今年最後の日に、年来の夢が一部叶った。
この一事を以て言える。いい年だった。
来年はこの夢の残りの部分も叶えたい。(かなり大胆な望み)
そのためにはもう一つの夢を叶えてしまうのが手っ取り早いな。
ムリヤリ生成したRSSを試験的に配信。
東京都水道局から「漏水修繕連絡票」なるものが来た。
使用量が大幅に増えたので漏水チェックしたけどメーター見た限りではダダ漏れではないらしい、みたいなこと。
しかしトイレのタンクが怪しいとは実は俺も前から思っていた。実際、生活は何も変わってないのに期間あたりの使用量が倍くらいに増えてる。電気のトラブルも水回りが絡んでるんじゃねーのか? と睨んでいた。
電気+水であれば電気を先に調べるのが筋ということでまず東京電力を呼んでみたら、肝心のブレーカーが落ちる現象が再現しない(笑。普通に電気が点いてしまった。またこれかよ! 再現しないつーことはいつまた再発するかわからんということで、一番困るパターンだ。
いや、呼ぶ直前にもう一回試せば良かったんだけど、電話したらすぐその日の夜に来てくれるつーからさ、タイミングがなかった。
とりあえず漏電はしてないので危険はないし、ショートであれば水は関係ないんじゃね? という話だった。どうしてくれよう。
水の方は、漏水してたのを直しました、てのを件の連絡票で報告するとその分は請求されなかったりするらしい。
急に使用量が増えたってだけで向こうからそんなこと言ってくるとは、やけに気を回すじゃねーか。そんだけ漏水のトラブルって多いのかな。
風邪ひいた。
それだけで記録しておくに値するくらい頻度は低い。
トイレの電気を点けると(正確にはスイッチを入れると)ブレーカーが落ちるようになってしまった。
もちろん、アンペアがオーバーしているはずはない。おそらくはショートだ。トイレには電球一つしかないのでそれを外して試したがダメだった。これはまずい。かなり面倒なことになりそうだ。
大家を通して業者を呼ぶのが筋なんだろうけど、それはさらにいろいろ面倒なので直接電気屋を呼んだらまずいだろか。たぶん裏側の配線を見てもらうことになるから建物の構造がわかってないと無理?
とにかくまず現状ほとんど進入不可能に近い有様の玄関を片付けることから始める。迂遠(笑。
まあ、すでに電気つけないまま使うのに慣れちゃったのでしばらくは平気ですが。
博多行ってきたよ。
浴衣でコミケ行くのにもすっかり慣れた。
浴衣にはポケットもないし、着崩れると直すのも大変なので、慣れないうちは不安もあるのだが、着たままコミケに行って無事帰って来られるようになればもはや怖いものはない。
コスプレ登録して会場で着替えてもいいんだけど、それも面倒だしな。
年に一回、多くて二回しか着ないのに、既に5枚も浴衣を持っている。
浴衣は一期一会。祭シーズンが始まるよりかなり早い時期に新作が出てくるので、そのタイミングを逃さず買うのが重要だ。季節外れになると全然売ってないジャンルだし。今季はそのタイミングを逸したので諦めていたのだが、先日たまたま見に行ったらイイのがあった。今までで一番気に入った。しかもかなり安い。例年この時期はすでに売れ残りセールで、マシなのがあったと思ったらサイズがXLしかないとかそんな世界なのだが。安かったのはそのせいか。即買った。帯も合わせて。
普段着る服もそのくらいちゃんと選べよと。
で、今日着てったのがそれ。今回は装備にもこだわることにして、帯に扇子を二本差し、ついでにiPodも差し、さらに背中には団扇。某喫茶店の。これはさすがに会場着いてからにしておいた。でも足もとはサンダルなのが俺スタイル。
ちなみに扇子は秘蔵のCLANNAD春原扇子と、さらに恥ずかしいストパニ扇子、これは秋葉原コスパのワゴンセールで見つけて面白半分に買ったもの。これだからコスパは侮れない。
一応、まともなやつもと思って予備に加藤123九段揮毫「花鳥風月」も持参したのだが結局使わなかった。
ちなみに、ある程度覚悟はしてたが背中の団扇は汗を吸って一日ですっかりダメになってしまった。うーむ。てか汗かきすぎだ今日は。
とりあえず今日本気出して気が済んだので、明日はユニクロの浴衣で行くことにする(笑。
久々に電気を止められた。
しかも、東京電力新宿営業所の24時間支払窓口が既に終了している旨も同時に通知され、やべーまさか週明けまで電気なしか? と焦ったが、その代わりコンビニで支払える払込票が同封されていた。これは助かる。
コンビニで処理されるとすぐデータが反映されるので、東京電力のカスタマーセンターに電話。これも平日9:00〜17:00受付ということになっていて時間外は自動応答だが、例外的に電力供給再開のみ常時受付でオペレータにつながる。今回の件がまさにこの例外に該当する。オペレータにお客様番号、氏名、住所等を申告して料金支払いの確認が取れると、供給再開作業が手配される。およそ一時間。暖房など火事の危険のある機器の電源が入りっぱになっていないことを口頭で確認すると立ち会いは不要と言われる。確か前の時は真っ暗い自宅で待ってなきゃならなかったのだがこれまた助かった。物事は少しずつ改善されているようだ。図書館で適当に時間を潰して帰宅、ビデオの時計を設定し直して復旧完了。
以上、わりと貴重な経験だと思ったので一連の流れを報告しておく。
さらに、まさにこの日が自分の誕生日だったことを指摘されて気づき、面白すぎるのでここに書かないわけにはいかなくなった。何もちょうどこの日に止められなくたってよさそうなものだ。
いい歳して何やってんだよ、と思った。さすがに。
かなり久しぶりだったので、復旧後に給湯器の電源入れ直すのを忘れて、すわ、ガスも同時に止められたか!? と焦った。
Web拍手より。
old menuをずっとブクマしてました.鬼畜王ランスの記事はどうなっていますか?笑old menuね……。昔のページはいろんな意味で恥ずかしいので、もうあまり見てほしくないくらいのアレなんですが(笑、「クソゲー竜王戦」とか『新デジタルデビルストーリー』あたりは紹介してくれてるサイトからトップページへのリンクで今も一定のアクセスがあったりするので、メニュー消すわけにもいかず中途半端に残してある次第。
(ちなみに私はノエルとlainが大好きな人間です)
鬼畜王ランスについては、最近引用したのがそれに関する内容だったりします。要するにシェイクスピアの時代にはまだ女優というものがいなくて女の役は少年が演じてたり、演技や演出に頼れない分、戯曲特にセリフの重要性が大きかったのと、数パターンの表情しか用意されてないキャラの絵を並べてテキストで会話させて進行するゲームとは相通じる部分があるのではないかと。
ほら、一文で全部言えちゃった。
ちなみに、今見ているこのページ(index.html)には実は二つのコンテンツが含まれていることに、賢明なる読者は既にお気づきのことと思う。いわば日記Aと日記Bだ。今日のこの日記を含むページ先頭部分には、ほぼ書いた時点の日付を振った日記。そしてその下に、書かれた日に関係なく単純に連番の日付になったもう一つの日記。
なんでこんなことになっているのかというと、今となっては俺にもよくわからない。
北九州行ってきたよ。
将棋サイト公開。
札幌行ってきたよ。
ブログの、というかWebの引用はTumblrでやればいいんだ、ということを思い出した。
カウンタが100,000回ってもた。
早指しの緊張感は異常。
よく考えたら持ち時間に制限のある将棋って指したことなかったわ。
30秒将棋とか全然無理。一手ミスると余計に焦ってもう挽回不可能って感じ。
てなわけで、将棋倶楽部24に登録して一局フリー対局してみたらボロボロに負けた。
つーか持ち時間切れで負けてしまった(笑。最悪だ。
限られた時間内(しかも明らかに足りない)にとにかく一つの結論を出さなければならない、てのは俺の最も苦手とする状況である。先が思いやられる。慣れるまで大分かかりそうだ。
あそこの対局はサーバを介してとはいえ相手のクライアントとリアルタイムで通信してるわけで、対局中はつなぎっぱ。自然と早指しが基本になる。接続が切れると中断になって後で再開が可能ではあるがそれはあくまでトラブル対策という想定だし。持ち時間は同意の上で対局になるので早指し希望の相手は断ってもいいのだが、つーかそういうルールを前もって書いておいてくれよ。登録時にも不安に思った通り、想定してないことが多すぎる。
というわけで、じっくり指せるうちのWeb将棋もそれなりに存在意義はあるのかなと思った。昔は書簡による通信対局なんてのもあったわけだしね。
将棋をやると、自戦記を書きたくなる。
いかなヘボ将棋でも、これは自然なことだ。たぶん。
決して、珍しく勝ったからというわけではない(笑。
棋譜はこれだが、あらかじめ断っておくと表記が完全ではない。△5二金などが典型だが、同種の駒が複数その場所に利いていて動かしたのがどっちか区別できない場合に「〜右」などとする添え字がない。これはもちろん、判定を実装するのが面倒だったからでもあるが、そもそもどういう規則で添え字が付くのか、当時よくわからなかったからでもある。「〜右(みぎ)」は、右側にいた方の駒が動いた、という意味。右に動いた、ではない。「〜上(あがる)」「〜直(すぐ)」は真っ直ぐ前進、「〜下(さがる)」「〜引(ひく)」はその逆、「〜寄(よる)」は真横への移動、持駒を打った場所に盤上の同じ駒が利いてた場合は「〜打」。もちろん、補足によって動いた駒が特定できるものを使う。これがめんどい。
あとCSAファイル出力もこっそり実装済みですが、現状使い物になりません(笑。前にチラッと書いたけど、成ったという情報を保持できてないし、それから移動元の位置が間違って記録されてるとその手が認識されなくてそこで棋譜が途切れてしまうケースがある。これはデータ自体がおかしい可能性亞里。さらに、変なタイミングで手番が入れ替わって辻褄が合わなくなるケースもあったな。これはファイルをいくら見ても原因が見つからず、ソフト側のバグじゃねーの? と言いたくなった。閑話休題。
さて、さっそく1図。後手はいきなり一手損角換わりで来た。急戦は望むところではあるが、角交換はあまり得意でない。
居飛車の宿命とはいえこの時点で早くも右翼が孤立しつつあり、しかも▲3六歩と突いたのが拙かったようで、のちに角によってさんざん飛車をイジメられることになるのだった。対振り飛車ではここ突いちゃいけないみたいね。それを知ってて四間飛車に振り直してきたのかな? どうしても、原始棒銀で早いとこ銀を2筋に繰り出したいというのがあってつい。このあたりでは▲3七桂から桂馬をサバくことばかり考えてたけど結局最後まで跳ねることはなかったのであった。
2図。4筋への攻撃をどうにか凌いで反撃の角打ち。後手もこの形はさすがに拙いというか、△7四歩は最終盤までたたった疑問手かと。
書いてなかったけど後手番はBallon d'orの桜木天さん。ちなみに読みは本来「てん」じゃなく「たかし」のはずである。確か。
3図。
2筋も突破して完全に勝勢、くらいに思ってました。この時は(笑。
4図。ここまでも間違った手は指していないつもりだった。飛車得の直後、ズバッと馬を切った瞬間。以下 △同金 ▲同飛成の角金交換で、金を一枚はがして寄せに使えれば十分、と判断。俺もこんな手が指せるようになったか、とか思ってたらその直後に△2五角で王手飛車くらうのが全然見えてなかった(笑。
この一局で最高にカッコ悪かった瞬間である。
玉が孤立している上に角筋丸見えで、形が悪すぎてどうしようもない。駒得で十分という考えが大間違いであることをこの後身を以て知ることになる。
5図。ここらへんも、駒損しないように受け続けてやっと大駒追っ払ったと思ったらまた食らいつかれ、みたいなストレスの溜まる展開が続く。左翼の金銀が働いてないし、自陣に打つのもセコく歩ばっかり(笑。これじゃ苦しいわけだ。△2六歩に▲2八歩なんてシブすぎる受けである。
6図。ようやく反撃の手番が回ってきた。
▲7四桂からの寄せはかなり早い段階で見えていた。というか美濃囲い攻略のセオリーである。金が欲しかったのもそのためだし。この直前の形から▲7五歩 △同歩 ▲7四桂と打てば即詰み、というかトン死、というのを狙って、さりげなく歩を突くタイミングを窺っていたのだが(笑、ぶつけても同歩と応じてくれなかったら困るよなーとか、7四を空けて直接桂馬を打つ筋しか見えてなくて、手前に打って跳ねるという発想が全くなかったのだった。あんなとこに打ったらどう見ても狙いがバレバレだしな。って▲7五歩でもバレバレだよ! つーか相手が意図に気づかないことを期待するような寄せを考えるな(笑)とツッコミ。
それでも一応詰めろだから厳しい手ではある。
7図。△1七龍をかわせばもう王手は続かない。ここからはずっと一手の争い。ここで後手がどう受けるかで寄せ手順が全く変わってくるので一番必死に読む局面。王の逃げ道確保が絶対だから、桂が跳ねて7三を空ける手も当然読み筋には入ってた……けど、△6五桂でこっちも一手透きじゃねーか!!(追記:そうでもなかった?) なんという攻防一体の手。すぐまた大ピンチになろうとは夢にも思っていなかった。受け切ったと一安心した直後だけに精神的ダメージが大きい(笑。覚悟の量を誤った、というやつである。
8図。構想通り▲7四桂の王手から、あとは詰将棋である。後手玉が詰まなかったら負け。やはり終盤戦はこうでなくては。
とはいえ全く自信はなかった。が、さすがにここは必死で読んだ。システム的に持ち時間は事実上無制限なのだが、とても悠長に考えてはいられない。むしろ序盤はそれこそ一日一手とかのペースだったのが、終盤の数十手は最後の数時間で一気に指されたものである。まあ、一日一手と言っても、指した時点で相手が寝てしまっていたりする場合は、「指し手は確定しているが相手は翌日までそれを知らない状態」つまり封じ手みたいなものだ。別に大長考してたわけではない。閑話休題。
▲4一角に対して相駒されてたら詰んでなかったかも。結論まで検討しきれてないけど、かなり面白いことになってたと思う。少なくとも一度、手番を後手に渡さざるをえなかったはず。以下、△5二桂 ▲4五角 に対して△5四香と相駒されると、もう左からの王手ではたぶん詰まない。いや、打って取ってが続く詰将棋が苦手なので自信はないが、少なくとも俺には読み切れないので同じことである。
そこで、敢えて▲5六飛で後手に手番を渡すのが妙手ではないか? と考えていた。(参考図)
この局面、5四の香車はいわゆる串刺しで角が利いているため動けない。後手の持駒はすでに歩しかないので打てず、一方こちらは飛車が焦点の5七に利くため必至を消しているのである。まさに攻防一体の手!(さっきも言った)
……と思ってたんだけど後から冷静に検討すると△5七龍に▲4九玉でも▲6九玉でも普通に後が続かないね。駒を渡さないように寄せて、むしろ合駒を使わせてたから。一手くらいは平気だったか。
気を取り直して9図。 本譜は8図以下 △5四玉。こっちの手順なら詰みが見えてたのでこの時はマジでホッとした。最後は5五のいわゆる都詰め。ここまでずっと完全に浮き上がってた3五の銀までまるで計算したかのように働くのが面白い。将棋ってホントに奥が深いッスね。
博多行ってきたよ。
CSA形式の棋譜ファイルを吐かせようとしたら、うまくいかないことが判明。いや、記録された情報は足りてるからなんとかなるんだけど、成ったあとの駒情報を持ち回るのが面倒つーか。最初の方のはバグで記録ミスもあるっぽいし。せっかく当時の熱戦譜(笑)を並べ直してみようと思ったのに。
今ある機能で画面に表示してる棋譜は正しいんだけどね。データあるのに手入力し直すの悔しいじゃん。並べ直すってのはそういうことだろと言われればその通りだが。
Web拍手コメントより。
上海さんと上のSHOGIしたいお!メニューにある「SHOGI」ですね。なんていいタイミング!
