2013/03/23 (Sat)

 ジョン・ローの"ル・システム"――と、おそらくは十八世紀中、定冠詞を付けて呼び習わされることとなった金融実験について、一言、解説を加えておく。
 この「システム」の破綻は、当時のヨーロッパ人に極めてネガティブな印象を残した。この印象は、おそらく今日に至るまで続いている。いわゆる資本主義経済における最初の金融バブルとその崩壊は、それほどまでに衝撃的だったのである。(中略)フランスの場合は、最悪の状況にある経済の全体がこのシステムの成否に懸かっていたために、バブルとその崩壊は深刻な後遺症を残すことになった。その第一は、システムの根幹であった紙幣に対する根強い不信感である。この不信感は大陸全土に及び、十九世紀前半、ゲーテは「ファウスト」の第二部で、紙幣に対する疑念に満ちたエピソード――存在しない黄金を根拠とする国家発行の偽金に関するエピソードを書くことになる。このイメージは、少なくともジョン・ローの王立銀行発行の紙幣に関しては現在に至るまで続いている。とはつまり、今日なお、殆どの人間が現に金とは何でありどうなっているかについてはロー以前の認識しか持っていない、ということだ。
――佐藤亜紀『金の仔牛』(講談社)巻末覚書

2012/12/25 (Tue)

周りの人間に裏で
事情通ヅラされんのは
疲れんだよ
斑目はアホだから
そーゆうのに耐性なくて
逃げたんだろ?
――笹原恵子(木尾士目『げんしけん 二代目の四』第13巻、講談社アフタヌーンKC)

2012/09/17 (Mon)

 通貨が金との兌換を維持するためには、発行者は通貨の発行量に応じて金を保有しなければならない。これを逆に言えば、世界各国は金の保有量に応じた以上には通貨を発行できないことになる。そのために古典的な貨幣数量説でいえば、通貨発行量は制限され、この時代はデフレの状態が続くことになったのだが、一八八六年に南アフリカで大規模な金山が発見され、あたらしい採鉱法が採用されると単純に世の中に出回る金の量が増え始めた。日本が金本位制を採用する頃には、ちょうど世界的なデフレが終焉する時期にあたっていた。
 金を獲得するには金鉱山を持ち、金の採掘ができれば一番良いのだが、それが無い場合には輸出によって外貨を稼がなければならない。また逆に言えば、それは物資を海外から輸入すると金(正貨)が流出することも意味していた。
 GDPの比較から想像ができるだろうが、当時の日本の物資の供給力は小さいものであった。従っていざ戦争となると、兵器だけに限らず輸入物資に頼る必要が出てくる。例えば日本海軍の主力艦は有名な「三笠」を始めとして、全て輸入品で賄われていた。つまり、戦争をすれば正貨の流出が伴う。日本の場合、戦争に際して正貨が足りなければ正貨を借りてくる必要が出てくるのである。
 また、国内で戦費調達のため内国債を発行して通貨の発行量を増やしてしまうと、兌換のために準備しなければならない正貨が不足してしまう。したがって、ここでは二つの意味で正貨が必要だった。ひとつは輸入物資を購入するための正貨であり、ひとつは増大する通貨発行量の準備に対する正貨である。高橋是清が海外で外債募集に苦労している間、政府や日銀は外貨決済のためと金本位制度を維持するために、日本に残った金準備である正貨の残存量と戦っていたのである。
 もちろんポンド建てで借金をした場合には元本・金利ともポンド建てで返済する必要があるので、日本としては将来輸出を増やして外貨を稼がなければならなかった。またこの当時は、日清戦争のように戦争に勝てば賠償金を貰えるという国際慣習があったので、これをあてにするという考え方もあっただろう。現実に日本は日清戦争の賠償金をもとに金本位制を始めたし、日露戦争終結のポーツマス条約ではロシアとの間において賠償金問題でもめることになったのである。
 ヨーロッパ先進諸国はすでに金本位制を採用していたので、日本もそれに加わったと言う事は、日本が財政面で先進国への仲間入りを果たした事も意味していた。金本位制を採用することは「承認の印章」とも呼ばれていたほどである。何故ならば金本位制の維持には、健全な管理通貨制度と節度ある財政金融政策が要求されたからである。この当時、金本位制を採用していない国は為替が不安定なために外国からの資金調達は困難であった。金本位制の採用は、国際金融市場における戦時公債発行のための最低条件のひとつとも言えたのである。当時日本にとってロシアと戦争をするためには金本位制は欠かせない条件だったのだ。このことはロシアにとっても同じことであり、どちらも開戦にあたり直ちに金本位制度の維持を方針として決定したのであった。
――板谷敏彦『日露戦争、資金調達の戦い 高橋是清と欧米バンカーたち』(新潮選書)

