上海亭日記

 トピックと違って、ここには徒然なるままに書かれた文を公開します。楽に書く、をモットーにしていますのでオチも脈絡もなく終わったりすることもあります。あしからず。

目次

7/18 誕生日の悲劇

 今日、7月18日は、実は私の誕生日だったのだ。いや!祝ってくれとは言わない。私自身、忘れていたとは言わないにしろ、別に何の感慨もないというのが正直なところだ。特にいいことあるわけでもないし。
 それにしたって、逆に特別に悪いことがおこると考える理由も無論なし、私の心はごく平穏なものだった。誰が予想しよう。その私を、最悪の悲劇が襲おうとは!
 結論から書くと、ノートパソコンのディスプレイをブチ割ってしまったのである。今まで劣悪な環境で酷使してきたので、いつ壊れてもおかしくないとは思っていたが、実際に壊してみるとパソコンが使えない環境の不便さに愕然とする。
 いったいどうしたのかというと、たまたまノートのフタを閉じた状態で上から手をついて、はずみで体重をかけてしまったのです。「パキパキッ」と音がして、その時は何が起きたのかわからなかったんだけど、開けてビックリ画面がひび割れているではないですか。割れた部分が何ヶ所か剥離して、まるで墨をこぼしたシミのように真っ黒になって表示されなくなっているのです。他の部分は正常に表示されてるだけに鬱陶しくてしかたない。その部分をさけてウィンドウを開けばいいのだが、いい具合にヒビが画面中央から網の目状に走っているため(ブラックアウトした領域の面積そのものはそれほどでもないのだが)正常に使える領域が画面上部3分の1くらいしかない。たった今も、ウィンドウを変形させて窮屈極まる状態でこの文を書いているのだ。というわけでチェックも容易でないので万一誤字・脱字の際は御容赦いただきたい。
 くそーこの一番大事な時期に!いや、今必要なんだってば、マジで。これは私の人生最大の危機といってもそれほど誇張とはいえない。少なくとも重要な分岐になる可能性を孕んでいる。辛うじて現役だった98のディスプレイがDOS/V対応だったので苦し紛れにつないでみるが、ディスプレイ自体が御臨終寸前なうえに解像度は当然VGAまでしかないのでやはりツライ。本体との位置関係を変えるのもすこぶる面倒くさいし(ノートなのに完全に定位置が決まっている。だって外部ドライブもあるし)。
 しかたない、修理か。たとえ一週間程度でもパソコンが使えないという事態にゾッとする、というよりそれはすでに致命的である。それでも一応、調べてみると、LAOXの延長保証5年間というのがまだ効いてる。保証書もちゃんと取ってある。保証なんぞ一向に気にしたことのない私にしては上出来だ。
 購入3年未満で、買い上げ金額の70%までが保証限度額である。いくらTFT液晶がバカ高いといっても(たぶん液晶を全交換だろうから)、これならなんとかなるんじゃないかと思って、さっそく販売店に問い合わせてみた。購入したのがLAOXのコンピュータアウトレット館というのが哀しいところである。ちなみに買ったのは2年前の夏、その時点で型落ちの、しかも店頭展示品だった物なのでバッテリーの寿命が速攻で切れた。たぶん店頭展示以上に私が酷使していたにしろ、である。ほとんど家でしか使わないのでそのままAC電源で使用しつづけている。
 閑話休題、私はたぶん保証に関しては問題ないだろうと思って、むしろ戻ってくるのにどのくらい時間がかかるかを訊くつもりだったのだが、それ以前に症状を伝えたところ保証限度額オーバーの危険性を示唆された。…だって、買った金額の7割だよ?2年前の型落ち品とはいえ、私の感覚でいうと決してそれほど安くはなかった。液晶ってそんなに高いんかい。ひょっとして、メーカーから純正のパーツを持ってくる場合、実勢価格とは別に「定価」というのがあるのだろうか。
 まあ、それは実際に見積もりしてみないとわからないということなので(見積もりもクソもどうせ丸ごと交換だろうが!)、時間がどのくらいかかるかと訊いてみると「下手すりゃ一ヶ月」!とのお答え(ただでさえ液晶交換は時間がかかるうえに「夏場だから」と言われた。なぜか夏は修理が繁盛するらしい)。こちとら一週間前後でもゴマカシが効くかどうか微妙なところだってのに、一ヶ月なんてお話にもならない。冗談抜きで致命的だ。思うに、車だったら修理や車検の際は代車が出るわけだから、パソコンだって代替機を貸してくれたってよさそうなものだが(贅沢は言わん、最低限Windowsが走ればいい)、それもなし。これからの保証・修理サービスはこの点をフォローするとポイントが高いんじゃないでしょうか。つーかフォローしやがれ。
 私自身はノートの環境が気に入っているが、画面以外は全く正常に動いているのに全部まとめて修理に出すしかないというのは、たしかにノートパソコンの弱点であると認めざるをえない。テレビデオという製品を思い出して哀しくなった。シャープよ、永遠なれ。
 それにしても、一体どうしたものか。たしかに、そろそろパソコン買い換えたいとは思っていたし、ちょうどいい機会であるとも言える。だが、タイミングが悪い。いまちょうど金がない(いつもだが)うえに、いろいろと物いりな時期なのだ。リボ払いで買って2年くらいかけて払おうかな。払い終わった頃にはまた買い換えてそうで怖いが、それもよくあることなのかもしれない。…などとあまり心楽しくない考えしか浮かんでこないので、今日はこの辺でやめておくことにする。
 余談。ショックで今日終了のヤフオクにも入札しそこねた。自分にプレゼントしてやろうと思ってたのに。最悪。

4/14 少年マンガと「ゲーム」 (あるいはゲームと「少年マンガ」)