てか、最近微妙に将棋関連の話題やら引用が増えてるのを察していただいたのだと思いますが、左様、実はまたちょっと将棋に凝ってます。
何を隠そう、初心者向け将棋情報サイト(!)を準備中なのだ。しかし構成やらコンテンツやらはいくらでもアイディアが出てくるのだが、サイト名が決まらなくて困っている。いっそ募集してみようかと思う。メールか拍手コメントでどうぞ。
一応、今のところ候補が一つあって、
「負け将棋だよ人生は」
単に「将棋だよ〜」でもいいんだけど、やっぱ七五調にしたいじゃん? 将棋の格言てちゃんと七・五になってるのが多いしね。「二枚換えなら歩ともせよ」とか「桂馬の高跳び歩の餌食」とか。
てなわけで、先の話だけどサイトが軌道に乗ったら、世間にはオンライン将棋サークルなるものがあるようなので、そういうのが出来たらなあとかも考えてます。当然、初心者による。で、その際は将棋倶楽部24を利用しようかと思ってる。もちろんまだ検討段階だけど。なので、上記コンテンツは一時休止しようかと思ってたんですよ。あるいは逆に大リニューアルするか。
でもまあ、とりあえずやってみますか。今は公開中なわけだし。
手順としては、ユーザ登録が必要なので希望するアカウント名を申請して下さい。そしたら登録したアカウント情報をこちらから送りますので、メールなど返信可能な連絡手段でよろしく。
でも今ある棋譜見ればわかると思うけど、相当弱いよ、俺。
つか、将棋に限らず対人だと全てにおいて異常に勝負弱いのであった。
朝、1分が惜しいという時に玄関出た瞬間東京ガスの人と鉢合わせした。
なんでも、ガス機器の定期点検だそうな。
出かけるから無理つーたら土曜にしてくれた。ひとまず助かった。
が、土曜までに部屋に立ち入れるよう片付けねばならんということではないか。
無理。
なんでいきなり来るんだよバカそういうことは二ヶ月前に言っとけっつーの、と思ったら、一週間ほど前に通知が来てたらしい。
気づかなかった。
ガス料金は、郵送されてくる払込用紙で毎月(実質三ヶ月毎だけど)払ってる。
それに気づかないということはほとんどないのに、なぜ点検の通知とやらに気づかないのだろうか。
前回(何年か前)も予告を全く認識しておらずいきなり来られて難儀した覚えがある。
引っ越してきてからまだその一度しかやった記憶がないから、5年に一回なのかな?
言いたいのは、もっとわかるように通知しろよ、ってこと。在宅じゃなきゃお前らも困るんだろうが。
どんな通知だよと思って確認したら……あった。ちゃんと見た覚えがある。「ガス設備定期点検のお知らせ」。
ただ<建物全体の点検>というのがメインになってたので、なんだ午前中一時間くらいガス止まるだけか勝手にやれよと思って、下の方に<室内の点検>というのがあるのを見逃していただけだった。
ってアホか! 建物全体とかどうでもいいんだよ! 部屋に立ち入りますという告知の方が二千倍も重大だろうが。なんでそっちをメいっぱい強調しねーんだ。
つか、メールで連絡してくんねーかな。
そんな仕組みすらないのは、考えてみると驚異だ。
別に全てネットベースに移行しろとはいわないけどさ。
今度の会社は福岡にあるので、4月早々に諸々の手続きをしに行くことになるらしい。
俺、九州って一度も行ったことないわ(笑。
東京で社員になるのは俺が初めてらしいんだけど、健康診断とかこっちで受けられるんだろうか。
今、九州に住んでる知り合い誰かいたっけな。
九州つーても広いだろうからな。
暖かいのかな。
とか、そんな世界である(笑。
本日、満を持して社長様に辞表を叩きつけてきました。
以前、転職を妨害された時の教訓を活かし、今回は徹底して先手を打ってやった。同じ轍は踏まん。
まあ、今度は現職と何の接点もないから邪魔されるいわれも心配もないのだが。
遺恨覚えたか!
自らの手でカタストロフの引き鉄を引くのは、なぜこんなにも爽快なのだろうか。
もちろん、自分を縛るものからの開放というカタルシスもあるが、決してそれだけではなく、破滅的な行為そのものの快感も確実にある。
一度それを知ると、何度も同じ事をやってしまうのかもしれない。恐ろしいことである。
『天邪鬼』や『裏切る心臓』を書いたE.A.ポーならば確実にその心理を理解していた。
『盗まれた手紙』のプロットの根幹にある「確実に部屋の中にあるはずのものがいくら探しても見つからない」というシチュエーションは、部屋を散らかす人間なら実感として知っている。(これは以前に書いた)
稀代のダメ人間っぷりを文学に昇華してみせたポーは、最期は他人の服を着て泥酔し路上に倒れているのを発見されそのまま死んだという。一体何があったのか真相は今に至るも全く不明。
かっちょいい死に様だ。見習いたい。
なお、退職は三月末日付になります。
早いとこ退社を決めたいのだが、話が進まずじりじりする。
待つのが苦手だなー俺。
次のこともあるから早めに確定したいし、万一誰かに先を越されては大変まずい。
いつかどこかで聞いたような話である(笑。
転職するかどうか迷ってたんだけど、ここらで一度自分の人生ブチ壊すつもりでやればいいか、と考えたら目の前が開けた気がした。
今まで壊れそうでなかなか壊れなかった人生。いつドロップアウトするか、そればかり考えながら、ずっとその勇気が出なかった。
こんな気分の時でないとできまい。
いや、面白いし良さそうな話なんですけどね。
「臆病な人がいちばん大きな声を出すし、貧乏な人は最後の一フランになってから大バクチをうつものよ」
――エリザベート伊方(新城カズマ『蓬莱学園の革命!』)
「全額じゃなくていいんで、少しでも……」
「全額じゃなくていいっていうのは変ですよね。だったらゼロでもいいんじゃねーの?」
「とりあえずこの紙に住所と名前を書いて下さい」
「アンタが家まで集金に来てるんだから住所も名前も分かってるでしょうよ!」
NHKの放送受信料は絶対支払うまいと改めて誓った。
今まで東京都水道局からの最後通牒は、
「明日で給水停止します。営業所まで料金払いに来てください。というものだったのだが、今回新たな払込用紙を同封してきてコンビニで払えるようになった。期限も何日か先だし。
払込用紙は期限切れなのでコンビニや金融機関での支払いは不可。」
でも封筒に「この通知は郵送ではなく直接投函しました」とかわざわざイヤミたらしく書いてあるのにイラっとくる。知るか、んなこと。
そんなこと書いてあるから、職員がわざわざ来たってことはいきなり給水停止したのか!? と最初焦った。
本を読みますよね、で、たとえば感動しますよね。その結果なにかしたくなる、というのはすごくわかるんですよ。わたしも実際、子供の頃にアーサー・ランサムを読んで本当にヨットを練習してみたりとかしたことありますし、本に書かれていたことを再現したくなる段階がひとつある。
それから、もっと感動すると、まさにおっしゃったとおり、なにかぜんぜんべつなことをやりたくなる。この動きをどこかでなんとかしたい、自分から出したい伝えたいっていうふうになって……でも、わたし地震は、「こんな小説書いてみたいな」と、ぐるっとテキストのほうに戻ってきちゃう体質が強かったんですよ。小説家になるような人間は、たぶん「最後にぐるっと戻っちゃうひと」なのかなと思って聞いていました。
――新城カズマ(早稲田文学 第2号 「早稲田文学 十時間連続シンポジウム 小説・批評・メディアの現在と未来をめぐって」)
『決まってんだろ。やるたびにケンカの真剣味がどんどん薄れて、しまいには友達になっちまってケリさ。「なかなかやるな」「お前もな」ってやつだ。相手の手のうち読もうとしてのべつ頭をひねってりゃあ、相手の都合もわかっちまうし、相手をやっつけなくてもすむ方法だって見つかっちまうんだよ』
坊主は沈黙している。
『これでわかっただろ? 作戦なんて二度目三度目のケンカからのもんだし、そんなもんが少しでもからみ始めたが最後、それはもう本当の勝負じゃあなくなっちまうんだ。どこの誰ともわからない、引っかきが得意なのか噛みつきが得意なのかもわからない、まるで得体の知れない「そいつ」とやり合う最初の一回目だけが本当の勝負だ。それ以降はみんな求愛ダンスみたいなもんさ。相手のことは何もわからない、手のうちも知らない、だから作戦も立たなきゃ同情のしようもない、同情のしようがないからどんなことをしてでも相手に勝ちたいと思う、そういう最初の一回目だけが本当の真剣勝負なんだよ。本当におっかないのも、本当に真剣になれるのも、その最初の一回目だけなんだよ』
――秋山瑞人『猫の地球儀 焔の章』(電撃文庫)
1枚のレコードと過ごす時間には、自然な弧を描くような流れがある。まずは“あ、これはいいかもしれない”というさえたパフォーマンスから始まり、次いで“よし、このテイクは気に入った”と言い出して、やがて本気で恋に落ちるんだ。その後、作業を進めるうちに、その気持ちは下降線をたどり始める。結婚みたいなものさ。努力が必要になると、そうそう夢見心地ではいられない。
というわけで、自然と手放す時期は来るんだが、僕の頭の中では今もって、レコードを聴きながら、ああすれば良かった、こうすれば良かったという思いがある。つまり、porchka(註:あてもなくいじくり回す、というような意味)するのをやめられないんだよ……いい言葉だろう? 僕はイディッシュ語が大好きでね。
――ビリー・ジョエル(『キーボードマガジン 2009 WINTER』リットーミュージック)
(前略)不利と見えた側が手順を尽くして“逆転”することを、本当に“逆転”と言ってしまっていいのだろうか?
遊んでいた駒を働かせることも、歩の突き捨てなどで相手陣にアヤをつけておくことも、合駒した一手で二手ないしそれ以上の手数を稼いだりすることも、どれも(実際に指されるまで)盤上に現れてはいなくても潜在的にそこにあった手順だ。
“逆転”という言葉は、相手がミスを犯した時にしか使えないのではないか?
形勢が「悪い」と判断して複雑に指して、その後、両者に疑問手が出ないで“逆転”したとしても、それは“逆転”とは言わないのではないか?
――保坂和志『羽生 最善手を見つけだす思考法』(光文社知恵の森文庫、太字は傍点)
日本人のアクションってやっぱり“血”で描いていると思うんです。昔の侍から流れている血で。しかしアメリカのような多民族が集まっている国だと、どうしても統一性を持った文化の様式がない分、そこから凝縮されて生まれてくるカッコよさが出てこなかった。たとえばイギリスや日本のような島国文化の中だからこそ生まれてくるような、昔の騎士道や武士道や剣戟の作法なり、殺陣の型なりの、様式美があるわけじゃないですか。日本では子供の頃から、そうした伝統が取り込まれているアクションシーンを、当たり前のように見て育った連中が作品を作っている。そういう伝統を持たないアメリカの人が侍ものなんか見たら、それはカッコいいと感じるだろうと思いますよ。「クロサワはすごい」と思うでしょう。ひと昔前のアメリカの映画の剣戟のシーンって、ただ重いものを振って、カーンカーンとぶつけ合うだけでしたから。――摩砂雪(『GAINAX INTERVIEWS』講談社)
抑モ政治ナル者ハ術ナリ、学ニアラズ。故ニ政治ヲ行フノ人ニ巧拙ノ別アリ。
巧ミニ政治ヲ行ヒ、巧ミニ人心ヲ収攬スルハ、即チ、実学実才アリテ広ク世勢ニ練熟スル人ニ存シ、決シテ白面書生机上ノ談ノ比ニアラザルベシ。
――陸奥宗光(明治22年3月2日付、井上馨宛書簡)
「忘れたいのに忘れられないのはね、」
ぽくっ、と実乃梨の拳が、ちょっと荒っぽく伏せた竜児のツラの頬を真横からつつく。
「忘れたい、って思ってる時点で、すでに忘れられないことなんだから当たり前なんだよ。忘れてしまえるようなことだったら、人間そもそも覚えてねえ、っつーね。忘れられないから忘れたいんだよ。それを苦しんだってしょうがないって思う」
――竹宮ゆゆこ『とらドラ9!』(電撃文庫)
十九世紀末にボティチェルリの贋作としてプロの目にさえ通用した作品が、今日では素人目にもまるでボティチェルリに見えないのは何故か。贋作者が、自分の目に見えるボティチェルリを再現したからです。そこからは、実はボティチェルリをボティチェルリたらしめている多くの要素が欠落しています。同時代の大多数の鑑賞者の視点がこの贋作者の視点と一致している限りにおいては真作として通用するでしょう。ただし、一旦その視点がずれたら――つまりボティチェルリを見る視点が時代とともに動いて行ったら、もはや誰の目も騙せません。それでもボティチェルリの真作は快楽の装置として機能し続ける。つまり真作は、時代の変遷によって生まれる視差を呑み込んで機能し続けるくらい強靱な装置だったが、贋作はそうではなかった、ということになります。贋作だけではありません。「作られた時点で既に死んでいた作品」と呼ぶしかない多くの真作も、おそらくは同じ運命を辿ることになるでしょう。
――佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社)
――なるほど、セクシーシーンも少女が感じる意味合いが大事だったんですね。ところで作画的には、そういったシーンや生徒会室、決闘広場など、アイディアを出せば出すだけ作業は大変になると思います。出さなければ、美術一枚で済むところも。脚本を作る時点で、意図的に演出での伸び代を残すというか切り離してたのね。手法そのものが非常に自覚的。
幾原 でも、脚本の構造として出さないともたないようになっているんだよ。脚本には、ビジュアルを限定する書き方をしないように求めていたから。例えば、普通のアニメの脚本だと、「ここで大地が裂ける」ってト書きがあるんだけど、『ウテナ』ではそれをしないようにと。脚本にとってもよかったと思う。ライターにもよるだろうけどト書きがシンプルな分、セリフに集中できるから。話を戻すと、脚本に何も書かれていないから、絵の方で何かせざるを得ない。
――『少女革命ウテナ』DVD-BOX上巻ブックレット
「記憶や記録、経験や知識、それらは確かに人が判断を下すにあたって大きなウエイトを占めるけど、しかしそれだけではない――自分も知らないなにものかを決断するときこそ、人の心というものは意味を持つ。そのために心はある。――わかるかしら?」
――上遠野浩平『わたしは虚夢を月に聴く』(徳間デュアル文庫、太字は傍点)
人の縁はそう簡単には切れない。
小黒: あえてシナリオでは真面目な話してるのに、フィルムになると野球してたりする、ってのはどう思うの?物語にしか興味がない、ということを最近よく言ってるんだけど、これは我ながら怪しげな言い分で、そもそも「物語」ってどこからどこまでを指してるんだよ? と訊かれるとあまり分明でない。
榎戸: どうせやるだろうなってのは分かってましたから。「ああ、今日は野球かぁ」って(大爆笑)。
――ビーパパス座談会(『薔薇の黙示録 -少女革命ウテナ-』青林工藝舎)
その一つの答えになりうるのが、上の問答ではないか。
シナリオに書かれている範囲が「物語」である、というのは、ひとまず明確な区分ではある。では「野球」の部分は何かというと、ウテナを批評するのによく使われる「表現主義」という言葉から仮に「表現」と呼ぶことにする。
この表現主義というやつが俺は大の苦手で、野球を野球としか捉えられない未成熟な受け手にとってウテナは極めて難解なアニメだ。
だからこそ、ウテナは俺にとって非常に重要な作品なのだといえる。
そのことをようやく自覚しつつあった俺にとって、切り口になったのがシナリオだった。幸いにして、adolescence などという厄介なテーマを抱えつつ、ロジカルに自作を語ることのできる脚本家、榎戸洋司がいた。
俺が榎戸洋司を再発見したのは『トップをねらえ2!』でだが、これは監督(鶴巻和哉)も脚本家もロジックで作るタイプだったからこそ、直球で俺の大好きな作品になった。これに対して、表現主義に傾斜した監督(幾原)と榎戸、という組み合わせは、押井守と伊藤和典のコンビに近い。
そう、押井守は、けして《物語》のための映画を撮ってはいないのだ。おっと、ここでも「物語」という言葉がほぼ俺の意図と一致する意味で使われている。だから逆説的に、俺が押井守を好きになれたのは伊藤和典がいたからだ、という言い方はおそらく可能。
フィルムでしか表現し得ぬことを表現し、フィルムによってのみ構築可能な世界を構築する。押井守の映画は、まず、そのためにある。
フィルムのみが可能な表現を、どうやって文字にしろというのか?