2012/08/26 (Sun)

 アインシュタインの方程式にしたがうならば、宇宙の膨張速度は宇宙空間のエネルギーで決まります。エネルギーがたくさんあれば速く広がるわけですが、空間が広がるとエネルギーも薄まるので、膨張速度は遅くなるはず。ところが観測結果を見ると、それが速くなっていました。空間が広がっているのに、エネルギーが薄まっていない。つまり、空間が広がるにつれて全体のエネルギーも大きくなっているわけです。
 この不思議なエネルギーが「暗黒エネルギー」で、その正体はまだ何もわかっていません。ちなみに、宇宙膨張の加速を観測した研究には、どういうわけかアメリカのエネルギー省から予算が出ていました。薄まらないエネルギーがあるとわかったので「これでエネルギー問題は解決した」という話もありますが(笑)、正体がわからないのでは、石油の代わりにどう使えばいいのかもわかりません。
 予算といえば、宇宙膨張が加速していることがわかってから、天体観測にたずさわる研究者たちは「いまのうちに予算をつけてくれ」と言い始めました。宇宙がいずれ収縮するなら、遠くの星がどんどん近づいてくるので、未来の研究者はいまよりもたくさんの銀河が見えるようになるでしょう。しかし加速しているとなると、急がなければいけません。いま見えている銀河さえ、見えないところへ遠ざかってしまいます。100億年もしたら何も見えなくなるので、「いまのうちに研究を」と言っているわけです(笑)。
――村山斉『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』(幻冬舎新書)

2012/07/21 (Sat)

 私の書いたいくつかの物語の背後には、互いに関連を持った複数の言語があるのです(もっとも、構造上の素案のようなものに過ぎませんが)。私の言うエルフは英語で言うエルフのイメージとは違うのですが、私は、私がエルフと呼ぶ者たちに、二つの言語を与えました。この二つは互いに関連を持ち、私が作ったほかの言語にくらべ、かなり完成していると言えます。その歴史も書きました。この二つの言語の語形は(私自身の言語的嗜好の相異なる二面を現しているのですが)、共通の語源から科学的に導き出されたものです。私の伝説に出てくる名前のほとんどは、この二つの言語から造られたもので、このことが、名前のつけ方に、ある特徴(相互の関連性、言語様式の整合性、そして史実であるかのような錯覚)を与えている、と私はまあ思うわけです。これは、ほかの似たような作品には著しく欠けていることです。誰もが、私のようにこんなことを重要と思うわけではないでしょうから。因果なことに、私は、こういうことにひどく敏感なたちなのです。
――一九五一年、ミルトン・ウォルドマン宛、J・R・R・トールキンの手紙より(『シルマリルの物語』評論社、田中明子訳)

2012/06/30 (Sat)

Q. まだ本作をプレイしたことがないという新規ファンに向けて、『AIR』の魅力を改めてお聞かせください。
A. 今から『AIR』のゲームにふれようというのは、あまりおすすめしません。というのは、単純に古い作品だからです。それよりは、みごとに洗練された京都アニメーションさんの手によるアニメ版をお勧めします。こんなことをいってしまっては社長に怒られそうですけど(汗)。原作の『AIR』はアンティークのような感じでお買い求めいただければ、と。
――麻枝准(『電撃ビジュアルアーツ 2012 SUMMER』)

2012/06/25 (Mon)