 今日は、いま最も面白い少年マンガ、『HUNTER×HUNTER』(冨樫義博、週間少年ジャンプ連載)について書こうと思う。
 冨樫義博のジャンプでの初連載は、『てんで性悪キューピッド』。正直言って基本的な設定すらほとんど忘れてしまったが、悪魔の女の子か何かが主人公にまとわりついて騒動を起こす、という『うる星やつら』型のコメディで、しかも当時のジャンプにおける位置づけは完全に「お色気担当」であった。なにより当時のガキの間ではHだというのでかなり話題になっていたと思う。冨樫のそれ以前の作品については未読なので知らないが、『てんで〜』終了後、『幽☆遊☆白書』の直前に準備していてボツになった連載用の企画は「男装・女装・同性愛を絡めたオカマのスポ根マンガ」(本人談)だったというから、当時の彼の志向がいかにも80年代的、高橋留美子的なシチュエーション・コメディにあったことは間違いない。
 冨樫のターニングポイントとなった次の『幽☆遊☆白書』(以下『幽白』)にしろ、連載開始時の路線はその域を出ていない。手違いで死んでしまった不良中学生が、生き返るための試練として霊に関するトラブルを解決して徳を積む、と一文で説明できてしまうプロットは、決してダイナミックな物語展開を生むような設定ではなく、事実、初期の『幽白』は(良質ではあっても)凡百の一話完結型ヒューマンコメディの域を出ていなかった。
 ところが、主人公・幽助が生き返り「霊界探偵」に任命されるという新展開を迎えたあたりから雲行きが変わってくる。この「霊界探偵編」では、「霊界アイテム探偵七つ道具」などの新たな設定で、まがりなりにも探偵ものの体裁を採るのかと思われた。が、飛影・蔵馬らが登場するや、一気に「妖怪退治もの」へと方向転換する。ジャンプにおいて、人気が落ち目になったマンガがカンフル剤として「バトルもの」へと路線変更するのはごくありがちなことである。とはいえ実際にはこの最後の手段もむなしくそのまま打ち切りへと追い込まれる作品がほとんどだが、『幽白』が成功したのは、幽霊→妖怪退治というシフトがごく自然だったこと、そして何より、冨樫義博のストーリーテラーとしての資質がはじめて十二分の発揮されたためだろう。
 霊界探偵編最初のエピソードで登場した飛影・蔵馬はそのままシリーズキャラクターとなり、霊光波動拳の修行、四聖獣編を経て、これも王道の「武術会」編へと、路線変更による迷走もなく、完全に方向の定まった、ほとんど一直線の展開を見せる。
 さて、ここまではごく当たり前のことを書いてきた。その後の『幽白』について簡単に書けば、仙水編において、勧善懲悪の範疇を完全に外れた仙水忍という悪役の登場により作者本人もブッ壊れる寸前までイッてしまい、次の魔界統一編を尻切れトンボにして連載終了という結末を迎えたが、おそらくはそのことにもよって冨樫義博は一種カリスマ的な人気を獲得した。
 というわけで一部で評価が高い仙水編だが、私はあまり好きではない。第二の路線変更である「領域(テリトリー)」という超能力の設定がやはり無理だからだ。
 その前の戸愚呂との戦いで、バトル編が一つの極北に達してしまった、のはわかる。バトルもの――ひいては「対決」を主軸に据えた少年マンガのほとんどがそうだが、そこには「勝負あって内容はない」と言われるように、駆け引きというものが存在しない。追いつめられた主人公が、相手を超える「技」を繰り出して勝つ、その構図こそが重要なのであって、その根拠などは適当に説明がつけば何でもいいのである。…ここで私はそれを非難しようとしているのではないし、そういうノリの少年マンガが嫌いではない。問題は、作家・冨樫義博がそれに飽きたらず、作品に「駆け引き」の要素を持ち込もうとした点である。
 「駆け引き」が成立するにはルールが必要である。強い奴が登場、さらに強い奴が登場…という単純な構造を超えるには、ルールのある争い、すなわち「ゲーム」の構造が必要である。ルールがハッキリと提示されてはじめて、それを破ることも含めて駆け引きが成立する。
 そう考えると、まず必然的にゲーム形式になる(程度の差はあるが)スポーツものを除くと、ルールと呼べるほど高度な設定を持つ少年マンガはほとんどない。まさにゲームそのものを扱い、一見、駆け引きを描いているかに見える『遊戯王』においてすら、実はその(カードゲームの)「ルール」は読者には一切知らされておらず、最終的な決着は作者が考えた新しいカード(つまり技)が登場することでつく、という、前時代的なスタイルの典型なのである。最近は囲碁将棋などテーブルゲームを題材としたマンガが少年誌にも多くなってきたが、これも同じ。『ヒカルの碁』も、囲碁そのものの面白さがどれだけ活きているかといえば、皆無、ゼロである。将棋マンガもそうだが、これらのゲームの面白さは、読者も実際の囲碁将棋を熟知していなければ伝わるものではないし、そもそも読者を惹きつけるような対局を描くには作者がそれだけの棋力を備えていなければならないのは自明。「ケンカが強い奴」のを表現するのは絵でも文でも容易だが、「将棋が強い奴」では話が別だ。将棋の強さとは極めて複雑な思考に基づく技術なのだから。現在これらのゲームを扱ったマンガでは、ゲームそのものを取りまく状況、そしてお得意のハッタリによってキャラクタの凄さを見せるのが関の山であり、そのゲームの本質的な面白さはまるで表現できていないのが実状だ。
 多少なりともそれができているのは、成熟というべきか、このジャンルで最も古くからあると思われる麻雀マンガである。福本伸行のマンガがなぜ面白いのかといえば、まさに作者がルール・駆け引きにとことんまでこだわる性質の作家だからに他ならない。『哭きの竜』などと比べれば一目瞭然である。もっともこれは麻雀が「運」の要素の占めるところの大きいゲームであることも一因だ。劇中における運は作者のサジ加減ひとつであり、その操作によって自在な局面が作れるためである。
 では、少年マンガにおけるゲーム構造とは。好適な例として、ここでは荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の、特に第三部を挙げよう。「スタンド」は要するに超能力だが、守護霊として半ば人格化されており、しかもスピード、パワー、精密な動き、といった能力を持つ主人公・承太郎のスタンドは、ともすれば殴り合い一辺倒の単純なバトルものに走りやすい設定に見える。
 ところが実際はどうか。スタンドは「能力」にすぎないのであり、様々な能力を持つ敵に対し、承太郎がシンプルな能力を縦横に駆使、応用して戦うところにジョジョの真骨頂がある。さらに一例を挙げれば、ダービー兄とのポーカー対決。ギャンブルで勝った相手の魂を奪うというスタンド能力の敵に対し、魂を賭けたゲームで挑むという異常なシチュエーション。承太郎はスタープラチナの精密な観察力でイカサマを見抜き、凄まじいスピードでカードをすり替えたのではないかと疑わせることによって心理的に優位に立ち、結局ハッタリで勝ってしまう。まさにポーカーの真髄というべき心理戦にスタンド能力という要素を加味した絶妙の駆け引きを生み出している。無論、ポーカーのようなゲームらしい「ゲーム」のみにあらず。世界を半周する旅の途上、あらゆるシチュエーションで闘争が勃発し、さまざまな駆け引きを生む展開は圧巻というほかない。
 話は戻って、『幽白』の「仙水編」における「領域(テリトリー)」なる超能力は、『ジョジョ』におけるスタンド能力にあまりにも似ている。冨樫義博が『ジョジョ』を意識していたか否かは別として、この事実は極めて示唆的である。つまり、冨樫義博がこの路線変更によって描こうとしていたのは、まさに『ジョジョ』のようなゲーム的展開だったはずなのだ。
 週刊連載という形式においては、細かい設定上のつじつまが合わないというデメリットよりも、展開のダイナミズム、話を転がしていくうちに大バケする可能性といったメリットが優先される。それが高じて、うまく話が展開しない場合には思い切った路線変更を行いうるわけだが、その際、基本となる設定――つまり「ルール」――も大幅な変更を強いられることになる。
 『幽白』においては、まず霊界探偵編突入時に登場した「霊丸(レイガン)」という設定が足枷になった。霊気を指先に集め光の球を鉄砲のように発射する技である。ありていにいって陳腐な設定であり、これによってバトルにおける霊能力そのものが、この光の球を放つ技に集約されてしまうことになった(例えば桑原は霊剣、蔵馬は妖気で植物を武器化、といった具合に、霊力の使い方にもさまざまなバリエーションが考えられたにもかかわらず)。作者はこの能力を「霊光波動拳」の名の下に体系化しようと試みたがうまくいかず、結局は霊丸がパワーアップしていく過程をハッタリで見せる、伝統的なジャンプ式バトルマンガの構造に則って描かれることになった。もっとも、霊丸といっても所詮、光の球にすぎないのであり、映像的な演出で見せるにも限界がある。それを熟知していた冨樫はたとえば『ドラゴンボール』などと違い、『霊丸』の使用回数を限定することで見せ場を作り、さらに戦う前に一発撃って見せて敵に手の内をさらす、といったハッタリもやってみせた。つまり、決して本意ではないハッタリ方式の演出においても非凡な、最高に近い水準の手腕を見せたのが冨樫の冨樫たる所以である。
