「ガルマの仇討ち」という貧乏籤を引かされた情夫のランバ・ラルに一蓮托生……とついてきたハモンは、もともと誰よりもその任務の馬鹿らしさを知っている。その馬鹿らしい戦いでラルを失った後、彼女が今度は「ラルの仇討ち」に走るのは馬鹿らしさの二乗、即ちすべてを帳消しにする死へと突き進む自爆行為でしかない。勝利して生き残ることを、彼女は始めからいささかも望んではいないのだ。
その彼女の自殺部隊に「及ばずながら…」と助っ人を申し出た馬鹿の極めつきが「タチ中尉」なのだ。
「なんなんだこいつは」と、本編の制作中には全く気にもとめていなかった男に、僕は妙に引っかかった。単なる一話ポッキリのゲストキャラである訳がない、と思った。
ラルとハモンにとって、ただの他人ではない男なのだ。そうに決まっている。
到底勝ち目のない相手を恋仇と識りながら、敢えて片恋の情に身を焦がす男というのはよくいる。そういう男は妙に分をわきまえて、半歩下がってじいーっといつも叶わぬ恋の相手を見つめていたりする。辛いにちがいない。しかしその辛さを、本人は結構甘受したりしているから逆になかなか、こういうタイプは片恋いの長期戦にも耐え得る。
本命にとってはたいがい「いい迷惑」だ。ストーカーまがいにしか見えないし、だいたい鬱陶しい。「あいつ、なんとかしろ」とか女には言うのだが、複数の男に惚れられるくらいだから女も器量が大きくて冷たくつき放したりはちょっとしない。
ハモンという女性はまさしくそのタイプだ。そして、そういう包容力をもっている女は生き方の不器用な男を、その不器用さ故に結構好きになったりする。ハモンとラルというカップルが、こうして、出来るべくして出来あがる。
ラルの非業の死を知って、タチはおそらく欣喜雀躍したことだろう。そしてとるものもとりあえず(ケチな中古の武器を持って)、ハモンの後を追ったのだろう。チャンスに乗じて自分が本命となる為に、ではない。片恋に生きた悲運の傷心男子として、ただただ愛するハモンに殉ずるが為に、だ……。
――安彦良和[“過去編”によせて](角川書店刊『愛蔵版 機動戦士ガンダム THE ORIGIN V ―シャア・セイラ編―』所収)
ギロッポンなどとたわけたことを言っているが、あれは業界用語でバンド用語ではない。バンド用語なら正しくはポツロンギとなる。中洲産業大学のタモリ教授がとうに研究しているが、正しいバンドマン用語変換にははっきりとした文法がある。例えばラッパの場合ひっくり返すとパッラではなくパツラとなる。本来は発音されないつまる音(促音)の「ツ」が、ひっくり返した場合にだけ出てくるのだ。スシ(寿司)はシスではなくシースーと伸ばす音(長音)が現れる。目がエーメーとなるのも同じ法則による。耳はイーミミとなって母音が強調される。深遠なものがあるのだ。ひっくり返しが当たり前になるとさらにそれをひっくり返して「スーシー」となることもある。ギロッポンもその結果かも知れないが、どうも違う気がする。「ロッポン」という語幹をそのまま残しているセンスはバンド用語の法則に合わない。この言葉にはバンド関係者は関与していないと結論づけたい。
――山下洋輔『山下洋輔の文字化け日記』(小学館文庫)
しかしながら、トムの脱走への思いは、注意して聞くと必ず「帰還」を前提にしている。たとえば脱走して海賊になることについても、こういうふうに語られる。
海賊になろう! そうだ、それにきまった! これでもう彼の未来は眼前に明るくひらけ、想像を絶する素晴らしさをもって輝いた。ぼくの名前が全世界に知れわたり、人々をふるえ上がらせる。……そしてその名声の頂点に達した時、不意にこのなつかしい村に現われ、教会に乗り込むのだ。……それから、歓喜で胸をふくらまして、人々のささやき声を聞くのだ――「あれが海賊トム・ソーヤだぜ! カリブ海の黒き復讐者だよ!」と。つまりトムが思い描くのは、「帰還」して村人により多くもてはやされるための「脱走」なのである。道化師になることも、インディアンの大酋長になることも、軍人になることもみな同様な思いによる夢にすぎなかった。
――亀井俊介『ハックルベリー・フィンのアメリカ 「自由」はどこにあるか』(中公新書)
「女の人生ってのはね、母をゆるす、ゆるさないの長い旅なのさ。ある瞬間は、ゆるせる気がする。ある瞬間は、まだまだゆるせない気がする。大人の女たちは、だいたい、そうさ」
「あぁ、なんてこと」
「はは、気にするな。旅は長い。これから君、いろんなものを得て、失い、大人になって、そうしていつか娘を産んだら、こんどは自分が、女としてのすべてを裁かれる番だ。はは、だから、気にするな。……ほら」
――桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(角川文庫)
――演じたヒース・レジャーとはどんな話し合いをしましたか?