かくて脚本家は苦悩する。
――伊藤和典(押井守『機動警察パトレイバー TOKYO WAR(前編)』(富士見ファンタジア文庫)巻末解説)
しかし、それじゃ押井じゃなくて伊藤和典が好きなんじゃねーの? というとそれは違う。伊藤和典の『.hack』は、「物語」は面白そうだったけど「表現」がダメだった(笑。 一目ダサいんだもん。
つまり、「物語」の良し悪しはじっくり観ないとわからない。物語至上と言ってる俺もそれ以前の入り口の部分でNG判定しちゃってるケースは多いってことだ。
トップ2では「SF」が、物語と表現の橋渡しをしてる、て面もあるんだよなー。それはストレートなドラマをSFでやると「照れ隠し」になる、ととり・みきが言ってたのに近い。
ダメだ、言いたいことが全然まとまらなかった。
今思いついたビーパパスとヘッドギア、ていう比較も面白そうだけど、また今度な。
これからウテナDVD観るからさ。
プロでも、全てを完璧に読み切れるものではない。読み切れるのは、ある程度先までのことだ。一時間、二時間考えて、結局第一感で浮かんだ指す手を選ぶこともある。ノータイムで指せる手を、一時間使って考える。これは、時間は使っているのだが、運を貯めているのではないかと思う。貯めるまでいかなくとも、少なくとも、運を浪費していないことになるのではないか。これだけ読むと賛成しかねるとしか言えないが、気になるのはこれも阿佐田哲也がほとんど同じことを書いてたなーということ。やはり本当に凄い勝負師だったのか?
(中略)
ノータイムで指せる手を、そのままノータイムで指す。それは、その時の「運」をそのまま使ってしまっている。いわば「運」を浪費していることになるのだ。ノータイムでも、一時間考えても、結局同じ手を差すのなら、時間は短い方がよいのではないか、そう考える人も多いだろう。しかし、本当に運が必要な時というのは、そういう局面ではない。直感で浮かんだ手を、時間があるならしっかり読みの裏付けをとって指す。
直感で指した手が、結果的に最善手だったというのは「運」がよかったと言える。そんなところで「運」を使ってしまえば、最後の最後でどう指してよいかわからなくなった時に「運」を使うことができないのではないかと思う。
将棋には「指運」という言葉がある。時間がなくなってこの手とあの手、どちらを指してよいかわからなくなった時に、駒をつまんだ指に巻かせるような状況のことを言う。「指運」を使うのは、勝負がぎりぎりのところに入った時だ。自分の考えや、経験、知識、技術、全てを総動員して戦っているのだが、最後の最後で迷う時がある。どちらが最善なのかわからない。そうした時に、つまらないところで「運」を使ってしまっている人には、使える「運」が残っていない。
――谷川浩司『復活』(角川文庫)
「カラバ侯爵って、お姫様のことをだまして幸せになるんだよ。一生、正体を隠したまま、嘘をつきとおして幸せになるの。騙してるうちに本当になっちゃうの……それでいいんだよね」
――榎戸洋司『フリクリ 2』(角川スニーカー文庫)
「銀河英雄伝説」は一本目が好評でその後ビデオシリーズとなり、気がつけば足かけ十五年もの長い付き合いになってしまった。これが実現したのはひとえに原作の大ファンである田原プロデューサーの力であるが、彼曰く「基本的に原作を一字一句変更せずにアニメ化する」という方針が成功に導いた。「いつの間にかそれらが世間に受け入れられ」じゃなくもともとそれが原作の銀英伝だろが!
当初私は「卿」などの言い回しは耳で聞いても判らないから変えようと言っていたのだが、彼の方針通りで正解だった。いつの間にかそれらが世間に受け入れられ、「銀英伝」の世界のスタイルとして定着したのだ。
――石黒昇(田中芳樹『タイタニア 1 疾風編』(講談社文庫)巻末解説)
石黒昇氏についてもヤマトと銀英伝の監督両方やれるってどういう神経なんだと以前書きましたが、単なる無定見だったんですね。パイロット版を書いた首藤剛志も「卿」を使わずムリヤリ二人称のない脚本を作った、て話も以前書いた。どいつもこいつも。田原P、貴方が正しい。
しかも、原作通りが成功だったと認めてるにもかかわらず、その直後タイタニアの方針について「今回は思い切って原作をいじらせてもらう事にした」とか言ってる(笑。 何なんだよ。原作が完結してないから、という理由だそうだが、最後には(原作が)「完結の暁にはまた改めてアニメ化の企画を立てたいと思う。」で締めてる。
だったら今アニメ化する必要ねーってことだろよ!!
なぜかこういう場合「商業的な理由だから仕方ない」で納得してしまう人が(関係者でもないのに)いるが、我々ユーザーがそんな事情を斟酌する必要は一切ない。観たい作品という基準でのみ望むものを表明すべきだ。だから何と言われようと俺は原作至上主義。
まだ昔のことにこだわっているような内容の夢をみて、起きて愕然とする。
夢がどういう意味なのか知らんけどよ。どうすりゃいいんだ。
「自分を守る努力がなんでできないんだよ! そんなに普通とは違う自分をアピールすることが大事なのか? いい加減にしてくれよ! 俺はもうそういうのイヤなんだよ! みっともないって自覚しちまったから、もう二度と戻れないんだよ!」シナリオライターとして最近気になってた著者、ゲームやるより小説読んでみる方が早いなと思い、どこかで好意的な書評も見たので(忘れたけど俺の信頼できる書き手だったのだろう)買ってみた。
(中略)
「……普通がそんなにイヤか。ただの一般人じゃそんなに不満か。目立ちたいなら、人に見られるだけの努力をしろよ。時間かけろよ。本物になれよ。そういうのすっ飛ばして、いきなり結果だけ求めんな。俺はそういうの大嫌いだよ。イジメられて当然だよ。どうしてもっと素直に助けたいって、思わせてくれないんだよおまえらは……」
――田中ロミオ『AURA〜魔竜院光牙最後の戦い〜』(小学館ガガガ文庫)
俺はオタクを面白おかしく描写したものが基本的に好きではないので、その意味ではジャンル的にはハズレだったか、と読み始めてしばらくして思った。タイトルを冷静に検討すれば予測できたはずなんだけどね。
ストーリーの構造は、変な妄想にハマってるヒロインを主人公が此岸に連れ戻す、という『新興宗教オモイデ教』とか『NHKへようこそ!』に近い(後者は少し違うか?)もの。
違うのは、扱っているのが既成の宗教などではなく、“戦士症候群”と呼ばれる、いわゆる中二病の妄想を自分で信じ込んでいるタイプの少年少女であること。古くは『ムー』誌の投稿欄などに現れた、自分の前世が異世界の選ばれた戦士か何かと信じ込み、転生した仲間を探している、みたいなアレ。今思えば『東京BABYLON』で既に90年代はじめにこれを描いていたCLAMPの功績は小さくないな。他にもあったのかもしれんけど。
そういう意味では、「オタクを面白おかしく〜」と書いたのは正確ではない。彼らの前世だの異世界だのの元ネタは確かにオタクのカルチャーを背景としているが、妄想を信じ込んでいる部分はいわゆるオタクから見ても全く異質な、モンスターのような存在だからだ。今でも2ちゃんねるの合宿所スレ界隈では彼らの活動が確認でき、ネタ半分としても相当数が実在するとみられ、その報告はヘタなホラー小説より恐ろしい。オタクから見てもだ。
閑話休題、この小説のすごいところは、本人も“戦士症候群”だった前歴を持ち、それを消し去りたい過去と思っている主人公、の心理を一人称で完璧に描ききった点にある。
すでに書いた通り彼ら(作中の言葉では)“妄想戦士”は、それ以外の人間にとっては全く理解し難い存在。そして作者自身はそのような妄想に取り憑かれた過去はない、とあとがきで明言している。それが本当なら、経験によらず「過去に妄想戦士だった主人公」「今は振り返ってそれを恥じる主人公」の心理を書いて全く不自然さを感じさせない書き手の力量には脱帽する。それは当事者にしかわからないはずの怪物の一人称を書くことだからだ。オタクでない人間が描写するオタクにどうしてもどこか違和感がつきまとうのと同様、元・妄想戦士の主観描写に必ず出てしまうはずの齟齬が全く見えない。読んでる俺自身も必ずしも当事者というわけじゃないけどさ(笑。
他は、主人公が元ヤンの姉貴に殴られて鼓膜が破れたトラウマで、姉に対して敬語でしか話せなくなっている、というくだりがツボだった。そのあたりは前科のある主人公と家族との関係の修復、というサブプロットの部分で、あまり踏み込んで書かれてないのだが、却ってそのサジ加減がいい。同じ作者でもうちょっと家族をメインに描いたものも読みたい。単に姉ちゃんに殴られるというシチュエーションが好きなだけかも。口絵にごく小さく描かれた姉貴もよい。
題材の特殊さにもかかわらず、オーソドックスな青春小説として楽しめた。惹句では「学園ラブコメ」とされているな。
気になるのはこの小説、PCエンジェル誌に連載していたコラムが元になっているのだとか。コラム? 小説じゃないの? そっちも読んでみたいわ。
今年の1月1日付で書いたことは、そもそもの前提が間違っていた。
やってたのは楽しかったから。やめたのは楽しくなくなったから。今さらになってしまったが、ちゃんと結論は出しておくべきだろう。
他に何があるというのか。
今まで突き詰めて考えて書くのを避けてきたことなので、唐突な結論に見えてしまうかもしれないけど。
やるか、やめるか、ではない。
「できない」というのが唯一の答えだった。
能力がなかったから。
この半年以上ずっと考え続けてきたこととは別の軸に、実は全く手つかずの問題が残っていたわけだ。
力も正義もない、と一度だけ書いたが、それでも民主的であることが「正義」の代わりになると(当時は漠然と)考えていた。
そんなことはありえない。
必要なのは、独裁だろうがファシズムだろうが「正しく判断のできる」リーダーだ。
無能こそ最大の罪。
リーダーとしても、メンバーとしてもだ。
その両方において無能であるなど、存在価値がない、どころかもっと積極的に、存在させてはいけない、といえる。
最初からやるべきではなかったというのが、身も蓋もない、だが完全に正しい結論である。
遅まきにしろそのことに気づいた時点で唯一正しい身の処し方はもちろん、「可能な限り早く辞める」ことだった。
その時点では、自分がいなければ残った面子でうまく回るだろうと、そう本気で信じた。
しかしさすがに、文字通りすぐ辞めるわけにはいかなかった(と当時は考えた)。
やりかけたことに区切りは着けるのが最低限の責任だろうと。
もしかするとそれすら思い上がりで、とにかく一刻も早く去るのが無能者に唯一できることだったのかもしれない。
区切りとやらを着けたつもりの俺がその後やったことは、結局失敗だったからだ。
余計な部品を一つ外せばうまく動作するだろう、という判断は正しかったはずだが、それを無理に外そうとした拍子に全部バラバラになってしまった、というところだろうか。
その頃のことは、今でも何だかわからないし、覚えていないというのが正直なところだ。
(従ってその失敗から何らかの教訓を得ることすらない、というのが救い難い)
やめることさえちゃんと出来ない奴に、他人と一緒に何かやる資格は一切ないだろう。
一人で死ね、という話である。
カルメン嬢が、純粋のジプシー種だとは、私には思えなかった。少なくも彼女は、これまでに私が出会ったあの種族のどの女より、とびはなれて美人だった。スペイン人に言わせると、一人の女が美人の名に値するには、三十の条件をすべて備えなければならないそうだ。言葉をかえて言うなら、これは彼女の肉体の三つの部分のそれぞれにあてはまる十個の形容詞を用いて品評できるほどでなければいけないという意味だ。たとえば、彼女は三つの黒いものを持たなければいけない。それは目と睫毛と眉だ。三つのきゃしゃなもの、それは指と唇と髪の毛だ、等々々といった具合だ。どうもオペラというやつは、(俺の悪いくせで)あらすじだけ追っても何が面白いのかサッパリわからないのが多い。ていうかストーリー自体が意味不明。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』あたりはまだいいとして、『魔弾の射手』も一応魔法民話の体裁になってるもののよくわかんないし、イプセンの『ペール・ギュント』に至っては何がなんだか。もっともペール・ギュントはもともとレーゼドラマとして書かれたのを上演しなければならなくなって音楽をつけた、という経緯らしいし、イプセンだから仕方ないのか。
――メリメ『カルメン』(堀口大學訳、新潮文庫)
『カルメン』にしても、筋だけ聞くと埒もない話だ。ハッキリ言って全然面白そうだとは思えない。それでも古典の名作ではあり、女性の一典型とされる最も有名なキャラクターでもあるし、歌劇より原作の小説の方がまだしも俺に向いてるだろうと思って読んでみた。
意外に面白かったんだけど、その面白さは作者自らがスペインに旅行した際にドン・ホセその人に会った(!)という回顧談から話が始まるその語り口にある。上の引用も語り手の「私」自身がカルメンに会った際の描写。ストーリーじゃなく叙述に面白さがあるという、近代的(?)な文学だった。堀口大學の名調子もいい。余談だけど新城カズマ先生がヨーロッパ人の一人称で書く時はちゃんとこのノリを再現してるなぁと改めて感心した。
ストーリーはというと、おそらく歌劇よりも地味で、舞台栄えするような見せ場もあまりない。闘牛場での決闘だとか。闘牛士もほんのチョイ役だし、ドン・ホセの婚約者ミカエラに至っては影も形もない。あくまでドン・ホセとカルメンがメインだった。
あ、花一輪を口にくわえて登場するシーンはあった。アカシアの花だけど。
僕は映画監督で成功したかったのです。若い人にも勝てないという烙印を押され続けているのに、いばれるはずがなく、それが達成できなかった理由も分かります。ファーストガンダムの劇場3部作の後も、次のステップ次のステップと企画しましたが、結局は自分の能力のなさで履行できませんでした。こういう気性だから人も集まらなかったし、プロダクションも持てませんでした。結局、ロボットものの専従者になる程度のスキルしかないから、他のジャンルの映画を作ることができなかったわけです。それは本当に悔しいし、情けないことです。――富野由悠季(2007年9月、機動戦士ガンダム劇場版メモリアルボックス)
京極 形象からのアプローチというのはありますよ。例えば、御札ってあるでしょう。御札の文字なんて、ほとんどの人が読めませんよ。読んでも意味がわかりませんし、意味がわかったところでしようがないんですけど。でも御札は、あの字でああ書いてあるからこそ、効き目がある。呪符は見た目が大事なんです。そういう意味では、僕は小説というより長い呪文を書いているような意識があるんですよ。相手はもちろん養老孟司。
養老 今のお話は、日本でなぜ漫画が流行るかということと直接繋がりますね。漫画っていうのは、まさにそれをもっとダイレクトにやったものですから。
――京極夏彦『対談集 妖怪大談義』(角川文庫)
他の対談も滅法面白い。この本で初めて知ったんだけど、イメージの定かでなかった妖怪ぬらりひょんを「怪物の親玉」格にしたのは藤澤衛彦『妖怪畫談全集』(1929年)が最初なんだそうな。今ジャンプでやってる『ぬらりひょんの孫』でも、ぬらりひょんが日本妖怪の総大将、ていう設定を踏襲してて、おいおいそれは鬼太郎の妖怪大戦争の時に作られた設定だろ……とか思ってたんだけど、それ以前に典拠があったのね。
しかしこのマンガも、最初の読み切りはここ数年のジャンプではピカ一といっていい出来だったんだけど、ヒロインの差別化ができてなかったり連載では苦戦してる観があるね。少女陰陽師キャラなんて考えてなかったけど担当に言われてとりあえず出してみましたみたいな感じでまるで活かされてないし。閑話休題。
当然、水木しげる御大とも対談してます(笑。