 しかし、ストーリーテラーとしての冨樫義博の本懐は、さらに高度な駆け引きを主体としたストーリーテリングだったはずである。そこで彼は、前述したように、より高度なルールを導入することでそれを実現しようと試みた。武術会編の導入部においてチラリと言及された「霊波動を源流とした仙法」なる設定がそれである。武術会開始前の特訓で幽助がその「仙法」を会得するであろうことが暗示されるのだが、この設定はうまく働かず、話が展開すると幽助の技は基礎の霊光波動拳のみであることが明らかにされる。具体的な技にしても結局は霊丸をアレンジした「ショットガン」が追加されたに留まった。その後、幻海師範が「療・防・仙・修・攻」の「霊光波動拳・五大拳」なる体系の片鱗を見せるが、この設定もそれ以上具体化されることはなかった。
 そこで冨樫は、次の仙水編突入を契機として、霊能力を離れたテリトリーという設定を導入。これはうまくいったようだったが、それ以前の設定との相性が悪すぎた。クライマックスである仙水との戦いは霊力の戦いに戻ってしまったこと、「暗黒天使(ダークエンジェル)」と呼ばれる仙水の能力がテリトリーによるものではなく、「聖光気」という霊気の質によるものだったことからもこれは明らかである。
 さて、話はやっと『ハンター×ハンター』に移る。
 「十週打ち切り」に名高いアンケート人気至上主義のジャンプでは、基本的に編集部の立場が強い。というより作家の置かれる環境が極端にシビアで、たとえば人気作品でも頻繁に「作者取材のため休載」する少年マガジンなどと比べ、連載が長期に及んでも休みが一切ないのが原則である。『リングにかけろ!』の5年間の連載中、一週も休みがなかったのを知って、ちばてつやも驚いたという話もあるほどだ。閑話休題。そのジャンプも黄金時代の人気にかげりが見え始めると、人気作家を呼び戻すためなりふり構わぬ策を採る。萩原一至、冨樫義博に異例の「月イチ連載」を持たせたのがそれである。両者とも絵にコダワリのある作家で、特に冨樫義博は「アシスタントを使わずに一人で仕上げたいから」と月イチ連載の理由を語っていた。なるほど、作家として当然の考えだと、絵に関しては素人の私でも理解できる。そもそも週刊という環境が異常なので、本当は作者が一人で仕上げられるペースがマンガにとって理想なのではないか。閑話休題。また両者とも締め切りにだらしない作家であり、萩原一至などは月イチどころか季刊以下のペースで、忘れた頃に現れる、という事実上の連載中止に等しい状態。冨樫は冨樫で『レベルE』の頃はともかく『ハンター×ハンター』の連載が開始してからは頻繁に落とす、未完成の状態で掲載する、挙げ句にコミケ前に休む、とやりたい放題の大活躍で「ああ、今はジャンプでも人気作家ともなれば好きな時に休みが取れるんだ」と事実をもって満天下に知らしめた。もちろんこれらは決して誉められたことではないが、一面では実力で待遇改善を勝ち取ったともいえる画期的な出来事だと思われる。
 さて、ようやく本題に入れる。
 白状すると、『ハンター×ハンター』(以下『H×H』)第一話を本誌で読んだ段階では、私としてはあまり面白くなりそうだという期待を持てなかった。主人公のゴンが、あまりにもセオリー通りに設定された「少年マンガの主人公」に見えて、冨樫義博らしいコダワリが感じられないように思えたためである。また、行方不明の父親探しというメインプロットもあまりにも定番で、私は、作者は「やる気はないが仕事と割り切って」描いているのではないかという疑いさえ抱いた。それでも客観的に評価して少年マンガとしてまず一級、だからこそよけいタチが悪い、と。
 個人的にゴンにさほど魅力を感じないのは現在も変わらないが、「単純一途」な性格に、恵まれた、そして未完成な才能、そして時に周囲を驚かせる突き抜けた発想法など、『幽白』の幽助にも通じる冨樫一流の主人公の要素は備えている。それで十分である。父親を追うというテーマも、ストーリーの舵取りの目安となる程度であり、一つ一つのエピソードがそれぞれ独立した作品となりうるほどの独創性を持ったシリーズとして展開される。作者が決して、ゴンとその父親を軸とした一本のストーリーを見せることに主眼を置いているのではないことは、もはや明らかである。では、作者の意図とは一体何か?
 そのヒントはやはり第一話に隠されていたのである。「珍獣・怪獣/財宝・秘宝/魔境・秘境/“未知”という言葉が放つ魔力/その力に魅せられた奴らがいる/人は彼等をハンターと呼ぶ」…作者はまず、この「ゲーム」の参加者を「ハンター」と規定した。「いろいろな“ハンター”を描きたかった」という意図を込めてつけられたタイトル。そう、各々の目的を持つハンターの対立、それ自体が種々の様相を呈する「ゲーム」こそ、冨樫義博が描こうとしたものだったのだ。
 主人公であるゴン達はまず、このゲームの参加資格であるハンターのライセンスを得、それから「念」の使い手というハンターのもう一つの側面を知る。ここまではいわば序章であり、ルール説明にすぎない。そして序盤のストーリー自体が、つまりハンター試験、天空闘技場での戦いも、ルールのある「疑似ゲーム」なのである。
 さて、では『H×H』の基本ルールである念能力について書こう。「念」とは、バトル系の少年マンガでは定番といっていい超能力、「気」といったものだが、『H×H』でははじめから心源流という武道の一流派として、極めて体系化された形で登場する。この点がまず、他のマンガには類を見ない。「纏・練・絶・発」の「四大行」と体系づけ、オーラとして鎧のように体の周囲に纏う、物に念を通わせて強化する、など基本的な性質からきっちりと説明されるが、圧巻なのはオーラの質そのものの系統別分類である。
 「強化系・変化系・操作系・放出系・具現化系・特質系」全ての念能力をこの六系統に分類して説明できるとし、さらにこの六つの関係を六角形の各頂点として図示し、それぞれの相性まで設定した。例外的な「特質系」まで設定されているのは、現時点であらゆる「反則」を認めない、と作者自らが宣言しているのである。つまり、これがルールだ。「※後天的に特質系オーラに変わるケースがたまにある」という但し書きまであるのは、すでにそのケースも想定しているためであり、つまりおそらくはメインキャラクターで特質系能力を持つにいたる者がいるのだな、と我々読者は予測できる(現にそれが明らかになったが、あそこまでは予測できなかった。不覚)。それは御都合主義ではないぞ、と宣言しているのであり、作者のフェアプレー精神はほとんど本格ミステリー並である。
 このような体系化はもとより作者の好みでもあろうが、ここまであざとくやって見せるのは、『幽白』では所詮、連載途中の路線変更により生まれた付け焼き刃の設定だったために体系化が十分でなかった恨みがあるためだろう。つまり、十分に錬った設定をまず提示しておくという方法論は、ある意味では『幽白』のリターンマッチなのだ。いうまでもなく念能力の設定には『幽白』の霊能力を連想させる点が多々ある。霊気のガード、自分より低いレベルの相手には見えない気、といったモチーフ、さらに「放出系」(桑原)、「具現化」(鴉)といった用語はすでに『幽白』で使われているのである。桑原の霊剣は変化・具現化、蔵馬の「植物の武器化」は強化・操作系、という風に、ほとんどそのまま解釈しうるほどに性質の似た、かつ完全な体系であるといえる。
 くりかえし述べている通り、連載マンガでは話を転がしていくうちに設定が膨らんでいくという方法論が一般的であり、初期の設定と矛盾するものが生じてきてもさほど問題とされないのが普通である。しかし、冨樫義博はこれを嫌い、敢えて予定外のダイナミズムという要素を排し、初期設定の段階で全編を見通し計算し尽くされた作品を志向した。「矛盾や隙のない週間少年マンガ」という、それ自体無謀とも思える試みだが、私はその意気や善し!とする。やはり計算された作品が私も好きだし、それができる作家がいるとすれば、それは冨樫義博であろうと思うからである。
 また、メインキャラクタの配置が『幽白』に似すぎているという批判も聞かれるが、そういう目先の新鮮さが問題でないことはここまで書いてきた通り。さらにいえば、これもある意味では、完成の域に達した「四人組」の主人公の可能性をみた『幽白』のリターンマッチであり、それぞれのキャラクタの奥行きの深さは『幽白』の比ではない。飛影・蔵馬にせよ、その掘り下げられたキャラクター性は主に魔界統一編における描写で付与されたものであり、初登場時の設定はさほど魅力あるものとは言えなかったのである。今回の『H×H』は登場した段階で(個人的な感想としては)キルアは飛影を、レオリオは桑原を完全に超えたし、蔵馬を超えるのは難しいと考えていたクラピカにも大いに期待できると思えてきた。一方それに加えて、ヒソカなどはこれまた冨樫らしい敵役の典型と言えようが、登場時の予想以上にキャラクターが「化けた」例だろう。ゴンの最初の強敵として登場したのが、現在展開しているクラピカの仇討ちというサブプロットに関わる形で重要なメインキャラクターへと成長した。これは設定がストーリーに課す制約が最小限であることによるので、ストーリーテリングは資質だ、という説を裏付ける例だ。こればかりは事前の緻密な計算も及ばないのである。ストーリーテラーとしての冨樫義博と、理論派・設定屋としての冨樫義博、後者が前者を邪魔することなく両者が理想的に噛み合った結果であり、それこそが作家・冨樫義博の器量である。
 すでに述べたように、『HUNTER×HUNTER』はやっと序章を終え、本編に突入したばかりだといっていい。今ならまだ間に合う。こんなスリリングな「ゲーム」を見逃す手はないだろう。