セックス・ピストルズのジョニー・ロットンやシド・ヴィシャス、それに『時計じかけのオレンジ』のアレックスというキャラクターの影響について話した。ヒースは、ジョーカーの話し方や動きに、腹話術の人形とか、とても変わったアイデアを持っていた。
実際に演じ始めると、彼の声域は高低が極端で、その変化は予測不能だった。キャラクターに関するすべてが、次に何が起こるか分からず、観客を落ち着かなくさせることを狙っていたんだ。
――ジョーカーのルックスはどうやって作ったんですか?
ヒースと一緒にルックスを作り始めた時、彼は自分の指で顔を塗りたがった。ジョーカーがやるのと同じようにね。その後、僕とメイクアップ・アーティストで手を加えた。フランシス・ベーコンの絵画を見て「どう崩そうか? どうしたらイカれた感じになるか?」ってね。映画の中で、彼の指にメイクがついてるのに気づくはずだよ。ジョーカーはそれを洗わないだろうからね。
――クリストファー・ノーラン(『ダークナイト』プログラム所収)
《ベヒーモス》という語は複数形である。学者によれば、《獣》を意味するヘブライ語《b'hemah》の強調複数形である。フライ・ルイス・デ・レオンはその著『ヨブ記注釈』のなかでこう書いている。「ベヒーモスは《獣たち》を表わすヘブライ語である。学者の通説によれば、これは象を意味し、その並み外れた大きさゆえにこう呼ばれる。たった一頭の動物であるにもかかわらず、複数に数えられているのだ。」
創世記原典の冒頭の詩句において、神を意味するヘブライ語エローヒーム Elohím は、それが取る動詞の形が単数であるにもかかわらず、複数であるという事実も思い起こされる―― Bereshit bará Elohím et hashamaím veet haáretz. ちなみに三位一体論者たちはこの矛盾を、神が三位一体であるという概念の論拠として用いてきた。
――J.L.ボルヘス、M.ゲレロ『幻獣辞典』(柳瀬尚紀訳、晶文社クラシックス)
フォア・ザ・チームという姿勢が巨人のV9を決めた。冒頭の後楽園決戦の11日後、勝った方が優勝となった阪神との最終戦。(略)
試合は一方的な展開となり、5回を終わって8−0。阪神は反撃すらできない。ヤケになった浪速のファンが暴れ出した。
「阪神ファンからビンとか投げられて、外野手が守れないんだ。仕方なく前に守るんだけど、『定位置に飛んだらアウトにしよう』と協議されたくらいの大騒動でね。
優勝が決まったとき、柴田さんや末次さん、一直線で逃げてきたよ。ベンチ内に入った阪神ファンから帽子やメガネを取られるし、王さんなど過激なファンに殴られた。胴上げも何もあったもんじゃない。逃げろ!ってな感じでね。バスに戻ってカーテン閉めても、興奮したファンに囲まれて発車できないでいたよ」
宿舎に戻り、ようやく平穏を取り戻した巨人は川上監督を胴上げした。
――萩原康弘(別冊宝島編集部編『一打席入魂 プロ野球代打物語』宝島SUGOI文庫)
かくと着眼した副長助勤の永倉新八、斎藤一、原田左之助などがしきりになげき、もしこのままにして新撰組瓦解せんには邦家の損失であると観念し、調役の尾関政一郎、島田魁、葛山武八郎らとも語らい、六名とも脱隊のかくごをもって会津侯に建白書をだした。書中には隊長近藤の非行五ヵ条をあげ、まず藩の公用方小林久太郎に面会してだんだんと陳情し、
「右五ヵ条について近藤が一ヵ条でももうしひらきあいたたば、われわれ六名は切腹してあいはてる。もし近藤のもうしひらきあいたたざるにおいては、すみやかにかれに切腹おおせつけられたく、肥後侯にしかるべくおとりつぎありたい」と熱心面にあらわれる。公用方はおどろいてともかくも会津侯にとりつぐと、侯はただちに六名を居間にめされ、
「そのほうどものもうすところ一応はもっともとうけたまわった。しかし新撰組は何人が組織したものであるか。もともと、近藤、原田、永倉などがもうしあわせてできたものとぞんじておる。こんにちかぎりこれを解散いたしたとあっては、あずかりおく予の不明に帰するであろう。とくと考えてみるがよろしかろう」と説かれる。こういわれてみると、永倉らはたがいに顔を見あわせ、なるほど会津侯のめいわくとなってはすまないしだいと心づき、
「それではこのまま帰局いたすでござろう」と答えた。侯はひじょうにまんぞくして、
「このたびのことはこの場かぎりにいたせ。近藤をばなにげなくよんで予も面会いたす。けっして口外いたすまいぞ」とて、さらに近藤をその席にめされ、七名に酒をくだされた。