自国史と世界史の二本立ては東北アジア(日・韓・朝・中・台)の歴史教育の特色らしい(中村哲『歴史はどう教えられているか』一九九五年)。世界史は日本史の外側にあり、それらは知識として、あるいはめずらしい情報として注入されたものの、現在を生きるわたくしたちにとって必要不可欠なものとは必ずしも受け取られていない。日本人が国際的な政治・経済の構造を客体として見る意識が強く、自己をそのなかに含めて考えない傾向があるといわれるのは、そのためではなかろうか。
――朝尾直弘『世界史を洗い直す』(岩波講座世界歴史 月報7)

2012/05/17 (Thu)

 ところで、デュマがおこなった加筆修正は、かならずしも作品を浮揚させるためのものばかりとは限らなかった。たとえば、デュマは従者のグリモーのような脇役をしばしば登場させたが、無口で「はい」「いいえ」としか答えないこの従者は、実は原稿料を高くするための道具だった。というのも、当時の新聞小説は、一行につきいくらで支払われていたので、グリモーが「はい」と答えるたびにデュマには三フランころがりこんでくる計算になっていたのである。しかし、ジラルダンもさるもので、行の半分を越えない会話は一行としてカウントしないと決めてしまった。その決定が行われた日にデュマの家を訪れたヴィルメサンはデュマが原稿を何ページも抹消しているところに出くわした。グリモーは改行のためにだけ作った人物だったので、不要になったから消してしまったというわけである。
――鹿島茂『パリの王様たち ――ユゴー・デュマ・バルザック 三大文豪大物くらべ』(文藝春秋)

2011/10/20 (Thu)

 デザイン変えてみた。

2011/06/16 (Thu)

 函館行ってきたよ。

2011/06/04 (Sat)

 台湾行ってきたよ。

2011/05/08 (Sun)

  拓郎  いや確かに最初は酒を飲んでの酔狂談だったんだけど、俺のほうはプロになってからずっとソロでやってきたじゃない。だから昔とったキネヅカじゃないけど、そろそろ眠っていた虫がうずきはじめていたんだよ。急にグループに魅力を感じはじめ、すごくグループを組んでやってみたくなってきたわけ。
  小室  ほら、やっぱり思いつきじゃないか(笑)。だいたいおまえは一度思いついたらもうとまらない。すぐ行動に移しちゃう。それは長所でもあるけど、そのかわり気が変わるのも早い……朝令暮改というやつだ(笑)。それはともかく、まあやるんなら実力派の一流ミュージシャン、つまり大物連中とやりたいなってことになった。それで、断られるだろうと思ったけど交渉してみたら、意外や意外、みなOKということになっちまった(笑)。
  拓郎  反対したのは俺の事務所だけ……金がかかりすぎるってんでね。あと、最初ベースマンとして交渉した江藤勲さんはダメだったけど……。
  小室  俺もおまえも、まさかヒロ(柳田)なんかやらないだろうと思っていたんだよな。つまりプレーヤーとしては彼らのほうが実力的にずっと上だし、俺たちにはそれに対してコンプレックスがあったから、一緒にやってくれるはずがないって思ってた(笑)。
  拓郎  俺たちの武器というか強みは、ただ彼らよりは歌が作れるってことだけでね。実際練習しはじめてすぐわかったけど、テクニックをはじめプレーヤーとしての実力は、はるかに3人のほうが優れているわけよ。彼らは譜面をバッチリ読めるけど、こっちはバッチリだめ。それから音楽のテクニカル・タームにしても、その間彼らに教えてもらったことがいっぱいあった。
  小室  いや実際、六文銭をやってから覚えた音楽的知識ってのはすごいよ。
  拓郎  それにしてもあのグループほど、ひとりひとりが音楽的に目ざしているものというか、音楽的志向の違うグループってなかったんじゃない?
  小室  そう。だからステージではものすごく馬鹿ノリするにもかかわらず、練習は拷問ないしは地獄だった(笑)。その落差がありすぎたことだね、あのグループの最大の特徴というのは……。
  拓郎  でもリハーサルの時に、地獄のように落ち込んじゃっていたのは、俺と小室さんだけだったかもしれないよ。ミーティングをしても、ヒロなんかが冗談を一発言ってすぐ終わっちゃう。でも相手は子供じゃないんだし、頭ごなしに怒鳴りつけるなんてことはもちろんできない。まして音楽的には向こうのほうが上ときていたから、どうしても発言に遠慮がでてきた……それがよくなかったのかもしれないね。
――山本コウタロー『誰も知らなかった吉田拓郎』(文庫ぎんが堂)
 幻のスーパーグループと言われた「新六文銭」についてのコメント。新六文銭の活動と消滅は1973年、原著の刊行が1974年だからほぼリアルタイムで語っていることになる(これは本書全体に言えることだが)。それに著者自身が両者と親交のあるミュージシャンということでかなり気安い談話が取れたということもあると思う。それにしても吉田拓郎と小室等ともあろう者が、グループの他のメンバーに対して音楽的なコンプレックスを感じて遠慮をしていたとは驚きである。リハが地獄だったとか、まるでそこらへんのバンドの話を聞いているようだ(笑。 「歌が作れるだけ」というアーティストとしての実力は全く別というのも興味深い。教わって得るものが多かった、というのも非常に率直なコメントだ。
 ちなみに新六文銭のメンバーは吉田拓郎、小室等、柳田ヒロ、チト河内、後藤次利。