ただ、勝ち負けの争い(対局)は、かならずしも公平でない。内部の目は、陰湿、微妙に偏ることがある。まさか仲間が助言するなんていうことはないが、どちらかに勝たせたい、の空気はあり、対局者は鋭く、声援の多い、すくないのを感じ取る。それが将棋という勝負事の襞の部分である。まさにここに書かれている面白さが満載の同書。今まで読んだ将棋関連の本で一番面白い。
おおくの声援を受けて奮い立つ者、すくなくていじける者などさまざまだが、升田は前者の典型であり、大山は、悪役視されてもめげず、不利な空気を逆用して勝った。史上最強の棋士は大山だが、技術が卓越していただけでなく、精神面、特に逆境における強さがけた違いだったのである。
それやこれやを知って、プロ将棋を見ると、おもしろさが倍加する。あるときそれに気がつき、以来、プロ将棋界事情を書きつづけることになった。
――河口俊彦『一局の将棋 一回の人生』(新潮文庫)
昭和末年、羽生世代が四段、五段だった頃のことがリアルタイムの視点で書かれているのも貴重だが、何より彼ら新世代の棋士との対照で紹介される逸話、特に「名人は選ばれた人間がなる」といわれる伝統的な価値観の拠り所がよくわかって興味深い。
著者はこれを書いた時点でまだ現役の棋士だったはずだが、棋士のみが持ちうる将棋界に首までどっぷり浸かった視点と、まるで局外者のように達観した態度とが両立しているのは稀有な内容としかいいようがない。
それから関川夏央の巻末解説より、
むかし、将棋界には坂田三吉をはじめ、升田幸三、花村元司、芹沢博文、山田道美など多くの理想主義者、または異能棋士がいた。彼らの人生の目的は、将棋に強くなること、そしてあざやかに勝つことのみだったから、そのためには他の一切を犠牲にしてかえりみず、結果、無頼や好敵手に関する多くの伝説を残したのである。という部分はまさに我が意を得た。
場を支配する原理が、誰かが得をすれば誰かが損をするというゼロサム・ゲームなのに、同時に非常な長時間にわたる共存を宿命とするような小社会に、たとえば「文壇」があった。
そもそも文壇人が将棋に凝り出した源は、菊池寛にあるようだ。菊池は、付き合い始まった小石川中富坂時代、直木が訪ねるといい盤と古い盤と、将棋盤を二面並べて熱心に棋譜を研究していた。来客があっても、盤面から眼を離そうとせず、声だけで応対していた。名人戦の観戦記を書いた五味康祐、名著『血涙十番勝負』の山口瞳、小池重明の才能を惜しみ最後まで援助した団鬼六などの例を挙げるまでもなく、古くから文壇と棋界の関係は深い。
菊池の将棋好きは、彼の主宰する文藝春秋社に持ちこまれ、社員や社に出入りする文士やジャーナリストたちの間に広がっていった。「将棋なんかする奴の気が知れない」とまでいっていた横光利一が、いつの間にか社内や倶楽部での対局を口出しをしている。
――植村鞆音『直木三十五伝』(文春文庫)
というかもっと直接に古き良き時代の文士と棋士とはどこか相通じる面があり、俺が好きなのはまさにその重なる部分なのであった。
直木三十五に、『文壇棋術行脚』といって、直木が文壇の知人のところへ押し掛けては将棋または囲碁の対局を迫りその自戦記を書いたというシリーズがあるらしい。対局相手は菊池、芥川はもちろん、川端康成や松本清張など物凄いビッグネームを網羅している模様。是非とも読んでみなければ。ちなみに江戸川乱歩にも挑んだが「人前では指せない将棋で」と断られたという。
あとPHP新書から『プロ棋士の思考術』というのが出ていて、見逃してたかなと思ったら著者は囲碁の依田紀基九段だった。
佐々木 究極的な世界はそうなんだけど、例えばすごいアジテーターみたいな人が出現してきて、2ちゃんねるとかブログの世界で人気が出てくると誰が止めるのかという話になる。戦前の日本では新聞がみんなで戦争をやろうと大騒ぎして、そこには公共性がなかったんです。それと同じように、今のインターネット上は、戦前の新聞と同じで、ある種の集合知でもありつつ、集合愚でもあるわけです。インターネット上のアジテーターの発言にみんなが突っ走っていってしまうと、サイバーカスケード(インターネット上における集団分極化現象)のような状態が起きてしまう。そういったファシズムにも似たものが出現した状況の中で、それを止める能力があるのかどうかということになる。佐々木俊尚×ひろゆき対談。ムチャクチャ面白い。
西村 それは新聞があったときでも止められなかったことを考えると、たとえ公共性があったとしても無駄なんじゃないですか?
佐々木 これまた、身も蓋もない(笑)。
(中略) 佐々木 そうです。そこで衆愚かどうかという問題が出てきて、要するにみんながいいと思っていることが本当にいいのかどうかは、わからないわけです。そのために、日本は間接民主制なんですよ。別に直接民主制ができないから代替物として間接民主制をやっているわけではなく、間接民主制によってエリートが政治を動かすことで衆愚に走らないようにするメリットがあるわけです。そう考えると、みんながいいと思っているものがイコール公共になるとは必ずしも言えないわけです。
西村 そうすると一般大衆ではなく、ある程度のエリートが公共を作るということなんですよね。
佐々木 それが日本だけでなく、世界のやり方になっているんです。そうなると今度は、民意を反映してないという反論が必ず出る。だからといって民意を反映しすぎると衆愚化するという再反論もある。常に民意と政治というもののバランスの中で我々は生きているわけですよ。そのバランスがインターネットの出現によって、ある種、崩れてくる可能性があるということは常に言われているわけです。
――ひろゆき『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』(扶桑社新書)
みんなで決めたことは正しいなんてことあるわけないだろバーカ。大事なのは決める人間が有能であること、だけだ。
「俺は今、どうやって『余生』を過ごそうか悩んでる」
「…………」
心の底からの言葉を口にして、毒島は後悔した。毒島は、大事な言葉ほど口にするべきではないと考えている。どうせ感情を完全に言葉にすることはできない。中途半端なくらいなら最初からしないほうがいい。
――深見真『ヤングガン・カルナバル ドッグハウス』(トクマ・ノベルスEdge)
たとえば、周囲から誤解に基づく非難を受けた場合を考えていただきたい。ほとんどの人は、慌てて弁解したり、ムキになって身の潔白を主張したりするだろう。すると、それに対してまた非難の嵐が返ってくる。これでは、かえって傷を深くするだけである。
十の非難を消すために二十の反論をしたとしても、プラス十の結果を得ることはできないのだ。むしろ、結果はマイナス三十になってしまうのが世の常である。
こういう時は、しばらくじっと耐えているに限る。こちらが正しければ、そのうちに真相がわかってくる。どうしても弁明したければ、それからでも遅くない。
次にまずいのは、ただじっとうなだれていることである。
将棋でも、「このままズルズルいくのだろう。どうやっても負けだ」と思って指していると、チャンスは来ない。来ないというより、チャンスが見えてこない。だから負けるのである。
やはりいちばんいいのは、じっとしていても、その姿勢が反撃のためのエネルギーを貯えている形である。それが「不利の勢い」につながっていくのである。
――米長邦雄『不運のすすめ』(角川oneテーマ21)
常識外の手とはある時突然降ってくる天啓のようなものではない。必ず盤の上に隠れているものである。将棋というゲームは麻雀などと違い、おたがいの駒がすべて明らかになっている。形勢が五分以上であれば、最善手は盤上のどこかに必ず存在しているはずである。
つまり、常識外の手を構想する作業とは、実在する方法のなかからふつうでは思いつかないような方法を拾い上げる作業なのだ。それを見つけ出せるかどうかなのである。
――谷川浩司『構想力』(角川oneテーマ21)
何事にも例外はあるもので、年老いても秒読みになるのを恐れず、秒を読まれて誤ることの少ない人がいる。
加藤一二三で、この人こそ、天才の中の天才である。パッと浮んだ手が常に最善手で、だから、三十秒、四十秒、五十秒……とせき立てられても慌てない。すでに指す手を決めてあるから。
もっとも実際に対局中の秒読みになったときの姿を見ていると、迷いに迷っているかに見える。とにかく忙しない。残り一分になり、三十秒と告げられるや、膝立ちになり、ズボンをずり上げる。四十秒ともなれば、せきばらいして首を回し、ネクタイに手をやる。五十秒と聞くとさらに忙しなくなり、駒台に手をやり、「残り何分?」。そんなこと言われても記録係は答えているひまはない。五十、一、二と秒を読みつづけている。そして、五十七と言われると、発止と駒を打ちつけるのである。
見なれぬ人だったらドキドキするだろうが、天才の頭の中を表面で想像してはだまされる。パニック状態に見せかけて、頭脳だけは、冷徹にすべてを計算し、読んでいるのである。
――河口俊彦『大山康晴の晩節』(新潮文庫)
御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった。」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。これを読んですぐ思い出したのが賀東昭二『フルメタル・パニック』。
同じことを二年前の正月に気錬会の工藤くんから聞いたことを思い出した(彼もロボットの研究者である)。
そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。
そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。
それから島ア徹さんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルーは知的なブレークスルーと同期するということについての確信が深まった。
機体の運用データを蓄積することで制御ソフトウェアが進歩するという演出は既に『機動警察パトレイバー』にあったが、そこから二歩も三歩も踏み込んで、人工知能(制御AI)の知性発達に“人型の機体”が不可欠の要素であること、マスター=スレーブシステムによる運動のフィードバックで操縦者の人格がAIに影響すること、それがAIの爆発的な成長を促し、さらに逆に機体の力を引き出すことにつながること、全てを密接に結びつける描写で、ロボットもの史上に類をみない圧倒的な説得力があった。
フルメタについては他にも書かなきゃならんことがいろいろある。できれば次の巻が出る前に。
人間、一人で考えられることなんてたかが知れてる。
それはわかってたから引用の力を借りて何とかするつもりだったのだが、やっぱ無理かなー。
どうすればいいんだ。
勝負とは周囲を信用させることが第一だ。信用されなくなったら勝てない。あの人は強い、とか、指し手の中に間違いがない、あるいは、あの人が優勢になったら頑張っても、もう勝てない、と思われるのが信用で、いろんな信用をつくると、相手の戦う意欲が半減し、こちらの勝ちにつながる。
――大山康晴十五世名人
民主制が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主制以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。――ウィンストン・チャーチル
委員長閣下は常に多数派である。よって、常に正しい。――蓬莱学園公安委員会標語
大衆は、彼ら自身の意に反してこれを救わなければならない――ナポレオン一世
「とにかく、軍隊では陸海軍をとわず、大きいことが偉くなる条件のようなものだった。日露戦争いらい、大将はみんな大きい。大山元帥然り、山県元帥や乃木大将だって、肥ってはいないが背は高い。海軍の東郷元帥と山本五十六元帥は小柄だが、米内さんだって野村吉三郎さんだって、みんな大きい。山下も、あの風貌でだいぶトクをしとるね」
――沢田茂中将(福田和也『山下奉文 昭和の悲劇』文春文庫)
まだクラナドやってたりする。(二周目)
智代が渚に「お前でよかった」と言うシーンは、さすがにゲームにはないだろうと思っていたのだが、ちゃんとあった。
AFTER STORYに智代を登場させるよう、つまり智代をある程度引っ張ってから渚シナリオに入ると見られる。
ここで生徒会長に就任した智代がメガネをかけて来るのも、本人が「いろいろ吹っ切れた」と言っている通り、「失恋して髪を切る」みたいなお約束のメタファーとしてだ。あえて「メガネをかけた自分の顔は好きじゃない」と言わせている。メガネのこんな使われ方は初めてみた。
しつこく書いている通り俺はさりげない演出ほど好きなので、軽く流してしまいそうなこのシーンはいい。アニメでは「お前でよかった」に対する杏・椋・ことみのリアクションが入るのがちょっと露骨すぎる、といってもっとさりげなくというのも難しいが。
さすがに今は一日平均一時間未満くらいのペースになってるので、なかなか終わらない。
一周目(つまりコンプリートまで)は既読スキップを使いまくったが、今はまた音声を聴いているのでなおさらだ。
そもそもなんでコンプリート後にもう一度やってるのかというと、全体の構成が予想と全く違ったというか(実際やるまでAFTER STORYを全く知らなかった)、終わってみて初めてわかったので、それを知ったうえでやるとまた違うだろうなーてことと、AFTER STORYの展開が変わる部分のやり直しという意味で、渚シナリオ+AFTER STORYを音声聴きながらじっくりやろうと。
SS、PS、Win以前、つまりPC-9801世代のゲーマーにとって、「フルボイス」というのは最高の贅沢であり、せっかくの音声を聞かずにとばすことは未だになかなかしづらいものである。
しかし、いちいち喋り終わったタイミングでクリック(俺は主にEnterキー)、てのもさすがに面倒になってきたので、オートモードを初めて使った。今どきたいていのゲームには付いてる機能だと思うが、一度として使ったことがなかった。それを使わしめるほどCLANNADは長くプレーしたということでもあり、しかもコントローラが手元にあるゲーム機じゃなくPCだったというのもある。
こうしてプレーしてると改めて思うのは、もはやこういったゲームも文字を読ませるものではなく音声を聴かせるものであり、ほとんど時間芸術なんだなーってこと。『Fate』でも思ったけど、もはやノベルゲーですら、小説よりも映画に近いと思う。つまり時間がかかる。閑話休題。
問題は、主人公=岡崎朋也のセリフには音声がないということ。『CLANNAD Full Voice』のオートモードはなんと、待機時間をちゃんと設定できる。いや、それは当たり前かもしれないけど、ベースの時間+一文字あたりの時間、と二つの変数で設定できるのは素晴らしい。短い文字数でクリック待ちになるところで不自然に長く待たされることもなくなる。ただし、画面をちゃんと見ていればだ。こりゃメシ食いながらやれるな、などと思うと、可読ギリギリの速度にしてるので一瞬目を離した隙に地のテキストを読み逃したりすることもあるのだった。
AFTER STORYのアニメが今後放送されることを考えるとネタバレは控えるべきなのだろうが、少しだけ。
悲劇を見せておいて、最後それを帳消しにする奇跡が起きて終了、というのは、やはり最初は釈然としなかった。
それは奇しくも今年の俺が考え続けている、「過去の否定」ではないのか? と。
ちなみに俺は『One』も『Kanon』もプレーしてないし、アニメも観ていない。『AIR』は後半どうでもよくなってたので未だに意味がわかっていないというのが正直なところだ。なのでそれらとの比較はできない。