――永倉新八『新撰組顚末記』(新人物文庫)
また、型と実際の試合も異なるでしょう。
実際に戦っている場合の身体は、最低二人であり、ひとりの選手が観客の目を独占することはめずらしく、美を観賞する余裕も観客にはなくなってきます。ボクシングの試合中に、ひとりだけの選手の動きを観賞することは、勝ち負けが問題となっている場では無意味にひびきます。
空手の型やシャドーボクシングを美しいと感じる観客の目を支えているのは、それらの動きがもつ含みであるのに対して、実際に型がその含みを失うときが実戦だからです。含みとして存在するはずの「見えない相手」は、目の前に実際にいる、これが実戦だからです。
武術がいちばん美しいときは、単独の演武である場合が多く、単独の中にこそ美は潜んでいるといえます。二人や、それ以上でおこなわれる約束事としての演武も、どことなく単独のものより説得力に欠けるように思われます。
これに対して、能あるいはダンス一般はどうでしょうか。その身体が描く弧や曲線は、それだけで評価されるべきで、これら以外の存在しない相手を前提とした評価はありません。つまり、現在おこなわれている時空間がすべてであり、そこに存在しない相手を前提とした評価基準はないのです。
ですからこれらの本質的なちがいが存在するかぎり、はたして武術と能楽あるいはダンスのつながりがどこまで直接的であるのか、短絡的に結論することは難しいと私は考えています。
――梅若猶彦『能楽への招待』(岩波新書)
――(略)どうやってこんな大勢の人物を上手に登場させるんですか。
山田 うん、年表をつくるんだ、大体。長編を書くときは。
――どういう年表なんですか。
山田 五段くらいに分けて、登場させたい人物が何歳になってるかとか、一番下の欄にはその年に起こった大きな事件を書いて。
――そのころ誰がどこで何してたかとか。
山田 そうそう。面白いですね。それを考えているのが。時間をわすれてね。
――地図も使うんですか。源森橋とか枕橋とか、めがね橋、万世橋ですね、ああいう東京の地理もじつにピタッと合ってる……。
山田 いや、それは怪しいもんですがね。
――『風々院風々風々居士――山田風太郎に聞く』(ちくま文庫、聞き手:森まゆみ)
この誤解は二十世紀はじめにフロイトによって作り出されたもので、それが心理学者のあいだに広められたのがはじまりだ。フロイトはウィーンで精神分析の研究をしていた時、信頼のおける中流家庭の娘たちからあまりにも多くの近親相姦のリポートが寄せられたため、すべてが本当の話とはとても考えられないと結論してしまい、それらの多くは空想の産物だと断定してしまったのである。フロイトの犯したこの誤りのため、勇気を奮い起こして心理学的治療を受けにきた何百万人もの被害者が事実を認めてもらえず、必要なサポートを受けられないまま放置されてきたのである。
――スーザン・フォワード『毒になる親 一生苦しむ子供』(玉置悟訳、講談社+α文庫)
のちに深浦さんは飲み会の席で、若手棋士たちに向かってこう問うたことがある。
「でもさあ、みんな思わないんですか。羽生さんと殴り合いの喧嘩をしたらどうだろうって。ぼくは、喧嘩したら勝つと思うよ。君はどう? 勝てると思うでしょ」
後輩たちに向けて深浦さんはこんなことを言った。「喧嘩したら勝つ」という言葉に驚いた私が、その言葉の真意を尋ねると、
「勝てるものが何かある、人間としてどこか勝てるものがあれば(羽生さんだって)全然怖いことないじゃないか、そういう気持ちが大切だと思って。だって、なんか、嫌じゃないですか。負けっぱなしって、すべてにおいて。みんな、羽生さんとやるときは、負けると思ってやってるんですかね? それじゃダメですよね。将棋っていうのは対等なもので、けっしてキャリアとかに左右されるものではない。そんな気構えがないと戦えないですよ」
――梅田望夫『シリコンバレーから将棋を観る』(中央公論新社)
その虚構性は彼がイタリア人の床屋やアイルランド人の建設業者と交わす「男同士の会話」の恐るべきステレオタイプによって風刺的に表現されます。男性は本質的に虚構的な存在である。それが虚構だと知りつつ、命がけでそれを演じきったときに「男は男になる」。それがアメリカ的男性の自己形成プロセスである。たぶん、クリント・イーストウッドはそんなふうに考えているのだと思います。