3/30 高校野球道

 故あって最近、高校野球について調べている。
 実は私は、プロ野球にはあまり興味がない。どちらかというと高校野球の方が好きだ(いつも熱心に応援してるわけでもないが)。というのは何勝何敗何ゲーム差、という世界より、負ければそこで終わり、という一回性の方が美しいから、と理屈にすればこんな感じである。
 大体、野球ファンほど数字の好きな連中はいない。打率何割何分何厘、ホームラン何本、打点がいくつ、ピッチャーなら防御率が何点台で勝ち星が幾つか、…どこまで行っても数字、数字、数字である。シーズンを通じて数字の増減に一喜一憂し、シーズンオフにはチームの事情を鑑みて翌年の勝ち星を勘定する。これが野球の一つの楽しみ方なのだろう。
 「野球は筋書きのないドラマである」という。私はそのドラマが好きだ。だから高校野球である。130試合中70勝すればいいなどと思っているプロは甘い。甲子園では(地区予選でも)一度負ければオシマイである。勝つか、負けるか、そのギリギリの部分にドラマが生まれるのであり、これぞ野球の醍醐味だと思う。
 夏の甲子園は県の代表校の大会であるから大抵の人は自分の出身地の代表を応援することだろう。しかし、それが出身校ならベストだが、同じ県内とはいえ知らない学校もあるし、いけすかないところもある。その年によって代表校は違うので、あまり熱心に応援する気がおきない年もある。常に同一球団を応援できるプロ野球に比べて難しい点がこれである。生粋の「高校野球ファン」は特定の高校を応援するというよりは、何年の決勝戦は名勝負だった、とか今年の優勝候補はどこだ、という風に大会全体を見守って楽しむようだが、これは無論少数派であり、しかもその楽しみ方はむしろプロ野球に近いのではないか。やはり、どこが優勝するかではなく、特定の学校が勝つか、負けるか、という点にやや過剰に感情移入してこそカタルシスがあるというのが私の個人的所見である。
 野球マンガを考えてみる。言わずと知れた名作『ドカベン』は全編が野球というゲームの面白さによってのみ成立していると言って良い。野球という一つのスポーツの試合、その限定されたシチュエーションにおける、試合運び、千変万化の展開、劇的な結末、そういった「野球の醍醐味」こそドカベンの魅力の全てであると言えるのだ。
 野球がマンガにしやすいのは、逆転再逆転という起伏に満ちた試合展開、攻撃と守備という対峙の構図の明快さ、そして投手と打者の対決が中心にあることなど、いくらでも理由が挙げられる。特に最後の点は重大で、ほとんどの野球マンガにおいて主人公がピッチャーであるのはこれが理由だ。攻撃において打者の出番は1/9でしかないが、守備においては常に投手が主人公だからである。ところが水島新司の非凡な点はまさにここにあるので、『ドカベン』において主人公クラスである山田・岩鬼はピッチャーではない。ピッチャーである里中は下手投げの技巧派という異色の投手であり、さらに言えばこれに殿馬を加えた4人が主役級のキャラクターである。本来群像ドラマでなければならないはずの野球マンガだが、剛速球を投げるピッチャーを主役に設定しただけの安易な作品が多いのに比べ、ドカベンは明らかに一線を画している。
 いきなり断言するが、高校野球マンガで一番燃えるシチュエーションは、エースが怪我をして投げられない、という場面である。ドカベンでも里中の負傷はお馴染みだが、このシチュエーションは、これも定番である9人ギリギリしか部員がいない弱小野球部という設定において最大の効果を発揮する。例としてここでは敢えて、こせきこうじの『県立海空高校野球部員山下たろーくん』(週間少年ジャンプ)を挙げたい。とても玄人好みとは言い難い、どころか野球を知っている人間には噴飯物のマンガだが、ドラマツルギーに関しては荒木飛呂彦が心酔したというだけあってなかなか凄い。さて、弱小・海空高校野球部がボロボロになって戦い、矢尽き刀折れ、遂にエースで主人公であるところのたろーも握力を失いボールを握れない状態になってしまう。この、絶対絶命という場面で、なんと三塁手の辰巳がリリーフを務めるのである。中学時代はピッチャーだった、という設定で、指から出血しながらフォークを投げまくる。今にして思えばご都合主義もいいところだが、当時はこの展開に喩えようもない興奮を覚えたものだ。野球はポジション毎に役割がハッキリと分かれているスポーツであり、それがいわば野球マンガにおけるお約束であり様式となる。この、様式をブチ壊す展開、というのに私は昔から弱い。例えば5人いるのがお約束の戦隊ヒーローものでイエローが死んでしまって代替わりするとか、絶対に変化しないお約束だと思っていたものが破壊されるという展開が大好きなのである。脱線したが、エースが投げられないときに、本来ピッチャーでないはずの選手が投げる。このシチュエーションに私は無条件にシビれるのだ。高校野球というのは、まだ選手の役割分担の専門化があまり進んでいない。ピッチャーをライトに送ってワンポイントリリーフ、といったことも現実にあるわけだし、エースピッチャーで打撃も4番を打つ、というチームの要が存在しうる。どちらもプロにはほとんどあり得ないことで、ピッチャーは打撃機会も少ないというくらいスペシャリスト化が進んでいる。そういう意味で、打撃優先でムチャクチャな守備を敷く長嶋茂雄の采配が私は嫌いではないし、ある意味で野球の原点に立ち返っているのだとも思う。
 話を戻して、『山下たろーくん』から別の例を引こう。このマンガには、いわば狂言回しとして新開というキャラがいる。野球部員だが運動神経ゼロで、ただ一人の補欠で、野球理論には詳しい、典型的な「解説くん」であり「読者が感情移入するキャラクター」である。ところが、9回裏2アウト満塁、点差は一点という場面で、次の打者は手を負傷してバットを振れない、というような状況になり、「代打、新開!」が告げられる。それまで読者と等しい立場で、試合に対しては完全に傍観者でしかなかった新開が、一躍、主役にのし上がるのである。で、新開のポテンヒットで逆転サヨナラ、となるわけだが、まさに野球マンガならではの、いわば叙述トリックとも言うべき見事な幕切れではないか。この手法を発明しただけでも、この作品は野球マンガ史上に残ると思う。
 野球ゲームはどうか。「野球盤」の再現からスタートした野球のビデオゲームは、選手を操作するアクション性の強いものが殆どである。少数派として、監督となってペナントレースをシミュレートするもの、さらにオーナーになって球団経営をシミュレートするものなどがある。これらはいずれもデータ・数字好きのプロ野球ファンを対象としたものだ。
 しかし、私のお薦めはズバリ、『栄冠は君に』シリーズ。シミュレーションには定評のあるアートディンクの高校野球モノである。まず、全国の高校から自校を選ぶ。さすがに実名ではないが、明らかに実在の高校をもじった名前の高校がズラリと並んでいる。高野連の加盟校なら全て見つかるはずである。そういう意味では高校野球マニアにも楽しめるはずだ。余談だがこのゲームは、プレー開始した段階で全国の学校のデータをランダムで生成する(もちろんランク付けに従ってだが)。そのデータが逐次記録されて行くため、セーブデータが膨大なものになる。にも関わらず、『栄冠は君に3』はプレイステーションのみの発売となった。アートディンク社自体がコンシューマ中心にシフトしていったこともあるのだろうが、こういうシミュレーションこそパソコンでやりたい、というのは私の偏見だろうか。A列車シリーズも然り。
 閑話休題、このゲームは、プレイヤーが野球部の監督になって選手たちを育てていく育成シミュレーションである。部員にはそれぞれ名前はもちろん顔グラフィックもついており、一年で入部してきて三年の夏で引退していくので、なかなか愛着も湧くし感慨もひとしおなのだ。ときどき物凄い素質のある(パラメータの)部員が入ってくると、勝手に「怪物・○○」などと呼んで悦に入ったりするのだが、意外と数字の割に芽が出なかったりもするのである。
 試合はアートディンクらしい、地味だが緻密な画面で淡々と進行する。監督はオーダーを決め、サインを出し、時には伝令を送る。ピンチの際にはマウンドに激励を送ると、「まだ行けます」という強がった返事が返ってくる、という具合である。しかし、このゲームがただのシミュレーションでないのは、当時「9回裏になると4番が必ずサヨナラホームランを打つ」と揶揄されたことからも分かるとおり、ある程度ドラマ性を生むように調整されている点である。とはいえこれは、あくまでも確率的なバランス調整に留まる。
 なぜ野球の、ドラマ性そのものをゲーム化しようという試みが為されないのか?敢えて言えば現在それに最も近いのは、いわゆるギャルゲーであるところの『ドキドキプリティリーグ』だということになってしまう。これとて野球そのものよりも「恋愛」という要素に必然的にシナリオ性が盛り込まれただけで、つまりそういった媒介がなければドラマが成立しないと思われているのが野球ゲームなのである。
 なぜ、野球ゲームを、アクションではなく、付随する恋愛劇でもなく、野球そのものをドラマとして描いてやろうという作品が現れないのか。野球それ自体のドラマとしての奥深さ、無限の展開、といった魅力はマンガという先行形式が十分に証明している。ゲーム業界に野心あるプランナー、脚本家の登場が待たれるところである。