2011/03/03 (Thu)

教授  ところがそうではないのだ。実はコンピュータ将棋は「パス」という技法を取り入れているのだよ。読みの過程でパスという手も候補に入れるのだ。たとえば▲7六歩△パス▲2六歩△3二金みたいにね。これをヌルムーブ枝刈り(null move pruning)という。ヌルとは「存在しない」「零」、プル-ニングは「枝を刈る」という意味だ。
――はあ、なにがおっしゃりたいので?
教授  「将棋の手はほとんどが悪手である。指さないほうがいい手のほうが多い」という有名な羽生語録があるだろう。本誌に載っているどの局面でもいいから、合法な手を数えてごらん。ほとんど読む気もしないようなひどい手ばかりだから。プログラマーはそのことを身にしみて理解しているのだよ。
 コンピュータは深く読めば読むほど読みの精度は落ちる。これは人間と同じだね。
 たとえば10手先まで読み、そこで形勢判断すると決めたとして、いま8手先まで読んだとしよう。そして仮にその局面が+500で優勢だと判断している。ここでパスをして、相手に指させてみるのだ。その結果が+300だとしたら、さすがにパスよりもいい手はあるだろうから、この局面は少なくとも+300より上だろうと判断できる。
――う~ん、なんだかよくわかりません。
教授  実は人間のプロもこんな読み方することがある。ある手を読んでいくうちに、相手の手で有効手が見つからなかったとしよう。そのとき相手の手をパスとして、2手連続で自分が指してみるのだ。それでも局面が不利だとしたら、「自分の手番でも悪いのだからこの手は捨てよう」と決断できる。ほら、感想戦や検討で「こっちの手番でも悪い」なんて言ったりするときがあるだろう。だからなにか悪手以外の手を指す、というほどの意味でとってもらえばいい。コンピュータ将棋において、パスは実に便利なのだ。読みを減らせるからな。
 面白いのは、「ボナンザ」のように全探索(すべての手を読む)を使う場合と「激指」のように実現確率探索(エキスパートが指す可能性が高い手を優先的に読む)を使う場合で、パスの意味合いが異なることだ。
 全探索の場合は、パスを先に読む事で探索を速く終わらせる効果がある。
 実現確率の場合は、普通の手が読めないとき(実現確率が足りない=エキスパートが指しそうな手がない)、あるいは穏やかな手を生成できないとき、パスを取り入れる。パスがとんでもない悪手である可能性は低いので(将棋の手はほとんどが悪手であることに注意)、評価値を安定させる効果がある。
  (中略)
――人間の感覚とはずいぶん違いますね。ところで、パスという考え方はなぜコンピュータ囲碁にはないのですか?
教授  プログラマーに聞いてみると、ないわけではないが、ほとんどがプラスの手になる囲碁ではうまくいかないそうだ。それに囲碁では「モンテカルロ法」がいまの主流だからね。(後略)
――勝又清和『突き抜ける!現代将棋』第19回(『将棋世界』2011年4月号)

2011/02/25 (Fri)