思えば、それは『ブロンコ・ビリー』(80)の主題そのものでした。ワイルド・ウェスト・ショーのスター、ブロンコ・ビリーはもともとカウボーイなんかではありません。彼はスクエアな人生に嫌気がさして、馬に乗ってナイフを投げて二丁拳銃を撃ちまくる子どもじみたヒーローに演劇的に同化する道を選んだ元サラリーマンです。けれども、彼は自分で選んだ「ステレオタイプ男」の役柄を実に誠実に、ほとんど命がけで演じ抜きます。
自分が何ものであるか、何ものに生まれついたのか、といったことは副次的な条件にすぎない。人間は自分で造形し、自力で演じるのである。私たちが「ほんとうの自分は何ものであるのか」といったことは問う必要のないことである。それよりは与えられた状況の中で、「自分がそうありたい人間」として、語るべきことを語り、なすべきことをなせ。ただし、どんなときもそれが虚構であることを忘れるな。クリント・イーストウッドはそう言っているように私には思えます。私はこの人間理解に深い共感を覚えるのです。
――内田樹「グラン・トリノ――アメリカ的成熟」(プログラム所収)
見城 一度、その指摘が大問題になったことがあった。まだ駆け出しの頃、吉村昭さんに作品の感想を手紙で書いたりするうち、短編を書いてもらえるようになった。しかし巨匠だから、遠慮して原稿には手を入れなかったんです。いろいろ思うところはあったんだけど、朱は入れなかった。
ところが、ある日、吉村さんから「ほかの作家に聞いたところ、君は、相当に原稿を直すらしいね。僕にはそうしないんだね」なんて言われて、もう嬉しくなっちゃって。そのあと貰った三〇枚の短編を真っ赤にしたんだけど、直後に激怒の手紙が来たんだ。「君に何が分かるか。もう二度と君とは仕事をしない」という内容の手紙。
すぐに謝りの電話をすると、手紙の雰囲気とはぜんぜん違う。「君の指摘は大体正しいんだ。それにあんなに腹を立ててる自分がダメなんだ」と。僕がすっとんで行ったら、吉村さんが行きつけの寿司屋さんに連れて行ってくださって、カウンターで寿司を食いながらまたこう言う。「あれは僕が悪かったんだ。これからも仕事を続けよう」
僕も「ありがとうございます」と言葉を返して、安堵して帰ったんだけど、翌々日また速達が来て、「やっぱり縁を切りたい」って書いてあった(笑)。僕は「末期の眼の文学」と題して吉村昭論を書く自信があるんだけれども、そういう僕を見抜いていて嫌いだったのかもしれない。おまえは誤読しているよとでもいうように。
小松 自尊心と自然な心が闘っている。
見城 作家の心理って、そこまでねじれてるし、それだから書き続けることができる。僕はそれ以後、仕事の依頼はしていない。連絡も来なくなった。でも、会えばにこやかに挨拶してくださるし、僕は吉村さんの新作が出ると必ず読んでる。
――見城徹『編集者という病い』(集英社文庫)
三十代後半から四十代にかけては、一日十数時間、月産七百枚くらい書いたものであるが、今日ではそんなに量産する作家はいないようである。当時は松本清張が月産二千三百枚、食事に一分二十秒、排泄に十数秒しかかけていないとコンピューターで計測されたという。笹沢佐保は月産千枚、座って書くと眠ってしまうので立って書いたとか、梶山季之は連載十四、五本、全誌制覇したとかいう伝説やエピソードが生まれたほどに、各作家、執筆量を競い合っていた。そのような中で、放蕩無頼の生活をしていたのであるから、強靱な体力と精神力である。
私自身の経験では、五百枚くらいまではまだ多少余裕があるが、これを超えるとほとんど社会生活はできなくなる。講演、テレビ出演、グラビア撮影、インタビュー、パーティー等はすべて断って、執筆に専念しなければノルマを消化できなかった。笹沢佐保は月産千枚を維持しながら、講演活動にも精を出し、艶聞を流し、連夜のようにネオン街に足を運んでいたのであるから、一体どのようにしてこの超人的な時間割りをこなしていたのか、驚嘆する。
――森村誠一『作家とは何か――小説道場・総論』(角川oneテーマ21)
ど、どうしよう。いや、どうしようもないわけだが……。俺は、脂汗をだらだらかいた。
「も、もう見ないから……反省してるから……な?」
自己嫌悪と後悔が胸中で渦巻いている。ぐぅぅ……どうして俺は、よりにもよって妹に、エロサイトを見たことについて責められてんだ? 自業自得だってのはわかってるが――ちくしょう……俺の人生、どうなってんだよ……? ちょっと死にたくなってきたぜ……。