SF的な過去改変と違うのは、その「奇跡」が当事者の否定の意思によって起こしたものではないという部分か。それが理解しやすいのは、既に第一部において風子の光の玉開放という形で奇跡発現のメカニズム(?)が見せてあるからでもある(だから最後の最後を締めるのが風子であることも、決して偶然ではない。よく観たらアニメのOPにその場面があって驚いた)。
その意味で、見せ方については相当考えられてるなと、これは素直に感心した。AFTER STORYを本編と考えると、とてもじゃないがいきなり見せられる展開ではない。第一部を踏まえたうえで、しかもあのコントみたいな会話が地になっているからこそ成り立っている。逆にいうとコントが好きじゃないととてもやってらんないだろうな。そういう人はアンチになるしかない。
「過去を変える」というような時系列のレイヤーでない、ということは、構造として幻想世界との関係でも見て取れるようになってるともいえる。例によって俺はそういうの苦手だから読みきれてないだけかと思ったが、開発者インタビューなどでも「わからない」ことが前提の話になっていた。作中でも、ことみの両親の研究内容みたいなことがもう少し取り沙汰されるのかと思ったらなかったし。比較的受け入れやすかったとはいえ、やはりよくわからん。それこそ東浩紀あたりに論じてもらいたいものだ(笑。もうやってるかな。
20代までに色々なことに挑戦してみて、自分が面白いと思えることを見つける作業は、一見すると趣味的ではあるが、多分それは趣味ではないだろう。いずれプロを目指す、ということだ。
だから、面白そうなことに挑戦してみることはどんどんやるべきなのだろうと思う。
だがある程度の年になって、そういうことをやるのは趣味なのだ。で、趣味でそういうことをやれるというのは、余裕のある証なのだ。
一番痛いのは、余裕も無いのに、余裕があると勘違いしていて、趣味とかのんびりやっていることなのかもしれない。
荷風はカフェー好きだったといわれるが、その「カフェー」は酒と女給が主体の店を指し、今でいうクラブやバーみたいなもの、といったほうがわかりやすい。カフェに音引きの「ー」が付いただけで、まったく別物の店になってしまう。文学者や芸術家たちがカフェーの有力なパトロンであったことはたしかなようで、松崎天民の『銀座』によると、美人女給たちの《一顰一笑にチップを惜しまぬ浮かれ男たち》がやたらと多かったらしく、その浮かれ男は多く文人たちであった。女給たちの醸す艶っぽく扇情的な雰囲気が、つまるところカフェーにおける唯一の売り物だったわけで、酒はまだしもコーヒーなどまったくお呼びでなかった。
――嶋中労『コーヒーに憑かれた男たち』(中公文庫)
キャンパスという無意味に広い空間が必要なのは、そこに行くと「自分が知りたいことが知れる」からではない。そこに行くと「自分がその存在を知らないことさえ知らなかったもの」に偶然でくわす可能性があるからである。「大学の中をふらふらする」という作業がどうしても必要なのはそのためである。そして、キャンパスにゆらゆらと遊弋しているうちに、「なんだかまるで分からないけど、凄そうなもの」や「言ってることは整合的なんだけど、うさんくさいもの」を直感的に識別する前-知性的な能力がしだいに身になじんでくる。そのことが、ある意味で大学教育の最大の目標なのである。
――内田樹『街場の現代思想』(文春文庫、太字は傍点)
言いたいことは何でも言えばよろしい。俺もそうする。
その代わり聞きたくないことは聞かないようにするだけ。
当たり前の話だと思うんだがな。
それで思い出すんですが、終戦後、あたしゃGHQによばれて、日本の将棋は捕虜虐待じゃないかと質問されたことがある。つまり、取った敵の駒をまた使うからというわけだ。
ぼくはそりゃ違うといった。
むかし楠正成は川に落ちた敵兵を救い、救われた敵兵は感激して正成の部下になってともに働いた。これが日本精神だと話してやったんですよ。しかも将棋の場合、軍門に降った銀は銀として使う。捕虜の少尉を伍長に格下げして使うんなら虐待かもしれんが、あくまで少尉として一視同仁に使うんだから、ちっとも虐待じゃないと。
それでもまだわからん顔をしとったからチェスでは王様が助かるために、女王を盾にする。女を犠牲にして王様が逃げだすがあれはどういうわけかといったらずいぶん困った顔をしましたよ。
ま、どうしてああいう質問をしたのか。いろんな角度から、日本人の意識というか、精神構造を調べてみたかったんでしょうな。
――升田幸三『勝負』(中公文庫)
「谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」やべー、一章でもう泣きそうになった。
――大崎善生『聖の青春』(講談社文庫)
その谷川浩司も、ずっと中原誠からの名人位奪取を目標にしていたので、中原が(谷川が大盤解説をしていた)眼前で加藤一二三に負けて失冠した時は呆然として言葉が出ず全く解説できなかったという。
『はじめの一歩』でいうと、伊達英二がベルト返上する話が出た時に「(挑戦する相手は)伊達さんでなきゃダメなんです、意味がないんです」って一歩が言うところ。
やっぱり名人はチャンピオンなんだな。まさに時代。
相手の頭の中にない概念を、口で説明して理解させるのは至難である。
たとえば「メイド喫茶のなにがそんなに好きなの?」みたいな質問をされると大変困る。
されたことはあまりないが。
あくまで真摯に答えようとするなら、「いや、別にメイド喫茶が好きなわけじゃないんで(特定の店のウェイトレスのファンなだけで。)」
だから本当は別の人に質問するのが正解なのだが、逃げ口上にしか聞こえないかもしれない。
もう少し質問の意図を酌むなら、「アイドルの追っかけやったことある?」と訊き返す。
「ない」なら、「あー、じゃあ言ってもわからんよ(笑」で終了。
「ある」なら、説明の必要はない、あなたにはもうわかっている。
これはたぶん、プロレスファンに近いのではないか。
どちらも非常に排他的なのは、迫害されてきた歴史があるからであると同時に「説明できない」のが理由ではないだろうか。
「プロレスは八百長」などと鬼の首を取ったように言う奴と、「メイド喫茶はライト風俗」とか言う奴は、どちらも自分の既成概念にあてはめようとして本質を誤解している点において同じ次元にいる。
あーなるほど、アイドルにハマったことない人は風俗に当てはめて理解するのか、と納得はするが、心の貧しい人だなー、とも思う。
もちろん、あちらから見るとライト風俗にハマっているのが我々なので、両者はお互いを蔑んでいるという不幸な関係である。
しかし、最初に立ち戻るが、これは如何ともし難い。
一度アイドルの追っかけやってから出直して来い、としか言えることはない。
周囲がドン引きするくらい何か一つのものに固執し追いかけ回す時期が、人生に一度くらいはあっていい。
その経験で他人の異常な情熱にも寛容になれるはずだ。
ここからは余談、ではないがもう一歩踏み込んだ話をすると、ファンというのも一種類ではない。
「プロレスは真剣勝負」と信じているファンもいるし、「メイド喫茶はガチ」と信じているファンもいる(のか?)。
そして、外部から見た「ファン」というのは往々にして後者だったりする。
プロレス自体は、程度の差はあれ「真剣勝負である」というスタイルで興行しているわけだし、それをどこまで信じ、どこまで舞台裏の素顔を理解して楽しむかは受け手の自由。一様ではない。メイド喫茶も然り。
そんなことを門外漢に理解しろというのは、なおさら無理な話である。
人生、笑える時に笑っておけ。すぐに泣く時がくる。
――升田幸三
俺にも譲れない場所はある。
「なにしろわが軍には目下ナンバー1、ナンバー2がおらず、まとめ役を欠くのでな」どんなリーダーでも、いないよりはマシ、という状況はある。
私自身はあまりコンピュータソフトには詳しくないのだが、これまでの将棋ソフトは、「いかに人間に近い思考をするか」ということに主眼を置いて開発されてきたといっていいだろう。すなわち、第一感でいくつかの手を選び、それを深く読んでいくという方法だ。先に私が述べた読み方と同じである。Bonanzaの開発者が棋力は初心者レベルということは以前読んで、俺も不思議に思っていたが、思考アルゴリズムが非効率的であるというプログラム上の欠陥といえる部分が逆に人間に指せない手を指す独自の強さにつながっているということ、しかもそれを指摘しているのが谷川浩司であるというのが非常に面白い。
ところが、ボナンザというソフトは、私が聞いたところでは開発者自身があまり将棋が強くないこともあり、人間のように九割以上の手を即座に捨てるのではなく、いわばしらみつぶしにすべての手を読んでいこうとするタイプなのだという。一秒間に四〇〇もの指し手を弾き出すそうだ。すると、どういうことが起きるか。
私にいわせれば、ボナンザは「筋が悪い」のだ。(略)すると、われわれプロからみると、「どうしてこんな変な手を指すのだろう」と感じることがしばしばあった。ところが、これが妙に強いのである。
(略)
これは、プロ棋士ならまず読まない手、即座に捨ててしまう手だといえる。おそらく渡辺竜王も驚いたと思う。しかし、ボナンザはそうした先入観なしに、なんでもやみくもに読んでしまった。結果、実際に指してみると、意外によい手だったのだ。流れがにわかに変わったのである。
この事実が何を物語っているかといえば、それは「先入観を持たないことの大切さ」だと私は思う。というより、先入観というものが、われわれ人間の発想をどれだけ邪魔しているかということを如実に示しているといえるのではないかと感じるのだ。
――谷川浩司『構想力』(角川oneテーマ21)
プロ棋戦でも、昔では考えられないような「筋の悪い」手が平気で指されることが増えた、ということが現代の将棋の特徴としてしばしば指摘される。それは情報化で研究が急速に進んだことによる古い定跡の破壊が主な原因だが、最新の将棋と同じような強さを、Bonanzaは開発者の力不足によって偶然手に入れたとしたら(無論それほど単純なこととは思えないが)、その特徴を最初から設計に取り込み、「人間に近い思考」と「先入観のない思考」をうまく組み合わせることで更に強くなる余地はあるのではないか。その意味でBonanzaは現時点で最強であるという以上に、全く新しいアルゴリズムの可能性としてもっと研究されるべきだと思う。
馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。
――ホセ・オルテガ
別冊宝島編集部・編『棋士の魂』より。
過去の例を取り出すまでもなく、名人戦というのは保持者が勝つことが圧倒的に多いわけですよね。名人戦で挑戦者が勝つということは、時代が動く、時代が変わるということですから、やっぱり名人は負けないと言う神話みたいなものが、私の中だけではなくて、将棋界全体にあるんですね。他の棋戦とは違うものがやっぱりある。
――谷川浩司十七世名人
将棋はなだらかに強くなっていくものじゃないんですね。階段みたいに一段昇って、停滞して、また強くなって、というものなんです。斜面を上がるように強くなっていけると楽なんだけど、なかなかそうはいかない。階段式ですね。どこかでバタッと止まったりする。
――中原誠十六世名人
結局、俺もあいつも同類なんだと思い知らされる。なんだ岡崎、ちゃんと要点がわかってるじゃないか。
(略)
…だけど、そこには一つだけ違う点があった。
俺は、もう二度とまともに運動が出来ない。
親父との喧嘩で、肩を壊して以来。
でも、あいつは違う。
(もう一度サッカーをやれば、なにか変わるんじゃないか…?)
アニメはこの部分を拾って、渚シナリオの流れにエッセンスとして入れたのか? すげーな。
かつての米米CLUBが解散したのは、看板であるメインボーカル石井竜也の多岐にわたる活動と、バンド全体の、バランスが取れなくなったのが一因とも言われる。よくある話だ。
生え抜きのメンバーが何人か脱退してからの最後の数年は、活動内容自体を見てもそういった行き詰まりを感じさせた。
石井のようにサービス精神旺盛なタイプほど、一面では身内に対して気難しい部分があったりするものだ。そのバランスが崩れたことが、バンド内部で裏目に出てしまったのではないだろうか。
それは、ユーモア文学で知られる文豪が、晩年は極端なペシミズムに傾倒していくのに似ている。
夏目漱石然り、マーク・トウェイン然り。
もちろん、勝手な想像である。事実がどうだったか、それはわからない。
再結成のきっかけは、長年の盟友であるCharの誕生日パーティでのパフォーマンスを打診されたことだという。先輩でもある大御所からの、しかも祝い事でのリクエスト。断りづらい話だったとしたら、微妙な状況だったバンドにとって望みうる理想的な契機だったことだろう。
期間限定で活動再開した際は、かなり集中的にプロモーションを行っていて、テレビ出演などでメンバーのコメントを聞く機会も多かった。
「期間限定」である理由を訊かれると、「長いブランクもあり、今さら米米の音楽がシーンに受け入れられるのか?と不安があった」というのが答えだった。
それでも、実際にやってみて、メンバー達が確かな手応えを感じているのはこちらにも伝わってきていた。
そうなると自然、期間が終わっても……? という流れになってくる。
ところが、かつてのカールスモーキーそのままに「高田純次なみに適当」とまで言われた軽すぎるトークでとばしていた石井が、活動継続の話を振られた時だけあからさまに言葉を濁す。「適当」に流すこともできていない、その様子に俺は何か痛ましいものすら感じていた。
石井だけは、まだ完全な活動再開に踏み切る決心が着いていない。
解散したのには解散した理由があったはずで、いくら時間は経ってもその問題が解決したわけではない、と、少なくとも石井は感じていたのだ。かつての解散が最も堪えていて、一番それを引きずっていたのが石井だった。
考えすぎかもしれないが、俺にはそう見えた。
石井は別に今さら米米なんかやらなくたってソロで安泰に食っていけるしな、という見方も当然ありうるだろう。
俺にとっては、石井竜也が米米CLUBをもう一度やる気になってくれた、ことが特に嬉しかった。と同時に少し心配でもあった。
幸い、活動は今も続いていて、メンバーそれぞれの活動とも並行できるペースも作られているようだ。
「説得とは」彼はいった、「相手を黙らせることでもなければ、服従させることでもない。ましてや、どっちが善であるかを決める綱引きでもない。いやまったく、勝ち負けというものから一番遠くにあるのが、説得なのさ! 両方が勝たなくちゃいけない。理屈だけでは足りないんだ。理屈はとても美しくて、まっすぐに働くけれど、僕たちは全員がまっすぐに出来ているわけじゃない。かといって感情に訴えれば、やり過ぎる危険がある。理屈は階段だけど、感情はスイッチみたいなものだ。ものすごく好きな相手なのに、ほんの小さなきっかけで大嫌いになることが、よくあるだろう?」最後のセンテンスを以前うろ覚えで引用した際、なぜか『幽遊白書』の仙水忍のセリフと勘違いしていた。何故だかは不明。似たセリフがあったろうか。
――ジョシュア・ゲイルズバーグ(新城カズマ『蓬莱学園の革命!』富士見ファンタジア文庫)
「どうして仲良くできないの?」
と何度言われたことか。ガキの頃から、つい最近まで。
仲良くすることより優先すべきことがあったからだ。
「どうして筋を通さないのか?」
と俺は訊きたい。
誰も筋を通さずに平気でいるようなコミュニティは最悪だ。信じられない。見るのも嫌だ。胸クソ悪い。ヘドが出る。全員死ねばいい。
一目置いていた人がそんなところにいるのを見ると、ガッカリする。
何も知らずにいるのなら仕方ない。が、そうではない。
彼自身がかつて憤ったことと、それは矛盾しているはずだ。
見損なった、と思う。
俺が言えた義理じゃねーけどさ。
筋が通らないことをしてまで、そこに留まる理由があるのだろうか。
そこでしか出来ないことなのか?