2/12 言葉は変容する

 言語は、人間の最も基本的な情報伝達の手段である。なにしろこれであらゆることを伝えようというのだから、その仕組みは複雑である。
 そういう体系的なものが好きな私は、歴史でなければ言語学を志していたはずである。そう、大学では日本史を専攻したが、私は本当は言語学を学びたかったのだ。だが、志向と資質は必ずしも一致するとは限らない。第二外国語のフランス語で半ば挫折した私は、西洋史すら諦めて日本史学専修へと進んだ(無論、それだけが理由ではないが)。そういや高校の時は日本史も苦手科目だった…。
 閑話休題。そのシステムが極めて複雑かつ大規模な体系でありながら、言語というものはそれを管理する機関ないし組織を持たない。近代国家による国語教育がある程度それに準じた役割を果たすと言えなくもないが、その働きは到底、十分といえるものではない。
 言葉は、それを使う集団全体によってのみ規定される。
 言い換えれば、言葉は変質していくものであり、それは誰にも止められない、あるいは決められない。言葉を規定し、標準化し、管理しようとしたのが国家だが、その破綻が「言葉の乱れ」などと言われるので、それ自体はいつの時代も変わらないのだろう。乱れなどではなく、必然的な変化なのである。
 言葉は変化していく、という話。
 厳密には、言葉の意味は変化する、という話である。
 どうも堅い話になったが、卑近な例を挙げよう。
 たとえば古語辞典を開くと、現代では使わない言葉の他、現在とは意味が異なる単語、そして、全く逆の意味を二つ持つような言葉がある。中学・高校時代、古文で苦しんだ記憶がある人も多いのではなかろうか。「なんで逆の意味があるねん!」と。しかしこれらは必ずしも、同時に二つの意味を持っていたわけではない。古語と一口に言っても、古代から近世まで何百年と使われてきた言葉、意味が変化するのも当然である。
 どうもまだ話が大げさだ。本当に書きたかったのはここからである。
 「役不足」という言葉がある。現在では大抵、「あることをするのに力量が不足している」といった意味で使われる。ところがこの言葉の本来の意味は全く逆である。広辞苑を引くと、「@俳優などが自分に割り当てられた役に不満を抱くこと。Aその人の力量にくらべて、役目が軽すぎること」とある。つまり役不足とは、「役(の重要性)が不足している」ことなのである。その逆に「役者(の実力)が不足している」ことは、もと「役者不足」と言ったらしいが、この言葉は現在ほとんど使われることはなく、広辞苑にも載っていない。
 田中芳樹などはよく自作でこの言葉の意味の間違いをネタとして使ったりする。作家として言葉の正しい意味を広めようとしているのだとしたら面白いが、もっともこの作家には少々くどいところがあり、ドラキュラ伯爵のモデルになった串刺し公ブラドという人物の逸話などは、彼のほとんどの作品で紹介されているといってもいいくらいである。閑話休題。
 もう一度おさらいしておくと、そこらの大根役者をジェームス・ボンド役に抜擢したらそれは「役者不足」であり、逆にショーン・コネリーが通行人Aを演じるのが「役不足」、というのが本来の意味。しかし、すでにこれは、「知っているに越したことはない過去の意味」になってしまったのであり、現在では役不足と言ったら「役者の力が不足している」という意味が正しいのだ、と私は考えている。もとは間違いでも、現実に広く使われるようになってしまったらば、それが正しい意味、というのが言葉の面白いところだと私は思うのである。
 どうも作家というのは言葉にうるさいらしく(当然といえば当然だが)、栗本薫なども、「綺羅星の如く」というのは「綺羅、星の如く」の誤用であり、綺羅とは「美しい衣服」のことだから星とは本来なんの関係もない、したがって「綺羅星」とつなげて、しかも独立させて使うのは間違いだ、などと指摘していた(無論、作家がみんなこうではなく、『綺羅星』という小説を書いている先生もいるが)。しかし広辞苑ではすでに「綺羅星」という見出し語で「暗夜にきらきらと光る無数の星」とされている。さすがに、「(もと、「綺羅、星の如く」からか)」と注釈つきではあるが。しかし、「無数の」とあるように、この説明では「数が多い」というニュアンスを含んでおり、しかもこの変化自体はかなり昔のことらしいので、これは栗本薫の勘違いだろうか。むしろ現在では、ある一つのものが「ひときわ輝いている」という意味で使われることが多いように思う。
 なんにせよ、以前は私もどちらかというとこういう間違いにはうるさかったのだが、すでに「間違えたもん勝ち」であると悟ってしまった。言葉に関しては、「過半数が間違えればそちらが正しい」のである。
 ところが、そうはいかないケースもある。たとえば外国語。こればっかりは、日本人がいくら間違えたからといってその意味を変えるわけにはいかない。例を挙げればキリがないが、たとえば「チャームポイント」などという言葉も全く日本独特の使い方であるらしい。こういった例は「和製英語」などと呼ばれたりもする。「単なる誤用」と「和製英語」の境界は曖昧だが、本来は間違いだと自覚して使っているわけでもないのでやはり歴とした間違いだ、というのが私の考えである。
 逆に、たとえば野球のnight gameを「ナイター」と称するのには、かなり確信犯的な匂いを感じる。おそらくはじめに言い出した人間も間違えたわけではなく、そういう呼び方を作ってやろう、というつもりだったのだろう。あまり感心はしないが。というのも、それでも間違える人間はかならずいるので。
 流行り言葉なども、はじめに言い出した人間というのは必ずいるわけで、そういう言葉に対して鋭いセンスを持った人間が変化のキッカケを作っているという見方もできる。しかし、変化を司るのはあくまでもその言葉を話す集団全体であり、その大部分は、言葉に対してあまりにも無自覚な人間たちなのであった。田中芳樹のように自ら発信源たらんとまでは思わないが、少なくとも私は、言葉に対するセンスは失いたくないものだと思う。
 …とここで終わっていれば美しかったのだが、一つ書き忘れた。
 前出の例とは違いこれはかなり高度な間違いだが、「クリスマス」を「X’mas」と書くのは完全な間違いである。正しくは「Xmas」。普通英語でアポストロフィ「’」を使うのは、文字を省略する部分を示す場合である。しかも、表記だけでなく発音上も省略されるものを表すことが多い。ところが「Xmas」は「Christmas」を略したわけではない。これはギリシャ語でキリストの頭文字であるギリシャ文字のX(カイ)で「Christ」を代表させているのであり、厳密にいって省略とは違うのだ。そもそも、人名を頭文字のみで表記する際はピリオド「.」を使うのが一般的である(さらに厳密にいえば人名じゃないけど)。
 表記の問題にギリシャ語まで絡んできては、間違えるのもムリはないのだが、一度事実を知ってしまうと気になって仕方ないのである。しかも、この「X’mas」に関しては、非常に広く使われている上に、正しく使われている例は皆無といってよく、知っている人もほとんどいないようだ。はやいところ誰かに啓蒙してもらいたいものである。