はあはあと息を荒げていた桐乃は、突然無表情になってボソッと呟く。
「あんたのことはこれからカ●ビアンコムって呼ぶから」
「そのあだ名はシャレになんねえぞ!? て、ていうか、その単語が何なのかちゃんと分かって言ってんだろうなオマエ!」
「――よ、よく知んないけど!」
真っ赤になって叫ぶ桐乃は、完全に本気だった。目が据わっている……。親父と同様、俺の妹は『やる』と言ったらやる女である。
俺は迷わずその場にひれ伏し、許しを請うた。
「すんません。許してください」
「絶対やだ」
――伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない A』(電撃文庫)妹に借りたノートPCでエロ動画をDL閲覧、ファイルは削除したがキャッシュでバレた場面。
個人ニュースサイトが実名で登場することで話題になってたけど、エロサイトも実名かよ(伏せ字だけど)。
さらに検索履歴もチェックされ、
「……ほ、ほっとけ!」
赤面して叫んだ俺に向かって、桐乃は、何故か自らも頬を紅潮させながら、
「そ、それに! その……め、眼鏡、かけたままとか――あと、」
「すま―――――――――ん! 俺が悪かったぁ――――――!」
あっさり態度を翻し、俺は桐乃様に平伏した。
い、いかん! 妹よ、それは断じて女子中学生が口にしていい台詞ではない……!
うっわああああ! もうめちゃくちゃ反省したぜ!
よく分からん機械で後ろめたいことしちゃダメ、ゼッタイ!
桐乃は深々と土下座した俺を、冷然と見下してきた。
「……ねぇ、そんなに眼鏡が好きなワケ?」
「そんなにいたぶらないでくれ……! マジで! 何でもするから……!」
――同上ちなみに幼馴染がメガネ。
小説を書いている私自身も、評論家の方の目にさらされています。自分の作品があらゆる角度から分析される。そしていろいろ批評を受けます。すると、ときにちょっと意味の分からないこともありますが、しかし、ときにドキリとしまして、あ、自分はこういうような気持ちで書いていたな、確かにそうだな、と気付かされることがあるのです。これは私だけではなくて、おそらく小説家というものは、自分の書いていることがどういうものか分からない、自分では分からないというところがあると思います。
私は、二、三十枚くらいの短編小説を二十日間かけて書きますけれど、その短編を編集者の方に渡すときに、これが果たして雑誌に載る価値があるのかどうか、そういうことが不安になることがあります。そこで、こんなことを本当は作家が言ってはいけないのですけれども、出来具合が悪かったら返してくださいというようなことを、たまに口走ってしまう。
それほど自分では自分の作品というものがよく分からない。ただ、長い間やってまいりましたから、まあそんな大きなしくじりはしないだろうという思い、ただそれだけが一つの頼りになるわけです。
――吉村昭『わが心の小説家たち』(平凡社新書)
すでにお話したように、著者というもの、意外にも書くことに苦労しています。いろんな複合的なエレメントが錯綜して、それをやっと捌きながら書いているのが実情です。一見して書いた文章は自信に満ちて、ときに理路整然と、ときに端然と書いているように見えますが、けっしてそんなことはない。そういう著者は百人に一人か、千人に一人。実際には、複雑な文脈の可能性をやっとまとめている。さまざまなものが錯綜して、建築現場のように、街の雑踏のようになっている。
しかし、それをなんとかコントロールして書き上がったものは、まあまあの見映えのものになる。それはやっと「読むモデル」になったからなんです。つまり著者や編集者は、「書くモデル」をなんとか「読むモデル」にしていくということをしているわけですね。それが書物というものです。
もとをただせば、もともと「書くモデル」は「読むモデル」を目指さざるをえないということなんです。むろん、そんなことは知った事じゃないという前衛的な著者や極私的な本もあるけれど、それは例外です。
さて、そうだとすると、これを「読書する」というほうから眺めますと、本を書く前でも、本を読む前でも、実は相互に似たような「読書世界」が前提になっていたということなんですね。
――松岡正剛『多読術』(ちくまプリマー新書)
コンピュータの専門家に言わせると、将棋は終盤が発散してわけがわからなくなるゲームで、チェスや囲碁は終盤が収束してわかりやすくなっていくゲームなのだそうです。