俺にはわからない。
そもそも、そいつと一つところにいるだけで筋目が立たない、大本の横紙破りをやらかした元凶、そいつが今ものうのうとのさばっているのがおかしいのだ。
他の奴と違って、こいつは俺と不倶戴天であるばかりでない、多くの人にとって許すべからざる存在であったはずだ。そうでなくてはおかしい。
どうかしている。何かが致命的に間違っている。
どっちにしろ、俺には今後一切関係ないことではあるが。
知りたくもなかった。
魚住のように野球人生のほとんどスタート地点で躓くのと、江夏のように栄光のゴールを通過したあとで躓くのと、どちらが男にとって不幸なことだろうかと考えた。意味のない感想だった。躓いた本人にとっては行く手を遮っているハードルを引っ掛けて転倒しただけのことで、黙って立ちあがってもう一度走りだす以外に方法はないのだ。不幸などという感想が生まれるのはつねに他人事に限られていた。
――原ォ『さらば長き眠り』(ハヤカワ文庫)
『CLANNAD Full Voice』一周終わった。
春原関連でアニメとの細かい比較をやろうと思ったが、長くなるので保留。
とりあえず、
「とても楽しかったです」渚は「目的は達成されなかった」が「楽しかった」ということをキッチリと言明するのだった。
「なにが」
「一緒にがんばれて、です」
「目的は達成されなかったですけど、もっと大切な色々なものを手に入れました」
「岡崎さんと、とても仲良しになれました」
「春原さんとも仲良くなれました」
銀行員にはおごらなくてもいい、割り勘にしてもらう。こういう態度で接していけば、銀行もお金を貸すものです。
(略)
とにかく「この男はそうとうなケチだなァ」と銀行員に思わせるくらいでないと、借金作戦はうまくいかないものです。
――米長邦雄『人間における勝負の研究』(祥伝社ノン・ポシェット)
ガールフレンドというものは、常に3人は持つべきだ。2人だけじゃ彼女たち同士でケンカが始まったり、何かと問題が起きてしまうけれど、不思議なことに、3人いればなぜか大丈夫みたいなんだよ。きっと、バカバカしくなってあきらめちゃうんだろうね(笑)
――ジミー・ペイジ
メモを取るのは、未来の自分へのメッセージ。
今の自分にわからないことこそ、未来に預ける。読んだ自分を刺激するように書いてやること。
近代以後の多くの劇場と違って、シェイクスピアの時代の劇場では、装置が用いられることは事実上なかった。この時代の舞台は、基本的には、いわゆる張出舞台であったから――つまり、演技空間が客席に向って突き出していたから――大がかりな装置を組むことはなかった。またシェイクスピアの劇団の本拠だったグローブ座のような公衆劇場は屋根がなく、芝居は太陽光線の下で演じられたから、照明を用いることもなかった。従って、装置や照明という視覚的手段によって、場面転換を観客に伝えるやり方――現代の観客が当然視しているやり方――は、考えられなかったのである。エリザベス朝演劇とは、現代の観客には想像できないほど、台詞を重視した――観客の視覚よりも聴覚に強く依存した――ものだった。
――喜志哲雄『シェイクスピアのたくらみ』(岩波新書)
食事の注文は、対局中の適当な時間に記録係が聞きにきます。そのときにいちいち考えて決めるのも、私からすれば面倒くさいというか、そういうことでいちいち神経を使いたくないという思いがあります。
もちろんときによっては昼はウナギを食べたのだから、夜はうどんとかを食べたいという気分になることもあります。とくに冬場などは暖かいうどんはとてもよいですから。しかしさきほどの時間の問題もありますし、最初から注文するものが決まっていたほうが私にとってはよいのです。よって今は昼も夜もうな重を注文して食べています。
――加藤一二三『一二三の玉手箱』(毎日コミュニケーションズ)
加藤先生はもう三十年ほど全く同じ形の将棋しか指されない。食事もいつも同じものを注文なさる。違う食事を注文した日には、将棋会館に衝撃が走る。「今日は鰻じゃなくて寿司を注文したぞ」と、一日中話題になるのだ。持続できることはすごい。同じことを貫くには、非常に強い意志と精神力が必要だろう。――羽生善治『決断力』(角川oneテーマ21)
一つは、記憶の消し方。記憶を消すという行為も、また傷をつけるという行為であること。もう一つは、傷が深ければ、記憶もまた消えないということ。
人間の記憶というのも、こちらの記録法に近い。(光)磁気ディスクのように「きれいに記憶を消して上書き」できる媒体と違って、脳から記憶を「消す」には、他にいろいろ傷つけてその傷を「読めなく」するしかないようだ。
(略)
私にとって、スタイルというのもまた傷である。人によって、どこが傷で真っ白になり、どこが無傷で、どの傷を誇り、どの傷を恥じるか、それがスタイル。ちょうど“記憶の上書き”について書きかけてたので我が意を得た。
『まぼろし』はやっと「can/gooの曲」になったかな。
まだ実行していないことについて日記を書いてしまう。
俺にとって実行することと書くことの関係はそういうものだ。
実行されなかった日記というのは、いわば渡さなかったラブレターみたいなものか。
渡したことも、渡さなかったこともないけど。
ディケンズは、『二都物語』を当初戯曲として構想し、自分が演じるために主人公の心理を深く研究したので、その行動と感動は全て「私自身が体験したのと同じく完全に確証されている」とまえがきに書いていた。ついでにフランス革命に関する描写は細部に至るまで全て信頼できる証言に基づいたものだ、とも。
いかにも19世紀の作家らしい、文学への素朴で全面的な信頼と人間理解への確信、である。
昔は良かったな、などと思っていたが、考えてみると自分のやってることも大して変わらないのではないかと思った。
俺は俺が演じる役の台本を書いていたのか。
その通りかもしれない。
ちなみに、日付が未来になっていることは全く関係ない(笑。
自分探しだと? オマエはここにいるだろうが!――島本和彦(『炎の宅配便』)
健康な人には病気になる心配があるが、病人には恢復するという楽しみがある。瀕死を自覚した病人が万一なおったらという楽しみほど深刻な強烈な楽しみがこの世にまたとあろうとは思われない。古来数知れぬ刑死者の中にもおそらくは万一の助命の急使を夢想してこの激烈な楽しみの一瞬間を味わった人が少なくないであろう。――寺田寅彦(『KからQまで』)
2008/02/22 (Fri)こういう状態になってしまうともう、これまでにいろいろとストレスになっていたことどもというのも、なんだかすごく対岸のものに思われて、ああ、所詮そういうよけいなことというのはみんな「ただのよけいなこと」でしかなかった、本当に、びっくりするほど本質とかかわりのないものだったんだなあ、と思います。本質というものが何なのかはひとによっては異論もありましょうが、私には関係のないこと、もうこれから先は、雑音など一切かかわりなく、残された人生を「自分のためにだけ」書いてゆくだけのことだ、とあらためて思います。
(略)
スーティが大きくなるまでは、どうあってももたないかなあ、と思うとそれは残念ですが……といって一気に駆け足でその先だけをのぞくことも出来ませんし。時の流れというのは、所詮そういうものなのですね。
――栗本薫『グイン・サーガ119 ランドックの刻印』(ハヤカワ文庫JA)あとがき(2007年12月8日付)夢中になって読んでいた物語が終わってしまうことへの哀惜、そこから「終わらない物語」への志向、ということが初期のあとがきに書かれていて、大いに共感した記憶がある。
しかし、こうして「終わらない」ことが実際にハッキリ示されると悲しくてならないのはなぜか。
それは、我々の(少なくとも俺の)夢みるのは「終わらない、そして永遠に語り続けられる」物語、だからだ。
終わりがこないとしても、「語り」は永遠ではない。それが現実。
栗本薫亡きあと、続きが語られることは本質的にありえない。そのような試みはありうるかもしれないが。
そして、物語の時間は書き継がれることで流れてゆくのであり、仮に「スーティが大きくなるまで」書かれたとしても、その頃にはさらに次の世代が生まれ、語り残されたことはさらに増えているはずだ。
以上を自明のこととして、このあとがきは書かれているのである。
いや、引用のメインはそこじゃなく前半なんだけどね。
「カリスマ」という言葉を久しぶりに聞いた。
言った側は何気なく使った表現だと思うが、俺にとっては聞き捨てならない言葉だった。
人によって込める意味に違いがありすぎるし、そもそも辞書的な意味で使う人は日本では誰もいない。日本語の「カリスマ」は別の言葉だと考えればいいのだろう。
前に俺に向かってその言葉を使った人は、性格的欠点が俺の「カリスマ性」だと言った。自分にはそれがない、とも。
意味がわからない。
もちろん、そんなものはない。欲しくもない。
たぶん怒らせないように無理矢理誉め言葉の形にした忠告だったのだろう。
そんなこともすっかり忘れていたな。
イソップの寓話『アリとキリギリス』は、原話では『アリとセミ』だった。
ギリシア人のアイソポスが小アジア一帯の民話などを採集したものだが、要するにセミは地中海沿岸の温暖な地域にしかいないので、ヨーロッパ全体に伝播する過程で「キリギリス」に置き換わったのだという。
英語では『The Ant and the Grasshopper』。って、グラスホッパーってバッタ一般のことじゃねーの? と思って調べたら一応キリギリスもgrasshopperらしい。つーか、奴らは日本人とは自然観が全く違うから虫の細かい違いなんて全然気にしてないんだろう。コオロギとゴキブリの区別もロクにつかないとすら言われてるし。逆に日本ではスズムシ、マツムシ、クツワムシ、ウマオイ、などなど異常なまでに多彩で、しかも全て鳴き声などで区別される別の虫を指している。
絵本などでは、擬人化されたキリギリスはヴァイオリンを持った姿で描かれることが多い。「歌って過ごした」というのはもちろん鳴き声からの連想であり、胴体内部の共鳴で音を響かせるメカニズムは昆虫とヴァイオリンで一致していて見事な比喩だ。その点は原話のセミとも共通するので、キリギリスというキャスティングは正しいのだが、grasshopperがただのバッタだとするとあんまり歌い暮らすイメージじゃない気がする。元がセミなのも、鳴き声がうるさい昆虫ナンバーワンだからではないのか。
ちなみに、アメリカ英語にはキリギリスにあたる「katydid」という語がある。ラテン語の学名とも全然違うし語源が推測しづらい語形だが、「katy-did」で何かの拍子にアメリカ口語から生まれたかなり新しい語ではないかと思う。ただの想像だけど。
閑話休題、日本に伝わった16世紀の時点では「きりぎりす」は現在のコオロギを指す語だったというので、話はさらにややこしい。当初はたぶんポルトガルからの伝来だし、英語ではなくラテン語からの翻訳であったろうとされている。当時はコオロギを指す「きりぎりす」だったのが、語はそのままで現在のキリギリスという解釈に変わってきたのか、当時は別の語だったのが新訳(?)で「キリギリス」になったのか、『伊曾保物語』とか直接当たればわかるのかもしれないがそこまでは調べてない。
特にオチはないのだが、夏には遊び呆けて、冬になったら野垂れ死にする、というキリギリスのイメージはわりと気に入っている。
(追記)
the song of the males, which supposedly sounds like "katy did, katy didn't," hence the name.という説を発見。そうそう、日本語では「鳴く」ってのが向こうじゃもともと「sing」なんだったな。
しかし鳴き声がそう聴こえるからってのはどうなんだ? この単語の発音はここで聴けます。
日本語では「ギッチョン」とか「チョンギース」とか表現されてるようです。うーむ。
人生に第二幕はない。――スコット・フィッツジェラルド(未完の遺作『The Last Tycoon』のための創作メモより)
オスカー・ワイルド、バーナード・ショーを評していわく、彼に敵はいない。しかし、彼の友人は皆、心から彼を嫌っている。以前引用した気がしていたが確認できなかった。どんな文脈だ(笑。
原文が気になって調べたが、どうもハッキリしない。
Wikiquoteによると、
An excellent man: he has no enemies, but is intensely disliked by his friends.「皆」にあたる語がないのを除けば、ほぼこれの訳で間違いないようだ。訳文をどこで見つけたかも忘失してしまったが。
他にこんなのもあった。
Bernard Shaw is an excellent man; he has not an enemy in the world, and none of his friends like him either.「彼に敵はいないが、彼を好きな友人もいない」で、対句っぽくて構成としてはこちらがうまい気がする。
(追記:この場合"and"じゃなくて"or"のような気がしてきた。"not an enemy"てのもそれっぽくない気が。確認してないけど。)
WikiquoteでもUnsourcedに分類されているし、本人の著書に出てくる言葉ではないようだ。なので文言に揺れがあるのだろう。
言われたバーナード・ショーもなかなか面白エピソードに富んでいて、同じく逆説・諧謔では人後に落ちないG.K.チェスタトンとも親交があった。
菜食主義者で極端に痩せていたショーに対して、肥満していたチェスタトンが言った。
「外国人が君を見たら、英国は飢饉なのかと心配するだろうよ」ショーはやり返した。
「その外国人が君を見たら、飢饉の原因は君かと納得するだろうよ」あのチェスタトンが見事に一本取られたという。
チェスタトンはショーの生前に同時代の評伝『バーナード・ショー』を書いていて、それを読んだショー本人は次のようにコメントした。
「私の影響を受けていないところがいい」仲が良いのやら悪いのやら。
英国の文豪はこんな奴ばっかりか。
真率それ自体に価値があるわけではない。
真率である人間は自分の誤まりに気づく可能性がそうでない場合よりはるかに高いからである。
気取った文体で飾る若い人に注意しておくけれど、若いときはそれで通るけれど、中年期にさしかかる頃には自分の誤謬と愚鈍さを吟味する回路が機能しなくなる。
十代のころにはたしかに「オーラ」があったのに三十過ぎる頃にそれがあとかたもなく消えてしまう早熟な少年たちを私はたくさん見てきた。
彼らは知的に洗練されているせいで、「私はどうしてこのことを知らないのか?私はどうしてこのことをうまく説明できないのか?私の無知と無能はどのように構造化されているのか?」という形式で問いを立てることを嫌う。
彼らはそれよりは「自分がどれほど賢く有能なのか」をショウオフすることの方に知的リソースを投じて、ある日気がつくと狷介で孤独な中年男になっている。
『CLANNAD』アニメ第15話『困った問題』。
主人公岡崎朋也とその悪友春原は、スポーツ推薦で入学したが、それぞれ部活をドロップアウトして今は何の目的もなく、という話はシリーズ前半に説明があった。
朋也は右肩を壊してプレーできなくなるという全くの不可抗力でバスケ部を去った。しかも怪我の原因は父親とのケンカだという。その醒めた態度の裏にあるものも、それなりに窺える。
一方、表面上全く屈託がないように見える春原は、造形上もスポーツ、それもサッカーが得意なようにはまるで見えない。
ところが、事故でヴァイオリンを諦めた仁科りえのために合唱部を創りたい、という話を聞いて爆発するのは、ここまでコメディリリーフに徹していたその春原陽平である。
「そんな奴の言うことを聞くな!シナリオ上は、「合唱部の人たちは本気で音楽をやろうと思っているのに、演劇部は(自分以外人数合わせで)」という渚の言い分にも一理あって、バランスが取れている。それは同情や贔屓ではない。
そんな風に人の同情を誘うような奴は、卑怯者だ!
そんなハンデで贔屓されたいなんて考えが、甘すぎるんだよ!!