1/30 ネーミングの話

 たとえば、大作RPGを始める時、まず自分の分身たる主人公を命名する。
 私はその段階で何時間、ヘタすると何日も迷ってしまうことがある。これから長い間つきあう主人公だ。納得のいく名前をつけねば。そもそも「名前」はキャラクターに必須のもの。それなのに何故こいつには名前がないのか?おかげで私が、その魂の名前を見抜き、与えるという、キャラクター作成の最後の仕上げを任されねばならないのだ。
 というのは大げさだが、「このゲームが終わるまでずっとこの名前なんだぞ!」と思うと、つい悩んでしまうのである。どんな名前を付けようが、結局はすぐ慣れるということも十分わかってはいるのだが。
 どのゲームでもコレを使う、という名前が決まっている人もいる。それは自分の名であったり、あだ名だったり、他の好きなキャラの名前であったりとさまざまだろう。その場合は悩まずに済む。ところが私の場合、それもない。あったとしても、ネーミングにこだわることを自覚してしまった現在では、どのゲーム、どのキャラでも同じ名前を、というやり方には馴染めないだろう。
 名前そのものの制約もある。ファミコンの『ドラゴンクエスト』T〜Wにおいては、主人公の名前はひらがなのみ、4文字まで、しかも濁点・半濁点も一文字に数える、という、今考えると殆ど耐え難いシステムだった。ひらがなオンリーという点からも、「名前を入れて下さい」という名前入力画面のシンプルなメッセージからもわかる通り、ドラクエには「プレイヤー自身の本名でプレイすべし!」という思想がハッキリと打ち出されていた。T・Uでは復活の呪文に格納する関係でキッチリ4バイトまでにしなければならなかったのだと理解はできるが、これはツライ。その後スーパーファミコンに移行したX・Yでは、やっとカタカナが使えるようになり、濁音が一文字になって、だいぶん楽にはなった。それでも4文字までの制限はそのままであった。
 私が何をこだわっているのかというと、周りのキャラがみんなカタカナ名前の中で、主人公が一人だけひらがな名では、調和しないことおびただしい、という点である。カタカナが使えても4文字では入らない名前が多すぎる。
 そんなわけで、私はドラクエを始めるたびに、名前入力画面を睨んで何時間も悩む羽目になるのだった。早く始めたくてたまらんのに始められない。このもどかしさ、理解していただけようか。
 他のゲームではどうか。『Wizardry』では、キャラの名前は7文字までで、かな、カナ、英数字、記号まで自在に使える。ネーミング自体の自由度は確かに高い。しかし、このゲームではまず名前を決め、それから性別・種族・職業といった要素を自分で決めてキャラクターを一から作っていくシステムである。これはこれで、別の意味で困る。何から決めていいかわからないのだ。すでに在るキャラに対して名前を与える作業だけでも苦労するというのに、名前を決めてからそれに合うイメージのキャラを作っていくなどという器用な真似がどうして出来よう。しかもWizardryにおいては一人ではない。さらにパーティのバランスも考えながら六人作るなど、考えるだに不可能である。能力値ボーナスによって出来・不出来もあるので、六人の名前その他が全て決まってから作り始めよう、などと考えて収拾のつかない状態に陥るのが常である。言っておくが私は特にオリジナルのキャラを作ることに拘泥しているわけではない。むしろ、全キャラ『指輪物語』から取ってやろう、といったケースの方が多いが、それでも全く同じ状態になってしまうのである。
 ちなみにWizardryではキャラクターの名前は訓練場で変更し放題であるという点も書いておかねばなるまい。この点を利用して適当な名前でガンガンキャラを作り、育てていく中でイメージを育ててもよし(大抵はその名前に馴染んでしまうのだが)。イマイチ思うように育たないキャラ、ロストしちゃったキャラ、やっぱ属性その他がイメージと違うよな、というキャラクターは変えちゃってOKである。気に入っている名前は、強い、あるいは気に入ったキャラに受け継がせる事も可能。が、誠に勝手な話ではあるが、これでは風情がない、という気もする。自分の中で「襲名」をシステム化すれば、それはそれで面白いが。これは今思いついた。バカだねやっぱ。
 次に、ファイナルファンタジー。もはや初期の作は記憶にないのだが(ちなみに自分で持ってるのは『FFコレクション』だけだったりする)、これも一作目から7文字で、かな・カナ・英の使用ができたと思う。この点は問題ない。FFではキャラを見せてから名前を入力させる、という点もでかい。主人公はもちろん、パーティキャラは脇役もデフォルトの名前を変更できたのも、極めて重要な点である(ドラクエUでも仲間の名前を変更する裏技はあった)。Yではプロフィールみたいなものを紹介してから名前を入力させていたのも、ポイントが高い。ドラクエでは実際にキャラが登場する前に命名しなければならないのに比べて、画期的といえる。Wでは変え放題だったとも記憶している(もっともこのゲームでキャラの名前を変えるプレーヤーはあまりいないのだろうとは思うが。私は変えた)。このようにFFはこちらのコダワリを理解してくれているな、というのが嬉しかったのだが、肝心の初期設定の名前がイマイチなものが多いのが難点である。私は一人でも気に入らない名前がいると我慢できないし、我慢できないからには変更しなければならない。しかも、変えるからには全員変える、という妙なコダワリがいつの間にか出来てしまったので、大抵は全キャラオリジナルネーミングになる。例を挙げればYではヒロインの「ティナ」がイキナリ許せなかった(見た目が気に入っただけになおさら)ので早速全員変える羽目になった。Zは全体にネーミングそのものがいい加減だったので速攻で変えた。ご存じの通り、このゲームでは途中で次々にパーティキャラが登場してくるので、新たなキャラが登場してくるたびに、登場シーンののち名前変更の画面で止まって悩むことになるのだった。冗談抜きで、この状態で何時間も迷うことも実際にある。ゲームを始める時と違って、一度電源を切ってじっくり考えよう、という手(もっとも我慢できずにまたすぐ電源を投入するのだが)が使えない。セーブしてから登場イベントまで結構長いこともあるし。もう一つの難点は、全キャラの名前を変えているので、友達と話をする時にとっさに元の名前が思い出せなかったり、違和感があったりすることか。
 では、いよいよ具体例に入ろう。
 私は、特に最近は、あまりRPGをやらない。元々はドラクエ者であり、Xまでは自分で買ってプレーした。FFの方は、一通り借りてやったが、T・Vはラストダンジョンのあまりの長さに挫折。Uはその前の段階でやめてしまった(シリーズ中でもかなり根強い人気があると思われるUを、だから私は一番やってないわけである)。スーファミになってWをはじめてクリアした。これはわりと気に入ったらしい。Xもクリアできた。Yは大詰めになってデータが飛んで、涙を飲んで断念。プレステになってZは食わず嫌いをしていたのだが、借りてやってみたら、どハマリ。キャラを育てに育ててラスボスを一ターンで倒してクリアした。まあ、このゲームに関しては、これでもかというくらいアイディアを詰め込んで作ってあるのだが、全体を見渡すとストーリーは全くデタラメである。最初から最後までその場の盛り上がりに騙され続けた。それだけFFに馴らされていたのだろう。ドラクエXの方が、私としてはイマイチ物足りなかった、ということもあり、ドラクエ離れが進んでいたのも事実である。そんなわけYもプレーしそびれていた。ドラクエ派だった自分を忘れかけていたのである。