(中略)将棋以外のゲームは基本的に戦っているうちに駒がどんどん減っていって、収束の方向に進んでいきます。だからといって易しいというわけではないのですが、いずれにしてもその点において将棋だけ異質なことは確かです。
ですから、たとえば将棋の終盤の感覚は、他のゲームをやる場合には活きないのです。「駒を捨てて、スピードを優先する」といった考え方は他にはありません。
他のボードゲームは終わりに向かって段々と静かになっていくのに対して、将棋だけは終わりに向かって次第に激しくなっていきます。そのため、将棋は最後の最後の場面で、ものすごくきめの細かい正確な読みを要求されるのです。
最終盤は飛車だろうが角だろうが何でも全部捨てて、とにかくスピード優先で王様に迫っていく。その部分が他のゲームにはない、将棋の最も面白くて奥の深いところではないかと私は思っています。
――羽生善治(『先を読む頭脳』新潮文庫)
この昇段規定には、九段は名人の彼方に存在するという逆転現象が生じていた。つまり会社の役職に例えると、名人が社長なら九段は会長となるわけだ。こうした状況に疑問を抱く棋士はかねてから多く、九段昇段問題は長年の懸案だった。
ちなみに当時の囲碁界には約40人の九段がいて、口の悪い将棋関係者は「石を投げれば九段に当たる」と揶揄した。ただ実力やランクはともかく、世間的には将棋八段は囲碁九段の格下に見られた。
――『将棋世界』2009年5月号(日本将棋連盟出版部)
――監督が言われるファンタジーのなかで、たとえば国家だとか軍隊であるとかはどういう位置づけですか? 軍隊については、よく言われるのは国家の暴力装置とか、そういった定義の仕方がありますよね。
押井:それは冷静な議論として書くべきだと思う。僕は別に軍人とか嫌いではないけれども、軍人の限界みたいなものもはっきりしているわけで。それでもいまだに――軍歴のない人間がこのあいだ初めて大統領になったけど――アメリカの大統領の大半はみんな軍歴があるわけだ。戦争の英雄が大統領になるという歴史を積み重ねてきた国家がいまだに覇権を持ってるわけだから、そういう意味で言えば軍人というのは、歴史のなかでも主要なキャラクターたりえてるんだよ、依然として。まあ、ヨーロッパなんかようやくそういう軍人政治家と縁を切ったわけだけど、アメリカとか第三世界で言えばみんな軍人だもん。人間の歴史を決定していった力というのはいまに至るまで、軍人が動かしてきたんだよね。歴史家は認めないかもしれないけど。文人じゃないんだよ、だからそういうふうなことを認めなかった中国がああいう国になっちゃったわけでさ。中国というか儒教国家というのは基本的に軍人を軽蔑してる、文人がいちばん偉いんだと。あいつらは利用するだけでいいんだという話になったわけだよね。結果的にどうなるかというと、内戦を繰り返すしかなくなる、中国みたいに。僕はそういう認識でやってるよ。
限界はあるんだけども、依然として人間の世の中を、世界を動かしているのはどっかしら軍人なんだよ。日本の戦後の民主主義に対する反発もあるんだけどさ。軍人みたいなものを全否定したうえで平和国家を演じて見せようとする無理が、日本をゆがめたんだと。もっと軍人を大事にしたほうがいいんじゃないのと。ただ、自分も物を作って生活している人間だから、ある種の節操というかね、それは必要だと思ってる。書いちゃいけないものもあると思ってるわけ。だから日本がベトナムで戦うなんて話は、そういう意味で言えばいろんな人間の逆鱗に触れるのかもしれないけど、でもちゃんと書いたほうがわかりやすいと思ったんだよ。
――いま、日本で戦後を描く映画というと『三丁目の夕日』的な、ああいうノスタルジーっぽいものが目に付きますね。
押井:ノスタルジーで語るべきものじゃないよ。それに対する反発は当然ある。防衛庁が防衛省に格上げされて、国防省になるまでは、象徴的に言えば自衛隊が軍隊になるまでは戦後は終わらないんだよ。自衛隊が晴れて軍隊になったら戦後が終わったと言えるかもしれない。国家と軍ってのは絶対に切り離せないから。軍隊のない国家なんて、戦後民主主義に脳髄を侵された日本人の妄想だって。軍隊を持ってない国家なんてあり得ないよ、どんな小国であろうが。ポーランドみたいに、さんざん痛い目にあってきた歴史を持った国というのは軍人を尊敬してるし、町のどんな小さな本屋でも必ず軍事コーナーがある。どんな小さな町にもあちこちに軍事博物館がある。