そんなハンデで……っ!」
「夢を途中で諦めなくちゃいけなくなったのは、あいつも同じだ。朋也は言うが、彼女らは決して「境遇に甘え」てはいない。「あいつも同じだ」というが、決定的に違う点が二つある。
だからこそ、その境遇に甘えるのが許せないんだろうな」
何より、一度挫折を味わったのは同じでも、また合唱部という次の夢へと動き始めていることが、止まったままの朋也と春原とは違う。この時点で二人は演劇をやろうとしているわけではないからだ。怪我をした仁科りえ本人が必ずしも積極的でなく、代わりに他のメンバーが動いている合唱部は、ちょうど二人が渚を助ける演劇部と対称の構造になっている。
そして、さらに決定的なのは、春原がサッカー部を辞めたのが「先輩と衝突して退部させられて」という理由であること。
彼はサッカー部にいられなくなっただけで、サッカーができなくなったわけではない。
仁科りえとも、そして朋也とも違い、ある意味で春原はハンデを背負っていないのである。
だからこそ、彼は「ハンデ」という言葉を二度も口にしてしまう。
朋也にはそのことがわかっていない。
俺は何も、怪我と違って人間関係のトラブルは致命的ではないし本人が悪い、などというつもりは毛頭ない。
それどころか、本当に不可避だったのかという疑問がつきまとう分だけ、実際その辛さはあるいは怪我に泣く以上のものかもしれないと想像するのである。
スポーツ特待生が、その専門職である競技を辞めざるをえなくなる。
それは「高校生が、部活をやめる」などという簡単なことでは断じてないはずだ。
だから、ただ事情を説明しているだけの話を聞いて「同情を誘うな」と過剰に反応してしまう心理も十分に納得がいく。どちらに理があろうとも、春原にとってそれだけのことではないのだ。
「ハンデ」とは、夢を諦めた理由。誰もが納得する、やむをえざる理由だ。
ハンデを持ち出されて冷静でいられない春原は、自分の「理由」が正当なものではないと、未だにどこか納得しきれないものを抱えているのだろう。
朋也と同じスポーツ特待ドロップアウト組だと知ってから、ずっと何か引っかかっていた春原の存在。
こうして観るとこの第15話で描かれたものは非常に大きいが、しかしこれで終わりではあるまいとも思う。
だから、やはりゲームをやるべきかと思うのである。
同じように、優れた素質を持ちながら名門校の野球部で落ちこぼれた連中の再起とリベンジの物語、である『砂漠の野球部』も俺は大好きだった。
声はウッソだし。
妹はゆかりんだし。
Xbox版はいつ出るんだろ。
しばらく没交渉だった友人とバッタリ遭う。
その関連で、同じく音信不通だった別の友人に連絡を試みる。
別件で、もっと昔の知り合いから何件か連絡がくる。
また別のところで、古い知人の消息を知る。
最近そんなことが相次いだ。
昔を思い出させるなというのに。
しまいには、未登録の番号からの電話をシカトしてたらそれが親からだったらしい。
固定電話は携帯に登録してなかった(笑。
両親はなぜ俺の親なのか不思議なほど普通の人なので、世を拗ねたオタクである俺との相互理解など望むべくもない。子供の頃からずっとそうだった。
長男でなければもう少し気楽だったのかなー、などと考えたりもした。
真っ当に生きる、目標になる兄がいればよかったな、とは少し別の意味でも思う。
目標が血のつながった兄である必要はないわけだが。
ともかく、親をガッカリさせるのは子としてもツライものなので、お互い息災である限りなるべく疎遠でいて俺のことは気にしないでいただきたい、と考えているのだが、先方はどうしてもそうできないらしいのである。
なぜ連絡しないのか、と恨み節のようなことを言われて、そのこと自体がしんどいんだよ。
どうせロクなことにならんのだから、敬して遠ざける、でよいではないか。
失言しないためには喋らなければいいし、ケンカをしないためには会わなければいい。
これよりマシな方法は未だに思いつかない。
「ひとつ、とびっきりの秘密を教えたげる。これは、ほとんどの生徒が知らないことなんだけど――ついでにいえば、ほとんどの学園教師も、事務員も、ついでに本土にいる大人たちも知らない秘密なのよ――特別に、君にだけ教えるわ。これさえ知っていれば、どんな難問も恐くない、どんなつらいこともへっちゃらで、ずっと幸せに暮らしていけるっていう、すっごい秘密なの」
「そ、それは……?」
ピエトロは思わず声をひそめた。
「あのね」
と、マリィはささやき返した。
「あなた以外に、あなたを止められる人なんて、いやしないのよ」
――新城カズマ『蓬莱学園の革命! 1』(富士見ファンタジア文庫)
十年生き遅れてるとよく言われます。
二十代をムダにしたと考えれば帳尻は合う。
そろそろせめて二十歳相当の大人の分別を身につけたいと思います。
お友達つくりましょう たくさんよりちょっと
だってだって ねえそれで充分じゃない?
――『うぇるかむUNKNOWN』(作詞/畑亜貴)
(前略)ちょっと間をあけてから、やつは話題を変えた。それとも、あれは同じ話題の続きだったんだろうか。「おまえ、自分以外のやつのこと莫迦だと思ってんだろ。学校のやつとかも。ぜんぶ」
「…………べつに」
「そうか?」
「なんで」ぼくはどう応えていいのか、わからない。「なんでわかんだよ。そんなこと」
「見てりゃわかる」
やつはまっすぐに、こちらを見つめる。
そしてぼくは気づかされる。
ずいぶんと長い間、見られてたことに。
やつが、ぼくのことを、以前からライバル視してたのかもしれない、ってことに。
……あとから考えれば、たぶんその瞬間ぼくとコージンは初めて友人になったんだろう。でも、その時はそんな悠長な思いにひたってたわけじゃなかった。ぼくは単に、
――この野郎、なんていいかえしたら言葉に詰まるんだ?
を考えるので必死だったんだから。でも上手い策が思いつかなくて、結局、ずっと黙ったままになる。
――新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー 2』(ハヤカワ文庫JA)
「要するに、あれだ。知識とか論理とかってのは、確かにこの物理的宇宙の全てかも知らんが、人間の脳が感知する世界からすりゃ、ほんの一部にすぎないってこったよ。ほんとに価値があるのは……」
「のは?」
「感情と、追憶だな」
――新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー 1』(ハヤカワ文庫JA)
新城カズマメモ。
貴宮響子は「貴宮京悟」とあまりにも名前が似すぎているし、未来へと進む主人公を見送るという役割も一致しているので、両者は血縁というより同じ人物が別の形で登場していると(批評的には)解釈すべきかもしれない。
響子に文書偽造の才能があるというのはFOGのワシーリィ・ドミトローヴィチと関係があるのか? なんで見落としてたんだろ。『蓬莱学園の革命!』2巻以降を読む手段が現状提供されていないのは返すがえすも残念だ。
『狗狼伝承』で自らは最後まで姿を現さず主人公を操ろうとする兄たち、「この宇宙は間違っている」と結論した彼らの尖兵が(三兄である)「長門」というのは、さすがにたまたまだろうけどできすぎだと思った。無論、ハルヒよりだいぶ先である。
今も当時のメールを読むことができない。
が、メールを削除することもできない。
これはちょうど、記憶を消すことはできないが思い出したくない、という関係に対応している。
少なくともメールは消せばいいだけのことだ。
記憶を消せないのはその手段がないため。
メールを消せないのは何故?
メールクライアントは変わったので普段それ以前のメールを読むことはない。
思い出さないというのもその程度のことだろうか。
うっかり昔のメールを読みそうになる。一回休み。
デキる友人が一人いると、それだけで人生なんとかなったりする。のかもしれない。
世の中、だいたい二割くらいの優秀な人の働きで、残りのダメな連中を抱えても回るようになっているという。
たとえばバブルの頃は一割でも大丈夫だったということかもしれない。
世間にはこんなに沢山の人がいるのに、大多数が食いっぱぐれずに済んでいるのは、それだけで驚異だ、俺にはマネできない、と思ってたが、どうやらそういうことらしい。
そんな友人だけは敵に回してはいけないと思った。
本当にやりたいことは、誰の手も借りずにやりたい。
逆にいうと、そのためなら誰を敵にしようが構わない。
ただそれ以外のことは、なるべく気楽にやれればいいじゃないか、と思う。
昔とは少し考えが変わったというか、やりたいこと以外考えてもいなかったのだろう。
本人の主観としては、今まで書いてたものよりずっと面白い。
こんなに書けるのかと思ったくらいだ。
得るものはあったということか(笑。
むしろ一体今まで何を書いてたのかと。
「……忘却は。私たちが意図的に思い出を忘れるのは、その個人を守るための手段だとでも答えればいいんですか、先生」奈須きのこの引用は、上遠野浩平の三倍も恥ずかしい。
(略)
「そう、それが忘却された記憶の正体です。罪、禁忌、後悔といったものを、あなた達は意図的に忘れてしまう。それは深層意識に深く根付き、あなた自身から取りのぞけなくなったあなたの一部だから、忘れるしかないんでしょう。(後略)
――奈須きのこ『空の境界(下)』(講談社文庫)
内容にも問題あるし。(ここでいう「意図的」は俺の「意図」とは全然違う)
でもせっかく行き当たったので参考までに引いておく。
それにしても、よくこんなもん映像化する気になったもんだ。(これが言いたかった)
今現在、心の中を占めているものによって、過去の出来事が思い起こされるのだから、感情と音楽、それに人生は密接に結び付いている。
――クリント・イーストウッド(『ユリイカ』1993年8月号、『バード』についてのインタビュー)
ちょっと内田樹入りすぎてたかな。
最近、内田樹先生の「文系の屁理屈」みたいなことが大好きだ。
たとえば池田信夫先生のように「これは経済学では常識である」とか書かれても、読んでるこっちに経済学の知識がなければそれが本当に常識的なのかどうかはわからない。
一方、内田先生は、読めばそのまま分かる言葉だけを連ねて、いつの間にか結論があらぬ方へ向かう、という文章である。
一つ一つは当たり前すぎて反論もできず、煙に巻かれたような読後感が残る。これがいい。
俺自身のスタイルはどちらかというと前者に近いものだったと思うが、このところ変なノリが出てる気がして、考えてみると内田樹文体の影響ではないかという仮説が立った。
もともと面白いと思いながら読んでたものだし、書くのも楽なのでいい。
ただ、これが他人との議論には向かないことは間違いない。
その内田先生に、池田信夫氏が遂に直接噛み付いた。
いかにも池田信夫らしい所業ではある。
個人的には両者とも注目している論客だが、この組み合わせは不毛だな、と最初から直観させる何かがある。
池田先生は「ピースミール工学」という言葉に反応して相手の立場を学説で規定し、「ポパーの誤った受け売りだ」「ハイエクが批判している」「根拠がない」などと飽くまでアカデミックに論破しようとしているが、話がかみ合っていないのは明らかだろう。
内田樹先生も学者ではあるが、社会工学は専門ではないという以前に、既に述べたことを言い換えるのに「ピースミール工学的」という術語を借りているだけで、その主張全体が特定の学説に支配されているとは言い難い。繰り返すが、何の学問的知識も必要としない言葉で語られているのである。
では内田樹スタイルとは何なのか?
もう少し考えてみようと思う。
フィリップ・トルシエ監督は、選手としては大した実績を残さず、無名のまま引退したという。
名選手すなわち名監督とは限らない。逆も然り。
マネージャーはプレーヤーについて熟知している必要はあるが、両者の仕事はあくまで全く別のものだ。
名馬を乗りこなす騎手は、その馬と同じくらい速く走れる必要があるでしょうか?
というのはアルスラーン戦記だったか。
では騎手に必要な資質とは何か、という問いで結局同じ話に戻ってしまうのだが。
監督のポストは当然、選手以上の狭き門。
選手の実績がなければ、そもそも入り口の部分で不利である。
雇われ監督が当たり前のプロスポーツ界ならともかく、プレーイングマネージャー全盛でそもそもマネージメントを独立して評価するシステム概念が存在しない業界では、専業マネージャーは何も仕事をしていないように見えるためその立場の維持は至難。チームを結成する時点から参画して強引にポストを確立するなど、図々しい人間がなる例は見られるが、やはりいずれ無理が生じるようである。
陛下は兵に将たる能わず、而して能く将に将たり。
それはまた別の話か。
若年の頃の乱歩は厭人癖がつよく、社交嫌いで、奇行の持主と伝えられた。何かの会合の席でも、側へ寄ることさえ、はばかられる冷たい感触があった。(中略)それが敗戦を境にして一変、開けっぴろげな天衣無縫さで人に接し、昔を知る連中を唖然とさせた。戦争中に隣組の世話を焼いたり、防火団長をしたりして、町内の人々と接触したために、社交的になったのだ、と本人は言ったが、創作力の衰えと不可分な関係があった。
――大村彦次郎『文士のいる風景』 (ちくま文庫、太字は引用者)これは凄い指摘。既に乱歩論における常識になっているのだろうか。目からウロコが落ちた。
乱歩が戦時中に町内の顔役として必要以上(?)に活躍したのは事実のようだ。
しかしそのこととは別に、おそらく乱歩本人の意識とも関係なく、戦後ミステリ文壇における重鎮となっていく過程と作家としての衰えが相関している、という指摘にはゾッとさせられる。
なんという冷徹な批評眼であろうか。
酒を呑んで、帰ってきてから鬱が入る。
原因は酒の席にあるが、呑んでいる間は平気。
別に、その場でキレるのを我慢しているわけではない。
それほど人間ができてはいない。
それ以前に、我慢する理由などない、と考えるのが俺。
その時点ではイヤな思いをしたという意識がないのである。
ただ帰宅した後から気分が落ちてくるのだからこれは防ぎようがない。
これは多分、会話ができないのと同じ原因、コミュニケーション能力の致命的な不足だ。
言われたことの意味が正しく頭に入ってリアクションが起こるまで、それだけの時間がかかっている、ことを意味する。
リアルタイムのコミュニケーションに頭が全く追いついていないということである。
会話ができないのは、「書く」ことが基準になっているので発語するまでに言葉を組み立てる時間がかかりすぎるのが原因だと思っていた。
しかし、アウトプット以前に、聞いた言葉のインプットに致命的な遅れが生じていることが判明したわけだ。
あたかも、地球から見上げる夜空の星が、実際は遥か昔に輝いた光であるように。
最近読んだ『頭のうちどころが悪かった熊の話』という童話に、「話しかけられた言葉に丸一日遅れて返事をする亀」というのが登場する。全くかみ合わない返事をすると思ったら、それは昨日話しかけた誰かへの答えなのである。
「彼女はとてもゆっくり生きてるものだから、考えることもゆっくりでね。きみが今きいた言葉は、ぼくがきのう話しかけたことへの返事っていうわけさ」なぜそんなものを読んだのかというと、ニコニコ市場で金田朋子の動画に関連づけられていて、しかもやたら売れていたから(笑。もちろん、熊は何の関係もない、素の金田朋子の動画だったのだが、「頭のうちどころが悪かった〜」というフレーズのシュールさと、この商品を選んだセンス、そして買った連中のノリに脱帽して思わず自分も買ってしまった。
ちゃんと読んでここでネタとして使っている俺も偉い。
全ての文末に、省略された「もちろん、悪いのは自分である。」を補って読んで下さい。
大佛次郎の『赤穂浪士』がちょうど新潮文庫で復刊されてたので買ってきた。
2008/01/28 (Mon) 仮面ライダー電王 第48話『ウラ腹な別れ…』
「忘れなきゃいけないから。未来を守るために」思わず笑ってしまった。苦笑という感じで。
未来のために「忘れる」という発想が、辻褄合わせの中から出てきたというのはとても面白い。
今年はわりとこじんまり展開してたけど、これでちゃんと風呂敷畳めるんだろうか。
もう平成ライダーはそんな風にしか観られないですよね。
消えた赤ん坊はいつ戻ってくるの? てのも分からないし。
ルールをちゃんと説明しないでややこしいゲームをやられても、観てる方はちっとも面白くない。
「あとはやってるうちにわかるから」と言われて、役を一つも知らずに麻雀やってるようなものだ。
最後に何が起こっても、「実はそういうルールだったんです」と言われたらどうしようもない。
「火事で記憶障害」がなぜ(俺にとって)ダメなのかというと、「忘れる」ことも「思い出す」ことも本人の意思に関係なく起こるからだ。
心因的ショックを受けた時の記憶が消える(思い出せなくなる)ことは、心理学的にありうる。実際にも起こる。
思い出そうとすると頭が痛くなるとか、過剰な演出は必要ない。
それは、本人の無意識が思い出すべきでないと判断したことになる。
思い出してみなければ、それを忘れているべきだったかどうかは判断できないというパラドックスでもある。
『Myself;Yourself』ゲーム版では、修輔の火事の記憶を思い出させないために、周囲は「交通事故」と偽ってさえいる。
なぜウソをついてまで隠していたのかと責める修輔に、菜々香は謝るばかりで答えられない。
思い出さないこと、という本人の無意識の選択を、周囲は全面的に肯定すべきなのか?
判断できない状態にある、本人の意思は?
