状態なのです。いつもデタラメを書き散らしているように見えても、私とて自分なりに納得できるものが書けるまでは、という思いはあります。
「近況」というコーナーを作っても、一つの出来事を取りあげてその中で一応の完結を目指してしまう以上、状況は変わらないと考え、この『上海亭日記』を新設しました。
要するに、ここには基本的にどうでもいいことを、掴みもオチもなしのフリースタイルでとりとめもなく書きます。書くうちに興が乗って、うまくまとまりそうだなーと思ったらトピックに昇格するような話題も出てくるかもしれません。
あと、掲示板に書くよりもみなさんも目に触れやすいと思いますので(というか、見てくれ)、一般的なお知らせもここにします。楽に書くというコンセプトなので、なるべく毎日更新したいと思います(いいのか、そんなこと書いて?)。
初回はこうなりましたが、今後書き足して行くのか、古いのを消して上書きされるのか、どうなるか一切不明です。『上海亭日記』って投げやりなネーミングだけど、なんか響きが「中学生日記」みたいで気に入ったのでコレにしちゃいました。タイトルが決まらなくて何日も悩むこともあれば、こういうこともある、ってことで。次回お楽しみに。
追記: 更新履歴やリンク集やバナーが出来ないのは、忘れてるんじゃありません。作業が進まないからです。いばることじゃありませんね、はい。あと、一度公開したトピックにも、細かい加筆、修正を加え続けているの、知ってました?結構頻繁にやるのでトピック毎に最終更新日を付けようかと思っているくらいなのです。ヒマな人はチェックしてみよう。
番外編
モデルガン 〜槇村の形見〜(1999/1/18)