h5_7 人の暗部に迫る希有の力――T.P.T.旗揚げ公演『テレーズ・ラカン』  出口がない、暗い、息もつけない――ちょうど手袋を裏返すように、テレー ズの抑圧された内面を表にさらせばこうなるといった装置である。エミール・ ゾラの原作戯曲をイギリスの劇作家ニコラス・ライトが簡潔に脚色しなおし、 デイヴィッド・ルヴォーが演出した『テレーズ・ラカン』(翻訳・吉田美枝)。  戯曲のト書には「ブルジョワ的なゆったりと落着いた雰囲気」とあるのだが、 ベニサン・ピットに組み上げられた部屋は荒涼としている。煤けた天窓のある 天井も上手下手の壁も、冷たい灰色。屋根裏を思わせるその傾(かし)いだ天 井と壁が観客席の半ばまで延びているので、観る者にも閉塞感が迫ってくる。 パースペクティヴが極端に奥に向かって先細りになっているせいで、舞台美術 家のヴィッキー・モーティマーの言うとおり、全体が「トンネルのよう」なの だ。象徴的でありながら極めてリアルなので、表現主義的な押しつけがましさ はない。  登場人物は七人。テレーズ(藤真利子)、彼女の育ての親で叔母のラカン夫 人(佐藤オリエ)、その息子でテレーズの夫のカミーユ(三浦賢二)、彼の親 友でありテレーズの愛人のローラン(堤真一)、カミーユの上役グリヴェ(佐 古雅誉)、一家の旧友で元警部のミショー(木場勝巳)、その姪のシュザンヌ (原田和代)である。  テレーズとローランは、事故に見せかけてカミーユを水死させる。その直前 のドミノ・パーティからカミーユの死の一年後までの時の経過の描き方は、息 を呑む鮮やかさだ。木曜毎の恒例、テレーズ以外の全員がテーブルに着き、カ ミーユがはしゃいでドミノ・ゲームの始まりを告げる。そこでシュザンヌがラ ンプを取り上げ、奥の戸口に立つ。彼女の後ろ姿のシルエットだけを残して舞 台は薄闇に包まれる。シュザンヌがまた戻ってくる。テーブルにはさっきと全 く同じように人々が集っている。ゲームの進みゆきをはしょった工夫かと思い きや、「ドミノの用意はできたよ」とさっきと同じ言葉。では、次の週の木曜 かと思いきや、それはカミーユの声ではない。ローランの声である。カミーユ の椅子は空っぽだ。虚を衝くデジャ・ヴュ――立っていてふと気づいたら、足 下の床板が知らぬ間にすっかり張り替えられていた、とでも言おうか。眩暈を もよおしそうな一瞬である。  ローランとテレーズの計画は、本人たちが目論んだ以上のうまく運び、ミシ ョーの勧めで結婚することになる。だが、二人にはもう束の間も安らぎはない。 結婚初夜から罪のなすり合いと激しいいさかいが始まり、殺人はラカン夫人の 知るところとなる。この時、佐藤オリエが全身から絞り出すような声で二人に 放った「鬼!」という叫びには、客席全体の肌が粟だったものだ。彼女はショ ックのために体が硬直し、声も失い、車椅子に坐ったきりの生活を余儀なくさ れる。佐藤の眼だけの演技のすさまじさ。憎悪に満ちた視線は狂気である。  佐藤のラカン夫人をはじめ、その存在自体がこの陰鬱な劇の中のコミック・ リリーフであるグリヴェとミショー役を、軽妙に造形した佐古と木場にいたる まで、俳優たちの演技は粒ぞろいだ。  取り分けテレーズの藤真利子。開幕直後の鬱屈のかたまりのような姿から、 その捌け口をローランとの情事に求める激しさへの切り替え。自らの失われた 無垢をシュザンヌの中に見る優しさと無念さから、夫となったローランに対す る「あばずれ」と言っていいほどの投げやりで荒んだ態度への変化。生身をさ らけ出し(花嫁の寝間着に着替える儀式のような場では、文字どおり美しい後 ろ姿の裸身をさらす。痛々しくさえあるその白い後ろ姿は、何か抗しがたい大 きな力に捧げられようとしている生贄とも見えた)、かつそれをしっかりとコ ントロールする力は驚嘆に値する。テレーズという役を生きた藤の勇気には畏 怖の念すら覚えるが、この「女優」を「誕生」させたのはルヴォーの演出力と 言って間違いない。  窓、戸口、ストーヴなど極度に限定された「光源」を巧みに使い、時の移り ゆきから人物の心理状態までを「照らして」みせた沢田祐二の照明の素晴らし さも特筆していい。  演出、俳優の演技、舞台美術、照明、音響――演劇の諸要素が縦糸横糸とな り、緊密に織り上げられた『テレーズ・ラカン』。これほど完成度の高い舞台 には滅多にお目にかかれるものではない。  迫真――罪と罰をはじめ人間の暗部の「真」に「迫る」。この言葉の本来の 意味を突き付けてくる舞台である。  これは、デイヴィッド・ルヴォーを芸術監督に迎えたT.P.T.(シアター・ プロジェクト・トーキョー)の旗揚げ公演だが、今後の活動に期待を抱かせる に十分の成果だ。