医者も、このようなケースでは無理に思い出させようとはしないものだろうか。
それ以上に積極的に記憶が甦るのを妨害するのは、果たして正しいことなのか。
無意識というのは意識的でないということだ。
勝手に忘れて、勝手に思い出す。
俺はそんな無意識なんぞ信頼しない。
忘れたいことは必死に忘れようとしている。自分の意志でだ。
『少女革命ウテナ』では、
樹璃「そういえば、あの少年の名前、忘れてしまったな……」というやりとりが唐突に挿入される。オチは全くない。
(略)
七実「ねえ、どうして今、そんな話するの?」
ここでは、「忘れてしまうこと自体に対する疑問、不安」が、極めて自覚的に表現されている。
少女革命ウテナ DVD-BOX/COMPLETE CD-BOX発売。
今出てるのはDVD黎明期といってよい時期の製品なので、画質が低くて現在では観賞に堪えない。
なのでウテナはもうずいぶん長いこと観てない。待ちに待ったリマスターである。
値段にもよるけど、たぶん買ってしまうだろう。
『少女革命ウテナ』は、「少女による革命」でなく「少女だけが革命される」物語だと言った人がいた。
今にしてわかる気がする。
最終回ラストシーン、自立した姫宮アンシー、薔薇の花嫁にして妹は、兄を見限って出て行く。
兄であり大人であるはずの暁生は、何が起きたのかすら理解できず戸惑うばかり。
その格好悪さといったらない。
なぜ小杉十郎太が好きなんて言ってたんだろう(笑。
暁生にとっての結末。
何を観ても(観てないけど)そんな話に見えるようになってしまった。
法月綸太郎が一時期、「何を書いても『頼子のために』のハッピーエンディング・バージョンになってしまう」と言っていた。
自分にとって必要なことだからだろうか。
やはり、今もう一度観るべき、な気がしてきた。
閑話休題、最終回の合唱曲『ミッシング・リンク』は万有引力バージョンしかCDになっていなかったはず。
COMPLETE CD-BOXも発売するのなら、蔵出し音源が出てこないかと、少し期待。
「俺がやめてた時、あんた何かっつーと落語やれ落語やれって言ったでしょ、あん時の俺の気持ち、あんた今すげえ分かる筈だよ、ウゼエんだよ、やりてえと思ってる事、他人からやれって言われんの、すげえウゼエんだよ」
――宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン』(角川書店)やりたくなくてもウゼエ。
また誤解を招くような引用でしたかね(笑。
俺に観測されないものは、俺にとって存在しない。
存在してほしくないものに対して「俺に観測されるな」という。
その最も形而下的な表現が「死ね!」になる。
俺流のコペンハーゲン解釈である(嘘。
陥落直前の五稜郭で死んだとされる、遊撃隊の伊庭八郎。
その最期には異説がある。
敗勢が必至となった時点で、降伏をよしとせず服毒自殺したという説。
もう一つは、井戸端で顔を洗っているところを狙撃され、喉を撃ち抜かれて即死したという説。
どちらもそれなりに尊重すべき証言で、ままあることとはいえなぜこうも食い違うのか、疑問視されていた。
隻腕で有名な腕の傷とは別に、函館戦でも負傷して後送され、死の直前には伏せっていたのは事実のようだから、どうやら服毒説の方が本当らしい。
大隊長だった伊庭を、総裁の榎本武揚が自ら病床に見舞って、「自分もすぐ後から行くから」と口説いてモルヒネを手渡した、というのである。
伊庭の他にも、同様にモルヒネで自殺した幹部がいる。
結果として生き残り明治政府に出仕した榎本からすると、この時の振る舞いはなんとも格好がつかない。
そのため、榎本に慮って意図的に事実を伏せたのが後者の説ではないかという。
榎本の後半生が実に微妙な評価をされることは、この逸話からもうかがえよう。
この人物が気になって仕方がない所以である。
榎本は、明治の最良官僚としての働きをしたが、しかし与えられたのはついに伴食大臣であり、また子爵に過ぎなかった。
がんじがらめの薩長閥の中で、前政権の残党というハンディキャップを認めてやっても、彼が日本の近代化に貢献した業績は、果して彼があえて生きのびたにふさわしいものであったか、どうか。彼が誇った幕末の留学体験は、新政府以来おびただしいハイカラが生まれたせいもあって、それほど役にはたたなかったのである。
それより、オランダ帰りのこの海将が、義と侠の旗の下に、五稜郭で、三十三歳で壮烈な死をとげていたら、あるいは彼こそ、維新の嵐における最大のヒーローとなり、それどころか永遠に日本人を鼓舞する幾人かの叙事詩的英雄の一人として残ったのではあるまいか。
――山田風太郎『人間臨終図巻II』(徳間文庫)
起業して会社を急成長させた経営者が、ある時点でもう不要な人材と判断して自分自身をクビにした。
という逸話を引用しようとしたが、出典を忘失して出てこなかった。
王朝の創業時にはシルヴァーベルヒのような異才のパワーが必要だが、安定期にはむしろグルックの堅実さこそが望ましい。
なんて、そんないい話でないのは確かである。
創業と守成、という問題とも違う。
結局どちらにも向いていなかったということだ。
Question.5 『仲間ってなんですか?』
(ヒント)すべては自分から信じることです。
――上遠野浩平『ブギーポップ・クエスチョン 沈黙ピラミッド』(電撃文庫)
今も昔も、上遠野浩平の引用は相当恥ずかしい。
顔も見たくないほど嫌な奴もいるし、顔向けできないほど申し訳なく思っている人もいる。
それは俺の気分の問題であって、相手がどう思っているかはほとんど関係ない。
どこまでも自分勝手な人間だということだ。
隆慶一郎『柳生非情剣』(講談社文庫)の一篇『逆風の太刀』。
関ヶ原での小早川秀秋を書いた小説はいくらでもあるが、これは出色。
小早川家譜代の重臣にとっては、養子に入ってきた殿様よりも御家が大事。主君である秀秋を露骨に軽んじるような態度を取る。
家中でも日頃からそのような重圧を感じ続けていた秀秋が、加えて天下分け目の戦場で東西両軍からのプレッシャーを受け、遂に開き直って叫ぶ。
「うるさいな。俺の藩だ。俺が潰して何が悪い」その通り、と、傍で見守る主人公、柳生五郎右衛門はこれに快哉を叫ぶのである。
無論、何が悪いといって、多くの家臣が牢人し路頭に迷う。悪いに決まっている。
五郎右衛門の剣客らしい無常観からすると、秀秋が初めて見せた19歳の少年らしい感情が好ましく見えた、ということである。
「お前が始めたんだから、お前のものだ、お前の好きにすればいい」というようなことを俺に言ってくれた人がいた。
そう言われても、そんなわけにもいくまいと思っていたが、結果はその通りになってしまった。
俺が作って俺がブッ壊した、というのはただの開き直りにすぎない。
それでも、気持ちの上では一抹の救いにはなったかもしれない。
結局、その人にも迷惑をかけただけだった。
俺にできることは何もない。
忠臣蔵で最も解釈が難しいのは、大石内蔵助が京で遊興に耽ったその理由だと思う。
『仮名手本忠臣蔵』では、上杉方に一挙の意志を悟られぬための目眩ましであったとされる。
現在では、それでは理由として不足だとする解釈が主流である。
五味康祐も、通人の大石のこと、それほど単純なことではあるまい、というような旨を書いていた。
江戸表では生活苦で脱落する同志も出る中、なぜ大石は遊蕩を続けていたのか。
大佛次郎原作のドラマでだったか、討ち入り直前にその時のことを「楽しかったか」と問われた大石が、「本当に楽しゅうござった」と完爾として答えるシーンがあったのを覚えている。
同志達の苦難を思えば非難されて然るべき行状が、忠臣蔵に欠かせない場面となっているのはなぜか。
まだ明確な答えは出せないでいる。
昔の自分が何を考えていたのかは全然わからない。
書きとめておかないと失われてしまうものは確かにある。
だから日記を書くのだが、今まで本当に書くべきことを全く書いていなかったということだろう。
前にも書いたけど、「時間が解決する」ということを、俺は信じない。
どいつもこいつもなぜそれが当たり前だと思ってるんだ? 十分な時間が経過した、ということを誰が決めている?
『逆境ナイン』より。
「例えば好きな女の子がだ、米米クラブのファンだったとする……さあどうする」
「米米クラブのCDを全部そろえておぼえますっ!!」
俺の考える「M」は(あるいは俺がMだとしたら、と言い換えてもよい)、まず「S」である相手との特殊な関係が前提となるものであって、単なる自傷による苦痛や、何の思い入れもない第三者からの責めでは決して成立しない。
全く無関係な者を含む知人一同の前で「自分が悪かった」と言わされるなどというのは、もちろん最大級の屈辱であり、そしてそれ以外の何物でもない。
いい喩えが見つからなかった。最近読んだ某マンガの陰湿なイジメのシーンが最も近いのだが、語弊がありそうなのでやめた。誤解じゃなかったりしてな。
あれか、新左翼の「自己批判」。
もちろんそんな経験ないけど、キツイんだろうなー。想像以上のダメージだった。
「音楽の力」のうち(そんなものがあるとすれば)、最も実感しやすいのは、それをよく聴いていた時期のことを思い出す、というものだろう。
出来事を思い出すというより、その当時の気分が甦る、みたいなことは比較的容易に体験できる。
『ノルウェイの森』がそんな話らしい(村上春樹を一冊も読んでないのが俺の自慢)。
逆に、その当時の気分を思い出したくないがために、好きな曲が聴けなくなる、ということも実際に起こるから困る。
映画なんかではわりとありふれたネタだけど(微妙に違うけど『カサブランカ』とか)、逆に映画みたいな安っぽくウソくさい感傷に浸ってるようでイヤになるが、どうしてそれどころじゃなく、切実である。
その頃は一人でデビューしようと思ってたのね。バンドはどうしても小さな政治ができてくるでしょ。メンバー五人いたら、二つの派閥が生まれる。三人いたら、一人と二人の派閥になる。そこで政治を成り立たせるためにはファシストが支配しないとダメ。
みんなの意見を聞いてたら、成立しない。そうなるのがイヤだったから。
――中島らも『異人伝』(講談社文庫)
夢というのは、誰でも毎晩見ているのだが、見る/見ないというのは目が覚めた時に覚えているかいないかの差でしかないらしい。
長い夢を見たと感じるのも、実際には目が覚める直前の短い時間のことなのだという。
詳しくないので真偽は分からないが、実感としては多分そうなのだろうなと思う。
眠りが深いせいか、普段はほとんど夢を見ることがない。つまり、起きた時点で覚えていない。
昔はそうでもなかった気がする。
上記の説を実感するのは、見た夢を覚えているのは決まって、ごく短時間で目を覚ました時など不規則で浅い眠りの場合だからだ。
珍しく昔の知人が出てくる夢を見たりすると、妙に気になる。
それが夢の役割なのだから、自然なんだろうけど。
幕府全権の立場で西郷と交渉し、江戸を無血開城した勝海舟は、自らの手で徳川幕府に引導を渡した形になる。
「幕府を売り渡した」という見かたも、当然ありうる。
明治期の海舟は、立場上は徳川家を離れても、私人として徳川家と旧幕臣のサポートを続けた。
たとえ理屈の上では自分の責任でなくても、そして形の上では終わったことだとしても、それで本当に全てが済んだわけではない。少なくとも勝の心中ではそうだった。
喩えとしては話が大きすぎるが、大なり小なり、そのような責任の取り方は、当時はあって然るべきものだった。誰もが勝のようにできるとは限らないにしても。
現在では理解されないどころか、気持ち悪いと思われるだけだろう。
ドラクエVの、カボチ村。誤解されたまま、冷ややかな悪意とともに、しかも報酬を受け取って(!)イベントが終了する。
「なーんも、言うな」
目の前で誤解が行われているのに、どうしてもそれを解くことができない。弁明の余地すらない。
何度も経験があるが、実にイヤなものだ。眼前、というより自分に向かって突きつけられている悪意、その根拠となっている誤解を解くすべがないというやりきれなさ。
ドラクエでは、10年後に訪れると誤解が解けているのがわかる。
後味の悪いイベントに対するフォローにしては、効果は微妙である。
一方、誤解に基づく善意も、俺の経験では同じくらいたちが悪い。ドラクエでは良い方向へ働くことが多いかもしれないが。
それとも、悪意だったのだろうか。
どちらでも同じことだ。
誤解に基づいている以上、見当外れであることに変わりはない。
女性は人類の宝です。
僕は全ての女性を尊敬していますよ。
このセリフの元ネタなんだっけ。バルザックだったかな。
『蓬莱学園の革命!』と『グイン・サーガ』にも半分ずつ使われていた。
前半はテオドール・ザールウィッツ、後半はグインの発言。
アバン先生いわく、「正義なき力が無力であるように、力なき正義もまた無力」
力も正義もないのは最低最悪ですよね。死ねばいいのに。
それでも生きていかなきゃいけないのだろうか。
新城カズマ『狗狼伝承』を読み直す。
主人公は時間と空間を超える能力の使い手。
過去へ飛び、過去の世界を変えることで矛盾が生じると、宇宙は自分自身の矛盾を解消しようとする力を働かせる。
それがこの作品におけるタイムパラドックス。
つまり「宇宙を作り変える力」である。
最愛のヒロインを助けようとする努力が「手遅れ」であることを知った主人公は、過去を変えることで自分の望む「現在」を作ろうとする。
それは最初から、主人公の兄達によって仕組まれていたことだった。
自分が利用されていることを知ってもなお、過去を作り変えようとする主人公。
もう一人の主人公であるヒロインは、それを阻止しようとする。
過去の否定は是か非か、がこの物語の最終的なテーマだった。
一方、次作である『サマー/タイム/トラベラー』に登場する能力者は、未来に向かってのみ跳躍する時間旅行者だ。
そこへ行く前に、俺はもう一度『狗狼伝承』を読む必要がある。
俺が向き合うべきものはここにしかない。
なぜ「非」なのか。
どうしてもわからない。
事情を十分に知らない人間が的確な判断を下せるはずがあるだろうか。もちろん、ない。
俺の事情に俺より詳しい奴がいたら、相談に乗ってもらいたい。
そんな奴はいない。こちとらトゥルーマン・ショーやってんじゃねーんだ。
よって、相談相手はいない。 Q.E.D.
それ以前に、今は別に相談したいこともない。結論はとっくに出てるっつーの。わざわざそれをひっくり返そうとする奴は何なの? バカ?
『ジョジョの奇妙な冒険』第3部のラストシーンで最も印象的なのは、ポルナレフとジョセフが「楽しい旅だった」と結論づける部分である。
「つらいことがたくさんあったが……でも楽しかったよ。みんながいたからこの旅は楽しかった」目的が達成できてよかった、ではない。
「そうだな……楽しかった……心からそう思う」
最後に「楽しかった」という言葉が出てくるのが、当時は印象に残った。
彼らは、楽しいから旅を始めたわけではない。
つらくなったから旅をやめたわけでもない。
承太郎は母親を、ジョセフは娘を救うため。
ポルナレフは妹の復讐のため。
DIOを倒したことで、旅は終わる。
生き残った彼らは、楽しかった、と言う。
花京院とアヴドゥルは、過去にDIOと対峙して屈服した。それが動機?
イギーに至っては理由もなく巻き込まれたにすぎない。
花京院は再びDIOに見え、立ち向かって死んだ。
アヴドゥルは、ポルナレフを庇って死んだ。
イギーもポルナレフを助け、最期にニヤリと笑って死んだ。
彼らの旅は、死によって終わる。
その旅は果たして「楽しかった」のだろうか。
そんな問いかけに何の意味があるのか。
あらゆるドラマにおいて、過去の嫌な思い出は掘り返され、克服されるべき対象として扱われる。
したがって「思い出す」ところからストーリーが始まる構造をとる。
「忘れる」ことでハッピーになるシナリオ、はありえないのか。
そう解釈しうる例は『エリア88』しか思い浮かばない。
腐海に侵食された土地からは、逃げるしかない。
汚れた土壌は時間をかけて浄化されるのかもしれないが、そんな何世代も先のことは今を生きる自分には関係ない。
巨神兵があれば、腐海そのものを焼き払ってやりたい。
逃げ場がなくなったら滅びるしかないのだろう。ナウシカの原作って最後まで読んでないけど。
もっと寓話風に書けば面白いのかもしれないが、寓話は苦手だし。
楽しいことしかやらない。やる理由がない。
やってたのは楽しかったから。やめたのは楽しくなくなったから。
他に何があるというのか。
「楽しかった?」というのは何という愚問だ。