 そんな私が、最近になってドラクエYをプレーし、一気に、再び、ドラクエ魂を呼び起こされた。考えてみれば、FFのストーリーが、終わってみれば全然思い出せないのとはやはりエライ違いである。腐っても(失礼)堀井雄二、やっぱゲームはシナリオでしょう!…私はすっかり目からウロコが落ちた気がしたものである。堀井雄二は私のシナリオライター・ランキング内で急激に再浮上。勢いでドラクエZも買う気満々になっているのだが、5月まで延期というニュースが入ってきた。…まぁ、ドラクエのバランス調整なんて考えるだけで気の遠くなるような作業だし。ゲーム作るには理想的な状況でやってるのは事実だろう。発売延期し放題なんだから(笑)。いや、何年も待たされただけのことはある、と今の私は確信している。
 それはさておき、ネーミングの話である。ドラクエのネーミングの難しさはすでに述べた通りだが、『Y』に関しては、発売当時にもほとんど興味がなかったので予備知識が全くないという、ある意味では理想的な状況。しかし、主人公を名づけるうえでは、鳥山明のデザイン画をおぼろげに思い出せる程度で設定も全く知らないのだから名前を決めづらい事このうえない。結局、妥協してつけるしかないのだが、やはりドラクエ者としては、勇者には膝を正して格調高い名前をつけたくなる。せっかくカタカナ、濁音が使えるようになったのに、いい加減では申し訳ない。…というのは少々大げさだが、やはり西洋風で、かつ安っぽくない名前にしたい。「パーシヴァル」がよかったが入らないので、仕方ない、愛称にするか。パーシーなら、『紅はこべ』の主人公パーシー・ブレイクニーにも通じる。「パーシー」だと軽い感じがするので「パーシィ」にしよう、と思ったら小さい「ィ」がないではないか!またまた妥協して「パーシイ」にする。うむ、意外とこの表記の方がやや古めかしい雰囲気があっていいかもしれぬ。…毎度毎度、こんなことをやっているのである。
 ともあれ、ようやく名前が決まったので始めてみると、主人公は山奥の村に住む若者だったらしい。愛称くらいでちょうどよかったな、と、まぁ納得できた。めでたしめでたし。
 ところが、これでドラクエ熱が再発してしまった私は、スーファミ版の『ドラクエT・U』がやりたくなった。で、またネーミングである。TからVまでのシリーズは、勇者ロト伝説に連なる、いわば第一部に属しており、WからYの(Zは不明だが)天空シリーズとは一応、別系統の連作である。昔ファミコンでやった際はけっこういい加減な名前をつけていたが、スーファミでリメイクにあたって、X以降と同じくカタカナ・濁音が使用可能になった。これは、いっちょ気合いを入れて名前をつけてやらねばなるまい。
 そこで私は考えた。やっぱ勇者「ロト」の系譜に連なる勇者だし、名前は旧約聖書から取ってやるか。…さすがに初めての試みである。聖書をパラパラめくりつつ、適当に人名を拾って吟味する。その人物についてまで検討していてはキリがないので、無論、名前の音のイメージだけで決定する…つもりだった。とりあえず、そんじょそこらの似非ファンタジーで使われていない耳新しい単語で、かつ音に違和感がないもの、というのが基本的に私の好みだが、4文字以内となるとやはり難しい。それ以下の短さでそれほど珍しい名前が多くあるはずもないし。
 まずはUだが、とりあえずプレイヤーキャラたるローレシアの王子は、地上最初の勇士である(らしい)「ニムロド」にしようかな、ということになった。語呂的には極めて微妙なところで、カッコイイと言っていいのかどうかわからない。もっとスッキリした音の方がよかったが、まぁ「ロト」に通じると思ってこのあたりにしておくか、ということになった。慣れればOKだろう。実際、迷っているとキリがない自分を熟知しているので、いいかげん多少の妥協はできるようになったらしい。
 次に、サマルトリアの王子。キャラは立ってる分、つけやすいと思ったがこれが難航。まぁ二番手キャラだし、多少変な名前でもいいぞ、という気持ちで臨んだのだが、なかなかいい名前が見つからない。それでも最終的に、よし、「ユディト」にしよう、ということになった。これはかなり気に入った。ところが、忘れていた。小さい「ィ」が入力できないのだった。なんてことだ!パーシイの時のように誤魔化すこともできない。…断念。こうしてみると、旧約には「ィ」「ェ」が入った名前が実に多い。ますますもって選ぶのが難しくなってしまったではないか。結局、ダビデの三十名の勇士の一人である(らしい)「シャンマ」という名前に決めた。実はスーファミ版のドラクエUにはあの歌姫アンナがいないとのことなので、残念に思ったにわか牧野アンナファンの私はムーンブルグの王女に「アンナ」という名前を内定していた。聖書じゃないやんけ!というツッコミはもっともだが、まぁ勘弁していただきたい。そもそも旧約で手頃な女性名を探すのはかなり難しい。
 閑話休題、「シャンマ」は「アンナ」と語呂的にかぶるので、どうしようかと悩む。最後までこの点で迷ったが、結局これに決定。まぁ、いざとなりゃ変えられるし、と思いながらも、結局このままでいくことになるであろうことも、わかっているのだった。
 ドラクエUの二人の仲間の名前は、普通にゲームを始めた場合、何種類かあるデフォルトの名前の中からランダムに決まる。裏技を使ってゲーム開始・再開時に変えるのだが、一度に一人しか変えられない。変更した名前はちゃんとセーブデータに保存されるので、ゲーム開始時、次の再開時の二回で、一人ずつ変えてやればよいことになる(その後も何度でも変更可)。何がいいたいのかというと、スーファミ版のドラクエUには、オープニングにムーンブルグ落城の場面が追加されていることを注意しておきたいのである(ちなみにこのシーンのためにすぎやまこういちが新曲を書いている)。このシーンで、ムーンブルグ王が王女の名前を呼ぶ会話があるので、ゲーム開始時にはムーンブルグの王女の名前の方を先に変更しておいたほうがいいかもしれない、と老婆心ながら言っておく次第である。OPデモといえども自分の決めた名前で呼ばせたい、というコダワリや、変える以上は元の(初期設定の)名前は知りたくない、というような複雑な心理が働くことも考えて忠告しておこう。これを知らないと、先に仲間になるサマルトリアの王子の名前をまず変える人が多いだろうから。もっとも、こんなコダワリを持つのは私だけかもしれないが。
 以上、今回はドラクエのネーミングについて具体的に書いてみた。FFの場合は、7文字まで入力できるおかげで幅が広がるのは確かだが、キャラの性格が過剰に演出されるため、また別の意味でネーミングが難しくなる。が、その話はまた今度。