そのことを忘れちゃったら国を失うんだという危機感があるんだよ。だからといって別に軍人国家でもなんでもない。日本だけだよね、軍隊がないふりしてるのは。防衛省になったけど、内実としてまだ軍隊って域にほど遠いよ、自衛隊は。僕はもう軍隊にするべきだと思ってる人間だから。その代わり責任を持てよなって話なんだよね。戦前の日本は国民が軍隊に責任を持ってなかった。誰も持ってなかった。政府も持ってなかったし、天皇陛下も持ってなかった。だからああいうふうになったんだ。軍とか軍事に責任を持つというような資格がなかった。だから軍隊とともに生きてきたヨーロッパとかアメリカに勝てるわけがないんだよ。その時点ですでに思想的に負けてるんだ。
――押井守(2008年11月28日付、『ケルベロス 東京市街戦 首都警特機隊全記録』学習研究社)
どうしてここまでロジックに今でもこだわっているかというと、それは僕らの世代の特徴かもしんないですね。
僕らの世代はバブルを経験してなくて、ずっと不景気だったんですよ。上の世代のバブルを経験した人たちって、「何とかなるさ」で何とかなってたじゃないですか。でも僕ら就職氷河期の世代は、基本的に何やっても失敗するパターンだった。僕らの世代の五年くらい後からまた就職売り手市場になってるんですが、僕らは運に頼ると失敗するというのを基本的な認識にしてるんです。
だからロジカルに生きるっていうことが、生きていくためのサバイバル術になってるのかもしれないです。
それは単なる統計的なことかもしれないですけどね。バブル世代が運に賭けたら成功した率の高かった世代だとしたら、僕らは運に賭けると失敗する率の高い世代。だとすると、運しか頼りがなかったら、それは降りた方が間違いないと考える人が、僕らの世代には多いということになると思うんです。
――ひろゆき(『本人 vol.9』太田出版、構成:佐々木俊尚)
もはや、私にとっては「自分の人生そのもの」ですから、「同行二人」といった気分で、のんびりと、「グイン・サーガ」ともども老いていって、そして限界がきたらそこで私が死んで書けなくなったからふっと中断、というような終わりかたになればいいんじゃないかと思っているしだいです。――栗本薫『新装版 グイン・サーガI 豹頭』あとがき
ところで、私が好きだったり憧れたりした正義の味方は、なぜかみんな仮面をつけている。素顔のままで正義を行おうというものはほとんどいない。まるで彼らは後ろめたい想いを抱えて恥じているかのように皆、顔を隠す。何に対して恥ずかしいのだろうと考えると、もしかして彼らは“正義”そのものに対して恥ずかしい思いを持っているのかも、と思う。そんなものはこの世に一度も生まれたことがないのに、そのために戦うなんて、なんか変ですよね――でもやめる気はないんですけど、とか。彼らが戦っているとき、彼らが誰なのか他人にはわからない。それでも彼らは戦うし、その先にたとえ“正義”が生まれたとしても、仮面を付けていた彼らはその正しさがもたらす利益を得ない。それでも彼らがやめない理由を僕らは、なんでだろうか――それを知っているような気がしてならない。口先では馬鹿みたいだと言う。何の得にもならないじゃないかと嘲笑う。それでもきっと、心のどこかではわかっているのではないか、と。この人を引用するのは「あとがき」ばかりだったりする。作家に対してある意味失礼なことかもしれない。
――上遠野浩平『残酷号事件』(講談社ノベルス)あとがき
事実、ルブランの小説の隠れた原動力は屈辱である。「奇巌城」では、リュパンは彼に発砲して負傷させたレーモンド嬢によって救われ、看護され、治癒される。リュパンと兄弟のように似ているボートルレ少年は、リュパンによって嘲弄され、愚弄されるので、しまいにはリュパンを憎むにいたる。「水晶の栓」では、リュパンはドーブレック代議士に打ち負かされ、ぺしゃんこにやっつけられてしまうので、読者はリュパンを見離したくなる。こういう例は無数にある。リュパンはほとんど常に、充分な時間をあたえられず、おまけに煩悩に弱らされ、実は進んで戦う気は大して持たない男なのだ。かれは何よりも、挑発された、挑戦された人間である。挑戦されると、無我夢中になる。やにわに花鳥風月と訣別して、烈火の人、竜と戦う天使長ミカエル、一瞬にして万事をなし得る者となる。リュパンには、神がかりの状態、いわば行動への詩的脱走、人生において燃焼・爆発を生みだし得るあらゆるものの探求というようなものがある。かれは自分を焼きほろぼし、自滅しようとしているのではないかと思われることも、たびたびある。かれは不安定な化合物に似ている――うかつに取りあつかうと、破局的に分解してしまう。まさにこの点で、かれは人間的であると同時に超人的なのだ。
