h5_9 舞台で知る戯曲の深遠――加藤健一事務所『くたばれハムレット』  東西南北の芝居小屋のひとつに今回は楽屋から入る。 「小屋」は東京・下北沢の本多劇場、演目は加藤健一事務所プロデュースのポ ール・ラドニック作『くたばれハムレット』である。  ラドニックは『あそぶが勝ちよ』や『これいただくわ』など辛味とユーモア のきいた小説ですでに日本の読者にもお馴染みだが、イエール大学では演劇を 専攻している。『あそぶが勝ちよ』の巻末に付したインタヴューでラドニック は「僕が書きたいことは戯曲のかたちではうまく表現できない。そこで小説を 書いてみることにしたんだけど、これは気に入った。いま書こうと思うのは小 説だけ」と語っているが、『くたばれハムレット』はそのあとに書かれたもの だ。ついこのあいだまでニューヨークで上演されていた『ジェフリー』(ホモ セクシュアルとエイズの問題を真摯な爆笑喜劇に仕立てるという離れ技)も大 受けだったというから、これからも彼が戯曲を書き続けてゆくことは十分考え られる。  かく言う私、実は『あそぶが勝ちよ』を訳したご縁と、演劇批評に加えてこ れまでも何本かの戯曲を翻訳した成行きから、『くたばれハムレット』も訳す ことになった。  訳すからには原作を通して何度か読んだ。翻訳作業に入ってからは、ひとつ の言葉、一行の台詞を繰返し頭の中で転がし、ああでもないこうでもないと考 えた。だから、すっかりとは言わないまでも、この作品や人物が分かった気に なっていた。  ところが、本読みから立ち稽古、ドレスリハーサルにつき合い、本番を見、 そのあと役者たちと話をしていて、ハッとさせられることが度々あった。分か ってなかったと反省させられた。こういうことはこれまでの翻訳上演でも経験 しないわけではなかったが、このたびは「ハッ」が多かったのである。  テレビの人気俳優アンドリュー(加藤)が『ハムレット』の主役をやること になり、マンハッタンのアパートに引っ越してくる。かつてのハムレット役者 にして伝説的な映画スター、ジョン・バリモアの住まいだったアパートだ。マ ネジャーのリリアン(関弘子)や恋人ディアドリ(長野里見)の強力な勧めに もかかわらず、アンドリューはぎりぎりまでハムレットなんか演りたくないと ゴネる。そこへ先王ハムレットの亡霊よろしくバリモアの亡霊(坂口芳貞)が 現れ、アンドリューに出演を命じ演技を指導する。本番の舞台は成功とは程遠 かったものの、アンドリューは演劇の魅力に目覚め、LAのプロデューサー、 ゲアリー(小宮孝泰)が持ってきた莫大なギャラのTVドラマの話も断る、と いうのがこの喜劇の大まかなプロットだ。  ハッとさせられた例のひとつ。今は七十代のリリアンとバリモアはその昔こ のアパートで一夜を共にしたことがあり、半世紀後の再会でダンスを踊る。ふ と立ち止まったリリアンはバリモアに訊ねる。「あっちでは……タバコが喫え る?」(彼女はすごいヘヴィ・スモーカー)。関弘子はこの「……」のところ で実に微妙な表情を見せた。その一瞬の「間」の表情をひとコマひとコマ分解 すると――死への恐怖、死後の世界への不安、それをさっと振り払って気を取 り直し、明るい冗談にまぎらす、となる。私は、原文に「……」とあるから日 本語でも「……」としたまでで、そこにこれほど深い万感がこもっていようと は……。  優れた演出は戯曲の深層を浮び上がらせる。行間を目に見え、耳に聴こえる かたちで表現する――まさしく表に現す。それを目の当たりにした思いだ。『 くたばれハムレット』の演出は東京乾電池の俳優でもある綾田俊樹。  この芝居では、ハムレットの To be or not to be - that is the question. という悩み、復讐すべきか否かという逡巡は、ハムレットを演じるべきか否か、 芝居を取るかテレビを取るか、というアンドリューの悩みに平行移動する。結 局彼はハムレットを演じ、芝居の道を取ることになる。言わばこの芝居そのも のが一種の演劇賛歌なのだ。だが、加藤は、アンドリューの悩みと選択を、現 状とは違った新しいことに踏み出すか否かの逡巡とその決断というふうに普遍 化して考え、演劇賛歌以上の広がりがあると思うと言った。これも納得。  幕切れ、バリモアの亡霊が去ったあと、シェイクスピアの『ハムレット』を 手にアンドリューがスポットの中に立つ。印象的な姿だ。この場にいたった時、 劇中人物のアンドリューに「台本を持つ役者・加藤健一」が重なり、さらに、 例の「言葉、言葉、言葉」の場面での「本を手に現れるハムレット」が重なっ て見えたものだ。この三重の意味、三者が重なる形象も、翻訳の段階では気づ かなかったことである。  かくして私は、己れの数々の不明を嬉しく恥じたのだった。まことに戯曲と いうものは、古典から現代劇にいたるまで、舞台に乗せてこそ全貌から細部ま でが見えてくるのである。