1/8 フォトショップ

 えーと、生まれてはじめてPhotoshopで絵に色を塗った。
 今までPhotoshopといったら消しゴムでゴミ取りとテキストツール以外は文字通り全く使ったことがなかった。あ、減色だのファイル形式変換だのにもたまに使ってたかな、という程度。明度やコントラストの調整もスキャナに付属していたMicrografxのPhotoMagicなるソフトを使っていた。スキャナ自体がヘボなうえ、ほとんど取り込んだまま画像にしていたのである。
 そんな状態から始めて一晩で(つーか昼までかかったが)仕上げたので、どう見ても描きかけにしか見えない。なにしろ、web上で適当に(絵の好みにより)見繕ったCG講座をhtml、画像込みで落としてきてローカルで参照(ゲーム攻略などではよくやるが)しながら作業。文字通り一から勉強しているのである。まさに習作。
 で、うさだである。早急に年賀状を出す必要に迫られてコレ。描きたかったからうさだなのだが、まぁ昨年はウサギ年というジョークにもなる。無論、相手を選ぶが、その点は心配ない、はず。ついでに年賀ハガキも去年のにすれば最高なのだが、一昨年のしかなかった。アホか。
 まず、いつも通り線画の段階で挫折しそうになる。今回は鉛筆線ではまずいらしいのでなおさら厳しい。なんとかペン入れ、ヘボスキャナで取り込んでゴミ取り。叩き売りしてたのを買ってきたスキャナなので、この工程がまず一苦労である。なにしろ白紙を取り込んでも白くならないスキャナだ。画面半分くらいは影が出来てグレーになる。たぶん光量が足りないのだろう。ドライバを更新するとマシになると言われたが、メーカーが海外なので(販売は富士通系列、そのためよけいサポートが受けづらい)ロクなサポートをしていない。つーかもはや古すぎて対応するドライバがアップデートされてないのだ。
 それはさておき、いつもは鉛筆線だからコントラストの調整によけい苦労するのだが、今回はいわゆるミリペンで主線を入れたので多少は楽である。ペンは苦手だし、エンピツ線の方が好きでもあるのだが。そういう意味でもスキャナとの相性は悪い。
 とにかくゴミ取りして、線画レイヤーなるものを作る。でもって、塗り開始。
 だんだん昔の勘、というほどのものでもないが、それが戻ってきてよく考えてみれば、16色時代はパレット毎に保護をかけて塗るツールが一般的だった。これはレイヤーの概念とほとんど変わりないではないか。一色につき一枚のレイヤーを使うのが一般的らしいからなおさらである。レイヤーはメモリの許す限りいくらでも枚数を使える、というところが違うが、もともとセル画調、つまりアニメ風に塗るつもりなのでそれほど色数を使うつもりはない。PC-9801の、いわゆるアナログ16色の時代を知っているだけに、フルカラーCGの仕組みはよけいイメージしづらいと自分では思っていたが、何のことはない、同じなのだ。というか、私の描こうとしているものが、16色とは言わぬまでも256色もあれば十分な世界なのである。もともと、ゲームなどのCGは256色で十分、というのが私の持論である。実写取り込みの背景などはまた別だが、やたら色数を使ってグラデーションがテカテカしている絵を見ると気分が悪い。ま、好きずきだけど。
 で、結論。
 マウスで塗るのはムリだ。
 CGを描くにはタブレットなるものが必須、という時代がきているのだなぁ、としみじみ思った。しょせんアニメ絵、と思ってたのだが、影付けしようとすると境界線がヘロヘロになって全然キマらない。もとより影付けは苦手中の苦手である。例によって色は設定資料のパレット情報を直接拾ってるので問題ない。が、問題なのはその後の影指定だった。ちゃんと塗る場合は最終的にぼかしやら何やらで境界が曖昧になるのだからとりあえず適当に色をおいていけばいいのかもしれないが、こちとらアニメ絵である。この段階で境界線を確定しなければならないので、そういう意味ではむしろ要求が厳しい。髪にもハイライトを入れたかったのだが、遂に断念した。
 そもそも、なぜ人はいまだにCGの下絵を紙に手で描くのかといえば、線の形を思い通りに表現するにはやはり手書きでなければならないからだ。人と機械との距離は、まだそこまで縮まってはいない。
 では、アニメ絵の場合はどうするのか。下絵の段階でハイライトや影の境界まで主線として確定して取り込まなければならないのか?もちろん、否である。
 なるほど、そのためにドロー系のソフトが必要なんだろうなぁ、とか何となく感じられたのも収穫といえば収穫。曲線は計算で描く時代なんだろう、少なくとも今現在は。要するに次はイラストレーターを覚えなきゃならんのか…。
 そもそも、スキャナがこれほど安くなるとは昔は想像もできなかった。最近のスキャナなど、ふだん絵を取り込む分には最大解像度の十分の一も使っていなかったりするのだから呆れたものだ。これより上の性能を求めることなど、生涯ないのではあるまいか(もちろん、解像度と画質はまた別問題ではあるが)。しかも、現在のスキャナは一昔前のイメージに比べて確実に一桁は価格が下がっているといって間違いない。二万から三万も出せば性能的に文句のつけようがないものが買えてしまう。ちなみに私が使っているスキャナは一万円弱だった。
 「ラップスキャン」という言葉をご存じだろうか。スキャニングの手法の一つである。普通に紙に下絵を描き、やはり線画の段階でスキャンする。まず、サランラップを一枚用意し、シワなどができないように下絵の上にピッタリと被せる。ラップがズレないように固定し、下絵の線をラップの上から油性マジックでなぞる。終わったらラップをはがし、今度はディスプレイに貼りつける。静電気でくっつくから簡単な筈だ(笑)。…フラットディスプレイだとつきにくいかもな、と、ふと思った。時代は変わるものだ。閑話休題、最後はもちろん、グラフィックツールを立ち上げて、マウスでラップの線をなぞるのである。おわかりと思うが、下絵の紙はディスプレイの大きさに合わせるべし。15インチでB5の紙がちょうど合うはずである。
 これは、何年か前まで実際に行われていた方法なのである(どのくらい広く実施されていたかは知らない。私は一度試みたがすぐにサジを投げた)。入力デバイスはマウスしかない、という事実をもう一度想起していただきたい。それこそ下絵からマウスで描かなければならないような時代だ。スキャナというもののありがたみがわかろうというものではないか。実際、昔気質のCG描きほど、機械のありがたみをよく知っている(はずだ)。高価なスキャナで取り込んでも、主線に使えるのは一色で、アンチエイリアスなどというものはない。今でいうラインアートである。ゴミ取りの他、主線を整える過程は全て手作業。最終的には一ドットずつ置いて線を作る作業になる。曲線を描くには数学的な知識が必須とまで言われた所以である。CG一枚描く労力の大半はこの段階に費やされると言っても過言ではない。
 …などと偉そうに書いている私自身、当時描いたことはほとんどなかったが。根気のなさは筋金入りであるし。
1999年の日記

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