 嫌なこと、悔しかったことを執念深く思い返し、人生のバネにできるのは若い時分まで。ある程度の歳になると、心の平安を得ようとする欲求が勝ち、過去を美化してでも楽しかったことだけを記憶に留めようとする。記憶の編纂、もしくは改竄。これは本作において、作品世界の根幹をなす重要なモチーフだ。
 いつもの富野節を期待するファンには、どこか偽善的にさえ見えたキャラクターたちの造形も、そうして個人の体験に還元すれば腑に落ちてくる。本作に登場する人々、特に地球に住まう人々は、これから文明開化の道を進まんとする新進気鋭の人たちとして描かれている。が、事実は、彼らはかつてのガンダム世界の末裔たちであり、一度は滅びを経験した記憶に奥底では支配されている。つまり、種としては実は結構な年寄りなのだ。
 そんな彼らは、ムーンレィスとの邂逅に右往左往しながらも、どこかで自分たちが繰り返しを演じているのだと自覚している。後半、グエンやギンガナムが暴走しても、それほどひどいことにはなるまいと思って見ていられるのは、安田朗氏のふっくらしたキャラクターデザインのせいだけではあるまい。自分たちの行為が繰り返し――それもカリカチュアライズされた繰り返しであることを自覚しているから、彼らの行為はどこまでも偽悪的になる。長大な螺旋を歩む人類が、次の円環に移行するための祭儀。終局、不死を捨てて大いなる繰り返しに身を委ねるディアナに至るまで、誰もが年寄りならではの達観で己の役割を自覚し、『∀』という祭りに参加しているようにも見えるのだ。
――福井晴敏『∀ガンダム』G-SELECTION発売記念特別書き下ろしエッセイ(『∀ガンダム』DVD-BOX封入特典ライナーノート)

2011/02/21 (Mon)

 将棋界には、感想戦という習慣がある。反省会や検討会と似たようなもので、対局が終わったあと、その一局を最初から並べ返して、どこが良かったか悪かったか、どこが問題であったかなどを振り返るのだ。
 ほんの少し前まで対戦していた相手と、直後にそんな話をするのは奇異な感じを受けるかもしれないが、それが将棋の世界では長年にわたる伝統になっている。
 こういうことは、スポーツの世界ではほとんど考えられないことだろう。
 プロ野球で巨人と阪神の監督が試合終了後にミーティングをして、「七回にピッチャーを交代するとは思わなかった」とか、「あの場面では必ず代打を出すと思っていた」とか、「まさか二点差でスクイズをしてくるとは思わなかった」などと意見交換するようなものなのだから。
 「感想戦では、本当にすべてを話すのですか?」と訊かれることがあるが、実は、今後の対戦で再び現れる可能性がある局面については、検討しないこともある。
 それはお互い阿吽の呼吸でわかるので、そうでない別の局面を深く分析する。
 ともあれ、感想戦を行うことによって、自分の直感が正しかったのか、そうでなかったのかが見えてくるわけだ。
――羽生善治『大局観 ――自分と闘って負けない心』(角川oneテーマ21)

2011/01/02 (Sun)

 相違点の一つをここに挙げてみることにする。重要な違いではあるのだが、翻訳でこれを示すことが不可能だからである。西方語では、二人称の代名詞に於て、(そしてしばしば三人称に於ても)単数、複数とかかわりなく、「親しさ」を表わす形と、「尊敬」を表わす形との区別を設けた。しかしホビット庄の口語表現からは、この尊敬を表わす形がすっかり失われてしまって、これがホビット庄ことばの特徴の一つとなっていた。この敬語的人称は、ただ田舎のホビットたち、特に西四が一の庄の村民の間で、かろうじて生きのびていたのだが、かれらはこれを親愛の情を表わすのに用いたのである。ゴンドールの人間がホビットたちのことば遣いの風変わりなことを話す時に、ふれたことの一つがこれである。例を挙げると、ペレグリン・トゥックは、ミナス・ティリスに滞在するようになって最初の数日は、デネソール大候をも含め、あらゆる階級の人に、「親しさ」を表す代名詞を用いた。これは老執政を興がらせたかもしれないが、従者たちの目をむかせたにちがいない。「親しさ」を表わすこの二人称を、だれかれかまわず使ったために、ペレグリンは、故国では非常に身分の高い者であるという噂が広く流布されることになったにちがいない。
――J.R.R.トールキン『新版 指輪物語 10 追補編』(評論社文庫)