――トマ・ナルスジャック『アルセーヌ・リュパン』(創元推理文庫『二つの微笑を持つ女』所収)
現在、もう一つ考えているのは詩である。最近つくづく思い知らされているのは詩の持つ力の強さである。そして詩の復興が小説の復興とかなり重要な関係がありそうだと確信している昨今だ。詩が駄目になるとついで小説も駄目になるような気もしている。
詩の言葉は、小説の言葉よりかなり強力なのではないか。言葉による喚起力、想起力は詩のほうに分がある。強力な詩は、その言葉によって読者の想像力を言葉以前の段階へつれてゆくことも可能ではないかとすら思う。また詩は暗唱、音読と切っても切れないもので、詩を声に出すことによって音の力を利用することも出来る。想像力に音を響かせて揺り動かすことも出来そうだ。詩とは小説よりも遙かに魔術的である。
詩の力を小説に甦らせる案は魅力的であり、小説が詩の力を利用せぬ手はないと思う。これが成功して“想像を絶するもの”の表現が実現するかどうかはよくわからないが、少なくとも小説はその力に与かる必要があろうと感じている。
――酒見賢一『墨攻』(新潮文庫)あとがき
ちなみに、わたしは「読者」という言葉をたいへんルーズに使っている。まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである。その理由を話そう。はじめて読むとき、苦労して目を左から右へ、一行一行と、ページを追って動かせてゆく作業そのもの、こういう複雑な肉体的仕事、空間的にいっても、時間的にいっても、その書物の中になにが書かれているかを知る過程そのものが、わたしたちと芸術的鑑賞の間に立ちはだかる障りなのだ。一枚の絵を見るとき、目を特別な仕方で動かす必要はない、たとえ書物の場合と同じように、絵にも深みと発展の要素はあるにしても。実際、時間の要素は、絵との最初の出会いにおいて、入ってこない。書物を読む場合、それと馴染むには時間がかかる。(絵を見る場合のような)、絵全体をまず見とって、それからやおら細部を楽しむことができるような、そんな便利な肉体器官はわたしたちにはない。そういうわけで、二度、三度、四度と読み直して、はじめてある意味では、絵にたいするように書物にたいせるのである。ナボコフ贔屓のはずの佐藤亜紀女史は、『小説のストラテジー』冒頭でこれと真逆のことを書いている。
――ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』(野島秀勝訳、TBSブリタニカ、太字は傍点)
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でもいまだにADSLで自宅サーバなのはナイショだ。
「楽器を良く演奏出来る」という言葉はこのようにいくらでも相対的な内容を持つことが出来るのだが、楽器を演奏するという事がやはり一種の特殊技能である以上、機械的な運動の訓練は必要である。機械的なテクニックはあればある程よい。大きな音を速く出せるという事は、例えばサッカー選手がまず人より速く走れるという事同様、「プレー」以前に備わっていなければならない「素質」のようなものだ。では、どのくらい速くかなどと考えずに、まず走ってみる事だ。そうすれば自分がどの位の速さで走れるのか、そして誰が一緒に走ってくれるのか分る。一緒に走ってくれる相手が不満なら、好きな相手と走れるような走り方を練習すればよい。
いわゆる「基礎テクニック」の全然ないド素人だって、一晩霊感を感じてギャボギャボに吹く事は出来るだろう(特にフリーフォームの場合は)。それが素晴らしいものである可能性は大いにある。唯、もし彼がそれで生活したいと思うのなら、次の日も次の週も次の年も吹き続ける事が出来なければならない。その間、自分自身と共演者と聴き手に一応の満足を与え続けながらだ。これは決して一時の霊感や興奮や蛮勇で出来る事ではない。自分の中の可能性を音にして続ける、というのはやはり冷静な技術の作業なのである。
――山下洋輔『風雲ジャズ帖』(平凡社ライブラリー)
なんと、この日でサイト公開10周年だったのか。驚いた。
10年前のことなんて全然覚えてませんけどね。